2005-05-31 大人は判ってくれない
前回書いたことの続きとして。
これが、「エヴァ」をR.D.レインを元に論じたものでした。
女性が書いたやおい論、というだけでも類書がほとんどなく、一読の価値があります。*1
斎藤環氏が
「フレーム憑き―視ることと症候」でこの本を紹介していますが、それもこの本の解説に入っています。ここで斎藤氏は、性愛と欲望の原理に帰結してしまう「転移」「投影」「同一化」以外に、「関係」を記述する言葉が精神分析に決定に不足しており、それは常に「男の精神分析」でしかありえなかったといいます。
以前「おんなのこ主義」「アンチオトメチック」について記しましたが、いかに少女について「汚染されたもの」として距離をとろうとしても、男である限りは欺瞞となってしまうことは避けられませんでした。私にとっての「萌え」は、萌え要素に分解できるようなそれではなく、それを所有しようとすることで失われるようないとおしさにちょっと似ているように思えます。
未読ですが、美少女と萌えについて書かれた本として興味深い。
私の萌え体験は、小学六年生に載っていた「坂道のぼれ」の広告、新井素子のデビュー作の写真、若きソンタグの写真(これは大人の女性ですが私が萌えを考える上でははずせないもののひとつ)から始まっていますが、大学時代などロリコンマンガに萌えられないので自分が萌えるキャラクターの創出を試みてはいました。「うる星やつら」のしのぶや「さすがの猿飛」の魔子ちゃん、「めぞん一刻」の響子さんにも萌えに近い感覚を感じたような。
ところで前々から疑問に思うのは、ショタコンの語源がなぜ「鉄人28号」までさかのぼらなければならないのかと言うことで、同人誌の鉄人のパロディがあったのがショタの起源というふうにしか考えがたいのですがどうなんでしょうか。
大学時代に、僕は2次コンですと言っていた後輩がいました。生身の女の子とは距離をとりたかったのでしょうか。実は自分も同じですね。恋愛すれば性的な関係に行き着くことが可能な年齢ですから、近寄ってくる女性が無防備すぎるのが、それでいいのか という感じでうまくつきあえませんで、ただみんな嫌いなタイプではなかった。親切にすればするほど人を傷つけるジレンマに悩んでいた頃で(繊細な人とのつき合いが多かった)、自分がプレイボーイならふたまた平気でかけたりしていたかも知れません。
■大城のぼるの「愉快な鉄工所」

- 作者: 大城のぼる
- 出版社/メーカー: 小学館クリエイティブ
- 発売日: 2005/06
- メディア: 単行本
漫画研究者の宮本大人(大人と書いてひろひと、と呼びます)さんがはてなにブログをはじめられました。
彼の功績がいかに大きいかは、このような本がオールカラーで出るような再評価をきちんとされてきたことにも現れています。早速書籍を購入しましたが、完全復刊で箱の中にある本は「鉄工所」と「鉄工場」と両方使われています。この作品が単なる夢落ちを軽く超えているのは漫画内に描かれている犬と作者が会話して、作者がこれから描く漫画のキャラクターと一緒に出てもらう旨を語ってから、作者が床につくというふうに実にこみ入っているわけです。地球儀のシーンとかも独創的。あと一番気に入ったのは、冒頭の4ページにわたる自転車を走らせるシーンです。これは実に不思議なシーンで、後に現れるアニメーションの世界に登場人物が入り込んでしまうシーンの予告かもしれない。実にアニメーション的なのです。
付録の読本は竹内オサム、小野耕世、宮本大人、日高徹の4名ですが、日本の漫画研究はこんなところまで来ている、ということがこれを読めば判るでしょう。3600円もこの内容なら間違いなく買いですので、迷っている方はお急ぎのほどを。
■アニメについてもう一度考えてみよう

未読。
ちょっとアニソンの話題を出したりしましたが、僕ぐらいの世代がよく見ていたアニメに関する裏話のようです。産業論とまでは行かないまでもきわめて貴重な資料なのでは。これから読んでみます。
「Jポップとは何か―巨大化する音楽産業」についての第一の異論は、作家の匿名化現象を商品化と考える根拠の薄弱性にあります。表現欲の高まりは認めても、人間関係に対する自信の喪失(『ダメ』感情)が匿名化を進める傾向があるのではないかという仮説です。
著者は例えばカーディガンズについて、本国スウェーデンでは数万部しか売れていないのに日本では40万枚ヒットして、それは女子高生マーケティング/プロモーションによる「飛び道具」と書かれていますが、実はCardigansは世界的にヒットしたんですね。アバやビョークほどでないにしても。日本ではおかしなプロモーションをしなければ洋楽は売れない、と言うことなのでしょうか?
これは「産業論」が数値によって判断する罠じゃないかと思います。著者が洋楽にコンプレックスを持っている分が図らずとも現れているのではないか。
私はあまり興味ないのですがピチカートファイブの90年代は世界進出でした。Zappaと同じ知名度があったそうですけど(苦笑)。1998年をピークにバブルがはじけたのは私などはこれでまともに戻る、と言う感覚でしたね。そして2000年にはアメリカでドット・コム・バブルがはじけている。日本だけでなく世界的に音楽ソフトの受難となる。
90年代のアメリカで大ヒットしたのはニューカントリーで、ガース・ブルックスなど1000万枚も売れたと言いますが、日本ではどうでしょう?Utadaがアメリカで売れないのと同じことなのでしょう?
日本の音楽がアメリカで売れないのはプロモーションの誤りと言葉の壁でしょう。大友良英氏や藤井郷子さんの活躍はJ-Popとは無縁ですが、世界的にきわめて高く評価されているわけで、大衆音楽なんてものは易々と国境を越えたりはしないものです。
2005-05-29 境界例とあるマンガ世代
私の書くものについて、境界例的である(読むことで不快に感じることが十分考えられる)ことをまずお断りしておきます。マンガを娯楽として楽しみたい人はここは読まないように。今後書くかどうか悩むところですが今回だけあえて挙げてみます。
境界例というのは、神経症と精神病(うつ病、統合失調症)の境界という意味で使われたものだそうです。現在この言葉はいろいろと誤解を招くため(たとえば正常と異常の境界というふうに誤解される)あまり表だっては使われません。次のページがうまくまとまっているでしょう。
■岡崎京子と庵野秀明

