2006-10-29 やっかいな使命感

毎日の仕事を滞りなく進めるにはいろいろな知識をため込みすぎたようだ。
しかし理不尽と思う責任を押し付けられたと思っても、周囲も同様なのだから、なんとか我慢しながら、このままでいいのだろうかと思う。
フルタイムでマンガ関連の仕事ができたらいいなとも思うが、雇用の流動化がうまくいっているようには見えないし、絶対自分でなければできない仕事、というわけでもない。
今世紀に入ってから私の敬愛する人、その仕事に敬服する人が数多く亡くなった。
自分は疫病神なのかと思ったりするが、その記憶は死ぬまでとどめておいてもし必要とする人がいたら伝えたいと思う。
子どもの頃から学校などで仲間はずれにされるようなタイプの子を引き受けるという役回りが多かったが、結果的にずっと支えることはできない。人見知りは続くし仲間とそうでない人との区別をつけたくはないのでなかなか顔を覚えられない。私とつきあう人にはけっこう精神的な負担をかけてしまうので、あまり親しくつきあうことができないのである。
食欲と性欲は動物の本能に根ざしてはいるが、性的な欲望は社会で生きる人間の承認されたい欲求と結びついている。さらに人間の子供はある年齢になるまでは育児をしてもらわなければ生きていけない。
性欲を飼い馴らす方法はとりあえず発達した(とはいうものの女性にとってはいろいろと困難がある。その困難を解消できるのかというと難問だ。たとえばヤマンバメイクというのはオタク向けに翻訳すれば素の自分を守るためのモビルスーツである)。だが承認されたいという欲求を満たすデザインがよく見えてこない。携帯メールでのコミュニケーションはその一つの解決策である。しかしある場所で知りあったというのではなく顔のみえないコミュニケーションで男女間に信頼を築くのはきわめて困難だ。
単に物欲におぼれたのではない。愛する者を守れないばかりか、自分だけが負うべき責任が相手にも理不尽な連帯責任を背負わせてしまうことへの恐れがある。それをどうやって乗り越えるのか。だがしかし、とりあえずであれば女一人でも暮らしていける世の中ではある。
親不孝者の私が親孝行をできるとすれば、孫を見せてあげることではないかと思いながらも、それすらもなかなか簡単にできることではない。でももともと「下流」であるから戦中疎開により小学校しか出ていない母は不幸を感じているわけでもなく、父も私も不幸に少し酔っている。ありがたい。
2006-10-28 Manga2.0という80年代
前回のエントリでアクセスカウンタが7000くらい一挙に増えた。それまで一回のエントリでせいぜい200人くらいだったから、マンガの世界において米沢さんとコミックマーケットの果たした役割がいかに大きかったのかということを実感できる。一方でそんなに読まれるのはちょっと困った気分だ。
私のこのブログのスタイルはある意味で橋本治の影響から、90年代の大塚、宮台的なアジテーション(要するにオタク対サブカル)みたいなスタイルを借りながら書いてきたけれども、実際のところ私が最も個人的にシンパシーを感じていたのは米沢さんであったので、自分は業界人でもないし米沢さんがいたから好き勝手なことも言ってしまえという気になったのだ。やばい内容かなと思いながら書いてしまえというものもあったので反感を買うのはやむなしという気分だったが、米沢さんがいなくなって、ただアジテーションをするだけではすまない気がしている。コミックマーケットを読み解かない限り80年代論はバブルと結びつくことで90年代の問題を隠ぺいするような単純な政治的道具になってしまうであろう。
サブカル宮台とおたく大塚というような二大政党的な構造(?)についてはこれまでにそのような対立は意味がないというつもりで批判的なエントリも書いたが、大塚さんに関しては前回のエントリで示したが岩田氏と同様の少女幻想にハマり、宮台さんの場合には柳沢きみおの「翔んだカップル」にハマったというところが根本的な違いである。私はあすなひろしの「青い空を、白い雲がかけてった」のスクールペンで書いたであろう細い線にハマったが、あすなひろしを高く評価し得た評論家は米沢さんしかいなかった。
また西谷祥子(よしこ)を一貫してきちんと評価してきたのも米沢さんの他に見当たらなかった。あすなと西谷はフレンドの前身だった少女クラブの休刊前(昭和34年)にだいたい同時期にデビューしており、その少女マンガへの影響力も一時期はとても高いものだったが、ふたりともけっこうエキセントリックな恐い作家であるように伝わっているしおそらく実際そうだったのだろう。彼らを評価しないことにははじまらないというのが私の認識であった。米沢さんが亡くなってからネット界隈でも24年組の伝説に隠れた作家の再評価をしなくてはならないという気分が少し伝わってきて複雑な思いがする。
また団塊あたりの有力な評論家でも少女マンガを少年マンガよりも軽視し、それゆえに24年組を特別な位置におだてあげるという印象が私には強くあったが、米沢さんはその点でも特別な立ち位置にあった。もともと手塚治虫の後続の世代の巨匠と呼ばれる作家もみんな少女マンガに手を染めているので、このあたりをもっときちんと位置づけする必要を感じていたが、今年になって戦前に松本かつぢが少女雑誌に描いたマンガの原稿が公開され、リボンの騎士の元祖ともいえる見事な構成力によるダイナミックな活劇であることがわかって、少女マンガの解明は新しい段階に入った。つまりマンガと周辺領域との相互関係をもっときちんと調べる必要がようやく示されたと思った。
