2005-08-30 BS-2「THE・少女マンガ」の「星のたてごと」あっさり見過ごしました

水野英子さんのトークは過去に何度か聞いていますけど、昨日の放映分「星のたてごと」はすっかり記憶から抜けており、見損ねてしまいました。
最近の若いマンガ読みがこの作品を読んで、「これって少女まんが?」と驚いたという噂を聞いたことがあります。少年マンガじゃないのかって思うようですね。それなら「リボンの騎士」はどうなるのか、と気になるのですが、私はたとえばジャンプの冒険ものなどの基盤はたしかに「星のたてごと」が成立させてしまったんじゃないかって思っているのです。この作品は白土三平の「忍者武芸帳」とほぼ同時期に長期連載され、私自身はこの作品を、手塚に多大な影響を受けたマンガ家が正攻法で手塚越えを果たした最初の作品じゃないかって思っております。
2005-08-24 余は如何にしてをたくになりしか
竹熊さんのページで死後のコレクションをどうするかという話題がありましたが、あたしゃあんな有名サイトにトラックバックはようしません。ですがまず自分の場合だと、コレクターという意識ではなくて単に愛着が出てしまって捨てられないから増えただけでして、私の知る限りでは元ヲタで結婚された方はその際に思い切って処分してしまうほうが圧倒的に多いようです。とはいいながらどうしても捨てられないものが多少は残るようですね。相手の女性にそのへんの寛容さがまったくないとたぶん結婚まで行き着けません(それ以前につきあえないだろう)。
ではなぜ捨てられなくなったかというと、小学館の学習雑誌をあっさり捨てられたのが原因です(おいおい)。これは小学六年生に限りますが、御厨さと美、六田登、中山蛙などが読者ページをやっておりまして、今30代のりぼんっこなら「みーやんのとんでもケチャップ」みたいなのを覚えているでしょうが、あんなもんじゃなかった。後にビックリハウスや(あまり読んでいない)岡崎京子さんが投稿していたポンプみたいな投稿誌が現れましたが、そのルーツみたいな読者ページ(私が読んでいた時は「ハロー6ワイドショー」って名前だったと思う)があったんですな。その当時は小学館の学習雑誌が最高に売れた時期で、六年生だけじゃなくて(私も五年生でしたが)もっと年上の人の投稿があったり、全部で16〜24ページくらいあったような気がします。ああいう誌上コミケみたいなページができたのはいつ頃からなのだろうかとちょっと気になっていますが、自分の弟の時ももっとページ数はかなり縮小はされながら早稲田漫系のマンガ家の卵のような人がやっていましたけど、おたくのルーツのようなものがあそこにはあったような気がしています。
まあそれで切り抜いて永久保存版にしようととっておいたのにいつの間にか捨てられて、これからは勝手に捨てないでくれと強く頼んだのですが、それがトラウマになっているんじゃ世話ないなあ。とはいうものの、マンガの古典で岩波文庫並みに手にはいるべきと思うものが現状では手に入らないのに萌えビジネスとか言うなよ!と思うんで(といいつつ自分の年ぐらいは教養として岩波文庫を特別読んでいたわけじゃないのがイタい)、俺のコレクションと言うよりこれは日本の財産なんだと思うようにしています。図書館の本のように他の多くの人に読まれなければコレクションしていても意味ないよ。
■コミック新現実が一段落

みなもと太郎さんがいるからもしやと思っていましたが、あすなひろし特集でした。ちなみに今回私はまったくノータッチです(もうずっと前からですみません)。みなもとさんの対談連載は本にまとまるそうなので期待しています。西谷祥子さんは嫌いだと思っていたのですが今回は踏み込んで評価していましたね。米沢さんの評価とかがあるし少女まんが史的に絶対はずせない最重要作家なのは疑い得ませんが、「少女まんがの系譜」でも西谷の重要性は強調されており、ただその作品には冷酷ささえ感じさせるものがあったと記されているので、男性にとって決して心地いいものではないのだろうとは思います。「マリイ・ルウ」の冒頭のページがいったいこれは何だろう、って感じですからね。
過去の号でみなもとさんが富永一朗氏についてちょっと語っていました。ある意味ですでに伝説化された谷岡ヤスジ氏と比べてみても、富永一朗という作家はデビュー当時からかなりぶっ飛んだ漫画家なのですが、そのへんが評価されていないんじゃないかって気は、私はします。呉智英氏にとっての谷岡ヤスジが、柄谷行人氏にとっての中上健次と同様の関係になっている感じでしょうか。
