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2005-02-26 トラックバック

最近えらそうなことを書いているくせにトラックバックとかしたことがないので、

ちょっと試してみることに。

「鏡は左右が逆に映るのになぜ上下はそのままなのですか」

この質問について考えてみた。

すぐに思いつくのは

・鏡はありのままに映しているだけで左右を反転しているわけではない

・人間の体が左右対称だから左右が逆になっている、と思いこむ

この先が続かなかったので、ちょっとスーパーに出かけたら、食品棚の上の方に鏡があって、下の食品を映している。

この鏡は斜めに傾いているので、自分の顔は見えない。この鏡を水平にして、天井に貼り付けて上を眺めると、「上下」が逆さまになって見えるはずだ。鏡を床においても同じである。

つまり、鏡で自分の顔を見るためには、自分の目を映さなければならないのだけど、私たちはふつう目で水平方向を見ているために、鏡はたいていの場合立てたかたちで置くことになる。つまり鏡の面は上下に対して向けられていないので、上下を映すことがない

ふとんの上にあおむけに寝そべって手鏡を見れば、上下は逆になっているのだ。

しかし問題は、手鏡で自分の顔を見ている時には上下が逆になって見えているとは意識されないことのように思われる。つまり、あおむけに寝そべっている時、下とは足のある方向である、と了解しているはずだ。つまり、このとき下と重力にはなんの関係もない。いずれにせよこの問題はおそらく物理の問題ではないのだ。

ここで右の目が左の耳のあたりにあって左の耳が右の目のあたりにあるような認識者を想定してみた。つまり顔の左側に目が二つあって右側に耳が二つある左右非対称の知性体がいて、これをかりに「ニンゲン」とする。

「ニンゲン」が鏡を見た時、最初にそこに見えるのは、自分と同じ仲間とは左右だけが異なる別の生き物である。しかしそれは別の生き物ではなく、鏡に映った自分の姿に過ぎないことは適当にウインクでもしてみればすぐに理解できるだろう。ニンゲンは顔の一部が非対称でも、全体としては左右対称であるからだ。それではもっと対称性をぐちゃぐちゃにした生き物になったとして鏡を見た場合はどうか。自分と同型の生き物がいて、それが自分と同じ生き物だと認識できていれば、やはりその生き物は鏡に映った自分を認識できるだろうと思うが、そうでなければ鏡に映っている、ということすら想像できないのではないか、という気がする。

もはやここでは鏡の話からはずれてしまっていて、私が気になっているのは、なんで生き物は高等になるにつれて左右対称になったのか、という問題になってしまった。動物がものを考える生き物に進化するためには左右対称である必然があったのではないか、という思いつきである。

ちなみに私は右ポケットと左ポケットをよく間違えます。もちろん着ている時は間違えたりしないけれど、脱いだ服だとかなり間違える。我ながら頭が悪い、と思います。

とりあえず言えるのは鏡を想定しなくても右と左というのは、前を想定して始めて定まる、ということで、あなたの右目は私から見て左側にある、ということです。

鏡の話に戻すなら、鏡を見ている時、私は実は鏡に映っている姿の方向から現実に私のいる方向に向かって自分を見ているから私の右目は「私」から見て左側にあるというのが答えかな、と思ったのですが、うまく説明できなくなってきました。

昨年の奇怪な体験 昨年の奇怪な体験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 昨年の奇怪な体験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 昨年の奇怪な体験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

先に統合失調症ネタにした文章を書きましたが、まあ現実はそんな単純ではないし精神分析とかについては全く素人です。でも昨年の夏ちょっと思うところがあって「分裂病の消滅」という本を買ったあと電車に乗っていたら、隣に数人のガキどもが乗り込んできて、騒ぎ始めたあげく靴を押しつけたりしてきて、とにかく寝たふりをしていたらそいつら、急にスペイン語のような言葉をしゃべり始めたんですね。あれは怖かった。まあ作り話ですけど。

2005-02-20 インターミッション

ちょっとしたぼやき ちょっとしたぼやき - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - ちょっとしたぼやき - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) ちょっとしたぼやき - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

忙しい仕事の合間に久しぶりに文章を書いてみたが、やはり普通の文章とかがうまく書けないなあ。

ブログに毎日書く、というような営みはやはり軽くて他愛ないようなものを継続的に書かないと続かない。社会批判のようなものを書いたらまたちょっと気分的に疲れたし。もしまじめに読んでくれる人がいたらその人も疲れるだろう。