そんな矢先の米沢さんの死は非常にショックだったが、ここで彼以前の評論家がコミックマーケットの影響力の大きさをもしかしてあまり深く考えていなかったのか、とがく然としたので前回のようなエントリを書いた。同人誌側からの証言を私自身きちんと読んでこなかったが、それも米沢さんがいたからである。
80年代のコミケットは今流行のWeb2.0をいろいろな意味で先取りしており、それをManga2.0としてとらえてみることで、80年代という時代が70年代と90年代の狭間でどのような時代だったのかが見えてくるに違いない。コミックマーケットの変貌を見てきた立場からいうならば、Manga1.0の旗手である手塚治虫が死んだ際にもそれを意に介さない描き手や読み手がすでに多数であっただろう。
コミックマーケット30周年の記念資料を読んでみる試みは全共闘や連合赤軍にいささかうんざりする世代の自分一人には荷の重い作業であり、同人誌関連からこのへんの発言が出てくることを期待している。
米沢さんが亡くなられてから若い人のマンガ批評にも興味がそそられるようになってきたがここでは挙げないでおこう。
私は80年代の白泉社系でない商業誌を読んできたほうから証言をできないかと思っている。あくまでも私の体験の範囲なのでどれだけ伝わるものかわからないが、コミックマーケットの評価の上でもその外側の出来事を伝えることは必要だろうし、Manga2.0というコンセプトを掲げてみるのはそれをコミケットの中だけの出来事ではなかった変化としてとらえたいからである。
以下は前回のエントリの前にお蔵入りにしたものから修正した。
買ったままであまり読んでいなかったコミックマーケット30周年の記念資料に目を通してみたら、COMからコミケ成立までの70年代前半の歴史についても書かれていて、連合赤軍の無残の後にサブカルチャーの領域に起こったことについての重要な資料としてみるべきかもしれない。フェミニズムと呼ばれる前のウーマンリブや当時の少女まんがの勢いとの関連も今後検証していく必要があるだろう。米沢さんが亡くなった時の夏目さんと竹熊さんのそれぞれのブログのコメントの違いを見て、夏目さんと米沢さんは年いくつ離れているんだっけと思って昔書いたエントリを見たら、意外にも1950年と1953年の3つしか違わなかった。
90年代の初めにだったか80年代はスカだったと言った橋本治さんが1948年で(70年代もスカだったと言っていたと思うのだけど気のせいか。少女まんが評論をしていた時期に三島由紀夫の「豊饒の海」を、戦後を代表する三つの作品の一つとしてあの「綿の国星」とともに挙げていた)、ちなみに萩尾望都さんが1949年、米沢さんと同年には小林よしのりさんがいる。あの橋本さんが学生の顔つきがすっかり子供っぽくなったと回想したのは米沢さんの年代にあたるだろう。1960年生まれの竹熊さんからさらに私は3つ年下になるが、私が80年代を擁護する理由があるとすればそれはまずコミケに求められることをあらためて認識する。
80年代の後半にキャプテン翼のパロディがコミケの規模を大きく拡大したが、いまWeb2.0と騒がれているものと同様のことが20年前にマンガの領域ですでに起きていた。*1それは少部数の同人誌印刷から同人誌の流通にまで影響を及ぼしたからである。私にとって正直複雑な思いがあるのは80年代のプロとしての訓練を受けた女性の商業誌作家があたかも古くさいものとみなされるようにそのあおりをうけてしまったようにも思えるからなのだが、たとえば携帯電話コミックなんてあり得ないとつい最近まで思っていたのがどうも誤りであったらしいと思うようになったのは、自分がリアルタイムでManga2.0とでもいうべきものを見てしまったからに違いない。それは個人的には手塚治虫*2の死よりもはるかに大きな出来事だったのである。特にmixiの急速な規模の拡大はコミックマーケットを拡大したものと同じ人々によってもたらされているであろう。
ここであえて大風呂敷を広げてしまえば、米沢さんは嫌がると思うけどコミックマーケットがあれだけ巨大なシステムとして維持できたのは、おそらく彼の立ち位置や振る舞いが、あたかも一億総中流と呼ばれた時代を看取ることになる戦後の昭和天皇のように見えてしまうようなところにあり*3、とはいうものの、米沢氏よりも先に亡くなられた、少女マンガ評論から同人誌評論に大きな影響力を持ったあの岩田次夫氏がジャンルの停滞や終焉を予言したようにコミケの崩壊を予想するわけではないのは、資本主義にとって代わるものがさしあたりみつからないのと似たような理由からである(逆に、従来その周縁にビジネスを駆動させていたコミケにとってはビジネスブースを内部に抱えてしまったのが不安要因かもしれない)。しかしいまや一人の象徴によって巨大な構造が支えられると信じる根拠もまたそれにもまして見当たらない。
- 作者: コミックマーケット準備会
- 出版社/メーカー: コミケット
- 発売日: 2005/08
- メディア: コミック
北朝鮮の例の事件があったためにお蔵入りにしたのだが、妙に気負っているところは適当に読み飛ばしてもらうことにして、オウム真理教は北朝鮮モデルだとか、オタク対サブカルって英米由来の二大政党制というか冷戦モデルみたい(そもそも二大政党制が理想という根拠もあまりよくわからない。連立政権は脆弱だからというお上頼み的な発想でしょうか)だとか妙な連想になってしまった。