2005-08-22 自転車に乗って
昔は自転車で本屋をはしごしたことを思い出したので、ちょっと書いてみます。
子供の頃から父親の方針もあって小学館の学習雑誌を購読していた私は、5年生で購読を終えてしまったあと、当時の少年誌にはちょっと手が出せず(当時の私にとってそれは過激だった)、もっぱら推理小説を読んで、小説のトリックとストーリーを考える(登場人物全員が犯人で全員殺されるにはどういう展開が考えられるか、とか)生活を送っていたのですが、里帰りをきっかけに当時人気のあった少年チャンピオンを買ってもらいました。そのなかに「青い空を、白い雲がかけてった」の中の「童話」という一編があって、それはチャンピオンという雑誌の中でもものすごく印象に残る作品でした。ラストシーンが見開きいっぱいの金魚の花という絵で、あと途中のギャグで、ページの上に作者の手が原寸大で書き込まれるシーンがあり、当時の本宮調主流の絵柄からはまったく違う細い線で、この出会いがなければマンガ読みに戻らなかったかもしれないのですが、そのあと八王子の古本屋にチャンピオンのバックナンバーがあるのを見つけて、掲載号を見つけに行った(不定期掲載のシリーズで連載でなかったため)のがきっかけでした。その後ビッグコミックスピリッツが創刊されてこれも最初のうちは買えなかったのですが、買うようになってから「めぞん一刻」のオリジナルカラーが読みたくなって、古本を探し回って、高円寺で見つけてもともと200円の本を2000円で買うような感じでオタク道にはまっていったのでした。中学の頃は女の子にもてて品行方正な優等生だったので、離れた町の小さな本屋でこっそりエロ雑誌を読むようなガキでしたが、はしごして一冊の本を分割立ち読みしたり、金額的にちょっと手が出せない「ロック・マガジン」というロック雑誌がおいてあって立ち読みしやすい店に遠征したり、ということをやっていたのでした。マンガの古雑誌を扱う古本屋が少なかったこともあって、大学に入ってからも別マやデラックスマーガレット、ザ・マーガレットのバックナンバーを探しまわって一日過ごすようなことがありました。そういう青年期を過ごしてきたので、今こんなんなってます。
■今日のマンガの居場所

今日の毎日新聞夕刊はマンガの居場所を掲載。担当はヤマダトモコさんで、りぼんの「乙女ちっく」再考です。
ところで乙女ちっくの傍流というのはなんですが、岩館真理子さんと同時期にマーガレットで桂むつみさんという作家がいたんですが、「少女まんがの系譜」ではちゃんと紹介されていました。中学の初めで父が闘病中に病院で多少読む機会がありましたが、あたらしたかかずさんという男性作家もいましたね。乙女ちっくの流れはブームが去った後にも細々と続き、ひとみの曽根富美子さんから、80年代の終わり頃には巻野路子さんあたりまでが細々と受け継いでいたことを知っていますが、とうにブームは去っており、巻野路子さんの作品などはなかなかの佳品が多かったので(乙女ちっくなのに彼氏を裏切ってしまうようなストーリーにまで「進化」した)、有名でなくても80年代の少女マンガ史の中に位置づけておきたいです。
2005-08-21 すごいぞ赤帽さん

週末は猛暑になり汗だらだらになって部屋の整理をしました。運動不足と中年化でまず腰に来て、寝る場所もないところで段ボールにもたれて休み休み作業を進めましたが、最初の目標の7割で力尽きタイムアップ。土曜日曜と赤帽さんに搬送をしてもらいました。むかし今のアパートに引っ越してきた時には運送屋さんにけっこうな料金を取られたのでレンタルスペースを借りる発想自体が出てこなかったのですが、レンタルの相談に行った時に無料搬送サービスはは赤帽さんに頼むという話が出たので、実際に赤帽さんに話を聞いてみたら想像していた料金よりもはるかに安いのでびっくりしてしまいました。私は車どころか運転免許を持っていないのでレンタカーを借りて弟に頼んで送ろうかと思っていたのですが、経済は流通が支えているのにこんなに安くていいのだろうかと思うくらいで(運送距離と時間は最短の範囲内だからということはあるのですが)、俺は自分のもらっている給料ほど世の中の役に立ってないじゃんって激しく落ち込みましたが、ビジネスライクだった引っ越し時の運送屋さんよりもずっとフレンドリーだし、不健康な生活を送っている私には正直言ってまぶしいほどでした。今回使ってみて組合のシステムとかもちょっと教えてもらったし、運べる量がどの程度かだいたいわかるようになったので、これからも使わせていただきます。それにしてもやっぱり体を動かさないといけませんね。最近はお天道様もろくに浴びない生活をしているのでなまった体にガタが来ていましたが、日の光を浴びないと鬱になりやすいように思いました。
