2006-07-30 SFを捨てた頃

子供の頃のことを考えていたら、マンガから離れていた時期のことを思い出した。
小学館の学習雑誌を六年生まで読み通してしまって、もう親にマンガ雑誌を買ってもらえない、どうしようか、と思っていたが、学級文庫では推理小説ばかり好んで冒険小説にはいまいち乗りきれなかったので、自然と創元推理文庫の本格推理小説を図書館で借りるようになった。
クイーンやヴァン・ダインがやはり面白かったが、ハヤカワのポケットミステリもあり、「災厄の町」は早川のミステリ選集かなにかで読んだ。父はエンジニアだったので「子供の科学」のような雑誌は買うことができた。科学と未来の夢がまだ幸福に結びついていた。
雑誌のハヤカワミステリは図書館にあったがハードボイルドやスパイ小説が多かったような気がする。あまり借りなかったのは確かで、SFマガジンは一時期借りて読んでいた。
70年代はまだ翻訳SFが隆盛で、私の同世代でマンガ好きであればSFを読むのはあたりまえ、という時代でもあった。もちろん手塚治虫の影響は絶大だった。
ニューウェーブSFを紹介する特集本などもいろいろと読んだ。日本の私小説は退屈だ、と思っていた自分は(私小説が日本の小説だと思っていた)さまざまに実験的な手法を使うSFはすごい、と思い込んでいたのである。
大学時代のはじめに筒井康隆全集が出たが、購入は断念。サンリオ文庫が出たのが1978年で、ニューウェーブSFの翻訳が多く出されたが、サンリオはそれ以前の1976年に「リリカ」というマンガ雑誌を出していた。
「リリカ」は海外版を出す予定があったために左綴じで、ゆえにコマの進行も左から右へと進む特徴があったが、さらにユニークだったのは少女まんが寄りだったことである。
「リリカ」は少女まんが雑誌と認識されているが(表紙が高橋亮子だったのだから少女まんが雑誌としか思えない)、手塚治虫の「ユニコ」と永島慎二の「リリィのブルース」が連載されていた。他に連載陣には水野英子、樹村みのり、睦月とみ(矢代まさこ)を揃え、松苗あけみがデビューした雑誌でもあった。おおやちき、内田善美もこの雑誌に書いている。
海外展開を狙った雑誌が実現しなかった理由がよくわからないのはそれを問う以前にキャラクター展開に徹しきれていない、意図のよくわからない編集方針にあった。
サンリオ文庫の中にはニューウェーブSFと並んでイタロ・カルヴィーノやトマス・ピンチョンの翻訳などもあった。いや、カルヴィーノはなかったか、バーセルミはあったか。あとラテンアメリカ小説の翻訳もあったと思う。いわゆる「不条理」が流行していた頃に、ピンチョンの「郵便」の小説「競売ナンバー49の叫び」を読み、自分は天地がひっくり返るほど驚いたのであった。筒井康隆が「虚人たち」で純文学を宣言したのは1979年で、80年代にフランス文学がある意味ではサブカルチャーとして紹介される感じである。
カルヴィーノなどはハヤカワからSF作家として紹介されたくらいだったが、昌文社からも出ていた。このへんから海外小説を知るようになる。最初はラテンアメリカ、そしてジョイス、フォークナー、フランスのヌーヴォー・ロマンなどを知るようになる。小説自体が「ドン・キホーテ」以来文学というフィールドで奇形的なジャンルであって、ニューウェーブSFの実験はそういう意味ではなんら新しいものではなく、手法の大衆化というふうに認識が変わったのである。
そこからよく理解できないくせにずいぶん無理して背伸びするようになったのであった。
- 作者: イタロカルヴィーノ, Italo Calvino, 脇功
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1995/10
- メディア: 文庫
- 作者: ジェイムズジョイス, James Augustine Aloysius Joyce, 宮田恭子
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2004/06
- メディア: 単行本
- 作者: ウィリアムフォークナー, William Faulkner, 高橋正雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/06
- メディア: 文庫
- 作者: ウィリアムフォークナー, William Faulkner, 高橋正雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/07
- メディア: 文庫
- 作者: モーリス・ブランショ, 菅野昭正, 三輪秀彦
- 出版社/メーカー: 書肆心水
- 発売日: 2005/09
- メディア: 単行本
- 作者: ジョルジュバタイユ, Georges Bataille, 生田耕作
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2003/05
- メディア: 文庫
図書館で読む本がなくなってきて「ユリイカ」や「美術手帖」を読むようになって、いつしかSFを読まないようになった。現代音楽や現代美術に魅かれるのがなぜかよくわからないが、そちらの解読に魅かれるようになったのである。そしてマンガについても、かつてミステリを読み続けてトリックに飽きてからも「災厄の町」のような作品が好きだとわかった自分は理系であることに飽きつつ、ファンタジーに関心があまりなかったために心理劇とコマの複雑な構成に心奪われるようになっていったようなのだ。
- 作者: トマスピンチョン, Thomas Pynchon, 志村正雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1992/11
- メディア: 単行本
2006-07-26 読売新聞夕刊の高橋真琴の記事の件