私の同世代に岡崎京子や庵野秀明といった作家がいますが、彼らの作品にも境界例的な要素がおそらく強い。精神分析については素人ですがR.D.レインと結びつくところにそのようなものを感じます。
私は境界例を自覚しそれを克服したいと思っている人間の一人ですが、斎藤環氏や中井久夫氏のようなすぐれた医者にはなかなか巡り会えないものです。そして巡り会えても克服できるのかといえばそれは別問題です。
境界例の克服(というより退避)のために作家を目指す人は自分の同世代では多かったでしょう。それを物語に昇華させることによって熱狂的なファンがつくことはめずらしくありません。漫画表現の領域では俳優や歌手のように自分自身を商品としてさらけ出さずに済み、作品によって実世界からワンクッションおくことができるわけです。特にコミックマーケット以降、作家のペンネームは人名離れしていきます。明らかに匿名化が進んでいくことになります。
こうした現象の先駆けとして、「プリンス」という歌手がいます。彼とマイケル・ジャクソンがライバルだったことは注目されます。マイケルが数々の奇行に走るのに対して、プリンスもまたトラブルから自分の名前を誰も読めない謎の記号に変えてしまっています。
■吉田戦車の衝撃

ところで吉田戦車は岡崎京子と同い年です(私と同じです)。岡崎京子は明らかに人名として認識されますが、吉田戦車は人名に見えません。しかし、プリンスのように一般名詞でもありません。彼の登場はまずそのペンネームから衝撃を与えました。
鴨川つばめと吉田戦車はネーミングの仕方は似たようなものです。しかし、前者は明らかに芸人の名前を彷彿させるのに対して、後者は少なくともデビュー当時は違いました。
鴨とつばめは同じ鳥と言う共通点がありますが、「吉田」と「戦車」には全くそのような関連が見られません。ロートレアモンが「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい」と言った以上にそれはシュールレアリスティックなのでした。
私が吉田戦車を知ったのは「美術手帖」の紹介が最初です。当時は同誌では椹木野衣氏が活躍していました。マンガ界での反応については斎藤環氏が解説しています。
http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/sensya.html
「吉田戦車とその作品」アエラムック「コミック学のみかた」所収
以下引用:
これまで多くの批評家が吉田の特異な表現に注目してきたにもかかわらず、その「不条理性」そのものの分析は十分になされてこなかった。これは吉田の作品を理解・記述するにあたって、従来の批評手段がことごとく無効化したためである。その典型例として呉智英氏による「裸の王様」説をあげておこう。つまり吉田戦車はみんなが面白いと言うから面白いので本当は面白くないのだ、という指摘である。(以下略)
大塚英志氏はかつて、吉田戦車の人気は出版社のマーケティング戦略として仕組まれたもので、その作品自体は「不条理日記」の作者である吾妻ひでおの焼き直しに過ぎないと断じた。しかし、それはどうだろうか。私には吾妻作品も面白く読めるが、その「不条理」性は、完全に神経症的なものと「診断」できる。「神経症的」とは、ここでは「笑いの原因を言葉で説明することができる」というほどの意味である。いっぽう吉田戦車の諸作品のもたらす笑いの核心を、言葉によって説明するのはきわめて難しい。そこには単なるミスマッチの笑いとしても掬いきれない「不気味なもの」の手触りが残る。
おそらく吉田作品の「理解」とは、すでに一つの「症状」と等価のものなのである。その「症状」性をもっともよく触知することができる作品を図1(「伝染るんです。」第一巻所収)に示そう。これは主婦のようなひとが店のような場所で、店員のようなひとから「あれ」を「45円ぐらい」で購入するという、いってみればただそれだけの話である。「店」が何を売る場所であり、「あれ」がどんなものであるか、一切説明はなされない。なぜこれがギャグ作品として成立しうるのか。
(以上引用終わり)
私はおおむね斎藤氏に同意します。吾妻氏が筆を折る前に書いた作品には確かに不気味なものが現れていると思いますが、それは吾妻氏自身が病みはじめてしまったからであり、吉田氏とは全く事情が異なるでしょう。竹熊+相原「サルまん」にも分裂病的表現の試みがありますが、これは分裂病の知識から描かれているものだといえましょう。
吉田戦車氏本人に会った人がみんな彼のいたって健常な好青年ぶりに驚くことはすでに数多くの証言があります。
ところで「伝染るんです」以前の作品は、彼以前のギャグ作家に比べて決定的に新しい何かがあるものの、素人にさえまるで分裂病のようにみえるという表現にまでは踏み込んでいないと思えます。その代わり、境界例的なものを一歩退いて冷静に見つめているような感触があります。表現自体が境界例的なものになってしまう自分にとってこれはとてもうらやましいことであり、もちろんギャグとしても素晴らしいできばえだと思います。この才能が精神病的表現をギャグにすることを可能にしていると信じますが、ここで斎藤氏の引用からさらに抜き出すと、
# おそらく吉田作品の「理解」とは、すでに一つの「症状」と等価のものなのである。
とあるように、それは受け手側の理解の変容と大いに関連があるでしょう。呉氏や大塚氏が吉田作品を評価できなかったのは、それを単に不気味なものとしてしかとらえられなかったからなのです。斎藤氏や哲学者の永井氏が絶賛したことで「お墨付き」がついてしまいましたが、マンガ研究者にとっては鬼門となるかもしれません。私は何度も手塚さんを批判するようにみえる発言をしていますが、それは手塚の神話化では状況は変わらぬことと、多くのマンガ家がかこつ不遇に対する異議申し立ての意があり、手塚作品自体のすばらしさは疑いようがなく、ただ手塚を伝説化することと(もちろん手塚作品を決定的体験として血肉化していることについて論難する権利などありはしないのですが)、吉田戦車を評価することは両立しないかもしれないのです。(ちょっと性急に過ぎるでしょうか。ご勘弁願います)
それとともに吉田戦車を超えるマンガを開発しようとする試みもまた、あまりに大きな危険を伴います。それは境界例の作家に精神病を発病させてしまい、自殺に追いやるほどに危険なのです。
プリンスは読めない記号に自分の名前を改名しましたが、「伝染るんです」の中でも最高傑作とされている作品のひとつが、読めない言葉を発明してそれを読んでしまう、というものです。これは現実世界では不可能なことで、それを笑うのは哲学的と言える面が確かにあるのです。
現代の哲学はカントール以降の、常人には理解しがたい哲学であり、ウィトゲンシュタインはたぶんそのような哲学を終わらせるために「論理哲学論考」を書きました。つまり「語り得ぬものに対しては沈黙せねばならない」。しかし結局ウィトゲンシュタインはこれで沈黙することはできませんでした。また文学の世界では、非ユークリッド幾何学がドストエフスキーに影響を与えて、やがて20世紀の最重要作家であるカフカの登場へと続きます。
手塚治虫は明らかに大衆文化が花開いた19世紀の文豪からの流れをひいています。私の考えでは基本的に大衆文化は19世紀から先には進んでいないと思います。しかし吉田戦車に至ってはついに20世紀の文学の達成に肩を並べたのです。
...しかし、本当にそうなのでしょうか?
■キッチュあるいはかゆみと痛み