それにしても、日頃していなかったほど体を動かして疲れたあとだと、世界の見え方まで変わるようです。30代の初めまでは休みの日になると一日3時間から8時間くらい何十軒も本屋に通って立ち読みするために自転車に乗っていたりしたので、それはそれでとても変な生活ではありましたが、今体の調子が悪いのはやはり運動を怠っているのが大きいのだと痛感いたしました。
2005-08-19 週末は大掃除
日常的にいろいろな人にに迷惑を掛けまくっているので(特に職場の人。本当にすみません)、この週末は思い切って部屋の掃除をします。しばらく不要なものはレンタルボックスに入れて、書誌の整理と簡単なデータベースのデータ抽出ができる環境を作って今年中に長年の懸案であった情報の整理をする予定です。
■マンガ論本のラッシュ

伊藤剛さんのマンガ論の著作の告知がNTT出版の告知にあり、タイトルにちょっとびっくりしました。夏目房之介さんの名著「手塚治虫はどこにいる (ちくま文庫)」が出てすでに十年以上たっていますが、なかなか夏目さんの切り拓いたマンガ表現論の地平をさらに広げていくという作業が私の立ち位置ではなかなか見えてこず、それに不満を持っていた自分自身もまた書けないまま来てしまったという感じです。本格的なマンガ表現史研究の成果が待たれる宮本大人氏もすごい本だとお勧めされていましたので括目して待ちたいと思います。
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
http://www.nttpub.co.jp/vbook/list/detail/4129.html
先に出た竹内オサム氏の「マンガ表現学入門」は入門と呼ぶにはいろいろと錯綜していている感じがして、夏目さんの「マンガはなぜ面白いのか」などに比べると読みにくく、だいいちまだ「マンガ学」すら進行形のなかで「マンガ表現学」と銘打つのはちょっと苦しいと思いました。著者が内容の文章で「マンガ表現学」という言葉を特に使っていなかったようなので、これはこういう題名のほうが売れるというマーケティング的な判断と受け取ったのですが、「マンガ表現論概説」とか「表現論序説」みたいなほうがむしろ実態に近いような本じゃないかとおもわれます(「ビランジ」とか購読しようと思いつつしていないのであまり強く批判したくはないのですが)。パースの記号の分類なども出てきて期待したのですが、そもそも記号って何だという疑問に引っかかる私にとって(たとえば記号的身体とは何なのか、ただの記号に過ぎないという言い方をみんななぜ簡単に受け入れてしまえるのか。たとえばちばてつやの描く少年主人公の鼻は記号的であるといってもそれが顔の真ん中になければ鼻と認識できるかどうかも怪しいのではないかとか、ならば記号的表現のほうがリアルな表現よりも高度ではないかとか)十分に答えてくれるものではなかったです(これは大変ですけど学者ならやはりもう少し期待したい)。
この本については伊藤氏が批判も含めて紹介しておりますので、それも参考になると思いますが、ひとつ付け加えるとしたら、巻末にこれまでに出された表現論的アプローチの論文集(紀要などに掲載されたものを含む)があって、学術論文としてマンガ論を書くならば先行研究をきちんと抑えずに書くわけにはいかないと、昨年研究発表の報告書を書いて夏の暑い中頭が煮詰まってギブアップしそうになった(結局不本意なへろへろな形で出すようになってしまった)私自身は痛感いたしました。そういう意味ではマンガ論をめぐる現状認識として参照する必要があるでしょう。
そして竹内氏のこの本を読むならば、醍醐書房から出た「マン美研」も読むことを強くお勧めします。それから入門書としてはやはり夏目さんの著作のほうがよくできているので、問題なのは夏目さんと竹熊さんなどによる「マンガの読み方」が現在入手困難であることだと思われます。
- 作者: ジャクリーヌベルント, Jaqueline Berndt
- 出版社/メーカー: 醍醐書房
- 発売日: 2003/01
- メディア: ?