2006-07-25 少年ジャンプと日本の経営

昭和天皇の発言のメモが非常に話題になっているが、今どきメモが公表されることを除くと特別な驚きはないなあ。昭和天皇ってそういうキャラだってずいぶん前から思っていたからなあ。天皇制というのはいろいろと興味深いものがあるけど変に誤解されるといやなので静観。
週刊東洋経済がトヨタにかみついた。日経ビジネスもトヨタの特集で、先の事件がきっかけだが、この二つの雑誌を読み比べると面白い。なかなか極端な対比になっていて、自分はただ礼賛するよりは批判があったほうがましという気がする。少子化が問題になっているがこれは高齢化とセットになっているのであって、自分の世代が高齢化するまでに高齢者同士で何らかの解決策を見つけなければならないことだろう。高齢になってしまうと思考が弱くなるので今の高齢者に解決策が示せるのか疑問だ。もうそういうことを考えなければならないときに来ていると思うが。
普段は仕事中も疲れが取れない一会社員として、日本の経営というのはひょっとしたら戦前の軍隊から地続きじゃないかと思うことがある。戦後の戦前からの連続性を考えたいと思うのはそういうところから始まっているが、そのことについてはここでは特に展開はしない。ここ最近はデジタル化の悪影響は確実にあるだろうけど。
ところで少年ジャンプが部数を650万部まで記録を更新したのが1995年、ドラゴンボールがこの年に終了し、翌年スラムダンクが終了して急速に部数が下がり伝説は途絶えた。とはいえジャンプが特別な雑誌であり続けながら、最近には「デスノート」をきちんと終わらせたのは快挙といえるかもしれない。
ジャンプのスローガン「友情・努力・勝利」はジャンプ創刊より前の少年ブックですでに雑誌のコンセプトとしてあったと聞いたような気がするが、これはそのまま日本企業のスローガンでもあったようにおもう。そしてバブルを最後まで引っ張ってしまったのもジャンプだったような気がする。従来日本の経済を支えてきたのはワーカホリックな従業員の気力であり、それを精神的に支えたのがジャンプだった、というまあ与太話だけど、どんな大企業でももし従業員をただ疲弊させるだけの企業になってしまったら長続きはしないだろう。要領の良い者が生き残れる仕組みならやがて手抜きも起こるだろう。
まあトヨタには対してさしたる興味はなく(よくも悪くも変わらないような感じ。ソニーの行く末のほうが気になる)、ジャンプがどうなっていくのかのほうがずっと興味がある。
2006-07-22 Mac録画その後

Mac用のTVチューナ付き録画ボックスが値下がりして、2万円台前半にまでなっている。
DVコンバータとiMovieで録画していたら20分で録画が切れてしまって、まだ理由を調べていないが、予約自動録画ができて番組表が使えるといい(携帯から予約できるともっといい)と思い、ビックカメラでたまたま比較表が載っていて転送速度などからマシンパワーにやや余裕を持ってのMPEG2での録画が期待できたので奥の手を使って購入してみた。
「ハウルの動く城」が放映されるのを知って予約録画が目当て。
asin:B0007YT9U6:detailとりあえず冷蔵庫もノンフロンでもまあまあ安いのが買えるが、玄関から出し入れするスペースを空けねばならないのでスーパーが至近ということもあり、しばらくの間なしで済ませられないか考えるが、やはり優先順位を間違っているなあ。
使ってみたら、途中でエラーがでて見事に録画失敗。その後の予約も全部不能になって再起動するしかなくなった。起動して早いうちに30分ものくらいを録画する程度に使えるかもしれないが、やはりMac miniではだめか。インターネットとも不要なときは切断できるといいような気もする。I-Oデータ社製のはもう少し良いのだろうかとも思ったがソフトについてはあまり違いはなさそうだしあまり多くは望まないほうがよさそう。地下鉄サリン事件の少し前頃からまともにテレビを見なくなったが(CATVは近くにマンションができて引かれるようになったのでついでにコース契約したが、かなり無駄な出費)、パソコンでテレビが見られるのはストレス軽減として悪くない。
先に購入してみたものが番組表が使えず、モノラル録音もさびしいので購入してみたが、時間指定はできたのだけど、番組表との連携がいまひとつうまくいかないし、こちらはチューナーのプリセット時自動選局機能がなくUHFの番組表がでないのは原因不明。インストールして最初は見られた気がしたのは勘違いのよう。まさか加入しているCATVの問題もあるのだろうか。DVDレコーダーでもEPG機能が貧弱なものがあるのだろうと思うので、出費がかさんだが我慢して、「ウルトラマンメビウス」を録画してみた。
オールスターゲームが中止になった影響による番組録画予約時間の変更も、自分が見た限りにおいては対応できておらず(つまり録画予約は失敗する)、ソフトもまだ使い勝手が悪い。バグも多いような。二つ購入してみて長短が機能ごとにあっさりばらついて、どちらも完成度においてまだ悪い。ソフトがハードに依存せず汎用ならもっといいのだけど。
まあ録画録音に失敗がつきものだから誰もがP2P共有みたいなものを欲しくなるということなのだろう。WinnyというかNapstarみたいなシステムは出現する前に自分でも考えたことがあって、作り手に支払いをする方法さえ考えれば特許になると思ったが、そのへんの整備も考えないうちに技術が実現してしまって、私はマイナーなミュージシャンを好む?ので作り手になんの恩恵がないのはどうよと驚いたものだが(私はそれゆえに使ったことがなかった。ライブ会場で購入するのがおまけがもらえることもあり一番良いが根が貧乏性でライブにあまり行かないのだ)、YouTubeとかで著作権的に問題があっても珍しい映像があるとやはりテレビのように見てしまうし、時々怪しくないサイトでダウンロードOKということがあるとやはりダウンロードしてしまうので、自分の欲望が優先することの必然なのだろう。
あとそろそろオークションを使うことを考えておこう(Biddersに登録しているがヤフオクにどうも偏見があって楽天がいいだろうか。なんだかだ言ってヤフオクが使いやすいか)
2006-07-20 不可解だがやっかいな事件

