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2006-09-26 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

自分のマシン勝手に起動する件についていろいろテストをしてみたが、まあだいたいのところは分かった感じがする。マシン内部だけの問題ではなかった。

20世紀には90年代社会人になってから奇妙いやがらせはけっこう体験した。最初の会社に入社してすぐ休日出勤するハメになったが、その時はノートパソコンを盗んだと言う陰口を伝え聞いた。サリン事件のあとには急病で連絡するひまも無く救急車に乗ってその日のうちに帰れたあとでオウム信者という噂が立った。そんな程度なら受け流すが洒落にならん、という体験もした。

なんの根も歯もないのに何か悪いことでもしたのか、と思ったが、無能である、ということもあるだろうけどおそらく嗜眠症を患っているせいでもあろう。仕事中になんの前触れもなく突然眠ってしまうことは私自身にとっても精神的にひどい苦痛なのだが、その苦痛を表に出すことが必要であるとは思わなかった。だが傍から見ている者には怠け者ということになる。最初ナルコレプシーかもしれないと思って相当有名な病院検査を受けたが、結局はっきりしないまま薬を処方された。そのまま通ったが薬をもらうだけで医者は何をするようにもみえないので、不安になって別の病院に行くと違う診断をされた(詳細は省く)。そこで別の薬を処方されたが全然効き目が無い。ほとんどの普通の人は私が夜更かしをして昼間眠っていると思っていたみたいだが、終電で帰る人よりは早く寝ている。いちどある上司から別の病気ではないかとアドバイスを受けて、自分もいろいろ調べたのでそれは的確だと思い、検査を受けた結果、そちらも治療することになった。20世紀のうちに我が身に降りかかってきたことは枚挙のいとまが無いがそれをここで書くつもりは特にない。ここで書いたところで対応のしようがないからだ。

いわゆる偏見全般について、これまでの経験から私自身も含めてそれを完全に免れている人間がいるとは思えない。人からみたら偏見にしかみえないところで自我を支えているような人はいくらでもいる。私はかつて父のある偏見について激しく噛みついたが、今はあきらめている。父があれほどであれば私自身には自分が気づいていないところでどれほどのものがあるだろう。そして人の心をほんとうに見透かすことはできない。

私は正しさというものにさほどの価値を見いだすことがない、というと嘘臭く聞こえるだろうか。しかしたとえば昔の哲学は真理を探究するものであったが今では人間の思考の限界を探るものになっていると私には思える。そして一般的に正しいかどうかは分からなくても自分が誤っていたと納得できることをみつけることのほうが価値がある。(正しさではなく、正確さはかなう限り求めなければならないが)

論理的であることに自信はないし何に対しても素人なのでうまく言えないけれど、人間の思考が言語によってなされるからには無限にことばを連ねようとも数えられる可算の濃度を超えることはないのであり、連続体のような非可算濃度を持つものを概念として認知、把握することは視覚や聴覚などによって感覚できる時間、空間のかぎりにおいてたやすくできるのだが、四次元を超えるとイメージすることすらできなくなっていくように、それはおそらく記号としてしか代替できないような不思議なことなのだ(たとえば数直線を書いて任意の区間、たとえば0から1までの間にある実数すべては、無限存在するだけでなく、すべての整数の集合のような例とは違って数えることすらできない)。こんなことを考えても役に立ちはしないが、山がそこにあるから登るように、なぜか"それ"が存在する(ようにみえる、と思うこともできる)から考えるのである(哲学はそれを思想としない限り役に立たないが、応用科学でないところの理学もまた然り)。