「マンガの読み方」を元に夏目さんがあらためてまとめた本はこちら。
秋田孝宏氏の「「コマ」からフィルムへ」も伊藤さんによってすでに紹介されておりますが、副題に「マンガ映画」という言葉が使われているように、マンガとアニメのメディア的特性の違いやそこから出てくる表現手法も含めて包括的に論じられている本だと思いました(まだきちんと目を通していないところがあるのでごめんなさい)。いずれにしてもようやくエンタテインメントのためではない学問を目指した研究書が書籍として出るような状況になりつつあるのは私はよいことだと思います。
モンタージュに関しては映画のほうに理論書はあるはずなので、そのへんは映画をそれほど見ていないのが弱点な私は(エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」やウェルズの「市民ケーン」くらいはさすがに見てますけど、これは最低限見ておくべきものであってやはり貧乏性だと映画を見る余裕がなくなりがちです)、古本屋やフィルムセンターで本を探してみましたが、これも意外と見つけにくいものです。とりあえず次の本は読んでおきたいと思いましたが。
あとこの本は最近出た包括的な本でもっと入門として読みやすく、ゆっくり読んでいます。
私が竹内氏の著作よりもまず夏目氏のほうを入門としてお勧めする理由は、マンガだけが持つ特性へのフォーカスが夏目さんのほうがずっと原理的根本的であるという理由です。マンガにおける映画的手法の導入に関する解説は、もしマンガをコマのシーケンス(線条的な流れ)として見ていく限りであるならば、映画的モンタージュの手法の応用がいつどのようにして起こったかという歴史的な経緯が主に問題とされがちで、私はどちらかというと「同一化手法」というものにマンガ表現にとって決定的な意義をさほど見出せない感覚が強い、もちろんその手法のマンガ的に固有の特性が論じられるならばそれはいいのですが、誰が始めたとかということにはさほどの重要性を感じないのです。それよりは夏目氏の提示した「間白」の概念のように、マンガ表現に固有の概念を提示してその本質に迫ることのほうが興味があるのです。
たとえば昨年雑誌として出ていた「ジョーと飛雄馬」を読むと、明らかにコマの間白の取り方に違いがあることがわかります。ちばてつやさんは縦の間白と横の間白の間隔に違いがなく、一方で川崎のぼるさんは段をまたぐ横の間白をコマとコマの間を示す縦の間白よりも広く取っています。この間白の縦横比に違いをつける手法は、川崎さんは特に早いころから取り入れていて、このようなやりかたがいつどこで起こったのかということは私にとっては手塚をめぐる「同一化技法」以上に興味をそそるものであるわけです。横の間白は段をひとつ下げることになるので、夏目さんの言う「間白」の性質は縦の間白に比べると薄れます。これは普通の書籍で言うところの行間にむしろ近づく。些細なことのようですが、これは漫画家によってもどう割るかが定まっていないし(たとえば原秀則氏と細野不二彦氏ではずいぶん違う)、少女マンガが一見奔放に見えるコマ割りをしていたり(これも作家によってさらにさまざまです)ジャンプのマンガを見ると間白の縦横比はかなり極端に違うように書かれているというようにいろいろな変遷があったりします。
またマンガは書籍の形態をとっていて、これはぱらぱらとページをめくれるようになっていますが、ディスプレイの画面ではひとつの画面にマルチウィンドウにしてもページをめくって読むこととは読み方に歴然と違いがあるわけです。私はマンガを再読、三読するときには好きな場面から見たいところを適当に飛ばしながら自由に読み返すようになるのですが、それはそのまま現状のデジタルな固定平面のスクリーンでは困難です。ランダムにアクセス可能というDVDでもテープレコーダーのインターフェースからさほどの進化もなく、本の自在に読み飛ばす性質を受け継いだインターフェースが確立していないし、そもそもそれが可能なのか疑いさえ持っています。デジタルマンガに天才が現れるとしたら私が思うにマンガ以前にそうしたインターフェースの問題を明確に意識している人であり(デジタルマンガとアニメーション、コンピュータゲームの現状ではややあいまいな境界は現実にあるのか、あるとすれば果たしてどんなものになるのかということがとりあえず考えられる)、それは映画的手法を漫画に採り入れることよりももっと画期的なアイデアが必要とされると思うのです。中野晴行氏の「マンガ産業論」は、津堅信之氏の「日本アニメーションの力」(この本は宮本大人さんのはてなダイアリーで以前に紹介されていて読みました)とともに手塚治虫のアニメーションに対する貢献を示唆した優れた本でしたが、最後には「デジタルの手塚治虫はどこにいる」という問いかけになってしまっています。(私はここではかつて「イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)」という本を挙げて手塚のアニメーションを破壊的イノベーションとして評価してみましたが、ちなみにこの本の原題もInnovationではなくてInnovator's Dilemma、イノベーターのジレンマです。しかしこれもマーケティングなのか、なぜ意訳するのでしょう)