そういう意味では進んで無責任に書くことはむしろ推奨される。

ブログコミュニケーションツールとして使おうとする人にとっては、対話のような文章が書きたいのだし、対話を行うにはどうでもいい話から流れにまかせて進めていくのがセオリーだ。そういうのがうまくできないからひきこもりになるんだろうが、お天気の話でもなんでもしたほうがいいだろう。笑いを取るような文章は書こうと思っても書けるものじゃくて対話の中から偶然的に生まれていくものだ。

いまの出会い系サイトは男女の出会いが強調されすぎて参加者が性欲を意識しすぎるのと(でもセックスは大事だよ。セックスをないがしろにするからいろいろとおかしなことになる)ほとんどが単なる金儲けの域でしかなくてコミュニケーションを提供したいという意識に乏しいからその結果として悪意が渦巻く空間になって壊滅的だけど、本当はビジネスモデルさえしっかりすればまだ可能性があると思っている。

コミュニケーションの欲望は表現の欲望よりも根源的なものだからこそ、コミケットはあのように巨大なものとなったんだろうし、そこにはやはり出会いの期待があるはずだ。インターネットビジネスとして成功するとすればP2Pコミュニケーションが成立する必要があるはずだが、出会い系の現状がその困難さを端的に示している。だからブログのようなP2PWebサービスからその可能性を求めてもっと積極的にかかわっていきたい。Webサービス自体が思ったように発展しないのはをB2Bとしてしかとらえられていないところに大きな問題があると思っている。Wikiだって可能性はあると確信しているんだけど。まあいろいろ考えてみます。

そしてマンガネットの話 そしてマンガとネットの話 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - そしてマンガとネットの話 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) そしてマンガとネットの話 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

オンラインのマンガサイトについても根本的にマーケティングからやらないとダメだと思うのにうまくやれる人がいないんだよね。図書館グリッドとして研究者向けにマンガ資料を配信するソーシャルネットを作るとか、オンラインで制限付きで立ち読みができるサイトとか、ちょっと考えただけでもほしいものはたくさんある。こういうことについて議論のできるメーリングリストとかないのかな。

日本マンガ学会の会誌「マンガ研究」について書こうと思ったがやはりいまは時間に余裕がない。丸山さんに献本するのが遅れているのは使用済み最終稿のゲラ刷りに、うまく書けなかったところの赤入れをしてから送りたいと思っているからなのですがこれもちょっと時間の余裕が持てなくてまだ送っていません。どうもすみません。あと20年近くずっとお気に入りで応援していたマンガ家さんにひさびさにはげましのファンレターも送りたいと思っていますがこちらも手がつけられないでいます。

生きのばしについていま考えてみた 生きのばしについていま考えてみた - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 生きのばしについていま考えてみた - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 生きのばしについていま考えてみた - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

  1. 水と笑いは金を払ってでも買うべし。酒も健康飲料もひかえてとにかく水を飲め。あとは音楽かな。
  2. 街中や電車の中でいやなことがあったら無言でガンを飛ばしてみる。ただし見るからにあぶない人に向けないこと。あんたも不快だろうが俺も不快なんだ、ってアイコンタクトがとれれば成功だ。うまくいけば相手も顔を背けるし、相手が逆に強力にガン飛ばして来たら、すごすごと目をそらすこと。
  3. 死にたいとかしんどいとか鬱をこじらせたら人前でいいからとにかく口笛を吹こう。吹けなければ鼻歌を歌おう。

いや、自分は死にたいと思ったりはほとんどないのですが。

さて仕事に戻りますか。

2005-02-19 「異常殺人」と「精神分裂病」と無責任の構造 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

あすなひろし作品選集にはこれまで収録されなかった青年向け作品として、「初恋 白い少年」、「翔ぶ、」という二つの興味深い作品が掲載された。(これはe-mangaのページ:http://kodansha.cplaza.ne.jp/e-manga/main.htmlFlash形式サンプルがあって読める。正直読むのがかったるくて適当にめくれないものは私の感覚ではマンガとは言いがたいのだが)前者の初出が公式サイトの作品リストでは1961年と誤記されているが、選集発行のお知らせにもあるように、初出は1968年ということである。驚くべきことに、この1968年には戦後少年犯罪史に残る永山則夫の連続射殺魔事件が10月から 12月にかけて起きている。この前の地震で掲載誌が手元に見つからないので初出が何月なのか確認できなかったが、つまり、「初恋 白い少年」は奇しくも永山の殺人予言するものとなってしまっているのだ(事件が発生してから描かれたのかもしれないが、永山の逮捕1969年である。つまり、連続射殺魔が少年であることが判明したのは発表後である)。

