ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005-04-29 萩岩睦美と岡崎京子、そして陸奥A子

吾妻ひでおの「失踪日記」は確かに素晴らしく、面白かった。

作品としてすぐれていたりとか早くも復帰次回作への期待が高まる動きはもちろんあるのだろうが、過去の作品がいやにあっさり文庫になっている。吾妻さんの次回作には業界日記を期待してみようか。

コミック新現実」第4号は白倉由美の特集だ。吾妻さんはともかく、白倉由美という作家に対しては僕は思い入れがないので、逆に大塚さんが一同居人であるというその人にああも異様なほど強い思い入れをもって(大江健三郎小説の題名を借りてきて、作品の解説に吉本隆明のたしか岡田有希子論をつけるまでしたのだから尋常ではなかった)作品を出し続けたのかかえって気になるところだけれど、今回は古本落ちでもするまでさしあたり他の誰かがやってくれることを期待しよう。しかしどうしてもこの流れから「漫画ブリッコ」という雑誌を思い浮かべずにはいられないと思ったら、この雑誌を特集しているウェブサイトがあることを知った。(大塚氏が編集長を辞める際に白倉由美と二度にわたって対談したその内容についてはぜひとも読み直してみたい。ブリッコを愛読していたちょっとマンガ夜話大月隆寛タイプをもっと中上健次に近づけたような気性を持つ風変わりな友人が「この編集ゴロが!」と吐き捨てるように言ったことだけがまざまざと思い出されるいわく付きのものだが、私がかすかに記憶しているのは村上春樹を高く評価できない文学はダメだと言っていたような気がする。もうほとんど記憶の彼方だけど大塚氏が後に論壇内で地位を築くその予告のようなものであるとともにその挑発によって敵を作るというスタイルがまさに露わになった対談であり、大塚氏のいわゆるサブカルチャー批評宣言の原点のように思う)

私が一浪して大学に入ったのが1983年で、当時はまだLaLaの黄金時代の終わりのほうだろうか。私は少年チャンピオンも実質は黄金時代からかげりの出る頃に購読し始めたし、LaLaの黄金時代も体験していない。まんがくらぶに入部してはじめて美少女漫画雑誌なるものに出会ったと言える。「レモンピープル」や「漫画ブリッコ」は同期の部員から見せてもらったし、最初からマンガ家を目指すような部員はほとんどいなかったような環境でかろうじてマンガ家を目指すというモチベーションを保つという言い訳エロ画を描いてみたりしたこともあった。岡崎京子桜沢エリカが描いていたことがとやかく言われるが、駒寮の部室にたむろしていたら自販機本の編集者がそんなところにもやってきてとりあえず漫画を作品として書き上げられる人が部費の補填のために参加したような時代である。山本直樹がSIGHTの特集で言っていたと思うが洋森しのぶ(みやすのんき)の凶悪ぶりに多少衝撃は受けたものの(山本氏が新体操会社の名前を出したのは嬉しかったなあ。すっかり忘れていた)、中田雅喜の身も蓋もないエロギャグマンガと、なんでここに書いているのかといった感じの藤原カムイ存在が大きかったくらいのものか。私が新たに書き加えることはほとんどない、と思っていたが、岡崎京子マンガについて興味深いことが描かれていた。

1984年8月から連載された「爆烈女学校」という作品の主人公の少女の名前が、萩岩むつみ、とある。萩岩という姓は電話帳を見ても載っていないから記載が誤りでなければこの名前は当時りぼんに「銀曜日のおとぎばなし」を連載していた萩岩睦美からとったと考えられる。

以前にあきの香奈えんどコイチについて語らねば80年代の漫画史を描き出すことはできないと書いたが、そういう中で筆頭にある存在萩岩睦美であることは私にとって疑う余地がない。たまたまサークルの中に水沢めぐみがいたことから手に取ったりぼんを自ら購読するようになったのは「銀曜日のおとぎばなし」が連載されていたからにほかならない。あらためてこの作品の呪縛の深さを思い知る。

この物語の主人公である小人族の王女様、ポーに対する思い入れはもしかしたら萌えと言えるのかもしれない、と思ったが、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」(余談ながら私はこの本を読んだと思いこんでいたのだが、読んでいないことに気づいて急いで昨日読み終えたばかりである。他の本はだいたい読んでいるはずなのになぜ抜けていたのか。データベース消費についてこの本ほど明快に書かれている本はないのに)によれば、萌えというのは萌え要素に分解できるものだから、「綿の国星」のチビ猫から抽出された猫耳や、ポーのキャラクターを借用したとおぼしき「とんがり帽子のメモル」に対しては嫌悪感さえ覚えていた私は萌えを体験することはそもそもできないのかもしれない、と思わざるを得なかった。

