2006-02-28 ライブドア事件へのここんとこの違和感

うちの実家は産経新聞を取っている。14歳で終戦を迎えた父は歴史教科書とかゴーマニズムの頃、朝日は偏向していて許せんと軍国少年に変貌した。言ってみればネット右翼のようなものである。北朝鮮は核で滅ぼしてしまえとかガキ丸出しのことを言うが、日本がアメリカに逆らって生きていけるわけがないと漏らしたことを聞いて思わず嘆息した。私が実家にいたときは文芸やマンガの趣味から朝日をとっていたが、朝日は偏向していて国民を騙しているなどとのたまって、読売に変えようとしていたので、ならなんで産経をとらないのかと私が言ったことで産経になったのだ。
月曜の朝刊で戦略不足と書かれているのを見て、ナショナリズムが選手に重圧を与えているんじゃないの、と思った。荒川静香の金メダルは国のためにメダルを狙いに行ったのではなくて、自分が納得できて悔いのない演技をする決意で臨んだことで成し遂げられたのである。オリンピックでもサッカーでも若い者に国の威信とやらを背負わすのはなんかいやな感じだ。
スポーツとはまるで違うマンガ、アニメ文化を国策にしようという考えはアホ臭くて批判するだけの意義すらないと思うが、今日は毎日夕刊を買い忘れなかったので、「マンガの居場所」は読み損ねないですんだ。ここでの問題提起には異論はない。
文学が衰退したとか言うのも所詮は文芸批評という制度に寄りかかった日本の中だけの話で過ぎないのだ。マンガ批評が文芸批評の制度を引き継ぐ必要もない。文学が本当に不良債権ならば文芸批評も不良債権に過ぎないではないか。
産経系列の扶桑社のSPAは、産経本体とは微妙に主張が違う。最新号はなかなか面白かった。坪内・福田対談は70年前の二・二六事件をとりあげているが、坪内氏がこの事件が実はハイカラでモダニズムを感じると指摘していて、歴史の授業では習わない意外な側面を教えてくれる。
民主党の失態に関して連載陣からは、自民党のメディア戦略にはめられたとか、八百長だろとの意見が出ていて、きわめつけは、「使えるニュース用語&常套句深読み辞典」の特集。
で、ライブドアショックで一番最初に思ったのは、ライブドア株を買っていた投資家に損をさせたのって強制捜査を決行した検察じゃないの?それっていいのか?という疑問。私はデイトレしている暇はないですが、株式分割して一株が安ければ投資初心者はライブドアの株を買うよなあ、と思ったのでした。
歌田明弘さんが今回の事件について以下で「法律の専門家もよくわからなかったライブドア報道」という記事を書いている。
http://blog.a-utada.com/chikyu/2006/02/post_4b1b.html
2号前の本誌で、「ともかく検察に逮捕されたのだから悪い」とメディアは言い始めたのではないか、と書いた。弁護士たちのブログをあれこれ読んで、ますますそう思った。というのは、数多くの弁護士たちが、「報道されているところからすると、いったいどこが犯罪になるのかわからない」と書いており、メディアの報道に、違和感を抱いているからだ。
このように、弁護士でさえ何が犯罪になるのかわからないのに強制捜査が行われた、ということになると、この会社はおかしいと判断して株を売却する時間などなかったわけですから、「株価を本当につり上げたのはバカな投資家、きちんと中身も見ずに、メディアの露出度と雰囲気だけでライブドア株を買っていた連中でしかない」とか言っている人がいるようですが(ああ、あの人だよ)、IT関連株も軒並み下落したらしいし、東証は取引停止しちゃいましたし、暴落の責任はマネックスだという指摘もあったのですから、今回の事件で損をした人が検察を恨まない理由があるでしょうか。
捜査の着手によって、あっという間にライブドアは、株が下がり、会社の存立さえ危うくなった。ライブドアだけではなくて、東京証券取引所は取引停止になり、海外の証券市場の株価まで影響を受けた。ライブドア株の影響はたちまち世界におよんだ。
ライブドアはそんなに大会社だったのかと驚いた人も多かったはずだが、「そこまでのインパクトのある行動をとるのであれば、検察側にも、それなりの説明責任がでてくるのではないか」。
検察の十分な説明がないので、マスコミはあいまいな情報をもとにエモーショナルな報道をし、何が何だかわからないまま悪いことをしたという印象だけが先走りしている、というのはその通りだろう。
やっぱり弁護士というのは鋭い指摘をするものだ。(私が責められているわけではないけど)まったくグウの音も出ない、という気がしてくる。
で、民主党の永田議員が「ガセネタ」のメールを出して民主党が「国政調査権の発動」を迫ったとき、最初は確かに証拠もろくにないのに国政調査権なんてものを発動されてはたまらないと思いましたが、ライブドアの強制捜査は事前に怪しい証拠もくそもないのだから、国政調査権の発動よりもっとたまらないですな。
永田議員は過去に何度も「前科」を持っていたようなので、これはガセをつかまされたと思われても仕方ないでしょう。あまりに胡散臭いですね。
そして検察の強制捜査があったからこそ、民主党は国政調査権の発動を迫るところまで突っ走ってしまった感じなんですよね。民主党を馬鹿にするだけでいいんでしょうかねえ。国会で「ガセネタ」と発言したのは小泉首相ですよね。