2006-09-21 溝口の秋 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

今年は溝口健二没後50周年ということで、じつはわたくしいままできちんと溝口映画を見たことが一度もありませんでした。見る機会は見つければけっこうあるはずですけど、いま見なくていつ見るのかと意気込んでいたのですが、NHKBSをきちんとチェックしていなくて見逃し、開催中の映画祭戦前の「浪華悲歌」(なにわえれじー)、「祇園の姉妹」を見逃して、まあDVDも出るのでいいんですけど、戦前戦後の傑作を一度に見てしまおうと、「山椒太夫」と「残菊物語」を続けて見に行きました。仕事で忙しいので芸術でも見ないとやっていけんとか思って思いきって行ったのですが、あああしまった、2作続けてみてマジで鬱になりましたよ。21世紀になっても山椒太夫は滅びてないどころかそこら辺をうようよしてるもんな。泣ける話なので私は子どもの頃ケンちゃんチャコちゃんで涙が出るほど涙腺が緩いんですが、連休明けの前の夜だったのでカタルシスにならずに涙で頭が痛くなってしまいました。

いまさら言うまでもないですが戦前映画である「残菊物語」がその技法の見事さによって映画史に残る作品であることは素人でもはっきりわかります。到底映画ファンとは名乗れませんがエリセとかタルコフスキーのほとんどは見に行った時期があって、古い日本人ならストーリーのいわゆるリアリズムにも惹かれるでしょう。20世紀という時代を日本で最もよく表している作家でしょうし、古典としての評価は確立していますが、私の歳でも見るのはこれが初めて、なんてことがあるわけです。

大学に入ったときに映画お金をかけるのを諦めて音楽はすでに消費していたのでマンガをひたすら読んできたのですが、それでも古いマンガを読む余裕がなかったですね。古本屋巡りとかあまりしなかったし古いマンガはそれなりに値が張っていたのです。今年もなぜにいまさらちばてつやという感じですが、全集が出たときにきちんと読まなかったのを後悔してなんだかんだ言って自分の歳から下ではあんまり読んでいないだろうと思うわけです。

そういえばずっと見ようと思いながらまだアンゲロプロスも見てないなあ。映画はなんとなく余裕がなくて見ないんですが人生もったいないな。

この年齢でこのご時世だから古典に親しまないと、などと思っています。

2006-09-17 過ごしやすくなってきた

久しぶりに自炊などしてますが、3連休もあっという間に終わりそう。つくづく働くのが嫌いなのかな、とか思う。その一方でのめり込むと寝食を忘れるけど。

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学力の低下、などと特にここ数年よく耳にしたけれど、特定の年齢層がバカになったみたいな考えはやはり愚かだよなあ。もしほんとうにバカが増えているんだとしたら中年も年寄りもバカになっていて、時代全体がそうなっているんだろう。で、実際どうなのかといえばこうしたものは基本的にほとんど変化しないのだと思う。

他愛ないおしゃべりが世界を支えている 他愛ないおしゃべりが世界を支えている - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 他愛ないおしゃべりが世界を支えている - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 他愛ないおしゃべりが世界を支えている - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

本屋でたまたま平積みにされていたいわゆる実用書を見て思い出したこと。

雑談力―誰とでも無理なく話せる (アスカビジネス)

わたしには父譲りで雑談才能が無いというか、どう話を進めればいいかよくわからなかったりする。いわゆるうわさ話で盛り上がるというのが苦手なのか、よくよく考えてみたらそんなはずはないような気もするのだが、父は会社生活で辛酸をなめ続けてきた結果なのかマスコミの批判とか自分の昔話や自分の教訓に基づく人の役に立たない説教しかできなくなった。一方で母は雑談しかしないで、二人とも人が聴いているかいないかはお構いなしにしゃべるので、しばしば夫婦で喧嘩になる。

90年代の終わり頃は気分的に非常に追いつめられていた。いまでも難儀だが、当時は愚か者が世界を壊滅させるんじゃないかという妄想にまでとらわれた。その時考えに考え抜いて出した結論がこれだった。平和を根底で支えているのはやはり他愛ないおしゃべりだと、今でもその考えに変わりはない。

2006-09-10 まだ暑い このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

先週に引き続き部屋の整理をするつもりが蒸し暑くてやる気が出ない。汗がべたべたして気持ちが悪いのだけど、アミノ酸系のドリンクのせいかなどと根拠もなく思う。ペットボトルが携帯できるようになって水を飲みすぎるようになったからだろうか。