ジダンの頭突きに関してマテラッツィともども処分が下ったようだ。ジダンが頭突きをしたことなど過去に数回も前科があって、なぜ大騒ぎするのかが不可解だったが、この事件にそもそも不可解なことは何もなかったであろうと思ったのがどうやら読唇術という怪しげな話からメディアがそれを不可解でやっかいな事件にしたという感が強い。真相は明らかにならないだろうし興味もないが、ただフランスでも自国の英雄といえどもきちんと罰すべきだという意見はそれなりにあったようだ。
秋田の児童殺害事件はこれで解決という雰囲気になりつつあるが、こちらも不自然な点がかえって増えてしまった。これだけ動機も挙動も目撃者の件も不明なら背後に誰かが絡んでいるとかくらいは思いつくもので、捜査をきちんと最初からやり直すべきとすら思うが、この時点で容疑者の家を取り壊すことを決めたという報道を聞いて、とにかくもう事件は終わったことにしたいのかという感触を受けた。つまりこういうことを語ることがやっかいなのである(たしかに事件となんら関係なく巻き込まれてしまった周囲の住民は困惑するしかなくそれは同情するのだが)。
トヨタの幹部クラスが絡む欠陥放置事件とその直後のパロマの湯沸かし器事件のように突然今になって同じ構造の事件が、ということが続いて発覚しているし、この国を覆う蒸し暑さにも似た感触が否めない。
2006-07-18 冷蔵庫も寿命か

昨日冷蔵庫の中がぬるいのに気づきコードがなぜか抜けていて、霜がすっかり溶けてひどい異臭を放ったので、すっかり気分が萎えてしまったが(冷凍のシーフードやミックスベジタブルなどが冷凍室で40℃くらいまで熱されていたのが効いたらしい)、コンセントにつないで今日になってもどうも冷えない。こちらも寿命かもしれない。
金曜日に電気工事があり立ち会わなくてもよいとのことだったが、コンセントからコードが抜けたのとは関係ないし何のきっかけか原因不明のまま。
先日の雷雨の際に補助電源装置が真っ先に電源断になったので、まさかビデオデッキと同様の原因があったりしたらイヤだなあと思ったが、実家の冷蔵庫など30年以上使っているのでなんか腑に落ちない。
ものが壊れる時は続けて起こることがかつてもあったので、何か悪い条件が重なったのだろう。いろいろ調子が悪い時は環境も悪くなっているものだが、もともとよくないのをほうっていたのだから仕方ない。
2006-07-17 三連休でへこむ

正しく優先順位を定めるならば、最優先でしなければならないことを一年引き伸ばしてしまって、この三連休も三日目にして一日中寝て過ごし、貴重な時間をつぶしたことに呆然とする。ちょうど一年前に、このままでは立ち行かなくなると意思の力を絞り出しながら問題に取り掛かった時のことを思い出してへこむ。
一日目に大学以来の友だち(にしてもらっている人)が日本人ではほんの限られた人数しかいない資格試験を取得したのでお祝いに行き、二日目は休息をとって、三日目は作業に取り掛かるつもりだったが、二日目につまらないことで時間をつぶした。
しばらくブログから遠ざかろうかなと思ったが中途半端にやめるより書き続けたほうがましかなと思い、書いています。個人的に恩義を感じている人たちに恩を仇で返したような気まずさを抱えたまま沈黙してしまうのはいかんよなという気分で。
なんかまとまらないけれどもあすからまた仕事なので早めに寝る準備をします。
2006-07-15 ビデオデッキがご臨終か