ところでこういう話を聞くと、あすなひろし漫画が永山の犯罪を産んだ、と言うような屁理屈を言う輩がきっと現れるに違いない。この前寝屋川小学校で死傷事件があった時も、犯人がひきこもってゲームばかりしていたというので「ゲーム脳」が問題にされているが、ああいうことである。ゲームばかりやっていて現実と妄想の区別がつかなくなった、だからゲームを規制すべきだ、という理屈はまったくロジカルではない詭弁に過ぎないのはいうまでもない。しかし、それではゲームは無関係か、と言えば、犯罪根本原因ではなく犯罪スタイルにおいて影響を与えていると考える方が理にかなっているのではないか。奈良の女児誘拐殺人などはその点犯人趣味嗜好が犯罪スタイルに結びついたのはほとんど疑う余地がないように思われる。

永山がもしまだ死刑になっておらず生きていたら、彼に「初恋 白い少年」を読んだか聞いてみたいものだ。「初恋 白い少年」はまぎれもない傑作であるが、傑作であるその理由は、主人公である殺し屋少年の内面が非常に巧妙に描写されているゆえである。「あしたのジョー」を読んでプロボクサーになったり「キャプテン」を読んでメジャーリーグに名を馳せる名選手が生まれたように、永山がもしこの作品を読んで感動し、連続射殺魔になったと言う可能性はあってもおかしくないだろう。

もう一度誤解ないように言っておけば、マンガ犯罪スタイルに影響を与える可能性は十分あるが、それは犯罪根本原因ではない。犯罪スタイルに影響を与えるのはゲームでも小説でもテレビでも新聞でも親兄弟でも先生でも友人でもご近所の人でも政治家でも官僚でも、つまりなんでもあり得ると言うことに過ぎない。

ではこれまでに挙げた被害者個人に恨みを持たない(「誰でもよかった」)「異常殺人」の根本原因は何か、驚くべきことに、あすなのもう一つの作品「翔ぶ、」はそのヒントを示しているようにみえる。いわゆる「ネタバレ」になるので結末は描かないが、この作品のヒロインは、漠然とした不安から誰かから嫌がらせを受けると思いこみ、最後には誰かに殺されるような妄想を抱くようになり、幻覚を見るようになってその疑念は自分の夫にも向けられる。夫は妻の妄想を晴らそうといろいろ手を尽くすが、その甲斐もなく妻は飛び降り自殺してしまうのだ。その後夫が妻を殺そうとしていたのではないかと疑われるが...というようなストーリーだ。

あくまでも私個人の感想だが、これまでに挙げた実際に起こった犯罪根本原因が何か、と言うことを考える手がかりになった。よく心の闇とか言われるが、心の闇なんてものはまさに「ゲーム脳」のような常人の理解を超えたものに対する蔑称に過ぎないだろう。われわれは現代において何か異常な事件が起こると犯人捜しに躍起になる傾向が著しいが、そのような行為は我々自身が属している社会の構造的な問題や旧来のシステムの疲弊にたいして目を背けていることなのではないか。(昨年の自衛隊派遣から自己責任論、プロ野球再編などいずれも、われわれの誰にとってもこれから自分の暮らしている社会をどうしていくのかを考える試金石であったと思うが、結局問題の核心を避け続けてきた感が強い)

奈良女児誘拐殺人小学校刺殺事件の加害者に共通するのは、かつていじめに遭っていたであろう、ということである。後者についてはいじめはなかったと言われているが、それはいじめに荷担した当事者にそのような意識そのものが欠けているか、口裏を合わせて隠しているかというところだろう。こういうと根拠もないのに中傷するのか、と言う者が現れるのが目に見えるようだが、私が言ういじめとは、それが外側からみえるような単純ないじめではなく、まさにいじめを受けていると思っている本人が告発しようにも誰を告発すればいいかわからないような、目に見えない排除の圧力を指している。これは組織的なものと言うより、なんとなくの悪意の連鎖みたいなものだが、このような曖昧さが厄介なのだ。