で、株を勧める本がやたらと出ていますけど、やっぱりデイトレーダーや株の初心者に冷や水を浴びせたのは検察でしょ。ライブドアの犯罪が明らかになるのはもっと後のことで株の暴落の直接の原因ではないんですから。でも個人投資家の自己責任で検察に責任はないんでしょうね。こういう場合、国が補償とかしなくてもいいのでしょうかね。はああ。
2006-02-27 月末
最近メインマシンが調子悪く、メールソフトがよくフリーズするので環境を変えてメインアドレスも変えようかと思っています。MacのG4Cubeなのですがセキュリティソフトが3種類入っていてそれでかえってトラブルになっているような。
確定申告の手続きが終わらず(医療費だけなのに領収書が一部不足している。全部で十万円強なのでほとんど戻ってこないのだけど)、フィギュアで金メダル獲得ということで荒川の演技を見たかったのもどうも時間が合わなくて、今夜になってようやく見られました。すでにプロに転向した選手のスケートをやっている感じでしたが、それがいいというか、もう十年以上まともにオリンピックを見ていなかったところで見たので、こんなにプロっぽいのかって奇妙な感想を持ちました。ほかの競技ではそのような感覚はなかったのですが、フィギュア人気の噂は聞いていたのでまあ見られて良かったですね。
■俺と萌え

萌えに関してはいい年してちょっと論文ネタ的に考えていることがあるのですが、たぶん反発を招くと思うのでここでは言わないとして、あとは世代差の問題があるし定義がひとつには定まらないだろうなという気がします。
同世代的に魔法少女ブームとしてミンキーモモとクリーミーマミのブームがあって、そこではまだ萌えまで至ってないのですが、ひとつひっかかるのがその後間をおいて、「姫ちゃんのリボン」が連載当時もっと下の世代でかなり人気があったんで、あの人気は何だったのだろうというのが気になっています。
私にとって転機だったのは「赤ずきんチャチャ」ですね。萌えじゃないんですが、ゼリービーンズのような瞳があの作品で受け入れられるようになったことはありました。ここらはりぼんなので、女性作家で萌えはあまりないような気がするのですが、男性作家の描く絵ということのほかに、自分の経験的には萌えと関わりが深いのは声優のアニメ声じゃないのかと思います。自分にとってかろうじて萌えに近いものを感じていたのは、もうずいぶん昔ですが自分で美少女絵を描いてみていたときでしょうか。
2006-02-22 海外から見たオタク文化

この手の本の存在は意外と知られてないように思ったので、はまぞうで載せてみます。
- 作者: ウィリアム・M.ツツイ, William M. Tsutsui, 神山京子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/10
- メディア: 単行本
ゴジラはアメリカでも非常に人気がありましたが、これもアメリカではどのように受容されたかを記したものです。
以下はおまけですが、
- アーティスト: Blue Öyster Cult
- 出版社/メーカー: Sony Japan
- 発売日: 1990/10/25
- メディア: CD
これはアメリカン・ヘビー・メタルの祖ともいえるブルー・オイスター・カルトがなぜか全米チャートでヒットさせてしまった「ゴジラ」を収録したアルバム。一部聴取可能。耳コピしたような日本語のナレーションが素敵です。あのパティ・スミスが一時関わっていたことで知っている人もいるでしょう。下のベストアルバムがお徳かも。
- アーティスト: ブルー・オイスター・カルト
- 出版社/メーカー: ソニーレコード
- 発売日: 2000/05/24
- メディア: CD
と思ったらDVDも出ていました。キッスやエアロスミスが前座を務めたというトリビアを持つバンドですがまだ健在なのかな。
ゴジラ第一作にもトリビアがあって、撮影の玉井正夫、美術の中古智、録音の下永尚、照明の石井長四郎の四人は成瀬巳喜男のスタッフとして「浮雲」などを手がけているとのこと。ゴジラが大作だったので成瀬組が起用されたそうです。興味深いことにオタクの知識だとこれは盲点になってしまうわけですね。「ゴジラ」のあとに異色の「浮雲」が製作されたというのも興味深いところです。
reds_akaki
(ゴジラと)七人の侍との関係についてはよく取り上げられるのにね。
今迄度々アンテナを些末な更新でageて終い、申し訳在りません。
之からは些末な更新の際「ちょっとした更新」をクリックして措きます。
筋が違うかも知れませんが、20年前に書かれた慰安ブルマのa japanese millor
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0030.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/503-7989257-5115955
をむかし読んだとき、日本のサブカルチャーについてこれだけわかっている「外人」がいるのかと感歎した覚えが在ります。少女漫画周りの文化では「JUNE」と宝塚を詳しく取り上げています
laco
お返事遅れましたが...