なりゆきでアニメの録画を始めた途端にビデオデッキが故障したらしい。VHSのテープは場所をとるのでMac向けのTVMicroというのを買ってみた矢先であり、パソコンでの録画は成功したのだが、DVD相当のMPEG-2にはプロセッサパワーが足りないとのこと(つまりIntel Macを買え、と)。まあ安物で作業中にテレビが見られて録画できるだけましかな。ネットにつながっているマシン等が調子悪いと外から干渉されているのではと不健康な考えに陥るが、今回はダメージが大きいくせに単純にメンテが悪かったせいだと納得してしまった。
- 出版社/メーカー: Miglia
- 発売日: 2006/06/10
- メディア: エレクトロニクス
USB2.0接続用で、アンテナケーブルしか接続できないので、ひょっとしたらFireWireで接続するタイプのDVエンコーダ付きのチューナボックスにすれば良かったかなと思ったのだけど、ケーブルテレビだとセットトップボックスを介さない場合かなりのチャンネルが受信できないので、自動録画の環境としては結局かなりの制限があるか?
I-O DATA GV-1394TV/M3 FW H/W DVエンコーダTVチューナーBOX
実はDVエンコーダだけなら持っているし、自作Windowsマシンにはチューナーカードも刺さっているので(こちらも録画の質に制限がある)、Windowsマシンを専用機にするのがいいのかもしれないが、モニタを二台つけるのはうっとうしい。CATVで留守録の連動ができるような環境があるのかどうか不勉強ということもある。DVDなどビデオデッキはけっこう出費がかさむしなあ。VHSの録画した分でハードディスクに落としたいので、故障はちょっと困る。もう十年ものだから(S-VHSで10万円と当時とても高価であったが買ってしまった)寿命かもしれません。
やはり十年もののメカ系CDコンポも(スピーカーがやたら大きくてやはり十万円弱を値引きセールで買ったような)えらく場所をとっていて故障しているなら買い替えたいけどまず5連装のCDトレイから中身を取り出さないといけないのですが。ほんとなんとかしなくっちゃなあ。
でもYouTubeみたいなのがこのまま発達すると、ダウンロードして保存もせずに、HDDごとホスティングで借りておいて、見たい時だけトラフィックに多少課金したりということにもなるのかもしれないな。
ところで私の同世代は物欲の世代としてなにかしら団塊の世代と共犯関係があるようにも思う。第一世代だったっけ、ひらがなの「おたく」はもうそろそろ隠居して死んだことになってもいいのかもって、俺もかな?
ところで私は最近やたらと教養という言葉を使っているが、若い者は教養がないというふうに聞こえるとちょっと困る。むしろ自分までの世代が教養をないがしろにした責任なのであって、過去を古いものとしてまやかしの新しさで目先の経済ばかり優先して、文化を維持するための出費を惜しみ過ぎると将来に禍根を残すかもしれませんよ。経済はグローバル化がどんどん進むと海外向けでも付加価値を付けないと価格競争でものは売れなくなり、家電とかは今後日本だけの市場でやっていけるかどうかですね。
ちなみに自分が大学生の頃は同じ大学ランク基準で考えると、少なくとも自分は相当ものを知らなかったように思う。あとちょっと思うのは自分より若い人を見ると男女の友達つきあいとかも不自然にみえないように感じて悪くないかなと。これは自分だけの話かもしれないか。私はいまでも我ながらガキ臭くてたいしたことはないですな。
アニメは10年近くほとんど見ていなかったので新海誠の短編をYouTubeで見てみたりした。wikipediaを見たら日本ファルコムに勤めていたとのこと。学生の頃、日本ファルコムは家から近いのでこういうところに就職するのもどうだろうと思ったことがあったが、マンガ描きの才能がないことが明らかになっていたので就職しても役に立たないだろうなと思ったり、それにしても今でも会社の所在地はあまり変わっていなかったんですね。
セカイ系には少女まんが的なところがあって興味がないこともないのだけど、微妙にハマり切れないところはある(女の子はもっとしたたかなところを持っていいとか。認識をハズしてるか?)。ちなみに新海氏の作品を見たら非常にリアルな背景だったので、やはりディテールは重視されるのかと思いました。
2006-07-11 「俺たちはもう幻想の女しか愛さない」