かゆみと痛みは本来皮膚上の痛点への刺激の差に過ぎないものですが、その感覚はずいぶん違います。くすぐられると笑ってしまうことがありますが、くすぐり続けられると怒りに変わるでしょう。本来不快なものがさじ加減によって笑いを引き起こす。悲しみがあまりにも深い時に笑ってしまうこともあります。
手塚治虫自身が漫画の本質を諷刺と言ったように、笑うことによってその奥の感情を隠すように制御する仕組みが人間にはあるようです。
日本の笑いはおそらく他の国よりもくすぐったいから笑うという性質が強いように思えます。ところで、手塚治虫こそ一発ギャグの名手でした。それは必ずしも諷刺に限らないものでした。これが日本においてマンガ特有のものかどうかについては保留しなければならないでしょうが。
ただ手塚のギャグは赤塚、吾妻、山上たつひこ、鴨川つばめへとさまざまに変化しつつ連なるものでしょう。この過程での読者はギャグの訓練を受け続けたのかも知れません。
「伝染るんです」より前に、相原コージの「コージ苑」もベストセラーでした。この作品の笑いについては短時間に奇妙に風化されて実はほとんど語られていません。大塚氏のimago誌におけるマーケティング云々もスピリッツという雑誌の巻末にあった二つの作品のつながりからの発言だったのでしょうが、これは相原氏にも失礼でしょう。そこで二つの作品のつながりについては検証の余地があるでしょう。
キッチュについて語る予定がずれてしまいましたが、要するに「伝染るんです」はキッチュなものとして受け入れられた面があるのだと思います。
■追記

ここまで書いて、最初はですます調であった文がである調に変わってしまったことに気づいて、最近は推敲している余裕がなくて毎回ごった煮にして書いていましたが、読む人に不安を与えるので今回は直しました。とにかく情報中毒がその原因であることは間違いないでしょう。本業でもパソコンから離れられない生活を送っていて呪縛から逃れがたいのです。
脳を休ませる必要があっても、もっぱら寝てしまうことが多く、体を動かさないとダメなのですが。
なお、境界例からひきこもり、非婚、セックスレスなどの問題はこの場で語るのはちょっと危うそうなので、自粛します。永井倫理学への誤解についても、かえって問題を厄介にしそうなので同じく。
2005-05-26 今月の書籍と音盤メモ
今回はヲタ全開モードで。
赤塚不二夫、横山光輝関連の本が出ていたり、ほしいものが山ほど出てきたなあ。
安野モヨコの「監督不行届」をあっさり古本屋で手に入れたので(エッセイマンガですから)、落ちそうなものは待ってみるが、マンガを語る本についてはあまり期待できない。
■Cocco健在なり

- アーティスト: SINGER SONGER, Cocco
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2005/05/25
- メディア: CD
Coccoのアルバムは私にとってはすべて名盤であるので、速攻で買いました。といってもシングルまでコンプリートしていないんですが、今回は久々で初回限定でDVDがついているので買わざるを得ない。Cocco+くるりという組み合わせは紅一点グループのバランスを考えるとこれしか考えられないという気さえしてきたが、今回聴いた限りではCoccoの歌の力が強くてくるりのありがたみは来月出るアルバムに期待か。
■うっかり見つけてしまいました

ミュージシャンズ・ミュージシャンとして知る人ぞ知るBloodthirsty Butchersのトリビュート盤が出ていたのは知っていたのですが、このメンバーに目がくらみました。
1. 12月(浅野忠信)
2. 4月(曽我部恵一)
4. 2月(ASA-CHANG&巡礼)
5. 10月(ショコラ)
6. LOST IN TIME(EYE)
7. 3月(GREAT3)
8. 8月(エル・マロ)
1曲目はcharaもバックコーラスで歌っています。EYEはもちろんボアダムスやNaked Cityの山塚EYE。
ASA-CHANG&巡礼の手がけているギターのパートはキャプテン・ビーフハート&マジック・バンドのよう。素晴らしい。山野直子の声は男かと思いました。少年ナイフはカーペンターズのトリビュートがよかったけどそんな聞き込んだことないからなあ。
GREAT3はかつて文芸評論家の福田和也氏が好きな作品として挙げていたと思うセカンドアルバムMetal LunchboxのプロデュースがDr.StrangeLove(ここからCoccoやPuffyにつながったり、そういえばくるりもそうか)、後にはジョン・マッケンタイアのプロデュースなど売れ線から距離を置いていきますが、フィッシュマンズと同等の評価がされていいはず。
エル・マロも特にサードアルバムは日本の90年代を代表する傑作だと私は思っていますが(その次のスーパー・ハート・グノームが一番有名か)、最近木村カエラの「リルラ・リルハ」のプロデュース(アルバムも一部)をやっていたのを知って、こうしてみると90年代に洋楽を日本のポップミュージックに高度に結びつけた強者揃い。これは1999年に出たもののようで。時がたつのは早い。
■(予告)音楽産業とマンガ産業について