私は雑誌読みであったから、80年代のマンガ雑誌についてたぶん語ることになるだろうが、橋本治の『浮上せよと活字は言う』に収められている「愚蒙を排す」によれば、1970年代の終わりから出版界は「雑誌の時代」に入ったことが1980年代の雑誌の創廃刊のデータの表とともに示されている。
ここで年ごとに、休廃刊された雑誌の点数を創刊された雑誌の点数で割ると、81年に68.4%とぐんと高くなってから、年によってばらつきはあるものの、86年には75.4%、そして87年には92.0%という値にまで跳ね上がる。80年の創刊誌数が235、以後83年から順に244, 238, 245と推移するのが、87年に126点に一気に落ち込んで131,112と推移した。
87年の休刊誌が116で創刊誌の126と近づいたために92.0%となるが、休刊雑誌数は80年代を通じて100を少し上回る感じで推移、1985年の151点が最も多く、1988年以降は100点を割っている。私は雑誌読みなのでこういった創廃刊に翻弄されたのはよく覚えている。写楽とかプレイボーイアイズなんかがいま思い浮かんだ雑誌だ。
まさにバブルとしか言いようがないところもあるが、この橋本氏による雑誌論では雑誌の分類の奇妙さが論じられていて、ミシェル・フーコーとボルヘスで知られるシナの百科事典をちょっと思い出したが、さすが少女マンガ論を書いた著者というべきか、『GAL'S LIFE』,『Pop-Teen』,『Can Cam』の名前が出てくるところなど面白い。十代の女の子向けにSEX情報が載っていると国会でも問題にされた『GAL'S LIFE』と『Pop-Teen』は雑誌の部門としては"婦人"ではなく、"児童"に属していたのだ。一方で十代の女の子向けのファッション雑誌『Can Cam』は"婦人"に所属している。この評論が中央公論に書かれたのが1993年なので現在どう変わったかどうかは知らないのだが、当時雑誌の分類にファッションという部門はなかったという。ところでレディースコミックは"婦人"ではなく"大衆"部門に属している。このような分類の奇怪さに触れた後で橋本は感想を漏らしている。ハードカバー版のp92から引用してみよう。
"児童"は年齢によるもの、"婦人"は性別によるものである。子どもの為の文化は別にあり、女性の為の文化も別にある−−この考え方は一見もっともなようだが、逆に言えば、この後に続く"大衆"以下のジャンルに、子供や女性は存在しなくていい、子供や女性の文化は、大人の男のそれよりは、かなり限定された文化であればいいということである。本当にそうか?そうした男の思い込みにアンチを唱えるような形で「親父ギャル」などという珍妙なものが登場したのも、この「雑誌の時代」である一九八〇年代のことだというのを忘れてはならない。子供の文化も、女性の文化も、"児童"だの"婦人"だのという限定した文化に留まらない、かなり豊かな(あるいはそれは大人の男以上に豊かな)、内実を備えてしまったのだ。
このあとに少年向けの『つりBOY』と『少年つりトップ』が"趣味"部門であることがとりあげられている。この本は出版論の本とも言えるので、1994年に刊行されたものとして1980年代を橋本治がどうとらえたかがよくわかる一冊である。
これは新装のポケット判。追加修正があるか読んでないのでわからない。
私としてはつまるところ80年代の同人誌革命と雑誌の創廃刊の目まぐるしさとの関係を測定してみたいと思い、それはいまの自分には手に余るので誰かやってくれないかなと思うのだが、少女まんが雑誌の数も創廃刊含めて80年代にはとんでもない数になっていたので、全部読破していたという岩田氏たちの同人もさぞ大変だったと思うが(私一人では全部は読めないのでみんな読んでいる白泉社系は好きな作家が載った時だけ、基本は押さえようと集英社系メインであったが岩田氏らが撤退した後で読み続ける使命を感じて1980年代後半には拡散してしまう。スピリッツや少年ビックコミック→ヤングサンデーは読み続けていた。)、国会で採り上げられて休刊に追い込まれた『GAL'S LIFE』とその姉妹誌として出された『ギャルズコミックDX』(後に『ギャルコミ』と改名)あたりから80年代以降の少女まんが雑誌について書いていきたいが、もう少し気楽にマンガの話に徹するために(本当はココログあたりで書ける内容で書きたいと思ったりもするのだが、スパムが止まらないんだ)、書く場は別に移すようになるかもしれない。
■今日の一冊

ひきこもりのくせに最近ファシリテーションの本とかを読んでいるが、図書館で借りた実用書で、昨今流行のライフハックにならって、会議ハックとでもいうような合意のためのテクニックが記されている。ワークショップ的な発想を採り入れておりビジネス向けではなく地域社会のトラブルを解決するテクニックが書かれているのがとてもユニークなのだが、面白かったので以前にAmazonで見た時は6000円くらいに高騰していてびっくりした。きっと1000円くらいの本なのでせどりの対象なのか。使ってみたらけっこう有効なテクニックにもみえるのだがお遊戯のようにみえてまともに採用しようと思う人がいないのが最大の難点かも。おとなってやだね。
2006-10-21 少女マンガと同人誌とパソコンの80年代〜90年代
久々に娑婆に戻った感じで夜更かししているが(今日はである調にしよう)、80年代の証言を少しずつ書いていくようにしたい。