さっそく久々にトラバをもらいましたが、前回の続きをそのままやると荒れる場合もあると思うので、ちょっと矛先を変えて、速水由紀子の「あなたはもう幻想の女しか抱けない」をパクらせていただきました。
たまたま「読売ウィークリー」に「女はいらない」男40歳のセックスレスという特集があったのでちょっと読んでみましたが、40歳代前半の10人に1人がセックス未経験者と推定されているという記事があって、年齢的にその両側と比較すると少し突き出ているようで、そうかもなという気もします。私の同世代というのは少子化について言うならばある種の戦犯といえるのかもしれません。結婚してセックスレスというのもよく記事になりますが、女性のほうが苦にする、という話も定番です。これもまあたぶんそうなのでしょう。この話はまたかえって厄介で、あまり話を進めるのも気が進みません。(でもお嬢様学校の出身でなんというかマリー・アントワネットみたいだと思った女性がいたなあという感じがしたことはありました。特殊なのでしょうかね)
余計なことを書いてしまいますが、中学時代の個人的な体験で、まだ社会人でないのでひそかにもてたらしいのですが、好きな子とたまたま電車で隣の席になって話が弾んだりしたときに、色気づいていたお年頃なのでひそかにおかずにして罪悪感を感じたりしていたのが、幸福感で性欲が嘘のように消えるという経験があるので、セックスよりもただ隣同士にいてっていう恋のほうが気持ちいいもんですよ。夢と憧れがかなうというのはなにかしらそういうもので、そこに快楽と幸福を結ぶ不思議な関係があるんですが、この魔法が信じられていられるときが華です。
まあいまは外見もオタクだし世間様から見ると筋金入りのオタクという感じでオヤジも入ってきたのでもてないですね。企業戦士みたいのが好きな女というのは私にとっては最悪だし。その程度にまだ恋を信じていますかね。
少女まんがに勢いが無いという話にはもちろんボーイズラブは入っていません。このへんは私は守旧派だと思ってもらってもかまわないところで、戦前からの少女小説からきた流れというのは、夢と憧れがキーワードになるもので、自分にとっては高校生ぐらいの頃までは夢と憧れの価値はとても高いものでした。いまはどうかわかりませんが、私が萌えに思うのは夢はともかく憧れとはかなり変質した感覚があります。まあデータベース的ってヤツ。
(ちなみに私はあだち充と高橋留美子で少年マンガ誌を定期購読し始めて、めぞん一刻は初版で全部そろえたばかりか連載当初のカラーページの載ったスピリッツを東京中の古本屋を探し回って定価の10倍で買った人間なので、萌えの発生以前からその歴史については自分なりの考えがあり、いま騒がれている萌えについては過去のそれよりもなんだかつまらなくなったと思っているわけですが、それはたぶんに年のせいかもしれませんし、水を差すのもなんなので、これは特に説明せずに墓まで持っていくかもしれません)
めぞんはやっぱこの表紙でないとねえ。
あと最近マンガがつまらなくなったとは思っているのですが、というのはあくまでも個人基準なのですがビッグコミックおよびオリジナルに連載される作品が日本の最高レベルといわれるマンガ賞をとってはいけない(受賞不可の縛りをもうけるべき)という気持ちがあったんですが、これはガロがありモーニングが売れていなかった頃の古い感覚のようで、ビッグコミックはロートル雑誌でなければならないなんて思う人はもういまはいないでしょうね...
2006-07-09 教えてやる!萌えは簡単だ!!(ドラゴン桜風)
蕗谷虹児の話題が続いたところで、当然吉屋信子の話題を加えないと片手落ちなのだけど、実はいまだにきちんと読んでいないのだ。NANAの遠いルーツには吉屋信子の少女小説があるが、これまで何度も言及している高橋真琴の「さくら並木」などにその影響は明快である。最近の有名な作品なら「マリみて」のルーツだといえばたぶん良いのだろう。正直言って疎いけれど、紺野キタなどは好んで読んでいるからさじ加減によっては男でも読める。蕗谷虹児の最も初期の仕事に吉屋の「花物語」のさし絵があり、虹児は吉屋信子のさし絵によりスターになった。
吉屋信子以来の伝統として「エス」が挙げられる。「百合辞典」というページにエスの解説があるが、上級生と下級生との間での恋愛的関係というのがパターン化されていたようにも読める。
http://www.lares.dti.ne.jp/~maton/Terminology.htm
「エス」はもちろん少女まんが時代にも受け継がれていて、「エスをねらえ」もとい、「エースをねらえ」など典型的だと思われる。(もし間違っているようでしたらトラバかコメントください)。
エスの世界が男性恐怖あるいは男性嫌悪によって育まれるとすればそこに性欲が介在していたとしても男性的直截な表現はとらないであろうと思われるが、それは男の立場からするととてもわかりにくいものである。性欲をあらわにするのは女性にとってリスクがとても高い。そして「かわいい」に関する男女の意識のねじれは根深い。
80年代は、70年代の主に24年組と呼ばれる女性作家が少女まんがの限られた枠を突き破ろうとする動き、それと並行して男女共学的な少年少女の恋愛の模索という乙女ちっくを通過したのち、主に出版社サイドからある意味で原点回帰的に少女まんがの枠組みの中で何ができるかを追究しようとする傾向が表れたが、それを窮屈に思う作家は青年誌に進出を試みたり、また女性読者の側もいささか出版社の文芸指向によって娯楽的要素の少なくなった少女マンガから離れて少年ジャンプを読む、といった行動をとった。その背景にはフェミニズムもあるが、出版社で書くのは自由が制限される、という意識も広く共有され、同人誌がフロンティアだと考えるものも多かった。
エスからやおいへの飛躍については私などがいい加減なことを書くのは危うい。せめて当事者の女性にインタビューでもしない限りこの先は書けない。やおいについて有名な言葉に野火ノビタ(榎本ナリコ)=斎藤環による「位相萌え」があるが、これを「エス」から読み替えてみるとどうだろうか。
一方で、エスについての知識は萌えを考える上でも役に立つだろう。恋愛の不可能性が密輸入されているが、それを担ったのが男なのかというとそう思えないところがネックではある。結果的に似通った性格を持つというべきか。ただたぶんやおいよりも距離がある。
さてそこで、萌えについて、その定義は人によって様々だが、それを難しくしているのは何に萌えるか、というアプローチをとるからであって、何が萌えるのかと問い方を変えればさして難しいことではない。とだけ言ってこの先は書かないが、ではやおいは何が萌えるのか、それとも実は萌えたふりをしているのか、萌えと結びつけて考えることがそもそも間違いなのか(が本命だと私は予想しているが)、私が女性による分析を期待しているのはそのへんだったりするのだが、女性にとってはいかがなものだろうか。
(あとここの話題からちょっと外れてしまうが斎藤、東をふまえて→「(たとえば仮に、男)になりたいのか、所有したいのか」)
■お約束