最近の愛機は毎日勝手に起動しているのだが、たいがい留守中なのでいつ起動されたかが特定されていない。また使用中に突然スリープのカウントダウンが始まることもある。予約録画のために一度設定を変えて自動ログインできるようにしたが、自動起動を一度設定してみたものの録画がうまくいかないので元に戻したのだった。録画ソフトが2種類入っているのでその片方がかかわっているのか、原因究明のためにはある程度MacOSの仕組みを知らねばならず、UNIXの知識が必要で、必要なところを全部マスターするというのは対策としていまのところ現実的ではない。不正にアクセスされているなら釣ってみるテストをしたらアプリケーションがフリーズしたり。

むう、まあ仕方がないですね。

土曜の夜の「チャングムの誓い」が録画ソフトで予約されていて、土曜日は自分でマシンを起動しているので時間が来ると録画が始まる。そこで音が出るのでその場で見てしまうのだが、そのあと引き続きNHKでは、9.11テロから5年目を迎えるので昨年放映された9.11からイラク戦争を振り返るドキュメンタリー特番を放映したのでこれを見ていた。テレビはふだんあまり見ていなかったが、バグダッドホテルでロイターの記者などが戦車からの砲撃で命を落とした日には病院でたまたまその時のバグダッド市街がテレビで放映されていたのを思い出した。

とりあえずサルまんを買いに行ったところ、国立で一対、立川のルミネでは下巻のみ残っており、ノルテ店では見つからない。しかし立川には第一デパートがあるので3階のオタクフロア(ここは鉄ちゃんやボーイズラブの穴場である)にはあるだろうと思い、よくよく探したら平積みで6組ほどあったが、そこでわかったことはサルまん新装愛蔵版は箱の色が渋すぎてけっこう見つけにくいのである。箱から出したらものすごく目立つのだけど。なので下の写真をよく見て記憶しておくのが吉。

サルまん 21世紀愛蔵版 上巻 (BIG SPIRITS COMICS)

サルまん 21世紀愛蔵版 上巻 (BIG SPIRITS COMICS)

サルまん 21世紀愛蔵版 下巻 (BIG SPIRITS COMICS)

サルまん 21世紀愛蔵版 下巻 (BIG SPIRITS COMICS)

(ちなみにはまぞうで「サルでも描ける」ではひっかからず、「サルまん」で見つけられた)

それから「ハチミツとクローバー」のとうとう完結となる10巻が出て、宝島社から出ていたコミックスは買っていたと思うのだけどずっと読んでなかったからどうしようかと思ってたらふと9巻がものすごく品薄なのに気づいて9,10巻と先に読んでしまうのはありかもと思って2冊買ってしまってからよくよく考えてみると、9巻はサークルOBのメーリングリストで女性陣のあいだでけっこう騒ぎになっていたのでとりあえず買っていたのにすっかり忘れていた。もともと記憶力はよくないのにすっかり記憶が飛んでしまっていて、年をとるのはいやだねえとがっくり。

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

(こちらは「ハチミツとクローバー」で出てこないので、念のためAmazonに見に行ったら、「ハチミツとクローバー10」と入力すると見つかることが判明。)

結局この土日も無為に時間をつぶしてしまいました。なんか読み返すとひどい駄文になってるし。でもあしたのために今日はもう寝ます。ちょっとどう書こうか書くまいか迷ったのだけどその場の勢いで追加すると、夜中にふと気になってYouTubeを見に行ってからZappaのDVDをAmazonで注文したりしましたけど(パーカッションのRuth Underwood在籍時のマザーズはやはり特別)。若い頃Willie the Pimpを耳コピしてマラソン中とか苦しいのを気を紛らわせたい時に頭の中で完奏できるようにしていたのがCD収録の再編集でうやむやになってしまっていていたのも思い出しました。Magic BandのTroutからDecalsの中の曲目を演奏していたすごい時期のライブとか商品化されたら絶対買うんですけどね。トラックバックがあったのでたどったら気づくのが遅くてもうイベントが終わっていました。吉田アミさんのパフォーマンスはまだ見たことがないので機会があれば行ってみたいです。音楽系では大友良英さんのはてなダイアリーなどもなんとなく見に行きづらくなっていたりしていますが。そうだ、もうちょっと音楽系のアンテナの登録を増やそう。