Web2.0のブームで「総表現社会」などと言われているけれども、普通の人の表現欲のレベルでは80年代のコミックマーケットでかなりのところがすでに実現してしまったことである。2ちゃんねるやmixiに人が集まるのはそれがコミケットモデルに準じているからである(2ちゃんねらーもきっと女性のほうが多い)。
80年代のパーソナルコンピュータの歴史も元をたどればアメリカ西海岸のサブカルチャーといえる。AppleIIが登場したのが1977年で、NECがマイクロコンピュータの組み立てキットであるTK-80を発売したのが1976年。私事ながら父は会社での生き残りを賭けて(笑)マイコンに没頭していたのでTK-80はいじらせてくれたがPC−8801以降はまともにさわらせてくれなかった。月刊アスキーの創刊が1977年だが、工学社のI/Oとともに父が買っており、当時のマンガ文化とも親和性があって私の同世代にゲーマーを生み出す原動力ともなった。月刊アスキーの「Yoのけそうぶみ」というコーナーは少女マンガ読みである自分が恥ずかしくなるほどベタな乙女ちっく少女マンガのイラストで飾られていたのだ(けそうぶみ=懸想文。ひらがなにするところなどまさにオトメチック少女マンガのベタな言い回しなので恋文、ラブレターと同義と考えていいだろう)。
アップルは1979年にXeroxのパロアルト研究所を見学してSmalltalk環境を見たとWikipediaに載っている。IBMがPCを発売したのが1981年で、Macintoshが世に出たのが1984年なので、日本でマイクロコンピュータの略でマイコンと呼ばれていたのがパソコンと呼ばれるようになるのはファミコンが発売された1983年よりもたぶん後である。
私が大学院生の時に研究室にMacintoshが購入されて、修士を卒業する時に大学生協でMacintosh SEを40万円くらいで長期ローンで購入した。Macintoshを買ってもソフトが軒並み高いので大学の友だちから他の研究室で使っているソフトを3.5インチのフロッピーディスクでコピーさせてもらって使っていた。MacPaintがHacPaintと書き直されていたり、無料のワクチンソフトを使うと面白いようにウイルスがひっかかった。20万円を超えるソフトを無断コピーしても印刷できなければ意味のないと思っていたので(パソコン通信の時代でまだWorld Wide Webは実験段階)、日本で初めてのMacの展示会で輸入物のレーザプリンタを購入したのが18万円くらいだったか、国産はこの倍の価格はしたので今思えばとんでもない買い物であった。
Windowsは2.0から父のPC-9801にインストールされたが、Windows 3.1が日本語版Wikipediaにまともに記載されていないのは私としては興味深い。OS/2の項目はある。父がCP/Mをいじっていた頃には私にはOSがどういうものなのか理解できないものであった。MacOSは購入時に6.0系だったが、これは漢字Talkと呼ばれていたためMS-DOSも存在していたにも関わらずOSと意識していなかった。初期のパソコンはSmalltalk環境ではなくBasic環境が立ち上がるもので、漢字TalkとはSmalltalkから名づけたものであろうと思われる。
私は人工知能の研究をしたかったのでLispやLOGOやSmalltalkといった言語に興味を持っていたが(ところでいま大学ではHaskellに関心が集まっているという)、人気の高い情報系の研究室に入るだけの単位点数を取得できず、ニューラルネットがブームだったこともあって線虫の研究のような発生生物学ができる研究室を探した。結果として免疫系に近い研究をしたものの、まともに理解できぬままに、不規則な生活には堪えられないと思い修論の失敗をうやむやにしたまま90年代に会社員となる。免疫系は異物を排除するシステムだし発生学ではプログラム細胞死のメカニズムが知られているからそのようなメカニズムが人間の本能にも関わっているという世界観から見ると、知を権力としてとらえたフーコーやデリダの思想をきちんと理解しているわけでもないがやはり手放す気にはならないし、そこでかえっていやったらしい教養主義を掲げてみたりしたくなる。
ちょっと脱線しすぎたので、パソコンの歴史についてきちんとまとめていないけれども、パソコン文化がサブカルチャーにとどまらなかったのはAppleIIの時代に表計算ソフトというキラーアプリケーションが発明されたことが大きかった。Microsoft ExcelはもともとMacintoshのキラーアプリであった。従来の端末画面が黒地だったのが、Smalltalkでは白地となり、Macintoshに引き継がれたのが新鮮に思われたが、Basic環境も白地だったか、そのへんの記憶はどうもあいまいだ。
仕事でWindowsのソフトを開発していたためにパソコン関連には金がかかりすぎて、ゲーム業界にも才能がないと思っていたのでゲームには手を出さなかった。アニメも映画も時間が拘束されるのでマンガが一番安上がりで自由が利き奥が深かったと感じたのだ。
だらだらと私語りをしたところでここからようやく本題にはいるのだけれど、90年代のパソコン通信で米沢氏に先だってやはり肺ガンで亡くなった岩田次夫氏を見たことがある。彼が関わっていた少女マンガ評論の同人誌を実際に見たことはなかったが、「マンガ批評宣言」の巻末に載っていた少女漫画雑誌リストの寸評からただ者でないことはわかったので声を掛けてみたが、90年代は同人誌にかかりっきりでけんもほろろ、と言うよりやたらぶち切れている人、という印象であった。
