2006-06-25 少女まんが史の再構築は
ここわずか数ヶ月の間に松本かつぢの発掘と、高橋真琴の復刻とそれに伴う調査研究の進展という出来事が続いたことにより、少女まんがを組み込んだマンガ史の再構築の試みに思いを馳せるようになってきたが、身体がついてこないのである。
放っておいても進むとは思うのだけど、ひそかに目標にはしていたことではある。
奇妙なストレスが働いているようにも思う。記事としてもなかなかコンパクトにまとまらない。
松本かつぢの作品発掘は、「フイチンさん」の上田としこと少女イラストの草分けの田村セツコの師匠にあたるこの特別な抒情画家の謎を解き明かすもので、また戦前にアニメーションの制作にもかかわっていたことまで明らかにされた。作品は消失したらしいが、かつぢの戦前の西洋の風景画、特にお城の絵などは宮崎アニメを思い起こさせるところがある。
上の本では掲載を見送られた「なぞのクローバー」の表紙および内容の一部を、ギャラリー松本かつぢのページで見ることができる。
つぎに高橋真琴の復刻では、こちらも発表年の情報まで含めることができなかったようだが、おそらく昭和31年から32年にかけての貸本作品で、手塚マンガとは異なる手法も用いて少女まんがのコマ構成と絵物語のレイアウトの関係に示唆を与えるものである。
しかも「さくら並木」のほうは設定がそのまま「エースをねらえ」の序盤みたいなもので高橋真琴の典型的なイメージを超えている。貸本マンガだから描けたようなところもあって驚かされる。
ここで足りないピースがどこにあるか、と考えてみる。
松本かつぢは抒情漫画としてこの後、クルミちゃん以前に「ピチ子とチャー公」を連載していること、また初期漫画作品では片目の省略を用いている。片目の省略は70年代の少女まんがでよく用いられていたのではなかったろうか?
かつぢのデビュー初期の絵は蕗谷虹児に近いが、虹児は渡仏して藤田嗣治や東郷青児と交流を持つほどの人気作家であった。かつぢが抒情画を選んだ理由も最初は渡仏が目標だったらしい。日本にとってフランスとはどういう国か、というと、美術と文学のイメージだろう。アメリカが現代美術の中心になるのは抽象表現主義以降なので、かつぢはアメリカの漫画文化を採り入れて自分の作風を作り上げていったと予想される。フランスへのこだわりは高橋真琴にとっても相当大きいものである。
80年代半ばに紡木たくがブレイクして連載を始める頃の雑誌記事で、フランス映画のようなまんがを描きたいと言っていたことが思い出される。私はこの作家が筆を折った後に書いたとおぼしき、瞳に星らしきものがしっかり描かれていた少女を描いた色紙を目撃しているが、この時期のフランスとは誤解の産物にも思われる一方で、当時の自分も図書館で読める本で難解なブランショなどに興味を持っていたことを思い出した。それはもちろんカフカが一番の感心だったせいなのだけど、「遊」と「エピステーメー」という雑誌があって、植草甚一の本なども読んでいて、いわゆるニューアカブームとは微妙にズレがある。私が見た80年代は世間で言われているのと多少違っているところがあって、懐かしいのもそういう語られていないマイナーな裏の面である。もちろん美化したい面があるのは否めないが、一億総中流など見せかけで、しょせん親に車を買い与えられていた金持ちのボンボンと違うという一種の下流意識があった。それがおかしくなっていくのは社会人になる90年代である。
高橋真琴の初期作風はたとえば交流のあった後のちばてつやあたりに受け継がれた面があるかもしれない。
ちばてつやは少女まんがを描くためにかなり研究をして吉屋信子を読破したりしたそうなので、高橋真琴だけでなく、日向房子や田村節子などの初期イラストレーターの草分けとなる作家からもインスピレーションを得ているかもしれない。はつらつとした少女像はかつぢから当時最新のさし絵作家へと受け継がれていた。
蕗谷虹児の細密なペン画はかつぢからあすなひろしまで影響力を持っていないだろうか。戦後さし絵画家の系譜では日向房子が忘れ去られているが、スタイル絵の流行を考えるときに、かつぢから始まるユーモア小説のさし絵の系譜をとらえておくべきではないかと予想する。
「少女」の名編集長と呼ばれた黒崎勇氏が「女性自身」創刊で女性週刊誌の編集を務めるのが昭和33年12月であるようだ。黒崎氏は祥伝社の社長までつとめているが、戦前の「少女の友」の内山基氏も付録に凝って中原淳一と松本かつぢは企画デザインまで担当していたというように、高橋真琴も「少女」というかなり意欲的な誌面づくりをしていた雑誌だからこそ作風の革新を行えたのではないかと思われてくる。すると手塚の「リボンの騎士」ではない少女向け作品群にももう一度目を向けてみる必要があるかもしれない。