電話帳を見ても載っていない、と言ったがこれはもちろん萩岩睦美、という名前が少女マンガ家にしてはちょっと堅いイメージだったので当時電話帳を調べてみたのである。この名前がペンネームだとすれば、萩は萩尾望都(なにしろポーである)、岩は岩館真理子、そして睦美は陸奥A子から取ったのであろう、と推理した。

(余談ながら白倉由美という名前はボードリヤールの「シミュラークル」のアナグラムであろう。次に記すが私は大塚氏の少女論には最初から違和感を覚えていて、白倉由美というのは大塚氏の別名義ではないかと疑っていた。彼の語る少女たちというのはつまるところ大塚氏自身ではないのか、という疑念である)

アンチオトメチックまたはおんなのこ主義 アンチオトメチックまたはおんなのこ主義 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - アンチオトメチックまたはおんなのこ主義 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) アンチオトメチックまたはおんなのこ主義 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

それにしても、陸奥A子という少女マンガ史上もっとも革命的なペンネームはいったいどんな経緯でつけられたのだろうか?

A子という伏せ字的名前が喚起するのは単なる匿名と言うよりもむしろ虞犯少女のイメージではなかろうか。もちろんそれは作者の描く乙女チックまんがの微温的なイメージとはまるでミスマッチのようにみえる。大塚氏はりぼんを中心とした「おとめちっく」ムーブメントについて24年組からの影響に匹敵するものとして評価すべきであるような旨をかつて記していたのではと記憶するが、私はそこに『少女たちの「かわいい」天皇』という題名に感じるのと同じ違和感、もっとはっきり言えば不信感を抱いている。東氏と笠井潔氏のWeb上に公開された往復書簡を新書化した『動物化する世界の中で』の中で、東氏自身が高校時代に実際に皇居前広場まで行って結局は記帳せず、友人は偽名を書き込んでいたと記しているように、それは少女に必然的に結びつけられるものではない、コミケのごとき「祭り」(東氏は天皇の死というイベントをスノッブに「物語消費」してみた、と分析できなくもない、という旨を記している。p39)だったのではと思われるが、乙女チックまんがに関しては明らかに中学時代にそれは男子生徒の間でこそ「流行って」いたのを私ははっきりと目撃しており(自分と同学年の中学生たちはこのときすでにA子タンと呼んでいたような気がするが定かではない)、橋本治氏が「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」の陸奥A子論で喝破したように、それは「優しいポルノグラフィー」として少年たちにまさしく「消費」されたのが画期的だったのだ。A子という名前はその命名がたとえ偶然であったにせよその限りにおいて興味深い。だが陸奥A子の名前を私が革命的、とまで呼んでしまうのは、思いもよらない出来事が後に起こったからである。

吾妻ひでお自身がコミケに参加した当時にロリコン漫画ブームが起こり、それはやがてやおいにいたるまでのオタクサイドの性表現へと脈々と続いているが、当時の代表的なロリコン漫画家である内山亜紀氏が別名義で描いた「おむつをはいたシンデレラ」は陸奥A子の絵柄を真似たロリコンパロディ漫画であった。これは後にCOMIC BOXに再録されて私は少なからず衝撃を受けたものだが、当時の少女漫画の特徴であった点描や浮遊物を美少女漫画へともっとも積極的に取り込んだ作家が内山亜紀であり、彼は少年チャンピオンが黄金時代から峠を下る時代に「あんどろトリオ」というロリコンマンガを連載している。はっきりと確認していないが一年近く連載が続いたのではないか(ちなみに同じ頃、後にジャンプに移籍して成功を収めるえんどコイチの「アノアノとんがらし」はラブコメという設定と作者の志向がミスマッチして編集サイドで派手にプッシュしたにもかかわらずその後チャンピオンでの発表の場を失うほどに失敗したのだが(私にとって彼の代表作はこれである。後に記す「おんなのこ主義」に近い要素がここにはあった。その失敗は少年漫画の限界にあったのではないか)、吾妻ひでおフォロワーがみんなロリコンを志向する中でえんどコイチは吾妻に多大な影響を受けたと思われながら全く異彩を放っていた。彼はチャンピオン時代のキャラクターをほとんどジャンプにそのまま移しただけで5年以上(7年くらいか)も連載を描き続けることができて、その後新しいキャラクターが創造できないというギャグマンガ家の隘路につきあたりながらもジャンプに残っている。デビュー作の「遠足の日」は泣かせの常套とはいえやはり泣ける話だったので私は彼の代表作である「死神くん」を読むことを意図的に禁じた。あの手の作品は偽善的になったり説教くさくなることを免れ得ないと思ったからだが、最近になってようやく古本屋を4軒くらいめぐったらあっさり全巻揃った)。