はてなTシャツ欲しい!
2006-07-08 ネタバレを踏んだ
前回DEATH NOTEについて書いて特にコメントしなかったのは、あまり話題になってないような気がしたのが理由の一つだったのだけど、そのあと気づいてみたらけっこう言及されていて、うっかりネタバレも踏んでしまった。ネタバレはあまり気にしないが(するならそもそも途中を読まずにいきなりラストだけ読まない)、とにかく置き場に困る現状なので(話題にしてないが「寄生獣」の完全版とか「よつばと」まとめ買いとかしたあとで本が減ってないじゃんって頭を抱える今日この頃)、とりあえず満喫で一気読みしようかとも思うが、私は読むのに時間がかかるほうなので漫喫の従量制だとなんとなくもったいない気持ちが先に立つ。
■日常系少女まんがとアニメは水と油か

実家にいたらNANAのアニメをやっていたが、音は聞こえなかったのだけど貧相な感じがしてがっかりした。がっかりを使いすぎるのもわれながらなんかいやな感じだが、少女まんがのアニメはもっとゴージャスにやれないものかと思うので、これは見ていない映画版のほうを見ておきたくなった。宮崎あおいの顔を見ると少女まんがでも「僕等がいた」あたりにはまるんじゃないかって思ってしまうんだけど。
で「僕等がいた」もアニメが始まったので、久々に録画しておこうという気分になり、Macの録画環境が整っていないので結局VHSのテープを買う。実家だとMXTVもテレ玉もチバテレビも見られない、という以前に録画装置がつながっていないので、HDDレコーダをこの機会に買おうかとふと思ったけどやはり録画しないしなあ。BSで映画録りまくる習慣付けときゃ良かったなとちょっと後悔していた。そもそも置き場に困るのでMacで使えて留守録画のできる機材が欲しいのだが、ケーブルテレビに契約していて専用のチューナーを使っているので、すこし面倒な状況だ。
「僕等がいた」への関心はあれをアニメでどの程度できるのかと言うことに尽きる。「まっすぐにいこう」や「ハチクロ」もちょっとは見てるんだけど、そこそこに納まる感じで、基本的にアニメ向きではないので、そのへんのハードルにどう対処するのかというところに興味があった。
結局一回目を見た限りではこれはありかな、というかんじ。というよりこれで行く以外のやり方があまり思いつかないのだった。
主人公のモノローグが多用されるので、アニメ的に上手いというのはここではだめ。最近よく感じるのが韓国などアジアの翻訳ドラマで、声だけ聴いてるとアメリカのドラマかと思うようなしゃべりの独特のくせというのが目立って(いわゆるアメリカの通販向けコマーシャルのしゃべり方だ)、これは翻訳者と声優の両方が作品を消化できていないときに起きがちだが、アニメにもそういうクリシェがはっきりとあって(ツンデレなんて何十年前からあると思ってんだ、ってことだね)、テレビの音だけ聴くとわかるのは単に声質だけの問題ではない。そういう意味では主人公の声優ががんばっている感じがしてまあ悪くなかった。
とはいえきちんとアニメを見たのがもう十年以来のことなので、エヴァからフォローできていないので、それ以降のアニメの優秀作についてもよく知らないといわねばならない(「こどものおもちゃ」が最後だった)。かつて「ママレード・ボーイ」を見てとてもいらいらさせられてすぐ見るのをやめてしまったからそのへんに落ち込まないようにするのが腕の見せ所なのかもしれないが(「NANA」のアニメの画面はちょっと見ていきなりダメと思ったのだがなんでああなるんだろう)「僕等がいた」と言う作品自体がストーリー的にはそれなりに王道でありながら現在のマンガシーンではすでに異端になりかねない代物でもあり、現在における少女まんがの困難を真っ向から引き受けている作品とは思うので、アニメファンには正直お勧めしないがもうしばらくつきあってみることにする。
■おまけ:「NANA」と「僕等がいた」の共通点

いきなり敬体にしますが、こちらの日記とは別に正式のブログを一応持ってるんですが最近更新してないので、ちょっと追加しておくと、この二つのまんがの間には設定の時点ではっきりと共通点があるのですが、同時に触れることは今後ありそうにもないし、これ前にも書きましたので、登場人物の名前で一目瞭然、とだけ書き足しておきます。
最近誤字もやたら多いですがここんとこきちんと文章を書く余裕に欠けてますのでかなりひどいのがありながらも直さないで放っています。
■翌日の日記をいま書いておきたいのだが(無理か)