いまあらためて「同人誌バカ一代〜イワえもんが残したもの〜」を読んでみると、単純に同人誌に閉じた世界ではなくて、コミックマーケットという現場に関わりながら醒めた目でとらえることのできた岩田氏のコミケット批評は現状では他の追随を許さず、産業としてのマンガを考える上でも示唆に富む貴重な資料となっていると思う。
以下の引用には興味を惹くようにバイアスがかかっていると思って欲しいので岩田氏の意図するところは本を読んでもらいたいが(監修に携わった米沢氏の意図は代表を辞任することがあれば聞いてみたかった)、
(コミケットの理念と目的について)ある意味では、無政府社会主義的な理想論に芸術的ユートピア主義を足せば、この「理念」ができると言えるでしょう。(p13)
(コミケットカタログの「まんがレポート」でのコミケットが抱える問題の指摘について)ここで指摘される様々な問題に対して、多くの投稿では、すぐにモラルや個人の倫理を問う方向に論議が進みます。問題の実態や本質に迫るのではなく、精神的な傾向に走ってしまうのも、コミケットという「共同体」のユートピア的な捉え方として見ることができると思います。(p20)
(金銭を伴わないコスプレも含めてすべてが交換される場として)不正競争防止法や、独禁法、あるいは各種の消費者保護の条例が全く無い市場を考えてみて下さい。コミケットはまさにこれです。(p22)
(コミケットのスタッフの「疑似家族制」について)これらスタッフの体制は、米沢代表を頂点とする、疑似家父長制度と見ても、あながち間違いでは無いでしょう。(p40)
Wikipediaを参照すると岩田氏はシステムエンジニアの職に就いていたことがわかったが、C翼ブームに伴う運営の危機に直面してコミケットに「電算処理」を導入し、「事務のシステム化からはじまってスタッフの組織化が進行」(p28)を推し進めたのが岩田氏であった。これについて、
結果としてコミケットは、「何でもあり、何も無い」という存在になっていきましたのです。(p28)
と記している。「いきましたのです」とあらたまっているのは岩田氏がそれを結果的に悪いことと認識していた、というのは巻末のほうで、
ワシのやった悪いことは数限りなくあるんだが、以下の五つが最悪だな。(p173)
と言ってそこに挙げられているのが
1:印刷所の搬入システムの変更
2:フットワークの導入(筆者注:フットワークは運送会社で同人誌の搬送を手がけた)
3:スタッフの編成替え(筆者注:もともとの意味でのリストラ。不幸な方々は大量に発生、と記されている)
4:受付事務の確立(筆者注:コンピュータ化と窓口対応の一本化など)
5:カタログの市販
となっている。このようなシステムの何が悪いと思ったのか、を解釈すると長くなりすぎるし読んだ人の判断にもよるのでここでは挙げるにとどめるが、他の同人誌や即売会も巻き込んでしまったことに良心のとがめを感じている。これはパソコン通信での1995年の発言を収録したものである。
最も初期のものは少女マンガ論で、1984年に少女まんが評論同人誌としてその名を知られた「季刊はんぷてぃだんぷてぃ」に掲載された「少女まんがの構造(第一事案)」では、
少女まんが記号論で展開する大ワクを設定できるのではないかと思います。(p66)
と宣言して、シミュラークル少女論をたたき台として提示している。大塚英志氏の初期の仕事などはここに要約されているともいえるが、岩田氏の展開したのは当時の記号論やテクスト論の流行に影響されながらも商品論、消費文化論に収束していってしまうものであって、ロラン・バルトやジュネットが小説やファッションなどをコードによる形式化によって読み解くような試みには結局至ることがなかった。形式化の愚直なトライアルを試みるような下地が整わなかったためにのちにマンガ表現論を展開した夏目氏がバルトに対して不信感を表明したりしたのはきっとポストモダン的な皮肉ではある。
岩田氏を中心とする「はんぷてぃだんぷてぃ」同人はやはり1984年頃に少女まんがの衰退とその危機を打開する方法がないという深刻な危機感を抱いた(cf.p197)というが、シミュラークル少女論とはそのような認識に伴うものではあっただろう。しかし、この本を読むと別の側面も見えてくる。1984年の時点で「ここ十年は少女まんがの沈滞期に入る」と予想した岩田氏は、1985年のC翼ブームに最初は冷淡であったが1986年にはC翼が少女まんが再生の重要な鍵を握っていると判断して、それでコミックマーケットのスタッフになったと1991年の同人誌に記している。ここから引用すると、
ある意味でコミケットがここ5年やってきたことは原野を切り開く焼き畑をしたようなことではなかったろうか。畑を作った功績と、自然を破壊した罪悪と、どちらを評価するかは人によるし、そう単純に答えを出せないだろう。そして、焼き畑を耕し、作物を生み出す仕事は、コミケットではできないかもしれない。(p198)
とあるが、なかなか微妙な物言いである。自然を破壊した、というのは岩田氏のこだわりから解釈すれば70年代に隆盛したマンガ(特に少女まんが)の衰退をコミケットが招いてしまった、と読める。まったく余談ながら焼き畑というと、少子化の流れが止まらないというのに都市の周辺に高層マンションを建てようとする動きがおさまらないというのは都心回帰を見込んだ短期的な利益の追求以外としてどういう思考の産物なのかしら。長期的なデザインを欠いた戦後社会の宿痾のようにも思われるけれど。