未購入。中野晴行氏の「マンガ産業論」と比較してみたい。夏目さんの「マンガ学への挑戦」が頭を抱えてしまうまずい出来だったので(夏目さんが「漱石の孫」として手塚化してしまっているとは思いたくないんですよ。いしかわじゅん氏の発言が最低です。あれでは所詮オタクはオタクと思われても仕方ない)、じゃあJ-Popはどうなのということで(でも著者は業界人ではないんだっけ。そこに偏見があるかもしれないかも)。まだ読んでないのにアレですが、Utadaのアメリカ進出が失敗するのは日本の音楽オタクならある程度予測できていたと思うんですが(ちなみに宇多田ヒカルの1stと3rdは私大好きです)。あと亀田誠治氏の本もそこらで手に入らないか。
- アーティスト: Bonnie Pink
- 出版社/メーカー: イーストウエスト・ジャパン
- 発売日: 2000/04/05
- メディア: CD
J-popでないとはどういうことか、と考えてみるとこのアルバムなど(なにしろいまだに初回限定盤が売れ残っている)。これもかなり前のものですが洋楽志向のボニー・ピンクが大プロデューサーであるミッチェル・フルームと共同プロデュースしたもの。まさにアメリカンミュージック的でありながらそれでいて「過去と現実」のような曲が出てきてしまうのがちょっと驚き。Coccoが好きなら試しに聴いてみて、次にトーレ・ヨハンソンプロデュースのEvil and Flowersと聴くとよいかも。
念のため付け加えるとDr.StrangeLoveや亀田誠治などは海外のプロデューサーに十分に伍すると思っています。
- アーティスト: クラムボン, 原田郁子, 亀田誠治
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 2001/10/11
- メディア: CD
亀田誠治といえばこれ。東京事変はまだ聴いていないんです(聴く気なくしていたりしたので)
- 作者: コロナ・ブックス編集部
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2005/05
- メディア: 単行本
植草甚一スクラップブックは貧乏でお小遣いの少ない小学生から中学生の頃図書館でよく読んで決定的に影響を受けた。ユリイカや美術手帖も図書館で毎回借りていた。それにしてもオタクを誇らしげに名乗る者に植草氏について語る者が皆無のような気がするのはなぜ?
en-Taxiが植草甚一よりも草森紳一なんて小特集をやっているけど、草森氏のあすなひろし「サマーフィールド」や石森章太郎選集「青い月の夜」(これは傑作でしょう)の解説なんて噴飯もののつまらなさだったもので、J・J氏の飽くなき好奇心に敵うオタクの論客なんてまるでいないじゃないか(実際はマンガオタクでかつ音楽オタクな人はごく当たり前に多数存在しています)。
植草氏のような人が日本のマンガを語ることがなかった(と思うけど?)のは残念。
■追記

「Jポップとは何か―巨大化する音楽産業」購入し読了。いや、こういう本が読みたかった。音楽産業だけでなく日本の産業全体の問題をあぶり出していてしかも説得力がある。多少異論がありますが後の機会に。
著者の烏賀陽弘道氏とボニー・ピンク氏との間で論争があったことも知って興味深い(いま蒸し返す必要があるのかちょっと戸惑いますが)。Broken Englishで歌うことの問題に関しては、確かに日本人向けだとしたら違和感ありまくりで、これはサザンから佐野元春と流れてきた日本のロックが英語詞を手放せなかった問題とも絡んでいて、一考に値します。「Let Go」がJ-popでないと書いたことについてこちらの認識不足がないか検討したいですが(なにしろ最近興味を持って集中的に聴いている途中)、ミッチェル・フルームが音作りをしていますからトーレ・ヨハンソンよりはるかにJ-Pop離れしているとは言えると思い、修正はしないことにしました。
今回オタクの意地として強引にオタク批判をしてますが、念のため、夏目さんの本では「マンガの力」、「マンガ世界戦略」は必読。宮本大人氏や瓜生吉則氏のような若いマンガ研究者に対して真っ先に歓迎し誠実な姿勢をとっていることでも、夏目さんの功績は計り知れないことはここで付け加えておかなければならないでしょう。
2005-05-25 ミュージック・マガジンがNew OrderとJoy Divisionの特集をやってい

- アーティスト: ジョイ・ディヴィジョン
- 出版社/メーカー: イーストウエスト・ジャパン
- 発売日: 2000/03/23
- メディア: CD
Unknown PleasuresのレコードジャケットはCDになって波形の部分が大きくなりすぎてもとのかっこよさが台無しになってしまったが、6月にワーナーだかが再発売するらしい。CDサイズだと白い線がつぶれるのかもしれないが意外と再現しようとするかも知れないのでちょっと期待してみる。
そしてNew OrderのBlue Mondayの12インチシングルもフロッピーディスクをかたどった傑作ジャケットで知られているのだけど、これはCDでは見たことがない。1983年なのでいまはめっきり見られなくなったフロッピーディスクだけど当時はおそらく8インチサイズで(初期のパソコンは5.25インチがあったかも)、堅い紙で磁気フィルムを包んだものだった。
つまりまだCDが普及する前で、このバンドが在籍していたファクトリーレーベルは秀逸なジャケットデザインで知られていた。写真がないのが残念。
- アーティスト: ニルヴァーナ, カート・コバーン
- 出版社/メーカー: ユニバーサル インターナショナル
- 発売日: 2003/11/21
- メディア: CD
こちらは言わずと知れたNirvanaのNevermind。このジャケットはまさしく90年代の最高のものの筆頭に挙げられるだろう。
ジャケットと音楽があまりにもばっちりとはまっていた二つのバンドのリーダーは、人気が出すぎたのがもとで自殺してしまった。このようなことが2度起こったことが驚きだけど、たぶん今後は起こらないだろうな。
ミュージックマガジンは500号記念で増刊号も出した。この雑誌が扱った重要アルバム500枚をあらゆる音楽ジャンルをまたいで選んだもの。500枚だとジャンルによっては中途半端になるものも多くなるが、この手の名盤集成はかつてから多数出回っているので、日本で主流として売れない各地域のアルバム紹介だけでもそれなりに価値があるかも(日本枠はやはり少なさが気になってしまうね)。
2005-05-24 カラオケからいろいろ考えたこと(2)
■懐メロの定番は?

洋楽ばかり聴いてきた私は最近懐かしの名曲をレパートリーに入れようと古い曲を探している。
昔から定番で歌っていた「蘇州夜曲」が自分が歌える一番古い曲(童謡を除く)だが、
幼少の頃家にあったレコードを思い出してみたら、ビング・クロスビーのホワイト・クリスマスがあった。これはアメリカ中で一億枚売れたものだが、我が家にもあったのだ。
ディズニー系とかはまだマスターしていない。英語が話せないので下手なのだ。
ミュージカルといえばやはりジーン・ケリーの「雨に唄えば」が真っ先に思い浮かぶ。これをDAMで歌ってみたが、あの映画の名場面が画面に映らないので、あの場面を頭の中に完全コピーしないと映画の中の間の部分がうまく歌えない。これはちゃんと歌えるとかなりかっこいいので画面をきちんと出してほしいものだ。
家にあったレコードで思い出したのが「黒猫のタンゴ」。この曲はイタリアでヒットしたのを輸入して歌ったらヒットしたらしいことが最近調べたらわかった。「だんご3兄弟」より断然いける!幼い頃に飽きるほど歌っていたのは「オー!シャンゼリゼ」である。そういえば話がそれてしまうがトッポ・ジージョが好きだった。父が元自衛官だったせいかラジオはFENばかりかかっていた(父も英語はできないのだが)ので、バート・バカラックの書いた曲などもよく聞いていた(後に深夜放送もこちらで聞いていた。ザッパとかよくかかるのだ)。
戦後の曲だと「ミネソタの卵売り」はハウスたまごめんのCMで替え歌になっていたのでこれはばっちり歌える。「青い山脈」、「銀座カンカン娘」もいけそうだ。「憧れのハワイ航路」だと途中が怪しくなる。
■アニソンってクールだったんじゃない?