脱線が長くなりすぎたが、要するに言いたかったのは、陸奥A子の「陸奥」のほうが「おむつ」を介してロリコン趣味という嗜好に結びつけられてしまったのだ。ポルノグラフィーにパロディはつきものだが、A子はともかく少年誌におむつ趣味マンガが載るような事態がくることは予想すらできなかった。その後えんどコイチが妥協を拒んだレベルでの(まあ絵がヘタであったのだけど、下手ならばかえってそれがマンガとして成り立つことを高く評価する)お手軽乙女チック美少女漫画とでも言うべき「ラブコメマンガがやがて少年マガジンをはじめとする少年誌にうんざりするほど現れるようになる。

萩岩睦美の名前からも、パロディ化の危うさを私は秘かに懸念していたが、萩岩さんはその後も「パールガーデン」などのキャラクター路線を進め、ポルノグラフィー化する余地を与えなかった。それともう一人、当時むつみといえばキャラクターデザイナーいのまたむつみが人気を博していたが、いのまたキャラというのも不思議ポルノグラフィ化を拒む感じを強く受けた。

ちょっととりとめのない話になったのでいったん中断するが、これは実際20年ほど前に私が考えていたことを思い出して書いたメモである。記憶だけを頼りにしているので正確さは保証できないことを書き添えておく。

少女が片思いの相手に寄せる恋心をモノローグふうにつづった乙女チックまんがが、少女が思いを寄せる青年の希薄化によって少年たちの妄想をかき立てて美少女漫画への誘惑を容易に誘発してしまうのに対して、萩尾や竹宮が描く少年とはやや異なる、物語の語り手として少女と同じように悩む青年像が開発されていったのが「銀曜日のおとぎばなし」の頃にはほぼ完成すると見る。私の関心の範囲はものの見事にその近縁に集中していることに今更ながら気づくが(私の言葉を拒否しすべてを母親責任に帰す父との対立が大きなテーマだった自分にとってそれは必然だったに違いない)、岩館真理子が「ガラスの花束にして」でそれまでの乙女チック的な題名を振り捨てるところから、私は自分の好む作品群を「少女」という「汚染された」言葉を避けて「おんなのこ主義」とか「アンチオトメチック」と秘かに呼ぶようになったのであった。

nyaofunhousenyaofunhouse 2005/04/30 00:26 はじめまして。「漫画ブリッコの世界」というサイトを運営している者です。大変興味深い考察に感銘を受けました。「ブリッコ」サイトのほうでリンクさせていただきました。
今後ともよろしくお願いいたします。

みちみち 2005/04/30 01:57 こんにちは。nyaoさんの「漫画ブリッコの世界」から飛んできました。当時、高校時代の友人がまんがくらぶにいて、いろいろ話を聞いていたので、(水沢めぐみの話とか駒寮の話とか)読んでいて懐かしくなりました。

lacolaco 2005/04/30 22:52 > nyaofunhouseさん
はじめまして。あんな立派なサイトをお作りになっていることに気づきませんでした。こちらこそ岡崎さんについての貴重なお話が聞けて感謝しています。
当時の状況について私が覚えていることや考えていたことがご参考になれば幸いなので、これからもぼちぼち書いてみようと思います。
萩岩さんについては「銀曜日」の話で終わってしまいましたが、岡崎さんのマンガとの関連で言えば、たぶん「小麦畑の三等星」を中心に初期作品のほうへと参照するのがいいと思います。それから岡崎さんはやはり大島弓子からの継承がとても大きい方だと思っています。なので萩岩さんとの組み合わせは最初に思ったほどには意外ではないような気がしています。

