2005-10-31 イベントに行き損ねて

10月も終わり。
今月はマンガ関係で二つのイベントが気になっていたのだけど行き損ねました。週末は昼夜逆転して寝過ごしてばかりなので。
青梅に青梅赤塚不二夫会館がオープンして2周年ということなのですがその存在を知ったのはJRの駅のチラシでした。藤子Aさんと赤塚夫人の対談があったということ。
ありがたいことにレポートがありました。
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20051016
イベントと直接関係ないのですが、赤塚さんとつげ義春さんの関係に興味があります。
記憶が定かではありませんが、まんが家をやめようとした赤塚さんにつげさんがギャグまんがを勧めたというような話があって(われながらノートぐらいつけろよと思う)、赤塚マンガが杉浦茂さんのセンスを自らのスタイルに取り込んだとすれば、たとえば「ねじ式」は水木しげる式天才バカボンという見方もできるんじゃないかって思ったりしたのでした。「ねじ式」は多くのパロディを産んでいますが、それはそもそもがつげ式ナンセンスギャグマンガだったからじゃないかって、思いつきですけど。
伊藤剛さんのトークイベントが29日。整理券を手に入れる余裕はありませんでした。
「テヅカ・イズ・デッド」について以前にやっかいで気持ち悪いすげえ本と書いたので、もう少し説明すると、細かいところではいちいちつっかえてしまって突っ込みを入れたくなるところもあったのですが(ひとつだけ挙げれば最初のほうに出てくる石子順造の発言を引用しているところで、私はここで石子が何を言いたいのかまったくわかりませんでした)、そういう些末なところでひっかかっていてもしょうがないので読み進めていくと、いちいちひっかかっていた疑問が自分の心の中で解消されるのではなくてなぜか隠蔽されていくような感じを受けたので、その感覚を気持ち悪い、と書いたのでした。
というのも夏目さんを代表とする古典的表現論に対して、伊藤モデルというのは東浩紀さんが推薦文に記したように、萌えから生まれた新しいパラダイムであり、読み手にまったく予想もつかないようなパラダイムチェンジを迫る本であるわけで、そのモデルはきちんと整合性はとれていると思えたわけです。ここがすげえという意味です。
それで今回のイベントは東さんとの対談とのことですが、東さんがどんなことを言うのか興味もあったのですが、竹熊さんや斎藤環さんも来られたと言うことで、また以前マンガ学会でご挨拶していただいた夏目房之介さんや少女クラブの名編集者の丸山昭さんまでいらっしゃったということで、あらためてお礼しなくてはと思いながら今回も果たせませんでした。どうもすみません。
「少年」の復刻版が限定発売されるようですが、少女クラブについても特別編集版が出るといいのにと思っています。
イベントの中でどんな話題があったのか(特に要となるキャラとキャラクターについて)レポートがまとめられたらありがたいと思います。ひらかれたマンガ表現論への手がかりはまずはここからはじまるのでしょうから。
2chの東浩紀スレで手塚死とガンスリについて議論されています
2005/12/23 20:41
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1135185699/
2005-10-30 無視するか煽るか荒らすか
前回のけっこう偽善的なエントリをきっかけに久々に2ちゃんねるなどを結構長いことウオッチしてしまった。著作権の本質について考えようというスレは見つけられなかった。のまネコ関係も尻すぼみという感じ。
コメントにまっとうな批判とか荒らしが来るかなと思ったけどまったく来なかったし、そっとしてやれという気持ちが多数ならそれはもっともだ。
見たところエデンの花もピーチガールも知らないで火事場見物をしに来ているというのが大半であろう。男オタクが一番うといところだ。ちなみに欧米でも出版されていて、今回の問題でアメリカでは発売予定がキャンセルされたがすでに出版されているドイツでは発売中止の予定はないとのこと。少女まんが出版はドイツが一番進んでるんだっけ。スラムダンクが絡んだけれどもともとはピーチガールからのパクリがひどいということらしい。でも同じ雑誌から出ているマンガなのに、なんだかよくわからない。