自分の同世代的にはプログレの洗礼を受けたものが多く(「ロック・マガジン」をよく立ち読みしたものだった)、私はアメリカンTop40育ちなのでカーペンターズからシカゴ、スティーリー・ダン、フリートウッド・マック、ザッパのような感じでだんだんヒット曲から遠ざかっていくのだけど、子どもの頃大きな影響を受けたのはアニメの主題歌である。
「鉄腕アトム」の作詞が谷川俊太郎だったり「あしたのジョー」は寺山修司が作詞しているなんてのも面白いが、やはり作曲家に注目すると、
鉄人28号は作詞、作曲が三木鶏郎、コマーシャルソングの草分けで戦後史的にも非常に重要な人物の一人である(三木鶏郎メドレーはカラオケに入っていて当然であってほしい)。
モノクロアニメからカラーに移る頃の名作といえばスーパージェッターがあるが(調べてる間に「ハリスの旋風」が「国松くんのお通りだい!」でカラーとしてリメイクされたのを知った。私にはモノクロ版の記憶がない!うちのテレビはたぶんまだ白黒だったけれど、主題歌もちょっと違う!「巨人の星」の裏だったという「あかねちゃん」(みそっかす)は見た記憶があるのだが)、これは山下毅雄。ルパン三世ばっかりクローズアップされている気がするが、子供心に印象が強いのが「ジャイアントロボ」。特撮ロボットものはこれが最高傑作だといまだに思うくらい好きだった。後のロボットアニメは実写から逃げた堕落としか思えなかったくらいだった。
菊池は「タイガーマスク」「仮面ライダー」など。宙明は「人造人間キカイダー」「マジンガーZ」など。
「巨人の星」「アタックNo.1」「キューティーハニー」「アルプスの少女ハイジ」など名曲がずらりと並ぶ。ちなみに「サインはV」「デビルマン」は三沢郷。
後に歌謡曲で活躍する作家では、「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」を手がけたのが小林亜星。「ガッチャマンの歌」もこの人だ。CMだとレナウンで一世を風靡した。さすが「すきすきソング」の作曲家である(作詞に井上ひさし。ひょっこりひょうたん島の作者だから別に意外でもなんでもない)。「光速エスパー」の作曲は服部克久だ。
そして筒見京平。歌謡曲としては「ムーンライトヨコハマ」と「魅せられて」が特に傑作だと思うが、アニメ主題歌の「おれは怪物くんだ」「サザエさん」などはやはり傑作だと思う。
「サザエさん」はもう国民全体がうんざりするほど聞いているからカラオケで歌おうと思ったりしないだろうが、「陽気なサザーエさん」のメロディラインはあまりにも異彩を放っている。「おれは 怪物くんだ」と歌う出だしのかっこよさもちょっと比べるものが見つからない。
音楽理論を知らない私がたとえばaikoの作曲センスをすごいと思う時、決してそれが洋楽っぽいからではなく、こうした幼少の頃覚えたアニメ主題歌の名曲の記憶が甦っているのかもしれない。
アニメソングがつまらなくなったのはガンダムくらいからだと思う(渡辺岳夫なのだが正直できはよくないと思う)。銀河鉄道999にはもろに違和感を持った。うる星やつらあたりで時代の変化は決定的になり、タッチでとどめを刺されたようである(タッチの主題歌が嫌いだったわけではない)。ヤマトもあまりよくない。宮崎アニメはもう普通のサントラだし。
音大を出た劇伴作曲家だからよかった、というのとも少し違う。ギャートルズはかまやつひろしが手がけているが、園山俊二自ら作詞したオープニングテーマは私にとってのもっともお気に入りな一曲であるのだ。
おたくにおける世代差とはなんなのだろう。ここに書いたのはあくまでも私個人の好みなので、なんとも言えないが、とにかく昔のアニソンというのはかっこいい音楽だった(いま聴いてもそう)のである。
2005-05-23 カラオケからいろいろ考えたこと(1)
自分には近場で会えるような友だちが皆無なので(会社が都内にあればいいのに)、一人でカラオケに行くのがストレス解消だ。一人で行く人がけっこういることを知って、確かに思いっきり歌うには一人でカラオケに行くのが周囲に気を遣わなくてよいので最高である。
基本的には歌い甲斐のある曲を選ぶ。ビジュアル系はナルシストの高音自慢みたいで心に響くものがないので基本的にパス。すると最近の男が歌う曲がほとんど選べない。スピッツが定番になるが、歌い甲斐のある男の歌手っていませんか?平井堅やスガシカオを借りて覚えるか。
歌って一番楽しいのはaikoとかキリンジで、キリンジを歌うにはHyperjoyを選ばなければならない。
aikoでいうと「カブトムシ」の最高音が出せなかったのが出るようになって、宇多田ヒカルの「sakuraドロップス」も歌えることがわかった。ただ調子が良くない時は最高音が出ない。何曲も歌ってのどが慣れると歌えるようになる。キリンジだと「千年紀末に降る雪は」なら楽勝だが、「エイリアンズ」は声が出ないことがある。そこで問題なのが「アルカディア」だ。この曲は高音になると歌えないので1オクターブ下げると今度は最低音が出せなくなる。まったくこの曲は鬼門なのだが、2ちゃんねるのカラオケ板あたりからいろいろ情報を探しても、この歌が特別歌いにくいということはないようだ。
■絶対音感と「ドレミの歌」