2006-09-04 さっそく全身が痛い このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

今日は会社休みたいなどと思ったのですが、運動習慣もつけずにだらだら寝てばかりじゃ本当に体が持たないと思い我慢して仕事したものの、全身、特に腰が痛くて本当に体がなまっています。

二日目、三日目とひどくならないかな。

夏目さんのブログに一昨日の宮本さんの講義についてのメモの記載があります。

http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/09/post_12a9.html

私なりにコメントをつけ加えてみたいところがあるのですが、今日は体を休めるほうが優先だわ。

ちなみに波多野完冶の影響力というのは私が昭和40年代に小学館の学習漫画雑誌を読んでいた時期にすら確か監修かなにかで名前が載っていたくらいなんだか強かったものです。

あと「記号的」が好きでない(あたりまえに了解されているところが)私に印象深かったのは戦前の『漫画独習手本』でいわゆる漫画的記号を「符牒」と呼んでいて、「マンガの読み方」で竹熊さんが「漫符」と名づけたものにあたります(あの本でのいろいろな造語の中で私が一番好きなのが実は「漫符」なんですが)。「符牒」でいいやんと思ったりするわけなんですが。

質疑の中にも面白いものがあったんですが私もいまうまく説明できないです。「テヅカ・イズ・デッド」が出た頃と比べて脳への刺激が足りないというか、夏目さんから宮本さんまであまり手を付けていない少女向け系統のほうでなまじ新発見があったために気が緩んだのかあとは仕事のほうで気が抜けなかったりとか。

2006-09-03 冷蔵庫とカミソリ

うちは毎回エントリのネタが口調も含めて極端に変わりますが、夏の週末はずっとスペシャルイベントの他は家の中でごろごろしている状態で部屋の整理もまったく進まなかったのを、今週は気合いを入れて久しぶりに動きました。

戦時下のマンガについて講座を受ける 戦時下のマンガについて講座を受ける - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 戦時下のマンガについて講座を受ける - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 戦時下のマンガについて講座を受ける - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

土曜日は朝日カルチャーセンターで宮本大人さんの戦時下のマンガについての講座。サルまんサイン会とはしごできないかと思ったのですが、あれだけ宣伝されていれば絶対行列ができるだろうと思い、白井専務のご尊顔だけでも拝見できないかなどと思ったりだらだらしていたら出かけないと間に合わない時間になってあわてて出かけました。なんかここ数年の悪いくせで、電車の接続が良くて遅刻せずにすみました。

宮本さんの講義についてはマンガ批評をする人などに実際に見てもらいたいわけで、今まで知らなかった戦時下のマンガの特異な発展とその顛末を当時のマンガ資料をふんだんに見せてもらって解説していただき大変貴重な機会でした。私はここでよく一時期の手塚頼みへの違和感(手塚ジンクスみたいなのがあるんでしょうけど、他の戦後作家になかなか広がっていかないこと)とか大塚英志さんへの悪口とか(私は少女論があまり好きでない。よい書き手もいると思いますが)を書きましたけど、宮本さんの仕事は大塚さんの手がけてきた手塚論の優れたところを受け継いでいるわけで、手塚の功績をきちんと位置づけ直そうとしている試みでもあると思うので(「テヅカ・イズ・デッド」もその流れにあると思うのですが)、あまり知られていないのか、もったいないと思うのですが、才能のあるライターの方こそ研究と批評のあいだの乖離をもっと近しくするためにも見て欲しいものです。