>今迄度々アンテナを些末な更新でageて終い、申し訳在りません。
どうかお気になさらず。私も更新すっぽかしたり非常にいい加減なので本来あまりいらいらしたり気にするタイプじゃないんですよ(笑)。
日本人より日本文化に詳しい外国人はざらにいるもので、たとえば前衛音楽の作曲家で演奏家のジョン・ゾーン氏は今では現代音楽家として最も重要な作家の一人になっていますが、高円寺に滞在していた頃日本の歌謡曲を相当研究して日本のミュージシャンや音楽評論家の後の活動に大きな影響を与えていると思います。身近過ぎて知っているつもりだとかえって気づかないことを教えてくれることが良くありますね。
2006-02-16 これは便乗本なのか
「テヅカ・イズ・デッド」に関する考察がid:genesisさんから出ていましたので読んでみました。
その前に、また手塚本が出たのですが、なんでみんな手塚を神様にしておきたいんだろうな。もちろん個人的な思い入れならそれはかまわないし客観的に見てその偉大さにけちをつけるつもりなど毛頭ないのですが、夏目さんが「手塚治虫はどこにいる」で「神様」手塚にできる限り中立的な立場をとった、あの姿勢が誰も彼も欠けているんじゃないでしょうか。
ストーリー漫画の起源が手塚以前、戦前にまでじゅうぶんさかのぼれることは、いまや常識であることになっていなければならないんじゃないですか?と思うわけですが、これを講談社選書メチエで出すのはなんかの嫌がらせとしか思えません。私は大塚英志氏の評論を偽史をもいとわない物語化として批判しますけれど、この竹内一郎氏の本は30秒程度めくって買うのをやめました。そんな無駄なことしていられないですよ。
私は紙屋研究所さんの書評にも与しませんが、解説されているようなそういう内容ということがわかればとりあえずまあそれ以上自分で確かめなくてもいいやというところ。「ぼくら語り」の方たちもこれはひどいと思っているでしょう?
私は伊藤氏が大塚氏の記号的身体論をもっとも射程の深いものと捉えていたことにずっこけて、紙屋さんの書評ででてくるように、巻末で二上洋一氏を批判したのに対して、わかってないじゃないかと思ったのですが(二上氏は本当はもっと内容を温めてじっくり書きたかったのにマンガ論の状況を見て急ごしらえで書かざるを得なくなってしまってあんななってしまったわけでしょう?少女マンガの理解に関して大塚氏など二上氏の足元にも及ばない。二上氏が集英社の少女マンガの編集者だったからこそ当事者的にヘタなことは書けないことくらいすぐわかりますよ)、「テヅカ・イズ・デッド」の欠点はそのような奇怪な世代間の対立の図式を理論的著作の中に混ぜてしまった点にあると思います。もしかりに大塚信者なる「おたく」(がいるらしいけど)がマンガ業界を牛耳っているなら、「国策」より質が悪い。今後も批判したいですね。
ちなみに私は基本的に護憲的だし、国威発揚としての国策は断固お断りしますが、グローバリゼーションというのはアメリカ追従などとはまったく違うものです。インドはバンガロールにシリコンバレーを作ってソフトウェア産業に関しては日本よりずっと進んでいるし、Linuxを産んだフィンランドはインターネット最先進国としてNokiaという携帯電話のトップメーカーを持ち、韓国も携帯や液晶でトップクラスのサムスン電子を擁していて、日本は情報家電で非常に苦戦している状況です。国としてはコンテンツ産業としてのアニメの可能性に藁をもつかみたい気持ちなのでしょう。イギリスがロックで外貨を稼いだように日本もあるいはそうならざるを得なくなっていくというのがいま目の前に迫るグローバリゼーションという状況かもしれないと思うんですがね。
■「テヅカ・イズ・デッド」への疑問に自分の考えを示してみる

id:genesisさんの「テヅカ・イズ・デッド」を読んで途方にくれたというところ、私もどうとらえるべきかきちんとまとまっているわけではありませんが、確かにこのモデルで80年代の少女マンガを分析してみるとどうなるか、という興味はありますよ。ただユリイカの特集で宮本大人氏が今後の課題ではないか、といっていたところをまずなんとかできればいいんですが、大塚氏を批判している手前、思いつきの独断的な決め付けでなくて、論拠を持って納得されるような論を展開するのは骨が折れそうです。
そのユリイカの特集で、東浩紀さんがキャラ/キャラクターをライトノベルに適用できないかと言っていますが、とりあえず表現論モデルとしては、マンガに固有の表現要素を考えてみるという点で、キャラ概念を抽出しているがために、現前している図像であることがキモになるのではと思われます。実は私が伊藤本を読んだときも、キャラという概念が図像的に考えづらいような印象を受けました。ちなみに夏目表現論では線とコマを最小要素とみなしていまして、線こそがマンガを特徴付ける基本要素であるというところまで還元しようとしたわけです。これはたとえばアニメの輪郭線とは相容れなくて、大塚氏は私よりやや年上ながらアニメで育った世代なのでマンガの線のリアリティが感じられないんだなあと思うわけです。夏目と大塚とではその点でまったく考え方が違うことを記しておきましょう。絵ではなぜだめなのかというのは夏目を受け継いでいるところがあるんだと思います。キャラ以外の絵がまったくなくても、マンガは成立するということになるでしょうか。