2ちゃんねるでしか主張ができない人はたくさんいるのだろうからそれなりの存在意義はあるのだろうけど、匿名でなんでもありという場合に倫理的な振る舞いとはどういうかたちをとるのか。そこでむしろ興味深かったのは荒らしのあり方であったのだけど、今ここでそれを展開するのはやめておく。
これも2ちゃんねるで話題になっていたのだが(「finalventの日記」経由)大塚英志さんがシンポジウムで暴れたらしい。ケンカが好きなのは自他共に認めるところだろうけど、今回のような騒ぎは聞いたことがない。戦時下なんて言葉を使うから好きじゃないのだけど、彼なりの倫理観があるのだろうな。ところで大塚氏とならぶサブカル界の論客である宮台真司氏は北田暁大氏との対談本でこんなことを言っているらしいのだが。
「教養(主義)と諧謔(かいぎゃく)のコンビネーション」が、僕ら原新人類世代の共通感覚じゃないかな。それが、後続する世代では「批評(主義)と韜晦(とうかい)のコンビネーション」へと変化する。それが僕の実感です。・・・僕らはズラす自分からズレるのに対して、後続世代はひたすらズラそうとするばかり。・・・後期新人類世代以降は、ズラす自分からズレることができないので、永久にズラすことを強迫される、不自由な連中に見えます。
宮台氏の言う原新人類と後期新人類の区分けはどのへんだろうか気になるところ。強度という言葉が好きではない私は後期のほうだろうな(笑)もうひとりスターを挙げると、坪内祐三氏と福田和也氏とのSPAでの対談では、たしかいよいよプロレスも本当に最期だといっていたので、今回の大塚氏の話題は妙にタイムリーな感じを受けてしまった。
■最近読んでいる本

いきなりSPAなんて雑誌を出してしまったけどenTaxiのほうがなかなか読み応えあり。東映やくざ映画がメインで、弟子が語る立川談志の素顔とか、古井由吉を招いた江藤淳の「成熟と喪失」の話題とか。
倫理なんて言葉を平気で使っちゃっていますが、安彦一恵氏が永井-大庭論争を再現しようとした「なぜ悪いことをしてはいけないのか―Why be moral?」をつまみ読み。古本屋で半値で売っていたんで積ん読だったもの。この本でたとえば最初の安彦論文は一貫して倫理ではなく道徳という言葉を使っている。これはまっとうなことだろう。前のエントリでウェーバー論争に触れたが、こちらのほうがずっとわかりやすい言葉で書かれている。永井均氏が何を言いたいのかもわりとわかりやすいようにみえる。215ページで、永井は自分が独我論批判、独在性論駁を目指しているとはっきり明言しているのだ。永井の著作が独我論批判であることはわかっていたのだけど。
もしいま、十三歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないのか、そもそもなぜ悪いことをしてはいけないのか」と本気で問われたなら、道徳的に正しい唯一の答えは「それについていっしょに哲学しよう」である。それ以外の答えはまやかしである。だがしかし、その答えもまたまやかしである可能性はないのか。最後に、この哲学ゲームの欺瞞性を疑っておこう。(略)道徳でしか勝てない人々もこのゲームに目をつけ、このゲームを味方につけたいと願うであろう。(略)このゲームでしか勝てない人は、今度はこのゲームを祭り上げるであろう。実際、このゲームの中でこのゲームの価値を疑うのは難しい。その疑いの表明そのものがゲームの中の一手になってしまうからだ(こう書いているいまの私自身がそうであるように)。このゲームでしか勝てないがゆえにそれを特権的に祭り上げる者なのではないかと、私が私自身を誠実に疑うとき、私はこのゲームで着実にポイントをかせぐことにならざるをえないのである。(p60-61)
ほかに倫理学関連では、すぐれた哲学入門書を多数執筆している野矢茂樹氏が翻訳に携わったアンソニー・ウェストンの「ここからはじまる倫理」が実践的で万人向け。アメリカ的思考の良い部分が出ている。
- 作者: アンソニーウエストン, Anthony Weston, 野矢茂樹, 法野谷俊哉, 高村夏輝
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2004/06
- メディア: 単行本
