| 揚子江を埋めた屍
赤星義雄
*「ゆう」注 赤星氏は、1937年7月30日応召を受け、第六師団歩兵第十三連隊の二等兵として配属されました。
明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んだ。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲陣地のある獅子山へ行った。
山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作るために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。
その砲台から眼下を流れる揚子江を見ると、おびただしい数の木の棒のようなものが、流れているのが遠望された。
私たちは獅子山から降りて、揚子江岸へと向かって行った。途中、中国人兵士の死体が転がり、頭がないものや、上半身だけしかないものなど、攻撃のすさまじさを物語っていた。
揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そのに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。
二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。
少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。
このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。
前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。
南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。
私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも・・・」と思い、後でこれが”南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。
(「揚子江が哭いている」P29〜P30)
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