足りないピースの中であと気になるのは、大城のぼるの戦後作品で、「少女白菊」が知られているが、手塚まんがとはまるで異なる展開をして昭和31年頃に漫画家としての活動をやめてしまう。緻密で写実的な絵でナレーションが詰まった絵物語的な作品が末期に存在している。「少女白菊」は未見。
高橋真琴の「さくら並木」もナレーションの比重が高いが、モノローグではなく作家の語りとされているところが後の少女まんがとは明らかに異なっている。
とりあえず複雑な絡みを解きほぐすために一息入れたほうがよさそうだ。
■購入したCD,本など

少女まんが好きならCoccoとaikoはまだまだ外せないと主張したいが、Coccoもずいぶんブランクがあって昔のイメージで再登場することなど望んではいないので、凡作の可能性は重々覚悟して買う。
- アーティスト: Cocco
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2006/06/21
- メディア: CD
Coccoを買うのはジャケ買いだ。本人がジャケットを描いている。おー、今回も絶叫が入っていました。
実は先行シングルが出ているのを知らなかったが、初回版が売れ残っていた。
- アーティスト: Cocco, 根岸孝旨
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2006/05/24
- メディア: CD
マキシシングルなどそもそも買わなかったのが変わったのはaikoの手法、つまりマキシにできの良い曲を入れてアルバムには入れないというやり方にはまったのが原因で、これは期待できる作曲家でないと通用しないけれど、Coccoだと買わされてしまう範囲になっている。
そう悪くないかな。編曲と演奏は要するにDr.StrangeLoveである。
今年のちくま文庫は教養くらえ路線でとんでもない本が続々出るが、次の本はもともと持っていて、読んで理解できているわけではないのに文庫でも買ってしまったのは訳者が違うという理由に尽きる。フッサールの入門書が今世紀になって充実したので、亡くなって間も無いいまのうちなら見栄で買っても良かろうかと。
宇宙の本も見つけたので買ってみた。
この帯にワラタ。たぶんモナドだろうなあ。
宇宙は膨張しているが果てがない。果てがないものが膨張するなんておかしいと思った人は地球が膨らむことを想像すると良い。地球の表面には果てがない。じゃあビッグバンをイメージするならば球をどんどん縮めると点になるか?そんなイメージを抱いて購入したので、暇があったら読むというか最近経済やビジネスばかりでうんざりしている反動であった。
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/06
- メディア: ムック
ファウストもラノベも読んでおらず語る資格がない。こんな高い本とは講談社も調子づいているんだなあという感想が第一。ジョージ朝倉を表紙にするのはなんか日和ってないかがその二。ビニールのカバーがうざいんですけどがその三。メカビも講談社だったのに気づいて轟沈。内容はこんなもんだろうと思ってそれから古本落ちするんじゃないかとも思ったが、結局2冊で3000円払ったのかと思って、これはまさか国策が是か非かで合わせて出したのかとふと思ったり。あたしゃ官僚の知人はいま特につきあいのない先輩で一人いるだけだし図書館をきちんと財政的に支援しろと言う以外はどうでもいいっスよ。
で村上隆氏が新著を出したがすぐ売り切れないので購入は見送った。
これは先週の武満徹展を東京オペラシティ最終日に見に行き、その時ショップで購入した。武満は映画が大好きでサブカルとメインカルチャーの区別をしない人として見ていたが、それでも時代が変わったのかなあという感慨に耽る。図形楽譜がなんだかとても良かったなあ。
ショップには現代音楽のCDも少々置いてある。それから会田誠の「切腹女子高生」のTシャツがあってこれ来て街を歩きたいなと思いつつ結局購入せず。
カタログではないが、この本にはツトム・ヤマシタも寄稿している。Wikipediaの解説も、世界的に有名なせいだろうと思うがとても詳しい。
2006-06-16 出た

2006-06-13 リゲティを偲ぶ
岩城宏之さんが亡くなられたのを今知りましたが、実は演奏会ってあまり見に行ったことがないので、偉大な指揮者といってもとにかく有名だということ以外うまく語れません。