なお、産業論としてはマンガ産業を考える上でも示唆に富むたいへん優れた本が新書で出ていることも以前紹介しました。
以前証言として貴重だと述べた「少女まんがの系譜」でもまた、天才が一人出てくれば状況は好転するんだというふうにいっていて、それは結局は将来の展望が見えないという率直な告白であるとともにメシア待望論になってしまっているので、こういうことに対する、今のマンガの豊穣さを見ていないという伊藤さんの批判は確かに正当なものだと思いますが、表現論が必要とされるのは、まさにマンガとアニメの特性の違いとか、デジタル表現の場合ならばどうなるのとかそういうことを考える上でもっと踏み込んで考える余地が十分にあるものだと思うのですから、映像のリアリティにとらわれずに、マンガを文学と対比させるだけではなく美術との関係でマンガを考えてみるとか(現状ではこちらがやや欠けているように思います。表現論はこちらにもかかわってくるものですし)、マンガというメディアそのものが好きな方はぜひ表現論にチャレンジしてみてほしいと思います。私もまたいろいろ考えてみたいと思います。
2005-08-15 戦争とマンガ
戦後60年が経ったわけですが、前々からテーマとして心の中に思い続けていたことをちょっと書いてみます。
まず「サザエさん」なのですが、サザエさん一家はなぜ皇室ご一家と似ておられたのか。もちろんサザエさんは美智子妃であり、波平が昭和天皇ということです。日本の景気がよかった頃に一億総中流なんてことが言われていましたが、その中流のイメージというのはおそらくはアメリカの中流家庭のイメージを戦後の皇室が担って、それが「サザエさん」によって国民の間に定着したのではないかと思ったわけです。そのイメージが崩れてしまったのが昭和天皇の崩御であり、90年代以降日本の国民は中流のイメージを見失ったまま宙づりになって現在に至っているのではないか、というのが私の仮説なわけですが、サザエさんというマンガが福岡のローカルな新聞から全国紙に移ってやがてアニメ化され国民的漫画になっていくうちにどのようにわれわれ日本人に受容されていったのかということを知りたいと思っています。それから手塚治虫ですが、彼もまた戦後におけるマンガの「神様」であり、ある意味で見事なまでに戦後日本マンガの象徴となった、という点ではおそらく日本人にとって戦後「人間」となった天皇の人気と似たような受け入れられ方をしたのではないかと思います(ある意味では私も戦後の昭和天皇のファンであったし結婚を巡って悩む現在の皇太子にもある種のシンパシーを感するところは確かにある)。これは右翼とか左翼とかなどとはまったく関係なく、非常に日本的な出来事だったのだと思っているのですが。そういうふうに考える私にはマンガを研究している人の中でこういうことを考える人があまりにもいないようにみえるのはちょっと不思議です。なので私は手塚の登場によって戦後マンガの始まりを区切るよりも戦前との連続性に重きを置いて考えてみるほうがやはり重要なことなのだと思っているのですが。
■キッチュからスーパーフラットへ

私はそれほど美術館によく行くほうではないので、前日に記したように先月に画廊に行ったのですが、画廊という場所に入る機会自体がほとんど無かったりで、石子順造氏が関与していた静岡の「幻触」というグループについても特に下調べもせずに出かけていったりして風変わりな来客としてちょっととまどったりもしたわけですが、私が現代美術に興味を持ったのは高校時代に高松次郎氏の影の絵画を見てこれは面白いと思ったことから現代美術展を時々見に行くようになった、ということがあったのでした。影の絵画というのは文字通りで、「影」がペインティングされている絵であり、その絵を見るときに自分の影もその画面に映ったりしてとてもわかりやすい面白さなわけですが、「幻触」の作家の作品にもそういう視覚のトリックを使った作品があって、一方でもの派の先駆けのような石の作品もあるというということで興味深いものでした。石子順造氏については夏目房之介氏も竹内オサム氏も引用はしているものの単にマンガ表現論の先駆けとしてコメントしているだけで、実際どの程度のことを言っていたのかわからず、美術とマンガがどうリンクしていったのかもう一度読み直してみようとは思っているのですが、実家に石子氏の著作があるはずなのですがまだ見つかりません。