若い人の自己表現の欲求は商業的なサブカルチャーの発展に伴い60年代から70年代に広く高まるが、ガロも含めて商業誌に作品を掲載するには編集者のチェックという関門を通らねばならないし、商品としての価値が認められなければ掲載もおぼつかないので自分の表現したいことがそのまま通ることもなかなか難しかったのが、コミックマーケットが巨大化したことで最初のハードルだけは確実に低くなった。この自由さは性的な表現への挑戦とたやすく結びつくもので、この本で紹介されている同人誌も性的な要素が際立っているのは身もフタも無いことをいえば自然な流れでもあるし、岩田氏としてはこのような表現の中にも優れたものがある、という至極当たり前な認識ながらも世間の偏見に対して擁護する、という立場にあったのであろう。ちなみに私が思うにはオウム真理教などには性的な不快感が感じられ、それを超えるという方向で暴走してしまったように感じられるが、外から眺めた私の視点からはマンガ的な洗練やコミケとの接点はほとんど認められず、オタクとひと括りにされたり、連合赤軍とオウムを単純に比較するのはちょっと違うと思う。コミケは体育会のノリは指摘されても科学的な装いは認め難いが、かつて秋葉原でパソコンの販売やうっとうしい勧誘活動で私たちを戸惑わせたオウムにはいわゆる理科系の人間を引きつけるものがあっただろうし、その背景には潔癖志向の大きな流れがあると思う。
80年代のマンガはまちがいなく多様化したが、女の子の少女マンガ離れはC翼、聖矢がジャンプのマンガであったようなかたちでその流れはとどまらなかった。ただ自分と同年代の作家が80年代には大量にデビューしており、作品の質が特に低下したという印象ではなかった。同人誌にそれほど期待していなかった私が商業誌に期待を込めていたのはいたずらに刺激的でない児童マンガ的なアプローチや侘び寂び的な洗練であったようで、これは売れ行きとはさほど結びつかないものであってやはりあまりうまくいかなかったが、あえてこちらを擁護し評価していきたいという気持ちは変わっていないみたいだ。
途中からだらだらかくことに決めて曖昧にしたままいいかげん終わりにするけれども、岩田氏はジャンルの終焉を宣言してしまう癖があってこの本でも冒頭から終末を語ってしまうが、そこに岩田氏の特異なポジションが認められる。というもののこの終末的な気分は90年代には広く共有されていたものであり、いまだにその厄介さが続いてしまっているところもある。コミケの現場と深く関わっていたこともあって彼の予言はもしかしたらほとんど当たったのではないかとすら思われてしまうが、やはり私が興味があるのはそれによって見えなくなってしまう部分だ。データをきちんと調べないでいい加減なことを言うのはまずいのだが、一見ぱっとしない感じのする最近の少女マンガでも特にメディアミックスをしているようにもみえない作品が最初から百万部突破を狙えばたやすくクリアできるんだなと感心してしまうところがあって、野心とか自己顕示欲が表面に出ていないので百万部を超えようが題名を知らない人は全く知らないという感じで売れていたりするので、マンガの活性化という観点からはどう考えていいのかよくわからなかったりする。これがコミックマーケットによって達成されてしまったことなのかどうかというのは商業マンガの海外展開がどうなるのかという興味とも結びつくけれど(私が最近少年誌青年誌系に勢いがないようについ思ってしまうのは岩田氏のマンガ読みとしての業に惑わされているかもしれない)、このつかみどころのなさへのアプローチはまだ手探りという感じなのである。(でもざっと検索してみたらヒット作の共通点としてどうも男性キャラがホスト系のようではないか!笑)
■今日の一冊

教育論争の論客として有名らしく、テレビをあまり見ない私がいまの教育ってどうなっているのかと思って読むようになった著者のクリエイティブ・シンキングの勧めの本。
この本で書評ではあまり触れられていないような気がするが、ロラン・バルトの「神話作用」とマックス・ヴェーバーの有名な資本主義の逆説について簡単に紹介している。ニューアカブームの頃のバルトの文学的なイメージからすでにずいぶん経っているので、有名なプロレス論を含む「神話作用」の本は社会学者がごく当たり前に紹介するようなスタンダードになっているようだ。
常識の自明性を疑うことを勧めながらも(それは学問の基本)、懐疑論は方法を欠けばいくらでもきりがなく続けることができてしまう。本というメディアの効用に触れているところもあり、教育的配慮に行き届いた本といえる。
問題を二極化しないことが重要なのは本来ビジネスでもあてはまることであるけれども迅速な意思決定に追われるあまり白か黒かという単純な二極化で楽をして問題解決を結果的に先送りするような傾向はやはりあると思われる。
2006-10-15 じっと手を見る

コミックマーケットをManga2.0として見る、というエントリを書こうかと思ったのだけど、ざっと書いてみてもう少しきちんと書いてからにすることにしました。
日々緊張が抜けないのでちょっとクールダウンしたいかな。自分の来し方を振り返って音楽の紹介でもしてみたいと思います。タイトルは適当です。
- アーティスト: The Boredoms
- 出版社/メーカー: Warner Bros.