このような排除の圧力は、それを被る人間にとって、最初はその人の存在をうっとうしい、うざいと感じる人間から発せられるだろう。その典型が「ゲーム脳」などという言葉を使って手前勝手正義感を振りかざすような少し歪んだ被害妄想的な輩である(2ちゃんねるとかによくいるよね)。しかしこの手の人間は世間の常識になっている正義も率先して振りかざすし、このような人間から例えば「君は協調性に欠ける」とか「みんなが守っている決まりは破ってはいけない」といわれてそれにただちに反論できるだろうか。反発を感じながらも、「いい子」なら自分にも非があるからと反省に向かいがちなのだ。そのうち自分がダメ人間であると卑屈になっていくと、今度はごく普通の人たちも、あの人は危ない人だとか何を考えているかわからないとか思い始め、いじめの構造に意識的であれ無意識的であれ荷担していくようになるのだ。オタクはキモい、と人前でも平然と言い放つような人たちがこれであり、日本の普通の人のほとんどはこのタイプだ(女性に多い、というか目立つのか)。かくして、「いい子」であろうと内面的に努力を重ねてきたというのに、いつの間にか世間から「おまえなんかうっとうしいからどっかに行ってしまえ」とか「おまえなんかこの世から消えてしまえばいい」というメッセージを内面化してしまう事態に陥るのである。これがいわゆる最近精神分裂病から統合失調症に言い換えられた精神の病であるところの「幻聴」、それがさらにひどくなると「幻覚」になるではないか。

「幻覚」を見る、というのは要するに精神が慢性的な過労状態に陥っていることで生じるものだろうが、「幻聴」のメカニズムはもうすこし複雑だ。私の実際の幻聴体験からいうと、幻聴と思っているのをよく耳を澄ませてみると、周囲の人間が実際に「死んでしまえばいいのに」とか「うぜえんだよ」と言っていることがある。それは「幻聴」を受けている人間を指しているとは限らないし、むしろほとんどは赤の他人に対してのおしゃべりに過ぎないだろうが、精神的に窮地に陥っている人にとってはそれを自分に向けられた「幻聴」だと思ってしまうのである。

鉄道で飛び込み自殺をする人間が最近絶えないが、駅のような人混みはその点非常に危険なのだ。幻聴が聞こえるようになったなら注意しなければならない。これはあくまで作り話だが、例えばある職場で無能な社員を退職させたいと思ったとすれば、その「無能」な社員に困難な仕事を集中的に与えて精神的な過労に追い込みつつ、その人の近くで「死んでしまえばいいのに」とか「あいつはまったく役立たずだよ」と言うような人間を送り込むことだって可能だろう。

こういう話を電波な話として一蹴するのは容易いし、もしそういうことが万が一実際にあったとしても、これは集団的なあいまいな悪意ある行動の集積であって、特定の人間による犯罪ではないから、罰しようがないのである。つまりいじめはなかったといわれればそれがあったことを立証するのは至難の業である。だがしかし「いい人」ではなくそこそこ世間知に長けた善良な人間は自分の存在に不安を与えるものに対して不快感と排除の身ぶりをごく当たり前に示すものだ。そこでこんどは追いつめられた側の人間を考えてみよう。

このように追いつめられた人間はもともとは「いい人」である。「いい人」というのは今日、性格はいいんだけど無能な人間のことを指すのではなかったか。かれに「おまえはこの世にいる価値がない」という世間からの否定が内面化された場合、一番あり得るのは病気で寝込むことである。ちなみにこれは仮病ではない。精神的に著しい過労は心身をむしばむからである。これが慢性化すると自殺を考えることになるだろう。自殺はいうなれば精神的過労死であり、またそれはあすなひろしの「翔ぶ、」のようなことでもあり得る。

だが、そもそも自分は悪いことを進んでしたわけでもないのに、なんでこの世にいてはいけないのか、と考えるのはおかしなことだろうか?もちろんそう思ってしかるべきなのだ。では自分をそのような状況に追い込んだ人間に復讐すればいいのではないかと言いたいところだが、殺人犯となった彼らは総じて罪もない人を殺してしまっている。

その理由は、第一に、復讐する相手がいてももはやその人間に復讐するどころか顔を合わせることさえできないほど打ちのめされているだろうからであり、第二に、自分が世間から弱く役に立たない人間という烙印を押されたことから、より弱い人間に目を向けてしまうと言うことがあるだろう。この点において、いじめ=排除の構造についても、権力の大きい人間から権力を持たない人間に流れると言う点ではまったく同じことである。