石子氏は1967年に最初のマンガ論でデビューして、その翌年に中原祐介氏とともに「トリックス・アンド・ヴィジョン」展を企画しています。その頃関根伸夫氏が「位相−大地」というシリーズで非常に有名な一連の作品(これも土を掘って円筒形に盛った作品などある意味わかりやすい)を出して、そこから「もの派」という動きが出てきます。一方の石子氏はマンガからキッチュを経て最後には丸石神の調査という風に「美術」から離れていくのですが、石子のペンネームは昭和30年頃から使い出したらしいので、なにか因縁があったのでしょう。
それから時は経ち、90年代の初めくらい?に中原浩大氏がレゴ(おもちゃのブロック)を17万個くらい使った作品を出して、これがまたある意味でさきの関根伸夫氏の「位相−大地」と同様に実に現代美術らしい作品なのですが、この人が海洋堂のフィギュアに着色したものを作品として展示して、そこにランドセル・プロジェクトなどをやっていた村上隆氏が田宮模型を用いた作品などで加わってネオポップと呼ばれる動きにつながっていき、やがてスーパーフラットというコンセプトになる。石子氏と村上氏とでは向かうベクトルは全然違うのですが、中原氏に比べると村上氏の作品はやはり批評性が強く出る傾向があって、一昨年に行われたらしい石子氏を回顧したシンポジウムの記録が出ているのですがそこでも村上隆氏が話題になっていて、背景など比較してみるのは面白いかもしれないと思っています。
参考:
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/0402_02.html
たまたま昨日部屋の掃除中にアノーマリーのCD-ROMを見つけたので書いたのですが(今のPCやMacで見られるのかいまのところ不明)、李禹煥展が9月から横浜美術館で開催されるとのことで記しておきます。
http://www.yma.city.yokohama.jp/exhibition/2005/special/03_leeufan/
2005-08-13 再び都心へ

フィルムセンターで行われている「発掘された映画たち2005」では今日の1時からの回で中国で作られたアジア初の長篇アニメーションという「鉄扇公主」(1941)が上映されることがわかっていたのですが、結局思い立ってから出かけるのが遅すぎて、1時までに京橋に着けなくて(それよりも休日ならば早くから見ようと並んでいた人が多かったに違いない。何時頃定員に達したのだろうか)、戦前の貴重なフィルムをビデオで見ることのできる常設展などを見に行ってきました。
水曜日に見た「怪傑ハヤブサ」はモンタージュがなかなか大胆で楽しかったのですが、大胆な省略や暗示的手法(倫理的な配慮から殺人や性的行為などを直接映像で見せないで示すもの。)はなんでも映像化しようとする昨今ではけっこう少なくなっているのかもしれません。常設展の中で異彩を放っていたのに大藤信郎の千代紙アニメーションがありました。とりあえずこれで元はとれたという感じ。
それから都心に出た機会だからと六本木に行き飴屋法水氏の美術イベントを見ることにしました。最近また椹木野衣氏の著作を読むようになり、昨年の「レコード・コレクターズ増刊 JACKET DESIGNS IN JAPAN」(備酒元一郎 編)などは私にとって昨年の出来事ベスト3に入るような意義あるものでした。私がもともとマンガを論じようと思ったのがシミュレーショニズムやアプロプリエーション(流用)にかかわるところだったので椹木氏の著作には常に関心がありましたが、最近石子順造氏の美術評論家としての再評価に結びつくようなことにも手をつけており、私も昨月に石子氏がかかわっていた「幻触」について画廊まで見に行ったりしました。大阪の国立国際美術館では10月から冬にかけて「もの派-再考-」展が開かれるようですが、ここで「幻触」についても展示があるらしいとのことでしたので、動向に注目したいと思っています。以前採りあげた美術手帖の7月号にも大きくフィーチャーされていた李禹煥氏が、石子順造氏との間に深い交流があった頃、それと並行して石子氏とつげ義春氏は毎日のように会っていたということで、あの「李さん一家」は李禹煥氏の名前から採られていたと考えるのが自然と思われます。
2005-08-10 フィルムセンターで平成の鳥人に会う
マンガについてはとりあえずそれなりにノルマを課してきたのですけど、映画となるとなかなか見ないありさまで、先月久しぶりに「ミリオン・ダラー・ベイビー」を立川の音のいい映画館で見に行って、これは「許されざる者」も見ないといかんと思ってレンタルでDVDを借りて見たのが実に久しぶりという有り様でした。ぴあのような情報誌も目を通していないので、フィルムセンターで昔の日本映画を定期的に上映していることも恥ずかしながらよく知らなかったのですが(実のところ文芸坐にも岩波ホールにも入ったことがないし、それ以前に美術館のイベントをチェックしていないなあ)、現在もっとも深くマンガ研究を行っている宮本大人さんが見たいといっていたハヤブサ・ヒデトの映画が、定時退勤後に間に合うことに気づいたので見に行ってきました。