- 発売日: 1995/05/09
- メディア: CD
ボアダムスはWow2が好きなのだけど本格的に世界進出をした代表的な一枚。変態ジャケットで競っていたバットホール・サーファーズはまだ聞いたことないのです。収録曲の中でもAnarchy in the Ukkとか、いやもうね。
- アーティスト: 想い出波止場
- 出版社/メーカー: インディペンデントレーベル
- 発売日: 1991/09/05
- メディア: CD
90年代の初めにボアダムスファミリーを中心とした大阪アンダーグラウンドの紹介をしたコミック誌があって、コミックジャングルという名前だったと思うのですが確認できません。想い出波止場もクイアなアルバムジャケットで有名でしたが美しさにおいてはこれは傑作です。よく見るとゴルファーのスイング連続写真なのですが、深海魚みたいなイメージになっていて天才的ですね。内容はフュージョンプログレ的なものもありROVOにつながる面もあります。
- アーティスト: Tom Waits
- 出版社/メーカー: Universal Japan
- 発売日: 1990/06/15
- メディア: CD
トム・ウェイツの名前は中学の頃小学館のThe Musicという音楽雑誌で知ったのですが、大学時代にサークルの先輩が持ってきて聴かせてもらって驚きました。レーベル移籍第一作で彼の奥さんがマネージャになったんだったかな?もともと彼のデビュー時のマネージャはフランク・ザッパのマネージメントをした人だったと思います。
- アーティスト: Al Green
- 出版社/メーカー: The Right Stuff
- 発売日: 2003/02/11
- メディア: CD
70年代ソウルの洗礼は当然のごとく受けているのですが、国内盤そのものがあまり出ない事情もあってアルバムで聴くことがあまりありませんでした。いわずと知れた名曲Let's Stay Togetherはフェイバリット・ソングです。
- アーティスト: トーキング・ヘッズ
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 2006/02/22
- メディア: CD
このアルバムは持っていないのですがAl GreenのTake Me to the Riverのカヴァーがヒットしたことで知られています(Alのオリジナルは収録されているアルバムを未確認でラジオでしか聴いたことがありません)。トーキング・ヘッズはこの次のフィア・オブ・ミュージックのオープニングでいきなりI Zimbla(イ・ズィンブラ)を披露してそれから次々と傑作アルバムを送り出すことになります。
- アーティスト: ダリル・ホール&ジョン・オーツ
- 出版社/メーカー: BMG JAPAN
- 発売日: 2005/12/21
- メディア: CD
80年代のポップスの一時代を席巻したデュオですが、70年代にその名を知られながらもブレイクするまでに一度低迷しています。初のビルボードのNo.1ヒットを生んだアルバムですがあまり脚光を浴びなかったもので、ジャケットはチープなのですが、ジョン・オーツの書いた一曲目が私のお気に入りです。スティーリー・ダンのウォルター・ベッカーのように見た目よりも大きな役割をちゃんと担っているものです。全曲エアチェックしてウォークマンで毎日のように聴いていた時期がありました。ラジオでアルバムを丸ごと流すことは今では考えられないかもしれませんが、今が世知辛いんじゃないかと思えてなりません。
- アーティスト: Sly & the Family Stone
- 出版社/メーカー: Epic
- 発売日: 1996/09/02
- メディア: CD
ダウナーで地味ですがやはり名盤です。相互に影響があったと思われるマイルス・デイヴィスも1975年から活動休止に入ってしまいますが、スライはこの後低迷したまま表舞台から消えてしまいます。ファミリー・ストーンのWikipediaの解説を見ましたがグループの崩壊というFamily Affairがどんなものだったのかが詳しく書かれていて、これは知りませんでした。有名な前作に収められたFamily Affairは後期の名曲ですが71年のNo.1ヒットなんですね。アンディ・ニューマークがドラムスを担当したのも本作からのようなので、前作はうろ覚えながらミュージシャンのクレジットがなかったんじゃないかと記憶していますが、ほとんどスライ一人で作ったなんて噂も聞いたことがあります。
またマイナーなほうに戻ってしまいますがこれで締めにしましょう。ジョン・ゾーンは一時期高円寺のアパートに住んで日本の歌謡曲に関してはものすごく詳しい、というよりたいがいの日本人よりもはるかに日本文化に詳しくて日本の音楽シーンから文学シーンにまで多大な影響を残しているのですが(最近はあまり表には出ませんが国境を問わない日本のミュージシャンを自分のレーベルで世界に紹介する仕事は続いています)、運良くジャケットの写真が載っていますね。この男は誰あろう宍戸錠です。このアルバムは実験的アプローチの集大成で代表作の一つですが、収録されている最後の3曲目に太田裕美も参加しています。