で、これに比べるとずっと地味にリゲティの訃報を見つけたのでした。
かなり前に、アンサンブル・モデルンが来日したことがあって(1998らしい)、フランク・ザッパのイエロー・シャークの抜粋を東京オペラシティで演奏したりしたのですが、この時ライヒやナンカロウなどとともにリゲティの曲も演奏していたんじゃないかと思います。作曲にトーン・クラスターとかポリリズムを用いたり、メトロノームだけで演奏する曲などもあって、一時期けっこうアルバムを集めたんですが、追悼のために聞こうと思ったのに見つかりません。
98年に見に行ったのはこれでした。イエロー・シャークのアルバムの中で一曲演奏がうまくいかなくてカットされたAmnericaアムネリカ(Americaとamnesia記憶喪失を掛けた造語の曲で、相当な難曲)が聴けるかなと思ったのですが、もう曲目とか忘れてしまいました。それより最前列に座る羽目になって、当時も抗うつ剤飲んでいたのがすっかり頭がいかれて体の震えが止まらなかったのを思い出してしまった。
https://www.operacity.jp/concert/1998/sp_98.html
この時はザッパの曲だけ聴いてももったいないと思って二日目も行きましたっけ。
ついでにそのアンサンブル・モデルンに演奏を委嘱したザッパの執念の遺作ですが
- アーティスト: フランク・ザッパ
- 出版社/メーカー: ビデオアーツ・ミュージック
- 発売日: 1996/06/01
- メディア: CD
アルバムジャケの写真がないですね。公式サイトのポスターにリンクしてしまおう。
http://www.zappa.com/MUSIC/YELLOW_SHARK/CONTENT9.html
ちょっと見には病でやつれてふさいでいるように見えますが、よく見ると眉がくいっとつり上がっていて、強靱な意思の力を感じたりしました。
- 作者: 武満徹
- 出版社/メーカー: エスクアイア マガジン ジャパン
- 発売日: 2006/04/13
- メディア: 単行本
あ、これは公式カタログでしたか。まだ展覧会期中?
しかも5月28日には岩城宏之指揮で「アステリズム」も演奏されたのか!
しまったぁ、ちゃんとチェックしておけば良かったなあ。
■しょぼいエレベーター

もう十年前くらいになるが、出張でヨーロッパに行ったことがあった。その時一番驚いたのがオフィスビルのエレベーターと自動販売機。自動販売機そのものがほとんどないのだけれど扱い方がわからない。おつりが出ないようで手持ちの硬貨のサイズもまちまちだし、結局使わなかったのでよくわからないが、エレベーターには乗った。これが中途半端に停ったりしてこりゃあとんでもないなあと思ったものだったのだけど、その手のものが日本にもあったということなのかな。まあヨーロッパでもデパートのような公共の建物ならまずそんなものは入れないに違いないが、けっこうアバウトなものもあるような気はする。制御への感覚というか態度自体が利用者の自己責任みたいな感じで日本の常識と根本的に違っていたりしないだろうか。
2006-06-07 一段落

こちらでは詳細は書かないけれど、少女まんが研究がようやく前に進みそう。
ずっとバランスが悪くて、しかも男の論者は少女論を始めてしまうからたちが悪い。
(斎藤環氏のようにプロの医者ならいいのだ。特に少女論でもないし)
かくいう私も男であって少女まんが研究なんてと嫌がられているんだろうなと思っていたが、どちらかというと少女まんがといっても児童漫画的なものが好きとは言えるかもしれない。
というよりも絵本、と言いたいところだけどコレクションしているわけでもない。
基本的にはマンガ表現と言うものが面白くて、少女まんがについては誰もきちんとやっていないじゃないか、と思っていたので、表現論なら男でもできるだろう、ということなのだけど。
表現論に徹するにはやはりそれなりの教養と方法論の獲得が必要で、結局力及ばずで自分もうまくまとめきれないまま、ある意味もっと少女まんがに目を向けろというアジテータみたいな役回りになっていた。しかしどこの馬の骨かわからない者が「実績」を見せつけているわけでもなく、おたくに関する大塚英志氏みたいに上手くはできないものだ。
エヴァンジェリストとしての活動はいろんな人に迷惑をかけたかもしれないけれど、まあとりあえずここで一段落したかなあ。
ここで「内面」は最初はできるだけ我慢して棚上げにしておきたい。男と女で生物学的な違いがあったとしても、女性イコール内面みたいなのは安直すぎる。