いっぽう論理学関連で飯田隆氏が監修編纂した「論理の哲学」も面白く読んでいる。野矢「無限論の教室」からもうちょっとくわしく知りたいと思うなら対話仕立ての構成主義の項をパラパラ立ち読みしてみると興味がわくだろう(素-素人、典-古典主義者、直-直観主義者)。計算機科学のほうにも目配りをしている。
ただし私のあまり論理的でもない文章を見てもわかるように、本当に論理学を身につけるのは難しい。野矢茂樹「論理学」や戸田山和久「論理学をつくる」などが教科書である。こういう本は自分が学生の頃にはなかったのだから論理学の授業はちんぷんかんぷんだったけど今の学生は恵まれているんじゃないかな。
著作権に関する本では紙屋研究所さんが入門書のブックレビューをしていたが、ちょっと値の張る本ながらこれが最近では有名。
(といいながらこれはまだ手をつけていない)
最後に今回のエントリと関係なくこんな雑誌もAmazonで買えるようになったということで
ゲーム業界も日本勢は停滞しているのかあ。というか私の大学時代の知り合いがみんなゲーム業界に転職したり起業したりしていたが、大変な状況らしい。アメリカが10年以上前のオブジェクト指向以後のソフトウェア科学をしっかり学問として人材を育成してきたのに対して日本は根拠なきものづくりの過信だけでまともに人材を育ててこなかったのだ。知り合いたちはつい最近までゲームプログラミングにオブジェクト指向は有害なんて言っていたが、大丈夫なのか。
そういう私も本来こんなところで書いていられる身分ではないのだけど。
2005-10-23 「パクリ」断罪について私感
今回のエントリはかなりやっかいなものになるかもしれません。私自身が著作権に関して十分な理解をしているわけではないことと、本業とのかねあいゆえにコメントに対する適切な対応がしきれない可能性を予めお断りしておきます。
まず前置きとして、のまネコ騒動については著作権問題のケーススタディとして面白く傍観する立場でしたが、2ちゃんねるにおけるエイベックス社員への無差別殺人予告、さらにはその予告に対する自作自演説まででてくるというどこかで見たような展開になってしまいました。とはいえ、この問題についてまじめに考察しようとする動きも見られ、その議論の場として2ちゃんねるの掲示板が果たせる役割は現状ではブログよりも多少の優位性があるようにも思われます。まとめサイトがあり、安易にまとめようとしていない良質なサイトと思われるので、リンクを張っておきます。
http://www.bmybox.com/~studio_u/nomaneko/
今回採りあげるのは、たけくまメモで話題になっている、少女まんが家である末次由紀さんが井上雄彦さんのスラムダンクから構図を盗用したという問題についてです。この問題についてはのまネコ問題などの著作権問題が飛び火した印象を受けるのと、私自身がそこそこ別冊フレンドに関する知識を持つことから書くことにしたのですが、まとめサイトを作る気力と余裕がないので、以下は私見と参考資料とさせていただきます。
竹熊さんは言及していませんが(コメント欄には指摘があります)、これと似たような事件がかわぐちかいじさんの「沈黙の艦隊」で過去に発生しました。コメント欄の指摘にはウィキペディアの「かわぐちかいじ」の項にリンクが張られています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%90%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%98
この事件はかわぐちさんがトレースした写真に対して写真家側が告訴し、全面謝罪と賠償金支払いで決着がついています。ただし「沈黙の艦隊」じたいは現在でも漫画文庫が入手できます。
また、今回の事件とまったく違うところは、別に井上さんが末次さんを訴えたわけではなく、2ちゃんねるの少女漫画板を中心にパクリ検証なるものが行われ検証サイトなるものも立ち上げられ、その結果末次さんがスラムダンクからの流用を認め謝罪し、その結果講談社は末次作品の出版停止と回収に至ったという経緯です。