つぎに「極めて強い物語の忌避が見て取れます。」というところですが、物語そのものは表現メディアへの依存性が希薄なものであることをまず考えてみてもらいましょう。映画でも小説でもゲームでもストーリーでは同じように感動する傾向が強いわけで、物語を忌避するというよりも、括弧にくくるからこそ表現論と呼ぶのだという面があると思います。
>「キャラの自律化」は,物語からも生じるからです。例えば,決めゼリフや
>特有の語尾などは図像に由来しない〈記号〉であり,物語の中に存在する
>ものと思われます。
ここには少し無理があるのではないかと思いますが、疑問を思いついた順に二つほど並べてみます。まとまらなかったのでそのままにします。
a) 物語から生じるのは「キャラの自律化」ではなく「キャラクターの自律化」なのではないか
b) 決めゼリフや特有の語尾などは確かに図像には由来しないが、それは物語の中に存在するのではなく、端的に記述として存在する。その点ではマンガではやはり声を発するキャラの中に存在するというべきではないか(吹き出しではなくナレーションに適用した場合にはそれがキャラの存在を示すものとなる)
「時間継起性」については、たとえば好例として秋田孝広「「コマ」から「フィルム」へ」の中に、加藤幹郎氏が言うところの「愛の時間」が載っていたんじゃなかったかしら。コマの続きの中にあるひとつのコマには、単なる写真のような瞬間を越えた、時間の流れが感じられることが、マンガを読む体験の中であるんじゃないかと思いますが、それを主に担うのがキャラだということでは。
>キャラは「プロト(前)キャラクター」である,というのも良くわからないところです。
キャラクターは物語形式であればどのようなメディアでも同等のものとみなすことができるはずだと思います。そこでキャラクターを成立させるのはたとえば映画であれば俳優ですが、キャラというのは演技する役柄やその内面などと関係なく俳優自身としての魅力を持っている、という考え方がヒントになりませんか。となれば逆は成立しないわけです。
>円の「起点/終点」を「モダン/ポストモダン」という形に対応させて論じているわけですが,そのせいで〈円周の向こう側〉についての検討が手薄になっています。(略)手塚治虫という軸線上では登場しない〈乙女ちっく少女まんが〉の分析において,本書の示した分析枠組みは有効に機能するものなのでしょうか?
このへんは私もちょっと感じたことで、これって手塚死んでないんじゃないと思ったりしてましたが(否定神学?というのは冗談として)、あるいは夏目表現論で示された戦後マンガの歴史をそのまま援用してその中身までは見ていない感じはします。誰かが試みるのがよいのでしょうが、ちょっと面倒ですね。
以上、気になったのであえてトラックバック差し上げますが、ちゃんと本を読まないで自分の古い感想から引き出しているので、まったく的外れになっているところがあるかもしれないし、そもそも私が大塚氏をあまり買っていないところもあって(動ポモもちょっと微妙)よく理解しているかも保障しかねますがお許しを。
ところで紙屋研究所の評で竹内一郎氏の本に関連して日下翠さんがお亡くなりになっているとのこと。地味な本を出していますがえっとびっくり。
この本は持っていますが、
は出ていたの知りませんでした。
ご冥福をお祈りいたします(ガセだったら困ります)
genesis
はじめまして。こちらに書かれているものは,いつも興味深く拝読しております。▼ さて,ご教示くださり,ありがとうございました。どうしても「キャラクター」に重きを置く立場を放棄できないでいるので,物わかりの悪さを露呈する態度になっていたかと思います。伊藤剛さんは読者の無理解にさぞかし苛立っているのではないかと思うのですけれど……。読みこなせていないことは強く自覚しているので,ご示唆いただいた点を手がかりに加えて,また少しずつ考えてみようと思います。▼ 今後ともお気づきの点などございましたら,お教えいただけると嬉しく思います。
laco
>genesisさん
こちらこそ、ありがとうといいたいです。教示というより私の解釈なので、こう読んだ、と思っていただければ幸いです。たとえば俳優の比喩は書いているうちに思いついたもので、自分の考えでまとまっていなかったところ(マンガに固有の表現要素に立ち返ること)をgenesisさんの考察に触発されて自分なりに考え直したことをトラバさせていただきました。
あとlepantohさんのトラックバックを読んでみましたが、キャラをキャラクターとしてしか読めないタイプが劣っていると考える必要はないでしょう。伊藤さんのこの言及は私には哲学者の永井均が言う二種類の人間が存在する、というのを転用してきたようにみえましたが、哲学ができる者というのがより優れているなんてことは決して言っていなくて、むしろ病んでいるとか業を背負うとかに近いものであるのに対して、伊藤さんの二分法は、キャラをそれ自体として認識できるタイプが進化した、ガンダムのニュータイプみたいな印象を与えるもので、これじゃおたくこそが偉いという岡田唐沢(大塚もだね)のイデオロギーと本質的に変わらないんじゃないんじゃないか、とは思いました。
goito-mineral
こんにちは。基本的に議論には介入しないというスタンスで来ましたが、lacoさん、ぼくは一言も「〜というほうが偉い」とは書いていませんよ。むしろ「読み」の感覚の差異に還元することで、「オタク」の問題を主体や自意識の問題から引き剥がすことが目的だったわけで。あんなナルシスティックな連中と一緒にしないでくださいw.