> みちさん
かなり迷ったのですが自分がまんくら出身であることをあえてさらしてみました(後の世代が萌えの理論に貢献したとかいう噂は私の思い違いでしょうか)。気の迷いだったかなあ。社会人になってからも落ち着きなくけっこう長いこと駒寮にはふらりとのぞきに行っていたので、廃寮になったのは残念でした。
いまのまんがくらぶについてはどうなっているのかわかりませんが、毎年同期の有志と駒場に花見に行きます。キャンパスの建物もずいぶん変わりました。

伊藤剛さんから白倉由美のペンネームについては「シミュラクラ」のアナグラムではないかとご指摘を受けました。シミュラークルはボードリヤールやドゥルーズが用いていて現在ではポストモダンと切り離せない概念として社会学やマーケティングにいたるまでよく使われている術語ですが(ニューアカ時代に比べると俗世間から見える学問は相当進んでいますね。新書でも本格的な入門書がずいぶんあるし。所詮付け焼き刃な知識しかない私は、世評に反していまの若い方のほうが優秀なんじゃないかと思います)、SF界隈のコミュニティではディックの小説の題名で有名なシミュラクラのほうがたぶん有名で(概念的には似たものですが別の言葉と考えていいでしょう)、私のほうがそれに疎かった(というか最近否定神学ってなんだっけと東氏の本をいろいろ読み直していたので引きずられた)ということで、ご指摘の通りです。

reds_akakireds_akaki 2005/05/07 00:48 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c7%f2%c1%d2%bf%ad%b0%ec%cf%ba
http://homepage.mac.com/cron/iblog/index.html
http://d.hatena.ne.jp/asin/490133042X
白倉伸一郎という、1965年に生まれ東大の文三(教養学部でしたっけ?)を出た、東映のプロデューサーがいます。心底彼にデビルマンをやってほしかったです

2005-04-09 岡田史子さん逝去

少女マンガ関係のチェックでは一目置かれているという私の学漫時代の先輩からメーリングリスト経由で岡田史子さんが亡くなったという知らせを受け取りました。情報源は今朝の新聞ということで、まだGoogleでもニュースでしか引っかかりません。

ブログ界隈でどうかアンテナを見たところ竹熊さんのブログにはすでにコメントがたくさんついていました。

岡田さんは17歳くらいでCOMに一連の作品を描きその全く特異な世界によって天才と呼ばれるようになったのだと思うのですが、ガロつげ義春氏が描いた一連の作品がマンガ界を離れたところ、詩人の天沢退二郎氏をはじめとする評価を引き起こしたことに比べると、岡田さんが実はどのように評価されていったのか私はよく把握していません。

万博を見に行った時小学一年生になったばかりだった私が記憶しているのは、高野文子さんがニューウェーブと呼ばれて一躍脚光を浴びた時に名前が同じフミコだから、というような感じで再評価の動きがあったように思いますが、高野さんの場合上田としこさんとかもっといろいろな作家をリバイバルさせたところがあって、後の作風も岡田さんよりは上田さんからのつながりのほうが大きいように思います。

岡田さんの作風がたいへん継承しにくいものであったという面もあると思うのですが、やはり24年組伝説と近いところにその淵源があるのではないか、と私には思われます。COMを代表する作家には違いないのですが、石ノ森さんや、樹村みのりあすなひろしといった作家と比べて(この二人は「りぼん」関連にも描いていたということもある。ちなみにあだち充さんがデビューしたのはCOMであり、少年誌における少女まんが化とも大いに関連すると思われる)、後のマンガに対する影響は岡田さんよりもそれらの作家のほうが大きかったように思われます。岡田さんの影響があるとすれば24年組、あとは宮谷一彦さんあたりとの関係になるんじゃないでしょうか。リアルタイムで読んでいないとわからないのは、このへんの関係です。いまの若い読者にとって岡田史子の天才伝説というのはなおのことわからないことが多いんじゃないのでしょうか(私個人としてはいまさら手塚治虫やジョーと飛雄馬か、という感さえある。石ノ森、ちばてつや川崎のぼるといった作家の特異性のほうが手塚や梶原一騎よりも遙かに興味深いものです。結局手塚自身も天才伝説になっているわけで)。

あすなひろし関係で以前にみなもと太郎さんにお会いした時に、24年組というのはもともと悪口だったというようなことを言っておられたような気がするのですが、ちょうど万博の頃の漫画史というのはいまだに非常に混沌としていて、このあたりについては団塊の世代(24年組というのはまさに団塊の世代の中心でしょう)がきちんとこれまでのように伝説化しないでもっと全体像を伝えてほしいと思うのです。