私はこの人のことを知らなかったのですが、映画を見終わって帰ろうと思ったところ、あすなひろしプロジェクトの中心的な役割を果たしたポンピドー氏に遭遇。いや、あのポンピドーさんなら来ていてもなんの不思議もないのですが、驚きました。ヒーローは神出鬼没というか、危機にある時になぜかそれを察知するように現れるものですが、さすがに生前のあすなひろし氏の消息がつかめるとひょいと会いに行って、国会図書館にも通って作品リストの骨組みをほとんど独力で調べあげてしまった彼は、フィルムセンターにもよく通っていて、戦前の大都映画のハヤブサ・ヒデトの映画も前に見ていて、ちょっと年をとったせいか動きが少々にぶかった感じだったそうです。ハヤブサ・ヒデトは昭和の鳥人と呼ばれて知る人ぞ知るアクションスターだったということですが、大正の鳥人もいたこととか(マキノ映画の高木新平。この人はとても有名で私も名前だけは聞いたことがあった)、「サザエさん」の映画の話とかしてくれました。ポンピドー氏は今年に入ってからもあすなひろし作品リストのさらなる充実のために発掘作業や初出の確認などを行っていたそうで、追悼サイトの活動の足を引っ張っているのではとおそれている私は彼には頭が上がりませんが、ひさびさにリラックスして人と話す機会を得られたのはうれしいことでした。コミケットには「あすなひろし選集」の新しいのが出るそうで、私が心待ちにしていたポエムコミックからも本になるようですが、これが連載されていた「女学生の友」におけるマンガ連載の変化の話なども聞けてとても興味深いものでした。
しかし考えてみればあすな氏の「青い空を、白い雲がかけてった」の中には、ハリケンハッチとかロバのパン屋とかなんだか当時の中学生には古くてよくわからないネタがギャグになっていましたっけ。
■アップルの新しいマウスを使ってみる

というわけで京橋から銀座までポンピドー氏の話を聞いてから閉店間際のアップルストアに行き、マイティ・マウスを買ってみました。MacOSXになってから3ボタンマウスが使えることは公然の秘密のような感じになっていて、なぜAppleはワンボタンマウスしか出さないままなのか訝しんでいたので、とにかく出たという感じ。デザインを見てホイールマウスの縦スクロールが前後左右使えるようにしたものだとはなんとなくわかったのですが、この真ん中にある小さなトラックボールのようなものがあまり使い勝手はよくない感じです。初期設定で(添付のドライバをインストールしないで)ブラウザを使ったところ、ボールを転がす時に左右の動きがけっこう起きるのか、進むと戻るの移動が頻繁に起こって最初は何がなんだかよくわかりませんでした。このへんは慣れるものなのでしょうか。ゲーム機のような十字ボタンのほうがここに限っては使いやすいのではと思いましたが。左右のクリックは適当に押してもちゃんと認識されるのでとりあえず右クリックする分には問題ありません。
2005-08-05 部屋がとても暑いです
私の仮住まいは夏になると蒸し風呂のようになり、今温度計を見たら30℃、湿度は60%でした、今朝も30℃だったんですけど。以前町田の外れに住んでいた時は30平米2Kの間取りで風呂トイレ付きで家賃が47000円というアパートでしたクーラーがなくてもそこそこ過ごせたのに、今の家賃7万円のほぼ同じ広さのアパートは天井も含めて隣の部屋がないという構造なので外の温度と変わりがなくクーラー2基でも効果がないという場所なので、夏になると体調がひどく悪くなる(会社では冷房が効いているので昼よりも夜のほうが暑い)。引っ越ししたいのはやまやまですが我慢していたら本やパソコン関連機器がやたら増えてしまった。特に雑誌。少女マンガ雑誌はもうこれ以上集められないので誰か後を継いでください。これからも好きな作家が描いていたら宙出版やあおば出版でも買いますけど(というかこちらがメインなのがつらい)、YOUNG YOUあたりは男性読者も多いだろうし年齢的にも40歳過ぎたのでいいかげん整理に向かわねばならず、今後はたぶん漫画喫茶などで読むようになるでしょう。
■iTMS日本上陸とタワレコ

8/3にaikoの新譜シングルが発売されたのですがうっかり忘れていて、今回はドラマの主題歌だったり発売が一日早くフライングする店もあったりで初回限定盤が手に入らないかとあきらめていたら、なんととある店で初回盤を手に入れたのみならずメジャーデビュー前のCDも売ってはいないものの試聴できました(どんな影響が出るかわからないので店の名は伏せますが、勘のいい人なら見つけられるはず。BABY PEANUTSに入会すると特典で買えるのでしょうか?まあ無理して手に入れる価値ががどの程度あるか)。あらためてググってみたらインディー盤の収録曲もちゃんと載っているサイトが多数ありました。2作目の「Girlie」は島田昌典氏がすでにアレンジャーで参加していて、このへんはキリンジなどと似た感じがしますけど、キリンジほど作り込まれた音ではなく、やはり作曲の才能が際立っている感じ。なおaikoの初回盤は、今年になって「桜の木の下」の初回盤があっさり中古で手に入ったりしてプレミアはほとんどつかないでしょう。