lepantoh
lacoさん、goitoさん、誤解させるような表記があったようで、すみません。私もどちらかに優劣があるとは考えていません。しかし、私個人の「視野は広いことに、視点は多い事に越したことはない」という気持ちからするとキャラ・データベース・萌え的もの(という総括はどうなのか)を一貫して受け付けないというのは損失であり、それを享受・消費できないと宣言することに一種の敗北感を感じるということです。現実に起きている(一部の)ことを説明できないわけですから。そこで、私なりに現実に起きている(別の部分の)こと、つまり少女漫画の瀕死状態を説明してみようと思ったのです。
お二方の日記はいつも拝見していて、ちゃんと自論を持っている点で尊敬しています。萌えを享受できなくとも理解はしたいな、とは思っています。
laco
>goito-mineralさん
お手数かけてすみません。伊藤さんがオタクエリーティズムに与しているとは思っていないので、私の書き方が悪かったですね。ただアドバンテージがあるような印象は最初に読んだときに受けたので、それが私の誤読だとしても、ほかの人の意見を伺える可能性を考えて書いておこうと思いました。
あとこれはまったく余談ですが、日下さんの漫画論は正直言うとつまらないとは思います。たまたま伊藤さんと面識を持ったマンガ学会で私の同行者が日下さんと同じ出身校で歓談していたので、訃報は伝えねば、と思って書きました。
>lepantohさん
誤解は常にあるものなので気にしないでください。基本的には私のコメントに言い足りない部分があったと思います。
疑問を捨てずに問い続けながら別方向からのアプローチを試みるのはとても良いことだし、それをブログ等で問うのもいいんじゃないでしょうか。
今の私は、キャラクターをキャラとしてみることは誰にでも可能なんじゃないのだろうか、と考えています。ただそうする必要性はただマンガの物語に没入したいときには必要ないというか、かえって邪魔じゃないかって思っています。俳優、というのはこの場の思いつきに過ぎませんが、まったく的外れでなければその限界を意識しながら考察用のツールとして使ってもいいかなと考えました。
自分の考えに誤りがあればもっと上を目指せるきっかけになるので批判は大歓迎です。
七里さんがちょうどマンガ表現論的考察を行っていて、私のようないいかげんな書き方ではなく論文として通用する文章で書かれているので、参考にすると良いと思います。
http://d.hatena.ne.jp/nanari/20060218
nanari
いつも面白く読ませていただいているブログの書き手が、次々に出てくるので、楽しんで読んでいたら、自分のブログまで挙げていただいて、驚いて書きこみます。
『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ」という概念についてですが、ぼくもやはり、あれは描かれた図像の問題を超えていると感じました。しかしそこに、この本が表現論を開いている点があるように思えます。
『マンガの読み方』の「絵」「コマ」「言葉」という分類が、やはり描かれた図像の要素の分類であるという意味で、どこか記号論的な尾骶骨を残していたとするなら、『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ」「コマ構造」「言葉」という分類は、コマのなかに描かれた図像の問題にとどまらず、より力動的に、コマの連続性のなかで生起するものにも、眼を向けているのでしょう。マンガの人物は、複数のコマをまたいでも、同一の人物であるというところに、その記号性を前提としてもっているわけで、「キャラ」という問題設定は、描かれた「絵」だけではなく、それがコマの間をまたいでいく運動にも眼を向けるものだったわけです(66頁参照)。見落とされがちですが、「コマ」を「コマ構造」に読み替えたことも重要で、そうすることで、コマの連続性への意識が強調されているのでしょう。
この分類は、定着した図像に基盤をもたないために、たしかに一見受け入れがたいようにも見えました。しかし今は、マンガ表現論がもっていた、マンガの生成をめぐる動的な態度により適合するのは、こちらの分類ではないか、という気がしています。その「三者は同列には並ばない」(64頁)ということを強調しながら伊藤さんは、図像という一つの平面を超えて、複数の次元でマンガを動的に捉えようとしているのでしょう。それは、表現論が記号論を超え出ているはずの部分を、より明確に示してくれる分類であるように思います。
laco
>nanariさん
はじめまして。エントリの論考のなかに表現論をひらく鋭いものがあって勉強になるので時々拝見させていただいてます。
私がこのエントリでうまく語りえなかった部分で重要なところを的確にご指摘いただいて感謝します。
「コマ構造」への言い換えはフレームの不確定性と関わるとともに「キャラ」との関連性においてとらえられるわけですね。
伊藤モデルの一番大きな価値はたしかにnanariさんのおっしゃる通りで、スタティックな記号論を超え出ている部分への考察を誘うところにあるのだと思われます。この方向から表現を開いていくことには賛成です。
これもまた思いつきですが、私がマンガ表現の中でもっとも興味を惹かれながらうまく扱えなかったものに「ふきだし」があって、これを「言葉」という分類からたとえば「言表構造」(専門家から見ると言表というのは不適切かもしれませんが)と定義し直してふきだしをその中に分類してみると、キャラの発語とバルーンという特別なフレームの組み合わせによる言い表しとして「キャラ」および「コマ構造」との相互関連性も含めてうまくおさまるんじゃないか、といまちょっと思いました。