すでに他の方のブログで指摘されているので私も書いてしまいますが、その2ちゃんねるでスラムダンク自体も資料をもとに描いているのだろうから著作権を侵害している可能性があるんじゃないかというほのめかしの発言がありました。誤解ないよう念のために書き添えておけば、映像的リアリティを追求する作品であれば、これは当然ながらスラムダンク以外のどんな作家の作品にも置き換え可能な話です。もっとも特定の著作物から集中的に流用していない限りは取材で撮影した写真と見分けをつけることはできないでしょうし、末次さんが盗用してしまったスラムダンクのシーンにしても、取材で写真を撮ったら同じ構図がとれてしまったと強弁できる程度にその構図に特別なオリジナリティがあるものとは思えません。
さて、もし私が末次由紀だったとして言い逃れしようとするならば、複数にわたる流用があるためにたまたま似てしまったでは言い逃れのできないケースですが、スラムダンクが好きで借用したと言うことはできるでしょう。もちろんそれは井上さんの了承をもらっていない無断流用であればまったくほめられたことではないしかえって不誠実な対応とも受け止められかねないでしょうけど。
実際には末次さん側の公式な謝罪によって事実上の決着はついてしまっています。これはある意味でもっとも誠実な対応だといえるでしょう。
そこで2ちゃんねるでの末次攻撃はIPアドレスの一致による自作自演の糾弾、という方向に向かっていますが、IPアドレスによる同定はせいぜい端末止まりであり、身内の別人が書いている可能性も考えればそれを咎められるものか、はなはだ疑問と思います。
百歩譲ってそれが自作自演だったとしても、私は末次作品をあまり読んでいないのですがその作風についてはなんとなくは知っており、もしそれを偽善的と考えて攻撃していると仮定して、それを匿名で作家生命を奪おうといわんばかりにまで糾弾する集団的な圧力のほうがよほど非倫理的だと思いますし、プラグマティックに言えば作家と作品が不可分に結びついていることはないし末次さんのファンが作品から受けた感動を損なうものではないと考えます。
■(横道にそれて)ネット議論の場の現状について

ここで沈黙の艦隊についてあえて蒸し返すならば、私が学生の頃モーニングに持ち込みに行った知人がいて、結局最終選考に残らなかったのですが、その持ち込んだ作品のアイデアとそっくりなモチーフの作品がモーニングで掲載されたらしく、彼は哲学の素養が高く大人だったので偶然似たのかなあととぼけていましたが、そのときの私は道義的に許せんと怒ってモーニングは読まないと決めたことがあり、沈黙の艦隊についてもさもありなんという感想を持ちました。だからパクリが許せん、という気持ち自体はもっともだとは思います。
かわぐちさんに恨みはないのですが(ウィキペディアの項目もなんだかなーという感じ)、沈黙の艦隊でググるとその盗用?について言及しているサイトがトップに来ます。たまたま過去に訪問したサイトでした。
http://www.shochian.com/kawaguchi.htm
このページに関する私の見解は保留しますが(なぜなら判断するほど作品自体を読んでいないので)、マンガが80年代後半にはサンプリング&リミックスの手法を使い始めているという認識から、かわぐち氏個人ではなく構造的な問題として研究する必要性と可能性に結びつけたらと思うところがあります。この方のサイトを採りあげたのは、「マックス・ヴェーバーの犯罪−−「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊」という書籍の批判をされているからであり、学問のあり方について考えさせるところがあったからでした。
「マックス・ヴェーバーの犯罪」に対する批判としては、折原浩『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』という書籍が最近出ました。社会学には門外漢なわたしですが、学術書としては「犯罪」とまでいう物騒な題名の本に興味を持ちつつ素人目にもトンデモに見える本に対して真っ向正面から批判したものです。ただのトンデモ本なら良かったのですが、山本七平賞を受賞するに至り、著者の羽入氏が折原氏に応答しないまま「羽入-折原論争」としてインターネット上の大きな論争が展開されることになりました。学問的に公正を期すために橋本努氏が論争の全容を伝えるサイトを以下に立ち上げています(なおリンク先からHOMEに飛ぶと音が出ます)。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm
注意すべきなのは「マックス・ヴェーバーの犯罪」という書籍がただのトンデモ本ではなく、むしろ一次資料の調査による精密な検証によってウェーバーを論難することがある程度説得力を持つ本であるらしいということです。自分で読んでいないので判断は下せませんが、どちらが正しいかということよりも、インターネットにおける議論の可能性に興味を持ちました(大学人以外からの、健全と思われる応答も載っています。そして学問というのはやはりめんどくさいもので、地道な議論を積み上げていくしかないものだということも)。
のまネコ問題まとめサイトも、建設的な議論の場を目指すサイトとしては実は橋本サイトと同型のもののように思えます。それに対して更新停止を決めている末次問題の検証サイトは何かの実りをもたらすものになるのでしょうか。
■20年来の少女マンガ読みとして

沈黙の艦隊の事件からすでに十年以上経過していますので、講談社の今回の対応は、この検証サイトのような不毛なあら探しの祭りを食い止めるもの、というように私は受け止めることにします。
現在わたしは別フレは読んでいませんが、安野さんの最初期の作品を読んでいたりして、上田美和さんの作品が十年近くにわたって日本でもっとも売れる少女まんがの一角であることは知っていますし、十年近く前の昔の話ですがみやうち沙矢さんの作品が編集部のミスによって本人に落ち度がないのに差別問題となり不当な打ち切りの憂き目に遭いましたが、自分の作品でリベンジを果たし(私の記憶ではメスカリンドライブをライブハウスに見に通っていたくらいなのにあの誤解はきついだろうと思ったのですが誤解に対して直接話し合いもして筋を通した)、一回り大きくなって帰ってきたことも覚えています。
「るんるん」や「Amie」は大変志の高い雑誌で休刊になったのは編集部にとっても無念だったでしょうし残念なことでした。月刊の少女フレンドも休刊の間際は新人の意欲的な作品にあふれ、その休刊に対するマンガマニアたちの冷ややかな対応には怒りさえ覚えましたが、その質はデザートにもしっかり受け継がれていることを感じます。
末次さんについて知るところを記せば、小学館から惣領冬実さんが講談社に移籍したときにそのアシスタントをつとめながら実績を上げてきた方です。それ以上については私がことさらに話すことはありませんが、惣領冬実さんは80年代の少女まんがにおいてもっとも独特な作家の一人といえるでしょう。全然マンガ家を目指してきた人ではなくて、新人漫画賞の公募を見てそこら辺の少女漫画誌から見よう見まねで描いた投稿があっさり佳作に入って、即戦力としていきなり二つの雑誌に連載を持つようになったという経緯から、その当時人気のあったマンガのパターンをがんがん取り込んだパッチワークながらあまりに堂に入っていてパクリには見えない(私も盗用とはみなしません)という芸当ができた人でしたから。
少女まんがファンは特に顕著ですがパクリ許すまじという思い入れの強すぎる人が多いです。かつて紡木たくがものすごく人気があった頃、マンガ情報誌の上で紡木作品のワンシーンをパクっているという作品の作者(マイナー誌の新人ではなかったか。覚えていません)をマンガ界から抹殺せよといわんばかりに罵倒する女性ライターを見て、少女まんが評論はだめだ、と思わずにいられなかったことをまた思い出したので(あと、その後にいくえみ綾は紡木たくのパクリだというのが私の同世代では定説になっていた時期もありました。後になると紡木キモイって反動が来たりしていましたね)、男である私がこんなめんどくさいエントリを今書いているわけです。
紡木たくがかつてそうだったようにファンによって聖域化されてしまうとそれがオリジナルとされてそのパクリは聖域を侵した大罪とみなされてしまうような感じですが、そのような「オリジナリティ」は相当の部分が商品的属性であるって面があって、そういう力関係についてはちょっと割り切れないところが残ります。
それをアウラと誤認するような純朴な読み方は私はもはやできませんけど、だからといってマンガがつまらなくなってしまうことなどないし、あとはつい最近あったなっち盗作問題がネタになってしまったこととか(ちょwwwwwwおまwwwwwwwwひでえ)昨今話題のオレンジレンジ問題などの影響なんかを知っておくのも良いのではと思います。
■ネタでもマジレスというのが私のスタンスなので