自分はこれまで決して少年マンガ自体を差別したつもりはないし。
これからは女性による研究が本格的に進むだろう。でも性別関係なくジャンルを横断する人も多いのが望ましい。マンガについてはたとえば貸本、赤本研究の成果もそれほど表立っておらず、このへんの研究はコレクターと出会わないとどうにも進まない。
まだ教養としての基盤整備も途上なのだ。
ひとつだけ、例えばコマのデザイン化について。
海外のマンガについては私はあまりよく知らないが(「リトル・ニモ」は見ておきたいのだけど)、戦時色濃くなった頃の大城のぼるの「汽車旅行」に、ちょっと驚くような、なかなか見事な例が出てくるように思える。
これは果たしてどういうことなのか、とか。
そのうち別のブログで書く機会もあるだろうから、ここではとりあえず以上。
2006-06-04 バースデー
今日じゃないですが、43歳になりました。
失われた10年というか、40過ぎてなんだこのブログって感じです。
25年くらい退化し続けたような気がするんですが。
小学生の頃、学級文庫の本で同じ誕生日の歴史的人物に、サド、森蘭丸、と書かれていて、
サドって誰?と悩んでいたらそのうち父の書棚から澁澤訳の「悪徳の栄え」を見つけて覚えました。
自分はサディストではないですが、トラウマかも。
突然想い出しましたが本だったら何でも好きだったので、母親の買った婦人クラブとかも読んで
綴じ込みの「愛のラーゲ」とか読んでわけもわからず興奮していた記憶が急によみがえりました。
少女マンガ好きには別の理由があるので関係ないですが(まったく関係ないことはないですね。ブーイングがあるかもしれませんがスケベの素質がないとたぶん男は少女マンガを好んで読まない)、そういうのを悟られて女の子から嫌われることのほうが恐怖であるのです。
なんでこんな話になったかな。
森蘭丸って違うんじゃないか、というより誕生日は本能寺の変ですよ。これも昔聞いた話で私の家の家紋などから、祖先をたどると明智光秀にいきつくとか。
なんかおめでたい話につながらないや。
親より先には死ねないと思うので毎日いろいろあがいてはいます。つらいというより面倒が多いなあと。全然部屋が片づかないので、ものをまとめて捨てたことが無いんですが、通過儀礼というか捨てる覚悟が必要なのはわかるのだけど。
結婚願望はまだあるんですけど、いろんなハードルがあって超えられなさそうな気がする。親戚に独身の男が多くて、オクテなのは確か。人見知りで人間恐怖症の気も若干あるようだし。
子供の頃、男の子にはいじめられる要素があって、自分も思えばなついてくる子を事実上いじめてはいた(ひでえ)けど、女の子とばかり遊んでいたせいか、ホモソーシャル的な関係について適性に欠ける面があるようで、これがけっこう難儀です。
まとまりが悪いですがオチもなくこのへんで。
■メール

なんだか最近メール関連のトラブルが多く、なんか被害を与えてるんじゃないかとマルウェアを疑っているのですが(昔ネット上のファイアウォールソフトをダウンロードしたことがあるし、けっこうマシンは挙動不審)、マックだとどうすればいいですかねえ。Mac標準のメールに海外から添付付きのスパムが最近かなり送られてくるんでなんか恨みを買って狙われているのかしら。
万が一マルウェアなら根本的にはルータも設定し直してクリーンインストールしかないのですが、インストールしたソフトのCDとかもアップグレードパッケージだったりして、旧版がどこかに埋もれていて、にっちもさっちもいかない(まあ考えてみればPhotoshop以外はもう使っていないので、単純に面倒って、結局それかい、)
(あと使わない時間も起動したまま常時接続しておくのが悪いか)。
最近いいこともけっこうあったのだけど、そのへんはまた日を改めて。
■追記

「くにたち物語」再開されるようです。
むかしmimiという雑誌があって、看板連載だったのですが、休刊の後書き下ろしで続けるということで確か1巻分くらい出たような気はするのですが、その後中断されていました。
この時期にあのような純情一筋という作品が再開されるのはちょっと興味を引かれます。掲載誌はOne More Kissだったと思います。
ここに書くのは場違いと思ったんですがこの情報はメールで受け取っていて、ちょっと思い出して先ほどGoogleで検索したら検索結果が文字化けするんで、Yahooでは問題ないんですが、やはりなんかハッキング知識の高い誰かか何かにちょっかい出されてますね。うーむいったいなんなんだろう。