nanari
お返事ありがとうございます。「言葉」の問題については、やはり興味を惹かれました。「言葉」は、もちろん単なるテキストではなくて、活字であるか否かに関わらず、言語記号であるにとどまらない何らかの記号性を担っているのでしょう。マンガの「言葉」は、ふきだしのなかに守られ、活字で書かれ、その行変換が物理的な制約のみにしたがっているかのように見えるときにも、言語記号を余り出る部分を潜在的に隠しているのでしょう(この点については、詩におけるさまざまなカリグラフィーの実験と比較してみるといいのではないかという気が、なんとなくしています)。
自分のブログの2月11日の雑談のなかで少し書いたのですが、ふきだしはこの「言葉」に、句読法とは異なる記号体系を付け足しているようです。伊藤さんは、「吹き出し」を「コマわり」に便宜上分類されていたわけですが(160頁)、やはりふきだしも「フレームの不確定性」の問題を抱えているというのはたしかだと思います。ただ、それはつねにある主体性に結びつく(一つの「キャラ」ないし語り手の声として示される)という前提をもっているわけで、その意味でふきだしにはたしかに、「コマ構造」と「キャラ」の関係性を考え直させるようなところがあるような気がしています。
それから、前回の書き込みで、「見落とされがちですが、『コマ』を『コマ構造』に読み替えたことも重要で、そうすることで、コマの連続性への意識が強調されているのでしょう」と書いたのですが、これは、「見落とされがちですが」というのも含めて、われながらなんだかよく分からないことを書いてしまいました。「コマ展開」という概念を明確にすることで、コマの連続性の問題を強調し、「コマ構造」と「キャラ」の連関について考えることを可能にした、というようなことを言いたかったのですが。訂正いたします。
なんだか、前回のはじめての書き込みから、大変長く書いてしまっていて、すみません。随分前から、読ませていただいていたせいか、うっかりして挨拶も忘れていました。いつも非常に勉強になっています。今後もよろしくお願いします。
laco
ここしばらくユリイカの特集に気を奪われて「テヅカ・イズ・デッド」じたいの読解から離れていたのですが、nanariさんのご指摘でもう一度読み直すきっかけが得られました。今後ともよろしくお願いします。
tsan
>マンガ学会で私の同行者が日下さんと同じ出身校
僕のことかな(笑)。でも日下さんは
>神戸市外国語大学卒業、同修士課程修了。東京都立大学大学院博士課程単位取得。だそうで違いますよ。知人が彼女の同僚だった話はしました。あと竹内本に関しては、個人的に語られると非常にイタイ話があるので委細面談(笑)。
laco
>tsan
>知人が彼女の同僚だった話はしました。
ありゃ、これはすっかり忘れております。たぶん周囲がやかましくて聴いたふりしてまあいっか、てなことで勝手にあとで話を作ってしまったような。どうも失礼しました。
読んでいる方々も私の書くことを原典等の資料が明示されていない限り鵜呑みにはしないようお願いします。
2006-02-15 キャプテン・ビーフハートの評伝

私にとって20世紀のポピュラー音楽史上最高のバンドといえば、あまりにも月並みながらキャプテン・ビーフハートとマジックバンドという考えはもうずっと変わっていない。並みいる有名ロックミュージシャンがビーフハートをリスペクトしている。よく誤解されるのは「トラウト・マスク・レプリカ」のみが傑作とされてほかのアルバムに触れないというのがあるが、これではプロデューサーがザッパだったから名盤だと思われてしまう。しかし町田康(町蔵)ほか日本の複数のミュージシャンにカバーされている「ミラー・マン」、そしてビーフハート自身が最高作とみなしている「リック・マイ・デカルズ・オフ・ベイビー」、さらにはパンク・ニューウェーブ時代に復活して出した「シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)」、そして「ドク・アット・ザ・レイダー・ステーション」(邦題「美は乱調にあり」)のどれもはずせない。これらがだめでもデビューアルバムの「セイフ・アズ・ミルク」で十分すばらしい。「美は乱調にあり」はCDで日本盤が出ていないと思うのだが、当然聴くべきだ。
「トラウト・マスク・レプリカ」を初めて聴いたときはほかの人と同じように、これなんだ?という感じで狐につままれた感じになったが、何度も聴くうちに何だこれは!という驚愕に変わる。私の好きな「バット・チェイン・プラー」の主題曲はクラフトワークの名曲「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」を20倍は強力にした傑作だと思う。なので評伝は結構値が張るのだが、冒頭にはダグマー・クラウゼが訪ねてきて一緒に写っている写真もあるし、この本の最後のほうにはU2のボノが2002年にインタビューをしたことや、その翌年にビーフハート本人がちょっとしたレコーディングをしたことなども書かれている。
ビーフハートをいち早く評価したのがあのジョン・ピールであったというのも面白い。もちろんジョン・ピールがビーフハートを賞賛するのはなんらおかしなことではないし、新たに伝説とは異なる事実が示されたとしても、ビーフハートがロック史上最も偏屈な奇人でありそして飛びぬけて偉大な天才であることに疑問をさしはさむ必要はないと思われる。
2006-02-11 「おたく」が隠蔽したもの?