今回の問題については芸のあるブロガーたちがもっと面白いエントリを乗せています(今なら古本屋で十分手にはいるしな)ので、まあそっちを見たりしてもらうといいんじゃないでしょうか。
2005-10-10 厄払い
ブログなるものに書き続けるというのもなかなか恥ずかしくわれながら気持ち悪いとも思うことはいつでもありまして、自分の場合マンガ中毒者としてとりあえず書き続けることで自分なりのマンガ的な文体みたいなものができないかと漠然と思ったりもするのですが、です・ますとだ・あるが混在するとかカットアンドペーストでいじくるうちにこんがらがるとかということはあっても、文章がうまくなる気配は一向にないし、辞書を引きながら手書きのほうが断然良かったと思いながらもペンを取ってみたら字は汚くなってるは思わぬ漢字が書けなくて愕然とするはで結局キーボードで変換して確かめるようなていたらくで、でも文体とか脳を鍛えるんだったらペンを握って原稿用紙で下書きするとかするめのようなものを良くかんで食べるとかしたほうがいいんじゃないかと思う今日この頃です。
で厄年なんですが、数え年を考えると今年は後厄だったようで、昨年はひどい年で二軒隣の家が全焼したり、デビューから読み続けてきたマンガ家さんが亡くなられたり、高校時代の責任感と正義感の強かったクラブ友だちが過労死したり、大学時代の畏友に二人目のお子様が生まれてすぐ亡くなられる不幸があって、疫病神を自称する私もさすがにこれは洒落になりません。高校時代の友人は東大を出て保険会社に勤めていたのですが葬儀に数百人のレベル、ひょっとして千人超えるかという参列者が集まってこれはあんまりだ、と思いました。
成熟する、というのはつまるところ死の準備が整うことだと思うわけで、身近な人が亡くなった時に感じる喪失感が自分の死に対する不条理な恐怖よりももっとつらいことを味わうことで諦めがついていくのだろうと思いつつも、結婚して子どもも育ててみたいと思いながらなんとなく実行にも移せず気がつけば四十を過ぎて、では俺がやろうとばかり結婚してきょうだいまで子供を授かろうとした畏友に降りかかった不幸もこれはあんまりだ、と思いました。
それで日記を書くことにしたのです。
■護符

休み中に読んだ本:
玉石混淆。奇妙に世の中を悟っているようにみえる人の狂気じみた正気のほうが断然面白いのだけど、現実の奇怪さがマンガを追い越しているせいか最近の活動をよく知りません。女の子はこうでなくちゃみたいな思いはあるんで好きですけどね。
南国の途中でサンデー読むのを断念しちゃったんでマガジンに移籍したのも知らなかったわけですが、ひさびさに少年誌のコミックスを買ってみました。なんというかマガジンらしいマンガになってますね。全然関係ないですが私はなんでガンダムにみんな感動するのか理解しがたいのですけどザブングルが大好きでした(ずばり「戦闘メカ」ですよ!)。伝説巨神イデオンは発動編だけ見る機会があったのですがあまりの結末に腹を抱えて笑いました(あらすじ読んでもファーストコンタクトの失敗とかトンデモでしょ)。
昨年の絶望的な気分の中ですがるように新宿ピットインで行われたセッションを見に行ったその日は至福の体験で私を救ってくれました。ジム・ブラックの驚嘆すべきドラムワークを目の当たりに見て本当に生きていて良かった。ジョン・ゾーンの考案したコブラを見たことがないのですがそれぞれのメンバーが指でサインを出して演奏を変えていくのも見ることができて忘れられないものとなりました。
埼玉で録音するといっていたその記録がリリースされましたがベースもドラムも生々しく迫ってきてとにかく素晴らしいの一言。
イグノーベル賞(イグノーベル賞 - Wikipedia)
ネット上のネタと錯覚してしまったのですが実際にあるのですね。これは面白い。
たまごっちやバウリンガルの開発者も受賞していますが、
その受賞者の中からカラオケの発明者について。Time誌の20世紀でもっとも影響力のあったアジアの20人の中にも選ばれています。
で、カラオケで「より道」を歌うわけです。ちょっと泣けますね。
2005-10-08 YOUNG YOUが休刊
えーと、タイトル通りです。眠れなかったのでアンテナを眺めていたらキャッチしました。
実際に寝耳に水を垂らされたようなショック。以前のエントリで個人的事情でYOUNG YOUの定期購読はやめるって書いたのですが、まさか休刊するとは...