戦前の漫画と少年少女雑誌文化を考える上で蕗谷虹児の存在が漫画と結びつくことはあまり考えてはいなかったものの、はてなのキーワードに載っていないというのは、まさに「これはひどい」。
もっとも自分自身予備知識として虹児の生涯すら調べようと思わなかったのはまったく不覚であった。新発田市出身の有名人にも蕗谷虹児の名前が載っておらず、寺田ヒロオはしっかり載っていたのでちょっと笑ってしまったが、あえて教養と呼ぼう、はてなでの知識の蓄積のなされ方はどこか変だ(といいつつ自分で書くのが億劫なのが困るが、もうひとりの高畠華宵については丸尾末広に影響を与えたなどと書かれていているところがまさに変なところだ。はてなは無駄にマンガ的なのだろう)。
日本マンガ学会の合宿企画の中で、私も大きく影響を受けた著名な方から、ある世代より上にとっては常識であったことがある世代から先ではあっさり忘れられていることがとても多いと言う話をされて、私がここでいろいろ書いているのも、上の世代なら知っているはずじゃないか、と思う私の幼少時の記憶から欠落したものをなんとか掘り起こそうということであったので、もっと証言して下の世代と対決してくださいよ、と言ったような気もするのだけど、ある時代の常識がいつの間にか失われることは日常的に起きていることで、情報化社会ではむしろその欠落が加速してしまっている感がある。もう覚えていないけど、あの頃になんかあったよな、というのが私をブロガーとして突き動かしているものだ。
我々はそもそも日本の近代史なんか知らないじゃないか、と言う気持ちがある。歴史も知らずにウヨサヨいって恥ずかしくないのかって思う、俺は40年以上生きてきてこうもものを知らないというのは恥ずかしいよ。悪い場所とはそういうことだと思う。
年長の世代も、口を噤んで墓場まで持っていきたいものがあるだろうとは思うが、もしもそこまでの思慮が育まれたのだとしても逆に現在を知ったつもりで知らなくなっていることに往々にして気づかないのは、根本的な生き物の衰えの問題なのだろうか。私も教育の現場がどう様変わりしたかとか知らずにいい気なことを書いてしまったことがあるので気をつけるようにはしているが、やはり後世の世代に任せるのが利口と思っているのかな。なら口を噤めばいいんだろうが、でも伝承すべきものはあるだろうとも思う。これまで結婚せずに子供をもうけなかったことにちょっと罪のような意識がないでもない。
例えば少女まんがというのはニッチな領域で研究しようなんて人がほとんどいない分野だが、それでも橋本治や米沢嘉博の仕事は、直ちにその狭い領域を突き破るものであった。そのへんは私が意識する中で植草甚一や、松岡正剛という存在ともつながる。そこを掘るのは意義があることだと思っており、しかしそれを仕事にすることは思いもよらぬことであったし、いまでもそのようなことを本格的にやるだけの環境が拓けたのだろうかと思い、そして私はかつて自分自身への関心が異常に強く一つのことに打ち込むにはいささか欲深かった。
社会人になって気づいてみると、戦前の文化にまで通じている批評家が見当たらなくなった。福田和也くらいのものだと思われた時があった。日本の近代は司馬遼太郎を読めばわかるものではないだろう。近代と大上段から振りかざすのも気持ち悪いが、最近の研究から伝え聞くだけでも、日本の近代とはなにかという問いはとてつもなく難問のようにも感じる。
■キャラとアクター

そこでポストモダンという奇妙なキーワードに転じて、まだ思いつきの域を出ていないが、一つ言えると思うのは、少女まんがは「萌え」を必要としないがゆえに最近勢いがないのだと思っている。不幸にも、「萌え」を必要としないことが理解されていないのだ。
日本マンガ学会の大会では見えないマンガ、というテーマで「萌え」も扱われたが、これはたぶん「過視的」なんじゃないかと思う。萌えはいまやあまりにも多く語られている。一番見えないのはボーイズラブではないか、と多くの人が思ったようだし、たぶんその通りだろうと思う。
表現論のために「キャラ」の概念が抽出されたが、視覚的でない部分もあって、これを「アクター」と呼んでみたらどうか、というのが思いつきで、要するに映画でいう俳優とほぼ等しいものである。
コミックマーケットにおける「キャプテン翼」ブームについて、その奇妙な特徴について誰もきちんと総括していなかったのではないかと思うが、これが驚きだったのは、二次創作において絵が全然真似されない、という点だった。絵は二次創作を行う作者の持ち物だったのであり、それがたぶん生命線ともいうべき最も重要なところだったのではないかと思える。いったいこの現象の本質はどこにあったのか、それは私の仕事ではなかったつもりなのだが、そろそろきちんとした分析がすでに出ているのかどうか、研究が行われているのか知りたい。
2006-07-05 マンガ・アニメ三題

夜さきほどコンビニで「デスノート」最終巻を立ち読みしてきました。自宅のそばには古本屋があって、ジャンプも読み終わったのを集めてきて安く売りさばいていたので最終回の前のクライマックスは読めたのですが最終回は読んでおらず、コンビニではひもなどで縛ってなかったので読めました。私は途中を読んでいないので立ち読みするかどうか迷ったのですが感想がネットに流れるのでとりあえず読んでしまった次第。特にコメントはなし、というより途中をきちんと読んでいないので本質から思いっきり外して言うならばやはり多くの読者がまず絵で惹かれて読むんだなという感じがしました。
ユリイカが「西原理恵子」特集。1年位前にテレビで特集をやっていて、西原さんって見た目善人顔だからマンガのイメージをちょっと裏切っているのが蛭子能収さんみたいだなって感じで、西原さんって地も実のところ全然いわゆる悪人ではないので、まあいいのかなと思うのでしたが、今回の特集は結局マンガマニアの読む「サイバラ」のイメージを律儀になぞる感じが読んでいて実に退屈でありました。一応昭和39年生まれで(岡崎京子の一年下)、人気の出方が内田春菊と近くて(デビュー当初から周囲に男たちが集まる。内田春菊はそれを嫌って時代の寵児から外れて言ったように思いますが)意外と昭和39年組の一群に(ちなみに男女問わない。サイバラは少女まんがではほとんど描いてないし)案外すっぽりとおさまる作家じゃないのかとも思えるのですが。
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/06
- メディア: ムック
マンガ学会での宮本大人氏の発表では戦前の「講談社の絵本」が事実上戦前最大の漫画月刊誌としての性質を持つことが指摘されましたが、蕗谷虹児展図録にも講談社の絵本を中心に戦前の児童読み物について記されています。このへんはミネルヴァ書房の「はじめて学ぶ日本の絵本史〈2〉15年戦争下の絵本 (シリーズ・日本の文学史)」を見ると良いと思いますが、
蕗谷虹児は戦前に「講談社版世界名作童話全集」として「アラビヤンナイト」(1941)「アンデルセン童話」(1942)などを手がけており、戦時下においてはある意味奇跡的なほど見事にファンタジックな線描画を用いています。その直後に戦争画も書いていて、戦後は「講談社の絵本」なども描いていますが、戦前のパリ滞在中の絵が正直言ってかなりよく、藤田よりも成功しそうな感じがします。
戦後東映動画の設立に参加したということも本には書かれていて、戦前は魯迅、戦後は三島由紀夫が蕗谷の熱烈なファンで、また谷内六郎が蕗谷のやはり大ファンのようです。
この本には橋本治のけっこう熱心な賛辞が送られていてちょっと驚いたものですが蕗谷虹児との関連は書かれていたかちょっと思い出せません。
2006-07-03 ペットボトル症候群と新潟のマンガ学会大会