ここで気になるのが、地声がかなり低い自分はオクターブ下げて歌っているのか?ということだ。しかし、昔カラオケに行く習慣がなかった頃には、確かに高音で玉砕してオクターブ下げることがあったが、いまは出せるようになっていると思っているのである。キーが合っていないのかもしれないと思うのだが、自分は原曲キーでないととたんに歌いづらくなる(とりあえずずらすことはできるが。「パセラ」だと調整の仕方がわからないのでたくさん歌えても今ひとつ好きでない。「カラオケの鉄人」はどうだったろうか?)。自分の声だけキーが外れているのに気づかないということはあるだろうか?
ちなみに佐野元春の「情けない週末」の最高音も出せたためしがない鬼門であるので(ここはシャウト気味に思いっきり上げるところなのでごまかしてレパートリーに入れている)、この最高音と「アルカディア」の最高および最低音がわかれば疑問を解く鍵になるだろうか。
ところで私は、音楽については、あらゆるジャンルを聞くけれど(クラシックは苦手。クラシックしか聴かない人が多いからだと思う)、音楽理論については楽器も演奏できなくてよくわからない。サックスを演奏できるようになりたいと思って教室に通うほど本気ではなかったので安いバーゲン品を勝ったら、移調楽器だと知って(そういうものがあることも知らなかった)、最初の教則本で挫折しているていたらくだ。
それでドの音を声で出そうとして、「ドレミの歌」をそらで歌ってみると、実際のドの音よりも低い!これは気づいてみてかなりショックで、サックスを買った時に一緒に買ったチューナーを使ってみると、ドレミの歌のレにあたる部分が実際のドと同じらしいのだ。これは長いこと悩みの種であった。やはり自分の歌声だけ音程がずれているのだろうか?
ところがつい最近ちょっとしたきっかけでドレミの歌について検索をかけたら(原曲名を知りたかった。原曲もDoReMiだったのだが)、「サウンドオブミュージック」でジュリーアンドリュースが歌うドレミの歌は正確な音でないという意見があったのである。そしてやはり一音ずれているという。つまり私と同じである。
そこで私も気がついて、「きらきら星」や「ひのまる」「チューリップ」「鯉のぼり」のような小学生で最初に習う歌を歌ってみたら、ちゃんと合っている。これはわたしがサウンドオブミュージックのドレミの歌をきちんと覚えていたということでファイナルアンサー?なのだろうか。
音が正確でないという指摘は、検索した中でもほんのわずかしかなく、ドレミは「ドレミの歌」で覚える、というサイトのほうが圧倒的多数なのである。そうすると、
1.絶対音感の持ち主があまりにも少ない
2.「ドレミの歌」はほとんどの人が正確な音程で覚えた
というどちらかの仮説が真相なのであろうか?2が真相なら、サウンド・オブ・ミュージックに関してはあえて指摘しないということなのか?
「ドレミの歌」について、ペギー葉山の訳詞が問題だという指摘があったが、これは、ドはドーナツの「ド」、の最後の音が実際は「ミ」の音で、絶対音感の持ち主はこれが気持ち悪い、という話であった。しかしこのような論はなんだか詭弁ではないか?絶対音感があろうがなかろうが最後の音は「ミ」に違いない。ドはドーナツの「ミ」でなければおかしいというのは絶対音感とは全く関係のないどうにも馬鹿げた話であるとしか思えないのだけど。
絶対音感の持ち主はどんな音を聞いてもその音の周波数を正確に理解してそれをきちんと合った音符で指摘できるのだそうだけど、現実の音というのはさまざまな周波数の音が同時に出ているようなものではないのだろうか?それと、特定の周波数の音を音符で指摘するためにはそのための最低限の訓練が必要なのではないだろうか?私が受けた訓練は小学校の頃に覚えたわずかな曲とドレミの対応に過ぎない。原曲キーでないとうまく歌えないというのは絶対音感と関係ないのであろうか?謎は深まるばかり(とりあえず「アルカディア」の疑問から解けばわかるかな)
2005-05-15 シカゴ音響派をふり返る