なんだかんだいいながら20年前の月刊セブンティーンの休刊から創刊以来ほぼ毎号買っていた雑誌なので、私が言及すると不幸になるジンクスはこの雑誌には当てはまらないだろうと思ったのですが、ハチクロのアニメ化も功を奏さなかったのですね。コーラスをつぶすわけにいかなかったというのもあるかもしれませんが。
そういえば今月の女性誌は逢坂みえこさんの名前が目立つなあと思っていたのですが、私にとってのYOUNG YOUは逢坂さんと坂井久仁江さんが描いている雑誌でありました。もちろん一般的には榛野なな恵さんのPapa Told Meが代表的作品といえるでしょう。90年代に私と同年代の男たちが知世ちゃん萌えしていたのは間違いありません。私の見た感じでは創刊当初メインには小椋冬美さんを据えようとしたように見えましたが、知世ちゃん人気で方向性がずれたまま結果オーライで進んだ感じで、逢坂さんのベル・エポックなどが全体的な方向性を決定づけた感じでしょうか。小椋さんは意外にもその後モーニングに登場し(モーニングに描いた女性作家の中では早いほうでしょう)、結局逢坂さんも青年誌のほうを主な舞台にしていきます。
ハチクロがCutie Comicの休刊に伴ってYOUNG YOUに受け継がれたのは、Papa Told Meの魔力が今世紀になって急速に衰えていって、それを埋める萌え的なものが求められていたのではないかとうがった見方をしていますが、それが結局は雑誌の売れ行きに貢献しなかったのではないか、という感じです。
このあたりはもはや少女まんがと呼ぶべきではないのでしょうが、集英社系の女性マンガはエピソード指向で萌えのような概念は通用しないのではないか、一方でたとえば中年、老年化へのアプローチは一番進んでるような気がするし(そこでYOUのほうに比重が移るのは必然。いまや鴨居さんもきらさんもYOUで描いてるし)、別マおよびクッキーからコーラスへの距離感がハチクロが入ってくることによってどう変化するのかも気になるところではあります。
■ところで最近の少女まんがは

あくまでも勘ですが、髪の毛の描き方が人気を大きく左右しているような気がします。90年代は瞳に凝っていたのが行き着くところまで行き着いて、いまは髪の毛の質感にリアリティのようなものを背負わせているんじゃないかと。もともと少女まんがは装飾性への志向が強いと同時に、人物のかき分けを髪の毛で行う傾向が強いもので、それは単に画力の問題ではなく女性にとってヘアスタイルとアイデンティティの関わりが深いのだろうと推測されるのですが、男性でも若い世代になるとヘアスタイルへのこだわりが強くなっているし、線画という表現手段でトーンも多用されるようになると、私が感じたところでは「こどものおもちゃ」あたりでちょっと質感的に重たいと思っていたのが、多様に発展を遂げながら、80年代型少女まんが的なラフな感じよりも、かちっとした線を志向することで新しさをアピールしているように思えます。
■カラオケに行った

のどの調子が悪かったのがようやく歌っても良さそうなところまで改善したので、まあ一人で行くので仕掛けの凝った女性の曲ばかり歌っていますが、最近の曲はしっかり耳コピしないとメロディに歌詞を乗せるのが難しいですね。
- アーティスト: YUKI, 蔦谷好位置
- 出版社/メーカー: エピックレコードジャパン
- 発売日: 2005/06/29
- メディア: CD
街中で聴いてこの声はYUKIだっけ?と思いレンタル店で試聴して見つけ、レンタル処分品が300円だったのでレパートリーに加えてみました(いや歌ってみると楽しいっすよ)。これってアニメの主題歌にぴったりだなと思っていたらハチクロのオープニングでしたか...テレビのアニメは先に触れた「こどものおもちゃ」を念のため録画していたのが最後だから9年前で途切れたってもうそんなになりますか。そういえばハチクロのサントラはもう出ているんでしたっけ。