7月1日、2日と日本マンガ学会第6回大会が新潟で開かれて、私も生まれてこのかた見たことのない日本海を見たいがために参加したんですが、出かける前に睡眠がとれなかったのが災いしたのか、月曜日に思わぬ疲れが噴き出して寝込んでおりました。新幹線ときに乗ったのもなんと今回初めて。土日きっぷは特急に5度乗ったので高速バスとの差分は元が取れたのかも。
大会は土曜日の午後から始まるのですが、土曜日の早朝4時に出発、大宮経由で新潟から新発田に行って朝から蕗谷虹児記念館に行って2004年に新潟県立美術館で開催された展覧会図録を入手し、日曜日の早朝にはまだ皆さん眠っているうちに日本海を見に行って、これまで3度も遅刻して欠席してしまってうしろめたかったのですが総会にも今回は出席しました。けっこう強行的なスケジュールを設定して睡眠不足がたたったのと、このところペットボトルが手放せず暴飲で体を痛めつけていたような気もします。帰り東京まで乗るのを誤って上野で降りたりとけっこうぼろぼろだったのかも。お土産のお菓子は日本三大銘菓の一「越の雪」を駅ビルで探し回り新幹線の出発時刻までに入手できました。日本酒は悩んだ結果買わず、甘海老を賞味するだけの夕食の時間は残念ながら取れませんでした。
出発から天気がいまひとつで新潟の会場ですでに汗臭いなと気になっていたので、スポーツ飲料だけでもミネラルが失われたり栄養が偏る原因になるかも思ったり、生活の改善をもう少し考えないといけないなと悩んでしまいましたが、新潟は朝の7時台でも日曜日には中心街周辺ではほとんどの店がまだ開いておらず、外で朝食をとれなかったのでそのへんが巨大な地方都市と感じるとともに東京の生活環境もむしろ異常かもと思われました。
今回は、大会の運営に苦労がしのばれました。合宿の開催を試みたり、総会を二日目の午前中に持ってきたりして、食事処が会場の近くにあまり見つからなかったのは東京者の私には不便に感じましたが、大会の構成も最後にパチスロマンガ紹介のセッションで白夜書房の名編集者として知られる末井昭さんと「漫画パチスロパニック7」編集長を招いて、今回は一般参加者もけっこう来ていた感じがしましたが、時々笑いを誘いつついい塩梅で締めを飾った感がありました。雑誌にはふろくの長い歴史があるんですが、現在ふろくの最先端は白夜書房の漫画誌が担っていた、というのはけっこう衝撃的でした。
大会の様子は購読会員になると会誌で大会特集号が出ますのでここではあまり書きませんが(最近書く時間もとりにくく今回もすでに夜遅いですので)、大衆的文化におけるジェネレーションギャップの問題を世代論の不毛に陥ることなくいかに埋めていくかということは考えさせられました。
コミケにおけるキャプ翼ものの席巻、高河ゆんの登場と一大ブームについては私とその同世代が証言してひとつきちんとまとめる必要があるのかもしれません。
ロック世代とテクノ及びヒップホップ世代との間の断絶と同様のキャズムがマンガにもあるとは思ってるんですね。
よしもとばななが登場したとき大島弓子によくなぞらえていて、私は全然違う、大島弓子じゃなくて高河ゆんなんだ、と思ったものですがそれを説明するのは骨が折れるので(ちなみに大塚英志による評価はけっこう鋭いというか勘はいいんですけど)、ここらへんは昭和39年生まれ組問題として提示はしておきたいところです。また疲れが残りそうなのでこのへんで。
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 1999/12
- メディア: 単行本
(参考:松岡正剛の千夜千冊『花嫁人形』蕗谷虹児)
おそらく弥生美術館での展覧会図録単独展としては記録がありませんでした。市販のものとしてはコンパクトにまとまってお勧めでは。