良かったのは年上の方がちらほらといらっしゃったことで、手塚世代はもちろんのらくろに親しんだような年代の方にも見てもらえるととても感心されるんじゃないかと思われました。その層にこういう研究がされていることが伝わるような努力をしていきたいものです。

買い替えた冷蔵庫は人並み? 買い替えた冷蔵庫は人並み? - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 買い替えた冷蔵庫は人並み? - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 買い替えた冷蔵庫は人並み? - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

で、ビックカメラでは8月中の購入は配送料が無料になるというので冷蔵庫を思いきって買い替えることにして、今日久々に気合いを入れて古いのと入れ替えられるよう玄関から溜まった本やら何やらを移動させました。運動不足がたたってへたりましたが、春になくして諦めていたブラックジャックの999個限定ペンダントのついた自転車の鍵が出てきましたよ。

冷蔵庫を店で見たときはちょっと今より大きいかなくらいにしか思ってなかったのですが、入れ替えてみたらなんか思ったよりもサイズが大きいと驚きました。135リットルで2万5千円で、今まで使っていた冷蔵庫って105リットルくらいかしら、一回り違いました。今まで使っていた冷蔵庫は一人暮らしとしてもすぐ満杯になってしまって使いづらかったのは確かで、要するに一人前の容量ではなかったのかと思ってがく然としました。

倉庫代わりのつもりでアパートを借りたものの、洗面所がなくて台所では鏡で顔を見るのもできず難儀で、引っ越したいのはやまやまなのですが、いらないものを捨てないとにっちもさっちもいかず、今日をきっかけに思いきって整理したいところ。といいつつ冷蔵庫を入れるまででへたって駅まで涼みに行ってたので、まだ家の中がぐちゃぐちゃになっております。

ひげを剃るのも難儀しているのですが先日スーパーにカミソリを見に行ったら3枚刃だったのがなんと4枚刃、5枚刃とエスカレートしていて、思わず5枚刃のカミソリを買ってしまいました。替刃式ってディスポーザブルより刃が長持ちしないような気がしていて、5枚に増やしても意味ないんじゃないかと思いつつ、最近の替刃式カミソリは乾電池で振動式になっていて、これが意外とカミソリ負けしないで気持ちよく剃れるので、まあ試しに買って使ってみたら不思議と3枚刃よりいい感じがするので俺だまされてない?と妙な気持ちであります。

駅の本屋に行ったらサルまん見つからず、さっそく売り切れた?特設コーナーも見当たらず、店員さんに聞いてみればよかったのですが、買ってすぐ埋もれて見つからなくなりそうな気がしたのでしばらく様子を見ることにします。

2006-09-02 子猫は森に捨てよ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

倫理的な問題に関して書くのは気が進まない。90年代に永井均の著作を読んで、存在の問題についてはある程度自分の中で得心が行く大きな進展があったのだが、倫理についてはたとえば柄谷『探究』批判以降、注目して読んできたにもかかわらず、一方でこのブログでも柄谷に倣って単独者たれなどと呼びかけたりして、特に考察を深めることはなかった。

「魂」に対する態度

「魂」に対する態度

(この本は明らかに90年代における一つの転換点となった一冊。私にとってはそれまで漠然と興味のあった哲学にハマる出発点となったが、私は内容を忘れるのも早いし、きっかけとしての一冊として時折読み直す本ではある)

過去のエントリではマンガに関するある事件について、

この事件を仕掛けた者の「正義」が問題なのだ。そのような類の正義の身ぶりが現在あまりにも蔓延しすぎている(たとえば青少年の凶悪化や少子化問題の語られ方など)ことが、今の世の中を異様に息苦しいものとしている、現在もっとも由々しき道徳の問題なのではないのか(実は私のブログ自体もそう言う意味では危うげではある。私はブログで語ることによってすでに加害者である、とかつて書いた)。