- アーティスト: aiko, Masanori Shimada
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
- 発売日: 2005/08/03
- メディア: CD
(これは通常盤)
また別の街のタワレコ某店では木村カエラの出演していたTVKテレビのsakusakuのDVDの試写もやっておりました。「巨神兵がドーン!」というのはこの番組が元だったのか!サクサカーという言葉があるくらいだから結構人気があったのですね。
- 出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
- 発売日: 2005/03/09
- メディア: DVD
Coccoが引退してからJ-Popのアルバムでトータルで楽しめたのはaikoと木村カエラくらいしかなくなってしまって(Singer Songerもアルバムはイマイチだった)、あとはTSUTAYAのレンタルで借りるのが普通になりましたが、iTMSは1曲150円ならカラオケ用にヒット曲をダウンロードするのに使うかも。
タワレコではいまタワレコ良盤発掘隊という企画をやっていて、1500円から2200円くらいの輸入盤を紹介している。やはり名前は知っていても聴いたことのないアーティストだとこういう企画をきっかけに買うのが当たりという感じがします。
結局、世界中で一番影響力のある日本人女性ミュージシャンかもしれないイクエ・モリがアート・リンゼイ等と結成したDNAのアルバムと、企画とは関係なくSlintのSpiderlandを見つけて購入。
- アーティスト: Slint
- 出版社/メーカー: Touch and Go
- 発売日: 1994/03/31
- メディア: CD
■ニューウェーヴ以後とHentai

Spiderlandはスティーブ・アルビニのプロデュースでしたっけ。アルビニはゼニゲバ以外に日本のバンドをプロデュースしているか私もよくわからないのですが、みやわき心太郎の「THE レイプマン」をそのままジャケットに使って、さらにはRapemanというバンドまで作ってしまい、このバンド名が非難を浴びて解散に追い込まれたなんて逸話を残しています。
- アーティスト: Big Black
- 出版社/メーカー: Touch and Go
- 発売日: 1992/10/28
- メディア: CD
- アーティスト: Rapeman
- 出版社/メーカー: Touch and Go
- 発売日: 1994/08/31
- メディア: CD
丸尾末広を起用したジョン・ゾーンに比べればおとなしいものだと思うのですが(COBRAは玖保キリコの傑作ジャケットでしたが再発盤はジャケットが変わってしまいました。高円寺に住んでいたゾーン氏は玖保キリコの大ファンだったらしい)。残念ながらはまぞうでジャケットは見つからず。
それから明らかに日本びいきのジム・オルークは友沢ミミヨを起用していましたね。
今回は前半と後半の落差がとてもひどいものになってしまいました(玖保キリコがあればちょっとはましになった、ということもないか)。日本に詳しい外国人はHentai(すでにこの綴りで通じる。Googleで200万件以上引っかかる)について一般の日本人が考えているよりもずっとよく知っているかもと思われます。
“あの〜”なんてもんじゃなく単なる一介のファンなんだけどさ(笑)
映画といいますと、「喜劇 駅前漫画」って知ってます?
駅前シリーズは有名だけど、オバQやおそ松くんがアニメで出てくるってやつで、これがシネマアートン下北沢で9月10日から16日まで上映されます。
この当時(1966年)の漫画ブームを色濃く反映した作品としては、松竹映画の「暖春」もそれに該当しますが、これはむしろ小津安二郎の遺作シナリオの映画化いう点で認知されているようです。
書誌だのリストだのを作ってる人というのは、むろんそういう作業や対象となっている作家が好きな訳で、楽しんでやっている筈なんだけど、まあ、どっかで愚痴りたい思いに駆られる時が絶対にあると思ってます。何せ労力に比して報われるところがこれほど少ない作業はありませんから。一行のデータを確定するのに大袈裟でなく丸一年を費やしてしまう場合もままあります。それでいて書誌データなんてひとたび公開すればあとは自由に使い廻されますから、作成者の努力はほとんど闇の中に消えてゆくだけのものなのです。
(実際、自分が過去ネット上で発表した某テレビアニメについての詳細リストが商業誌でそっくり使われていたという経験あり。)
ネット検索すれば情報が簡単に入手できるものだと思われ勝ちな昨今、貴君のようにそれを作っている側の努力に思いを馳せてくださる方がいると思うと、今後の励みにもなります。