2006-10-07 晴れやかな日に

昨日の雨が嘘のように晴れた日になったようですが、というのも結局一日家の中にいました。
亡くなられた米沢さんにお別れを告げるならば晴れやかにおつかれさまと言いたいのですが、直接お話をうかがえるようになったのが本当にごく最近だったのでショックがまだ尾を引いていてわれながら情けない。あすなひろしの時も亡くなる直前にどうしても会わなければと思って、その縁がなければ米沢さんにお目にかかる機会もなかったと思います。いや正直きついです。
数少ない機会の中で今となっては私にとって遺言のように聞こえたことがありました。マンガはマスを対象としているからどうしても大ヒット作や大長編を表に出さざるを得ないけれども、革新は短編(これはコミックス二冊分くらいのものまで入れていいと思います)で起こっているものだ、というようなことをおっしゃっていました。ニッチな短編読みである私は勝手に励ましのお言葉と受け取らせていただきましたが、マンガ史三部作がギャグ、SF,少女マンガであったように米沢さん自身の中にある意味マイナーなものへの偏愛があったとも言えるでしょう。現在の吾妻ひでおさんの評価に最も貢献したのは米沢さんでありました。90年代のマンガ論が夏目さんや竹熊さんのいくつかの仕事を除いて私に物足りなさを感じさせたのは米沢さんと仲間たちがコミックマーケットとともに作ってしまった強固なスキーマというか構造の中に収まってしまっている感じがするわけで、数少ないながらお話を交わした限りではマンガ評論への距離のおき方に苦心したというようなことも言っていたと記憶するので、米沢さん自身がそういうことに自覚的であってある種の厄介さを感じていたふうにもとれたのですが、コミックマーケットの代表として評論活動に不自由を感じていたのかもしれませんしこれは私の勝手な印象に過ぎないのかもしれません。
米沢さんが子どもの頃秋田書店の『ひとみ』(この雑誌は長い空白を挟んで二期に分れており、私はたまたま第二期の終わりを見届けた)で読んだという石川球太の「スーパーローズ」に「萌えた」らしいことが、まれに見るマンガ史の貴重な証人を一人失ってしまったという思いで途方に暮れさせるのですが、私が幼い頃に今村洋子の「ぺちゃこちゃん」を読んだことが決定的にマンガ研究へのモチベーションになっていることもあって奇妙な共感を抱くもので、ここで記憶の余白に記しておいてもよいかと思います。
2006-10-01 米澤嘉博さんを悼む
コミックマーケット代表の米澤嘉博さんが亡くなられたとの知らせがはいって書き込んでいます。
夏にお目にかかったときは全然元気そうだったのに、まだ亡くなるには早すぎる...
子どもの頃、図書館で米澤さんの『戦後少女マンガ史』を見つけて何度も読み返したのが自分のマンガ研究の出発点だったのに、その研究成果を何一つまとめることなくこの年まで来てしまって、もう見てもらう機会もないのは悔いに残ります。
コミックマーケットはある意味で戦後の日本で最も成功した革命だったと思います。それはいつもにこやかな笑顔を絶やさずあまり表に出ずに控えて参加員の自主性にまかせオープンにしたからこそ成立しえたものであったでしょう。
前にお話をお伺いしたときには秋元文庫の話題や子どもの頃読んでいた少女雑誌の話をしていただきました。
米澤さんのお仕事の中には目立たないところで別冊太陽の『発禁本』のような仕事もあり、これはコミケにおける性的表現への寛容や表現の自由を守る方針とも関連しているでしょう。
私は最近海外にもマンガを紹介できるようなネットコミケってできないかなどと考えたりしていたのですが、ネットではその点で限界があると思わざるを得ません。
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1999/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
なにか継げるものがないかと思えば途方に暮れてほんとうに残念でなりません。慎んでご冥福をお祈りします。
- 作者: コミックマーケット準備会
- 出版社/メーカー: コミケット
- 発売日: 2005/08
- メディア: コミック
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ちょっと毎日書く余裕がなくなってきたのでまったく話は変わって、匿名で書くことのうしろめたさというか居心地の悪さについて、どのように対応しようかということに悩んでいろいろ考えながら書いてきたが(実名の書き手も山ほどいるわけで)、いまだにブログはよく分からない。というのも思ったよりも狭く閉じてしまうものだと思うからだ。海外と日本でどれほど異なるのか気になる。とりあえず複数のブログを持って区別しており、はてなのつながり方は特殊なのであえて垂れ流し的で悪態をついたりトリッキーな使い方をしてみるということはあるけれども(というほどでもないね。こんなでもわれながらひどいと思ったら没にすることもあるので効率が悪い。下書き保存がないしバックアップ機能はなんかよく分からんけど)、われながら少し倦んできたかな。といいつつまだここでも書き続けるでしょうけど。