第三に、特定の人間に復讐したところで状況が改善されるわけではないという排除の構造という性質である。殺人者にとって復讐したいのが「世間という自分を排除しようとする構造」であるからこそ、かれらの目標は世間全体に精神的ダメージを与えることであり、そのための有効な方法が、まったく罪のない人間を犠牲とすることなのである。つまり自分を追いつめたそこそこ力を持つ普通の人間を殺したところで、それは恨みによるありふれた犯罪として小さく新聞の紙面にでも載ってそれで終わりだが、無関係な人間を殺すことはメディアを通して社会的に大きな衝撃を与えることになる。これは言い換えるならテロリズムの実行犯の論理と同じである。そしてここでいう「いじめ」のメカニズムも、いうならばごく普通のわれわれが行使するマイクロテロリズムの集積として現れるであろう。

これまでに述べた異常殺人(あるいは池田小の事件を挙げてもいいだろう)とは生きることを許されないと世の中から宣告された(と思いこんだ)者が世の中に対する復讐を行うことであったと考える(それ以外に何か根本原因としての特別な理由があるだろうか?その根本原因はある種の人を生け贄として選び見えない集団的圧力を与える「いじめの構造」だ。いじめということばはあまりうまい言葉でないので世の中に蔓延する「排除圧力の構造」とでも言おうか、それには主犯が不明確だ。つまり責任者が誰かわからない日本の前近代的な社会構造の中で彼ら犯罪者は責任を一身に押しつけられることから逃れる=自殺する代わりに、「自分の存在を人知れず抹殺される」ことに抗して世間から受けた仕打ちを擬して自ら生け贄の儀式をつかさどる司祭となるのである。

これまでに書いたことは私の主観であり実証的なものではないからその妥当性は保証の限りではないが、たとえば自殺者予備軍や凶悪犯罪に共感するようなタイプに向けていかに自殺せず人も殺さずに生き延びるかを考えるためのヒントとして書いた。具体的にどう身を処すかについてはけっこう困難なものがあるが、私の見る限りあすなひろしは「単独者」であったし、「単独者」たることにヒントはある。私があすなひろしを高く評価する理由にはこんなことを考えさせるところにもあるのだ。

なお私がこういうことを考えてきたのはオウムの無惨な事件もあったが、それより前にかつて女児連続殺人事件があり、オタクや新人類の間では彼を揶揄する身ぶりが見られたが、私はもし彼と同級生だったなら友だちになっていた可能性も十分あったと思ったし(幼少の頃から私には学校いじめられっ子を引き寄せるものがあったから)、だからこそその犯罪については真剣に否定しなければならないと感じてきた。

さらに犯罪者の父親は自殺に追い込まれているが、私がもっとも憤るのがこのような人を見殺しにする日本の「和」を重んじるとか全くうそっぱちな社会構造のありかたであった。日本人の穢れを嫌う意識はもはや病的なものである。またこのような犯罪についてなんの根拠もなく親の責任と言う人間に対してはほとんど犯罪的であると断じたい。

いまやわれわれは誰もが加害者である。ネット上に文章を書くようならなおさらのこと加害者である。ここではマンガ犯罪スタイルについて影響を与えることは当然あり得るということを書いた。それは別に当たり前のことであるが、それを主犯のごとくマンガを規制すべきという運動が起きるとすればそれは責任をなすりつけるという排除圧力の構造にマインドコントロールされているということである。それに対してマンガは関係ないとか悪いのはテレビだと言うとしたらそれは表現の持つ影響力を考えない単なる責任逃れになりかねないし、そのような身ぶりこそがまさに自らの無責任から他者に責任を押しつけ合うことによって「排除圧力の構造」を温存させる原因となる可能性については意識せざるを得ない。

lacolaco 2005/02/27 08:24 マイクロテロリズム、という言葉はこのコンテンツを書いている最中に思いついたもので、このコンテンツそのものが一種のマイクロテロとして機能するかもしれない、というおそれも若干抱きつつ書いたのだけど、その後、私以前にやはり最近の事件に触発されてマイクロ・テロリズムということばを使っているサイトを見つけて少し驚いている。私のこのコンテンツはまだ粗雑なスケッチのようなものであり、じつのところ自分が真実を語っているとも思っていないが(私は意識的に精神分析的なものを軽んじて書いたし、いじめ、とテロリズムが安易に結びつきすぎていてうまくない)、自分とは直接関係のなかったところでより真摯な問いがされていたことには勇気づけられた。ただ自分としてはこういうものをありふれたものとしてとらえようとしている面があり、流行語みたいになるのはちょっと困るし安易に使えるものではないような気もしている。