2005-10-02 微少な年齢差によるメディア体験の切断

20日に注文した伊藤剛さんの「テヅカ・イズ・デッド」が30日にようやく入荷。
3度くらい感想を書いてみたのにアップする前にデータを誤って消してしまった。
けっこう好評に迎えられているようなのでもういいかなあ。
テヅカの不在があまりに巨大すぎて、決して不快ではないのだけどやっかいで気持ち悪いすげえ本だと思います。
津堅信之さんの「アニメーション学入門」は新書でうって変わって平易な解説でよいですが、Amazonの書評に悪意のこもったのがある。
鉄腕アトムの放映された年に生まれた私はテレビアニメから手塚に入り、手塚マンガを積極的に読んでいないのだけど、ちょっと気になったことがあった。ポパイやトムとジェリーを見て育っているので、ポパイって鉄腕アトムより古いよねと思って「ポパイ テレビアニメ」でGoogle検索すると、最初に日本版Wikipediaの「ポパイ」の項目が引っかかると思う。
そこから引用すると、
日本でもずいぶん親しまれたコミックで、1959年から1965年までTBSで放映されたテレビアニメは最高視聴率33.7%を記録した(1963年1月27日放送、ビデオリサーチ調べ、関東地区)。また彼ら3人の名前はそけぞれに若者向けの代表的なマガジンの名前に採用されている。
(ちなみに雑誌名としてオリーブ、ブルータス<ブルート)
トムとジェリーは1964年からテレビ放映とのこと。
これらのアメリカ製アニメは主に戦前に劇場用に制作されたものが戦後日本のお茶の間で放映されて人気を博したものだが、「アニメーション学入門」にそのような記載は抜けている。著者の年齢は私と5つ違いだが、その違いがテレビアニメ体験としては決定的な切断を被っているのかもしれない。
それと同時に、Wikipediaの記載が正しいとして、津堅さんはまさかそれを重要と思っていないのか、それとも単に知らなくてだれも津堅さんにそのような証言をしてこなかったのか?と思わずにいられない。マンガ学、アニメーション学のようなことに対する嫌悪感は依然として広く共有されていると言うことなのだろうか。
ところで手塚治虫の晩年に一般向けに書かれた「マンガの描き方」では、マンガでは関節を意識せずにゴム人間のように手足を自由な長さで描いていいというようなことが書かれていたと思う。それはまさにテレビアニメ初期のアニメートされた可塑的身体に対応する。手塚が亡くなった時彼のマンガの本質はヒューマニズムではなくメタモルフォーゼだと友人たちと話したことがある。そのとき私の家に手塚の漫画は一冊もなかったのだけど。
TOSHI
はじめまして。時折拝見させていただいております。さて、津堅書に対する疑問についてですが、重要だと思っていないというより、そこに連続を見るか、断絶を見るかの違いではないでしょうか。海外TVまんが放映からの連続体験を重んじる見方もあるでしょうが、(受容史を記述するのであればともかく)通史として語る場合、現代から見て、相対的に扱いが小さくならざるを得ないということだと思います。
laco
TOSHIさん、はじめまして。返答が遅れてすみません。
確かに全体の構成や新書サイズでの取捨選択や、検証に関する問題で、海外製テレビアニメにスペースを割く余裕はなかったのかとも思いますが、断絶を見る、といった時の断絶をどこに見ているのかちょっとわかりませんでした。日本マンガと違ってアニメは海外に輸出され放映されて、それを日本製と知らずに見て育った世代もいるので、逆に日本ではマンガが隆盛で手塚治虫が有名なためにアメリカ製と日本製の違いを意識できた、ということはあるでしょうが、それを断絶とまでは呼べないように思います。扱いを大きくすべきとは思っていませんけど、ただ通史としても日本のテレビ上のアニメ史上の出来事として簡単に数行触れられていていいのにと思うのです。