連休前ですがディスクユニオンに行ったらバストロのアルバムが発売されていました。「シカゴ音響派」が話題になってからもう十年近くたつのですね。ちょうどStudio Voiceにメイヨ・トンプソンのインタビューが掲載されたのを知ったので、はまぞうを使ってみることにします。
- アーティスト: バストロ, デイヴィット・グラブス, バンディ・ブラウン
- 出版社/メーカー: Pヴァインレコード
- 発売日: 2005/02/04
- メディア: CD
BastroはGastr del SolのDavid GrubbsとTortoiceのJohn McEntireが在籍していたジャンク・ハードコア・バンドとして知られていますが、いま日本盤が発売されたのはどういう経緯なんでしょう。最近Slintが再結成されたそうですがこちらは日本盤が出ていないので、Red Krayolaが来日したのに合わせたのでしょうか。
というかRed Krayolaが来日したなんて知らなくて、知っていたら万難を排してでも見に行ったのにショック...
レッド・クレイオラはMayo Thompsonを中心として60年代中頃に結成されたテキサス・サイケのバンドとしてスタートし、ノイジーなジャンク・サイケからアコースティックでぼそぼそと歌う音響派のルーツのようなスタイルまで振幅が極端でマイナーな音楽を当初からすでに確立しておりました。70年代にはいるとしばらく沈黙していましたが、美術運動集団であったアート&ランゲージ(ジョセフ・コスースも参加していたという)に出会ってイギリスに渡りThe Red Crayola with Art & Languageとしていくつかのアルバムを発表(Kangaroo?は日本盤も出ていました)、またPeru Ubuに参加したり、ラフトレードに誘われRaincoatsをはじめとするプロデューサーとしてニューウェーブ・シーンを後押しし、80年代にはいるとドイツに活動を移して名プロデューサーであるコニー・プランクとアルバムを出したりしています(コニー・プランクはZero Setというテクノの原点的アルバムも出している)。
ゴングのDaevid Allen(→カンタベリーの大人脈(ENOやRobert Flippを含む)、そしてBill LaswellなどNYシーン)、Don van Vliet AKA. Captain Beefheart(→ザッパ・ファミリーやパンク/ニューウェーブその他諸々への多大な影響)、そしてMayo Thompsonの3人が私が選ぶ60年代ロックが産んだ偉大なる3大奇人です(4人目はCanのHolger Czukayですか.CzukayのWebサイトはなかなかぶっ飛んでいます)。この3人の活動や交流したミュージシャンでニュー・ロック以降のノン・コマーシャルなロックシーンはほぼカバーできるのではないか。ただしメイヨ・トンプソンはプロデューサーとしてもイーノに匹敵する存在であり、STUDIO VOICEのインタビューを読んでみても奇人どころかきわめてまっとうな考えの持ち主だということがわかります。
そういうわけでメイヨ・トンプソンは世界中のミュージシャンからリスペクトされている偉人でありますが最初にあげたバストロの二人やJim O'Rourkeなど、シカゴ音響派と呼ばれていた一群のミュージシャンたちが90年代に彼を招いてCをKに変えたRed Krayolaの活動を始めます。
Red Krayolaの中でも最高傑作との誉れ高いのが二作目のHazelでしょう。
- アーティスト: The Red Krayola
- 出版社/メーカー: Drag City
- 発売日: 1996/11/19
- メディア: CD
このアルバムはGastr del SolやToitorceが最高潮の頃に出たアルバムで、Hazelの前に
- アーティスト: Gastr del Sol
- 出版社/メーカー: Drag City
- 発売日: 1996/06/17
- メディア: CD
Millions Now Living Will Never Die
- アーティスト: Tortoise
- 出版社/メーカー: Thrill Jockey
- 発売日: 1996/01/30
- メディア: CD
そしてこの後に
- アーティスト: ガスター・デル・ソル
- 出版社/メーカー: Pヴァインレコード
- 発売日: 1998/10/10
- メディア: CD
- アーティスト: Tortoise
- 出版社/メーカー: Thrill Jockey
- 発売日: 1998/03/10
- メディア: CD
が出ていて、特にUpgrade & Afterlife(これはまだ音響派という言葉が流通していなかった頃日本盤で出たのですがすぐ廃盤になってしまったようで、これは秀逸なジャケットのイメージに似合った一曲目とラストのJohn Faheyの曲でおすすめできる傑作)からCamofleur(これはガスターというよりジム・オルークの最高傑作なんじゃないかしら)に至る変化を考えると、Hazelがちょうど両者の中間的な位置にうまくはまるんじゃないかと思います。Hazelも日本発売されていなくて、このへんアクの強さはあるかもしれませんがちょっと奇妙な感じです。Gastr del Solも万人向けではないのでまあ仕方ないかもしれませんが。
シカゴ音響派というのはもう死語というか、ポスト・ロック(この言葉もどう使うべきかよくわかりません)の中でもシカゴのThrill Jockeyレーベルがその中心だったというべきなんでしょう。Tortoiceがブレイクして有名になったからマッケンタイアが中心で、オルークが日本びいきだったということで、耳ざわりが良く日本で確実に売れるものが日本盤としてリリースされた、ということでしょうか?うーん、タイトルはレッド・クレイオラにしたほうが良かったか。
2005-05-14 リハビリ再開
最近新しいマンガをほとんど読んでいないが、それは最近のマンガがつまらないからではなく、置き場の問題と金の問題である。
自分はマンガ論を書こうなどと思いながら有名なマンガで読んでいないものがたくさんある。これまでマンガ論を書かなかったのはそういうところが大きかったのだけど、年をとってそうも言ってられなくなった。
連休中に母から電話があって帰省したらBSで青池保子先生の特集をしていた。恥ずかしながら青池さんの本を私は一冊も持っていなくて、今年になってエロイカ本を買ったがまだ読んでいないのだ。少女マンガの最重要作家の一人をほとんど読んでいないのに少女マンガを語るのは無謀だと我ながら思うが、いずれにせよ一人で手に負えるものではないと自分に言い聞かせる。
スタジオ・ボイスのコミックス特集は今年になってからラッシュが続いているマンガ特集の中でも今のマンガの多様ぶりが窺い知れてとても重宝した。そもそも少女マンガについての基礎知識を米沢氏の「戦後少女マンガ史」に負うている私はマンガの知識のかなりの部分を二次資料から得ているが、そうすると青池保子が少女マンガ史において如何に重要な存在であるかを知っていながら作品を読んでいないというようなことになるわけである。
マンガも隆盛だが最近になって海外小説の重要作品が次々と出版されていて、日本はなんだかんだ言って文化大国なのだと思う。ゾラの作品集からブロッホの「夢遊の人々」、クロード・シモンの「フランドルへの道」も再刊された。買っても読み切れる脳みそがないので買わないが(ブロッホは文庫だったので買ってしまいましたが積ん読)、日本の文学シーンもまた活性化しているような感じは伝わってくる。
■「死神くん」はブラックジャックである

なんでいまどきえんどコイチを語ろうかと思ったのは、ずっと自分の中で封印していた「死神くん」が、文庫版でかなり書き直しがあることを知って、あわてて元のコミックスを古本屋を巡って買いそろえたのがきっかけでしたが、もう読んでもいいだろうという気分になってちょこちょこと読んでみたらいやあ泣けました。作者が吾妻ひでおの影響を受けているだろうってことは前に書きましたが、にもかかわらず吾妻さんには不思議なほど似ていない(美少女が描けないからでしょうが)。
あと最近ブラックジャックのトリビュートが盛んですが、「死神くん」という作品はものの見事なまでにブラックジャックを引っ張ってきていて、そのへんはジャンプ編集部のえらいところで、チャンピオンは作家の資質は買っていたはずなんですがそれを活かせなかった、ということになるのでしょう。ブラックジャックはドラえもん世代である私にとって一番なじみ深くもちろん好きな作品ですが、ただ読んで泣いた記憶はないですね。ここがおそらく唯一最大の違いで、手塚マンガが青年化から後戻りできなかったために失われた部分を奇しくも継承し得たところがあるようにも思えます。
死神くんの七つ道具(笑)にはいわゆるデスノートもあったわけで、大場つぐみの正体はガモウひろしだという噂もあってここからDEATH NOTE一気読みへと弾みをつけようと思ってもいたのですが、ちょっと今は気合いが入っておりません。
■現実と虚構の区別がつかないのは誰か