lacolaco 2005/04/09 17:46 あすなひろしの作品を手がかりに考えたことを描いたこの記事ですが、その後掲載された選集によれば、「初恋 白い少年」は1970年の作品と言うことで、この記事を読んであすなひろしの選集を買ってみたら話が違うじゃないか、というようなことがあったらお詫びします。ただマンガの内容が読んだものに影響を与えることは当然のようにあり得るという趣旨自体はここに書いたとおりです。「初恋 白い少年」の主人公の「内面」についてはやはり現在の犯罪につながるリアリティがあると思います(巧妙に描かれている、というのはそういうことです)。

2005-02-03 メモ(永井「独在論」他)

<私>に関する思考実験 <私>に関する思考実験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - <私>に関する思考実験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) <私>に関する思考実験 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』

・培養槽の中の脳

#反実在論:→バークリー →ダメット

デレク・パーフィット『理性と人格』(未読、永井により乗り越えられたと判断)

「瞬時遠隔移動装置による人間の「電送」や、脳分割・融合など、SFの古典とも言える思考実験を駆使して、人格の同一性の問題が執拗に論じられている。」(森岡正博)

独我論 独我論 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 独我論 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 独我論 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

デカルト→カント→フッサール

「フッサール 起源への哲学」斎藤 慶典

超越論的独我論への独在論からの批判

transcendental nanchattebility(超越論的冗談性→「これが現象学だ」谷徹)


柄谷行人「探究」における「独我論」

・永井の「探究」批判(「<魂>に対する態度」)

 - 解釈的知性と省察的知性

 -「教える-学ぶ」関係(→クリプキの「クワス」)

 -「他者と異者」

  フーコー「牧人型権力」

  →ニーチェ批判(「ルサンチマンの哲学」「これがニーチェだ」)

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ちくまプリマー新書 ちくまプリマー新書 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - ちくまプリマー新書 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) ちくまプリマー新書 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

「ちゃんと話すための敬語の本」橋本治

先生はえらい」内田樹

# →「教える-学ぶ」

「思想読本[11] 1968」 suga秀実 編、作品社 「思想読本[11] 1968」 suga秀実 編、作品社 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) を含むブックマーク はてなブックマーク - 「思想読本[11] 1968」 suga秀実 編、作品社 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) 「思想読本[11] 1968」 suga秀実 編、作品社 - ad-lib-comic-diary (ただいま整理期間によりお休みです) のブックマークコメント

蓮實 (略)今なお思っているのですが、藤枝静男は、やはり世界の人々が読むに値するものだという間違いない確信がある。志賀直哉についてもそうです。

蓮實 (略)橋本治さんまでが小林秀雄について語るって現状が、どう見ても健康でない。

上野 (略)とくに石子順造のように、それまで美術批評をやっていたような人が、漫画独自の表現とは何か、というかたちで批評を始める(略)簡単に言ってしまえば、「思想の科学」系の人たちは、それこそ「大衆のエネルギー」というような観点から、漫画を論じていたんだけれど、石子さんなんかは、コマ割りがどうだとか、吹き出しとは何か、というような漫画を成り立たせる形式を問題化する。(略)美術批評の宮川淳あたりの屈曲した影響があると思いますが。

(座談会 「一九六八年」とは何だった/何であるのか すが秀実+蓮實重彦+上野昴志)

 実際わたしたちは例えば「近代美術」と「近代芸術」といった言葉を、ほとんど同じものを指すかのように使ってしまう。しかし、それは概念上まったく異質なものを指示するのである。(丹生谷貴志)

 (「漫画主義」)同人は、美術評論家の石子順造、青林堂の編集者だった高野慎三(権藤晋)、のちに映画評論家になる山根貞男(菊地浅次郎)、いまも貸本漫画研究を続けている梶井純の四人である。(略)この頃から、詩人の天沢や鈴木志郎康などを含めて、若い世代による新しい批評が模索され始めたのである。

(中略)

 「COM」創刊には、貸本育ちの劇画が市場を席巻する勢いを示していることに対して、雑誌派?を糾合するという側面もあった。それは、単純に「育ちの違い」という人脈的な分布ではなく、マンガの表現スタイルの違いによる対立を含んでいたはずである。(上野昴志)