いまおたくと言うとなにかと萌えに結びつけられますが、そもそもおたく界隈でもっとも濃い人はたぶん特撮マニアあたりじゃなかったんでしょうか。私の大学時代の畏友も、ゴジラシリーズはすべて映画館に見に行きますし、ウルトラマンシリーズはもちろん日曜朝の戦隊ものシリーズも欠かさず見ているわけです。
たとえば木走日記の以下のエントリでは、伊福部昭氏が亡くなった際の産経抄がこてんぱんにこき下ろされています。書いた記者もそこそこに知識をひけらかすのですが、特撮マニアをなめてはいけません(それ以前に読んで萎える面はありましたが)。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060210
ちなみに私が特殊マンガ読みを名乗っているのは有名なマンガは読んでいないもんねという逃げ道を確保しているわけで非常にずるいのですが、ほとんどのマンガマニアが読んでいないような盲点の作品はけっこう読んでいるぜと勝手に自負しているので、まあはったりが効くといった面があるんですが(本当かよ?)、特撮ものについてはうかつなことが言えません。そのかわりやっぱりジャイアントロボは良かった、ロボットアニメなんて邪道だとか言って尻馬に乗ってしまうのですね。でもウルトラQからとりあえずは親しんできたのは事実ですから、相づちを打っていれば面白い話はいくらでも聞くことができます。いまでは特撮マニアもおたくになってしまいますが、萌え?けっという人はいくらでもいるんじゃないでしょうか。
あと、今ではSFはジャンルとしては目立たないものになっていますが(かな?スペオペだけは根強いですね)、と学会とかガイナックス(ゼネプロ)とかSF大会から出てきたものでしたよね。小谷真理さんがトリトンのコスプレをしたらしい(日本初のコスプレですと?)のはコミックマーケットがまだ揺籃期の頃で、コミケ自体SF大会の強い影響下で発展してきたそうなので、原おたく的なものというのはSF大会の中にあったわけですね。私はどうもファンダムというものが苦手で、伊藤剛さんの批判する「ぼくら語り」的なものとはこの辺からでたものかなとも思うわけですが、特撮マニアの場合ファンダムには興味がない硬派なタイプのほうが多かったんじゃないかしら。学生の頃SF大会に参加している人たちがやけに軟派っぽかったというか私を取り巻く環境がたまたまそうだっただけかもしれませんけど。
あ、でも戦隊もののヒロインについてはなにかと話題になってたっけ。かくいう私も、かつて起動する時さとう珠緒の声でしゃべるという萌えマザーボード(?)で自作PCつくっちゃいましたから(もちろん台湾製です)。さとう珠緒って微妙?(うーまなーりくーん!)うーん、病んでるなオレ。
2006-02-07 文字化けその2
別冊宝島の「パクリ・盗作」スキャンダル読本で栗原裕一郎さんがニュー評論家を名乗っているのは笙野頼子さんの純文学論争がきっかけということで、その本がまとまっていたのにはうっかり気づかなかったので、今になって本屋を探してきました。
さて、事前にはてなダイアリーでこの本が紹介されていないか調べたら以前紹介した大澤真幸氏の本と同様文字化けしていたので(大澤さんの本についてはなおっています。直してくれた方ありがとう)、はまぞうで試してみましょう。
どうもやはり文字化けしているようですが、「徹底抗戦!文士の森」というタイトルです。この帯に記されている批評家がみな批判されてるんでしょうか。でもいろいろなところでこの本について書かれたものを読んだ限りでは柄谷文学史観の徹底批判がこの本のキモらしい。文学の近代って何だ?という話ならマンガの近代とやらにも何らかの関わりがありそうなので買ってみました。でもちょっと2800円もするのでびっくり。
この際どうせだから新潮3月号も買ってみました。文芸誌は久しぶりかしら。こちらは古井由吉・蓮實重彦対談が、このお二人は駒場で同クラスだったそうですがこういう対談は初めてというので思わず購入してみましたが、斎藤環氏がやおいを論じるなかで(私はマンガに関してはおたく第一世代あたりでは斎藤氏を最も評価している。文学はちゃんと読んでいないので保留)、伊藤氏の言う「キャラ」にも言及しています。なんか椹木野衣氏も執筆しているし(それにしてもMS-IMEは蓮實も椹木もまるで変換できないとは。こんなひどかったっけ)。