「死神くん」のリメイクについては検索してもらうとして、もともと4本指だったのが5本に描き直されているのですが、なんでこんな規制をしなければならないんでしょうかね。
80年代のマンガは全体としてみた時に大友克洋などの影響もあってビジュアルのリアリティを追求する方向に向かって、物語作りがうまくても絵が下手だとマンガ家になれないような窮屈さからマンガの才能ある人が活字表現に向かう面はやはりあったのではと思われます。
大友克洋の時代はスター・ウォーズの時代でもあって、虚構世界の中にリアルな質感を与えようとする欲望が急速に拡大していく時期で、その背景にはコンピュータの発展があったと思います。スター・ウォーズ以降皮肉にもSFは衰退していくのですが、それはSFというジャンルでサイエンスの担っていた部分がビジュアルのほうに吸収されていったせいなのではないかと今ふと思いました。ヴィジュアルのリアリティなんてサイエンスとは全く関係のないものなのに勘違いしているふしがあるのではないか。私は虚構の中の人間ならざる存在に対して指の数を5本にしなければならないというのは奇形に対する差別表現だから、という理屈にはかなり無理があると思わざるを得ません。むしろそのような規制をよしとするところに、現実と虚構を混同するという倒錯があるのだと私には思えます。付け加えれば、普通に考えられてるのとは逆に、私の直観としてヴィジュアルのリアリティが増大すればするほど死は希薄化されてしまうように思えてなりません。
2005-05-04 連休と鬱
この連休中に寄贈する蔵書の整理をする予定だったのに、まるで進んでいない。
連休の初日に鼻血を出してからまた鬱にやられてしまった。
連休前には足の調子がとても悪く、痛みが抜けなかったがやっとよくなってきたので、三鷹まで朝食を食べに行き、その足で吉祥寺まで行って一人でカラオケ店にはいり、aikoの新作アルバムの曲を一通り歌って(今回は特に歌うのが難しい)その勢いでcharaのjunior sweetの曲まで歌って一時間過ごした。最近はカラオケがストレス発散になっている。
帰ってから何もやる気が起こらないので寝床に寝ころんでしまったが、せっかく朝から外に出たのに結局睡眠リズム障害を治す目標からの逃避になってしまった。
こうしてみると吾妻ひでおの失踪日記とそう変わらない(衣食住は大違いだが、世界との距離の取り方とか吾妻さんの気分とほとんど変わらない。アルコールが抗うつ剤になっているというか)。やばいなー。
連休中は肉体労働に徹する予定だったが、鼻血で出鼻をくじかれた。私はストレスをためると血を流す体質のようで、血尿や血便を出した過去があるが、一番悪いパターンで推移している。
そこらに転がっている本から捨てる本を選ぼうとして、論壇誌があったので見たら、大澤真幸氏が書いているものだった。というよりも、私が論壇誌を買う時はほとんど大澤氏が書いているから買っていたことに気づいた。「論座」2000年1月号の「責任論」。
大澤氏については「身体の比較社会学」の頃から本だけ買って中身を読まず、そのくせ雑誌に載った記事だけはやたらと読んでいるのだが、「現実の向こう」はすっきり読めて、なかなか面白いと思ったため、彼に対して「否定神学」と批判のあることについてきちんと認識をし直そう、と思っていたところだったのだ。
私の部屋には本棚に収まらないおびただしい本がばらまかれているが、だいたいカバーがしてあるので開いてみないとなんの本かわからなくなっている(これが諸悪の根源で、この悪癖からただすしかないことは明らか)。しかし不思議といくら探しても出てこなかった本が別の本を読んでいてふと別の本をめくってみるとあっさり内容がつながったりするのである。今回もそのパターン。そして当の「現実の向こう」はどこかに行ってしまっている。
「責任論」にはパーフィットの思考実験について記されているところがある。クリプキもそうだが永井均の哲学/倫理学と大澤社会学には共有される部分が多い(その元をたどると柄谷の「探究I」がある)。かつては宮台氏の本もけっこう読んでいたが最近は読まなくなった。自分自身がもともと「強度」の人だったので、意味から強度へ、というのは意味をなさなかったのである。斎藤環氏の本はいまでもよく読むが、ひきこもり系とじぶん探し系の分類も自分には意味を持たない。そもそも探すべき「じぶん」が存在しない。自分がここにいることは全く自明だからである。もっともこちらはネーミングの問題のように思うけど。
連休で鬱なのは寂しくても呼び出す他者がいない、ということである。一人でいるのは以前は苦ではなかったが、いまはそれがなぜ苦でなかったのかがよくわからない。つまり「強度」に衰えが現れてきているのである。
最近「ブログ」をマスコミが採りあげるようになって、これからまた「荒れる」のはおそらく避けられないだろう。私のインターネットにおけるスタンスとして特定のコミュニティに属する振る舞いはできる限りとらないようにしている(たとえば俺はハッカーだとかブロガーだとか名乗るのって恥ずかしくないかな?超ダサいじゃん)が、もともと実世界でもそのような態度をとってきたのが(積極的ひきこもり?)、ここにきてちょっとつらくなっている。
■それでも本は読む(哲学中毒?)

けっきょく通勤用として図書館で借りていた本を読んだりしていた。
野矢茂樹「無限論の教室」講談社現代新書
講談社現代新書がカバーをリニューアルした時に最初のラインアップに並んでいたような気がするが、カントールの無限集合論からはじまって、ゲーデルの不完全性定理までを小説仕立てで一気に読ませる本。これ全体をカバーしている本としては、名高いコーヘンの「連続体仮説」を所有しているが、学生時代イプシロン=デルタ論法のレベルで理系に挫折している私にとって(これで物理が苦手になったのね。なぜ理系で大学院まで行けたのかまったく謎だ)この中の解説と批評を眺めるだけだった私には目から鱗が落ちるような本で、これは名著に認定。ちなみにこれは昔の表紙のほうがよかったと思う。
この本に欠点があるとすれば、この題名ではゲーデルの第一不完全性定理と第二不完全性定理を文系人間(こういう二項対立化はどうもよくないと思うけどとりあえず仕方ない)にも理解できるようにきちんと識別して説明しているような内容だとは気づかないことである。過去に読んできた入門書(もうずいぶん昔だが)ではゲーデル数の説明は詳しかったりするのにそのへんが頭に入ってこなかった。仕事でコンピュータ系書籍を読むと概念の説明のところで読むのが面倒になってくる本が多いので(要するに私は根気がない)、最近は文系にもわかるという入門書の試みが目立ってきているが、これくらい大胆にやってくれる本が欲しいと思った。この本の背景にウィトゲンシュタインがいるのはあとがきにも書かれている。ブラウアーが直観主義について講演したのを聞いたのが後期の論考に導いたと言われているらしい。
著者が依頼仕事ではなく楽しんで書いたものを本にした、というのが面白さにつながるのだろう。永井均の「猫のアインジヒトの挑戦」などこの本のスタイルを借りているのだろうが、風変わりな講師が男子女子一人ずつの二人の生徒に講義をする形式は同じでも、男子生徒の一人称で語られているところに(女子生徒に曰く言いがたい魅力がある)この本の面白さがある。
素人目に見てもプロの哲学者や数学者の間では大きな議論になるところはぼかしているんだろう、と思われたが、それは大きな問題ではない(その先は自分で考えるべきことであろう)。大学に入学して自分が数学で真っ先に躓いたところについて知りたかったことがちゃんと示されている。この本はとりあえず「数学」ではなく「数学の哲学」の本ということで、バリバリの理系で拒否反応を示す人も多いみたいだが(神学ですな)、カントールからラッセル、ブラウアー、ヒルベルトを経てゲーデルまでの数学史というのは21世紀人にとっては20世紀史の重要な部分として理系文系を問わない教養として高校時代に知っていていいところだと思うし、「論理トレーニング」を昔買ってけっきょくまだ読んでない自分に論理の心得をわからせてくれる本だった。
大澤氏のローティー批判についてのメモまで書くつもりだったが(いま日本はアメリカのプラグマティズムにやられている、ということ)、リハビリとしての文章書きとしては長く書きすぎたのでここで筆を置く。