追記 追記 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 追記 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 追記 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

書き加えておかないとならないと思ったのですが、僕はけっこう真崎守とか永島慎二とか好きだったクチで、なによりも矢代まさこさんが弟が購読していた学習雑誌で睦月とみ名義で描いていたものから好きだった、ということもあって、岡田さんの一連の作品についてもとにかく必読と言うことで早くから読んでいて先入観なくこの世界はすごい、と思っていたんですね。大島弓子さんを読むのはかなり後のことで、やはり萩尾さんの作品とかと同じくらいに読んでいました。マンガ家になりたかった頃、とにかく既成のマンガとは違うものを作らなくてはいけない、と意気込んでいたもので、それがちょっと考えが変わってくるのが80年代になってみんながマンガがつまらなくなったと言い始めたことで、本当につまらなくなったのかと思っていろいろと雑誌を読むようになってからです。

これはすばらしい、と思った作家が全く話題にも上らなかったり、ということが幾度もあって、マンガ史をきちんとやらなければならないのでは、と思いながら本業との折り合いがつかず周りに話せる人もいなく、といううちにずるずる時間が過ぎていった感があります。

伊藤剛さんなんかのブログを見て最新のマンガについて語られているのを見ると、いまの自分ではもはや処理不可能という感じで、ただ自分の守備範囲については伝えていく必要があるなと痛感しています。

どうしても一人のマンガ読者史として私語りになるのは避けられないのですが、作家論で言うと、えんどコイチとあきの香奈をまずなんとか採りあげたいと思っています。両者とも地味な作家でごく一部に根強いファンがいて、知名度もそんな高くなくいわゆる天才型とは全く違いますが、このへんを採りあげないとと80年代のマンガ史は書けないと思っています。

それから倉多江美ですね。橋本治が真っ先に採りあげながら途中でマンガ評論からはずれていってしまったのですが、さべあのま高野文子などのニューウェーブの登場は私の記憶ではまさに倉多の登場と橋本治の評価から始まるのであって、この人をきちんともう一度評価してからでなければやはり世代の隔たりが大きすぎて私では岡田史子を語ることはちょっと無理なんじゃないかと思っています。

トミートミー 2005/04/15 14:03  始めまして。ブログのページから飛んできました。
http://blog.goo.ne.jp/my-yoshimura

 私、昭和28年生まれ、COMは中学生時代、感受性(?)の高い年頃で、衝撃を受けました。ほとんど大事に取ってあります。
 あの岡田史子さんが亡くなったなんて...。自分のブログでも、当時の作家さん達はどうしていらっしゃるんでしょう...なんて書いていたのに。あ〜ショック。
 昔のマンガに詳しいんですね。又、お伺いします。
今後とも宜しくお願いします。

lacolaco 2005/04/16 10:11 トミーさん、拙い文章のブログで恐縮ですが、コメントいただきありがとうございます。

2000年頃はいろいろなマンガ情報サイトが積極的な活動をしていたのにここ2年くらい沈滞していましたが、私のアンテナだと漫棚通信さんが最近古い漫画についていろいろ書かれていたり、伊藤剛さん以外にも竹熊さんや長谷邦夫さんなどマンガに詳しい方がブログの活動を始めたり、また今年あたり盛り上がりの兆しがあるのではと期待しています。
僕自身は昔のマンガに詳しいと言うよりも、誰もが読んでいるマンガでも自分の勘でピンと来なかったものは全く読まずに、その分雑誌で読むことを続けてきたので、特殊マンガ読みを自称しています。マンガ読みなら読んでいるだろうと思われているマンガを二次情報だけで把握しているのもかなりあるのですが、読む人の数だけマンガ体験はあるので自分のマンガ体験を語りながらいろいろな人との交流が深まると嬉しいと思います。あと自分の生まれる前のことを知りたいと思った時、その時代のマンガから得るものはとても大きいと思っていて、僕よりもっと若い世代の方が、リアルタイムで読んできた人だとその時代の中にあって常識のようになっていて実は後世にあまり伝わっていないようなことについて疑問を提出したり、気づかなかった見方を指摘してくれるということも多くなってきたと思っていて、積極的に耳を傾けたいと思っています。