のように記している。かなり怒りにまかせて書いたので強い主張になっているし、是非はともかく私の基本的な考え方ではある。ただ倫理というのは結局は直接相手と対話して個別的かつ実践的に解決していくしかないものではないかとも思うので、自分の考えを単にブログ書くことにどれほどの意味があるのか、という疑問がある。もちろんブログであるから他者との対話は可能なのだが、結局は第三者としての意見交換だから、価値がないことはないとしても中途半端な環境だとも思う。

(実際には引きこもり的で積極的に話し合いすることもあまりないし、これじゃただのネット弁慶だなと思いながらそれは置いといて)

私は東京の団地で育った人間なので、犬や猫を飼ったことはない。でも飼ってみたいと思うことはしょっちゅうだ。それで新しいマンションが建ちチラシが入ってくるとペットが飼えるかどうかを最初にチェックするが、ペット対応のマンションという物件はあきれるほどに限られている。

周囲の迷惑になるからというのはもっともな理由だが、ペットを飼うという選択肢に大きな制限が設けられ、多くの人がそれを黙って受け入れているのは、都会においては動物の存在自体が迷惑だ、という考えが強いからではないかと疑いたくなる。ペットを飼うことが人間の都合であれば、ペットの生きる環境もまた人間の都合であるだろう。

ペットの避妊は義務である、と考える者が多いのだろうが、私が思うに、特に女性の場合ペットに避妊手術をすることに罪悪感を覚える人はかなり多いのではないか。ペットに避妊手術を施す決定をしたからには自分も子供を産む資格がないとまで思い詰める人がいてもおかしくないと想像する。できれば手術を施さずに生を全うさせたいと思う人もいるだろう。

ペットをめぐるコミュニティがあって、産まれた仔を確実に里子に出せるならそれに越したことはないだろうが、どう考えてもその点で我々の社会はペットに寛容な社会に進んでいる感じはしない。増えてもらっては困るのだから致し方ない面はあるにしても。

猫に避妊手術を施すことと子猫を殺すことを単純に比較したくはない。なにかが違う。ここに問題がある気がしている。

猫の避妊が正しい、という根拠は、前者が社会的で、後者が反社会的であるというのがその理由である。この選択は猫に対する愛着とは関係なく導かれる。もちろん猫に対する愛着から避妊を施したほうが猫にとって幸せだという考え方も優位である。エッセイを書いた作家もそれはわかっていて書いているようだ。だが結局は私にはそれは人間の側の都合のすり替えとしか聞こえない。

(ちなみにエッセイについては自分ならどう考えるかという触媒として利用する。主張の中のいろいろな矛盾についてここで突っ込みを入れる意味があまりあるとも思えない。猫への愛着を支持するつもりで読んでみる)

それでは猫の充実した生という観点から見たらどうなのか。

ネットに転載されたエッセイを読んでいてまず思ったのは、子猫殺しについてむしろ義務と責任の意識が強烈に感じられるところだ。つまり充実した生を全うさせられないならば自分の手で殺すという意思である。ここにはいささか過剰な思い入れすら感じられる。

タヒチでは野良猫はわんさかいると書かれており、また飼っていた雄猫も家に居着かず消えたという。

では人里離れた森にでも捨ててはどうか。運が良ければ野良として生き延びることができるかもしれないし、それが充実した生かどうかはしょせん人間には判断のしようがない。生まれてすぐ生き延びられないというのなら歩いて自分でえさを食べるくらいまで面倒を見る。

ところで、親猫は子猫を産むことはできても育てる機会は奪われているのはどうなのだろう。人間ならばその方が不幸だろうが、ペットを飼ったことがないので親猫がどの程度育児をするのかどうかはよくわからないが。

念のため、これはあくまでも自分が考えてみたことであり、正解を導くことを目的としていない。ちなみにこの話題に関する議論にもほとんど目を通していない。

また、日本では、このような考え方でペットを捨てれば残念ながらたちまち問題になるだろう。解答を示していないのは、ペットを捨てる人間論理とはたぶんこのようなものであると思うからだ。