実は私は古井さんとか小島信夫さんとか藤枝静男さんなどが好きなタイプだったりします。古井氏など内向の世代などと悪く言われていたのを擁護して積極的に評価した初めが蓮實氏だったような気がしますがどうだったでしょう。
私も最初はSFから入って私小説を馬鹿にしていたガキでしたが(小学生だったけど)、小説に詳しくなるとSFってジャンルとしては小説全体の世界ではアドバンテージがほとんどなかったりしたのでがっかりしました(暴論?)。ちょっと前に有志の集まりでSF作家の名前が出てこないので適当に並べてみたりしましたが、ヴォネガットやブラッドベリの名前は出てこなくて、彼らって今では特にSF作家じゃない感じではないですか。マンガとSFの間には深い関わりがあって、先に挙げた小説家に相当する漫画家ってめったに出てきませんね。
それにしてもほかに文字化けになっている本があったらその傾向を見てみたいと思います。ほかになんかありませんか?
2006-02-06 「てへっ」の起源

マンガの表現の起源を調べるというのはなかなか大変なもので、もちろん資料へのアクセスが古くなるととても困難になるということがあるのだけど、最近は復刻ラッシュもあり、意外なところで意外なものを見ることがある。
「てへっ」というと少女まんがの照れ笑いを思い出す人が多いだろうが、このせりふ、実は戦前の初期のナカムラマンガでよく使われていた。ナカムラマンガというと大城のぼるが有名になってしまったが謝花凡太郎と新関青花が代表的な作家である。1980年代から90年代に松本零士のコレクションから復刻した(竹内オサムや二上洋一が編集に参加している。横田順彌の名も見られる)、三一書房の「少年小説大系」の少年漫画編に再録された彼らの作品には「テヘッ」が結構頻出するのだ。
大城のぼるの「愉快な探検隊」や謝花凡太郎の「まんが忠臣蔵」を見ると、チャンバラで首が飛んだり胴体真っ二つなんてシーンが頻出し、「あばしり一家」みたいに切られた首がやられたあとか叫んだりしている。胴体を切られても上半身と下半身が勝手に動き回る怪人とか、誤って首を切られてくっつけると元に戻る猿の子供とかも出てくる一方で、首を切られて退治され倒れたきりの鬼が死屍累々としている場面などもあるが、初期のナカムラマンガはそういう大人が顔をしかめるような子供向けのエンターティンメント路線であったらしい。謝花凡太郎と新関青花は戦後も漫画少年で筆をとっていたが、大城のぼるは独自の進化を遂げつつ戦後も彼らからは離れていったようだ。いっぽう新関の戦中の漫画は生活もの路線に移っていく。動物に擬せられたキャラクターを得意とした新関は戦後、健之助名義で有名な「かば大王さま」などの作品を残すが、これは戦前からの流れがそのまま続いているような感じである。戦争も深まると、動物キャラも問題があったのか普通の子供たちが描かれるようになるが、空襲が描かれていながら射撃を受けることもなく日本の飛行機に追い払われてのどかで平和な日常が描かれるという「仲良し日記帳」なんて作品もある。ちなみに大城の「汽車旅行」は中村書店ではなく二葉書房から出たもので、中村のカラーからは外れた感じである。
まえに「汽車旅行」と石森漫画の類似について描いたが、そういうわけで初期のナカムラマンガが70年代のマンガに密輸入されていた可能性はないだろうか。作家に聞けばわかると思うのだけど。
擬人化ならぬ擬動物化マンガにも興味がある。有名なアート・スピーゲルマンの「マウス」はナチス捕虜体験を描写しているが、人種を動物の顔で区別しているのである。こういうのは「記号化」(という奇妙な言葉で示されるもの)ではないのだろうか。「記号的身体」論以降へのちょっとした違和感は、まさにこのような作品が存在していることについて特に見解が示されていないことにある。
- 作者: Art Spiegelman, アート・スピーゲルマン, 小野耕世
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1991/08
- メディア: 単行本
「お茶の水を卒業された水沢めぐみ先生、こんな頭の悪い話描いてていいんですか!!」
と語っていたのでお茶の水女子大だと思っていたのですが、早稲田だったのですね。
大阪府は出生地であっても後に東京に越して、高校或は中学(ひょっとして小学)からお茶の水に通ったのでしょうね。
キーワードに本名まで書くのは何だかなあとわたしも思います。(本名を書いた)HPのURLを書くなという意見には反対しますが