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- きみ、そこはきみの家ではないのだよ -  ミラン・クンデラ

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28-12-2008 悪の社会 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

要は「いまの社会は悪の社会だ」という認定をしている。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081223/1230004277

社会というとどのスケールの社会を指しているのかにもよると思うのだけど、この結論を眺めたときにすぐにオウム真理教のことを思い出した。オウム真理教は日本国家に対してハルマゲドンを設定した。このことから察するに「日本社会」を「悪」とみなして問題設定をおこなった。これは私からみるととても極端で、社会を批判する上での間のステップをいきなり踏み越えている。

一方、目下のfuku33氏にとっての問題設定はトラブルシューティング的な内容なのだろうな、と想像する。システムの駆動に不良が生じており、その不良には欠陥があるのだからそれを修繕してシステムを復帰すべし、というような問題。あるいはシステムの漸次的改善。などとこのところの記事をいくつか読んでいて思った。

市場を創造するのは技術ではなく文化なんです「Think! 2008年秋号」

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081029/1225266814

技術伝達と文化伝播の違い

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081031/1225423630

問題が組織をつくる

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20081105/1225865652

これはこれでとても重要な話だと思う。しかしこうした立場の内部では、システムそのもの自体の設計を問題の対象とすることは論の範疇にはないのではないか(それこそ先日浅はかであると私を指摘したマジシャンの人がいろいろくわしく説明しているが)。たとえば、東京郊外の電車の踏み切りで永遠と渋滞が続くのならば、いかにして電車の通過タイミングを渋滞が少ないように列車の運行ダイヤをデザインするのか。これはfuku33氏的な考え方だと思う。しかし、一方で、都市機能を変更してたとえば首都移転を本気で行う。あるいは、一極集中型の労働スタイルを変更するために、どのような福祉システムがありうるか。あるいはさらに我々はいかなる価値観の変更をせまられているのか。

システムの設計自体を疑い検証する、そうした想像を超えてしまうような行為が、単に別のレベルでの問題設定でしかないのにもかかわらず、「悪」ラベリングという二律背反的な行為にみえてしまっているのではないか。社会を批判することがすなわち「いまの社会は悪の社会だ」としている、と要してしまうあたり、私は身近にいてオウムに走ってしまった人々の鏡像(すなわち一足飛び)を再び目にしたような気になってしまうのだった(強調しておきますが、fuku33氏がオウムのごとし、といっているのではありません。ただ、「悪」とラベリングする理由、あるいは「悪」とラベリングしているとみなしてしまう理由を考えたときに似たような構造があるかもしれない)。社会システムを批判すること、というのは別にそれを悪魔のごとく扱っているわけではない。社会システムそのもののトラブルシューティングをいかに為すべきか、ということを論じているにすぎないのである。批判すなわち悪、ってなんか「日本の悪口をいうなんて」っておっしゃるタモ神将軍みたいではないですか。

・・・などと一足飛びを批判したあとに一足飛びのことを。生物のシステムは原子から社会まで階層的であって、さまざまな枠組みがミクロからマクロにつらなっている。そのそれぞれのレベルでの理論は、現状では階層を上下にうまく連続させることができないので、とてもややこしいことになっている。このあたり、うまく説明するような言葉が我々には必要なのだ、とおもうことしきり。横にはやたらと広く複雑に詳細になっているのにタテがダメダメ。

fuku33fuku33 2009/01/04 15:51 私はシステム批判そのものを懐疑しているわけではありません。それを行う「人たちのいくらかは」(とちゃんと書いてあります)、システム批判そのものが目的ではなく、システム批判にこじつけて口汚く人格攻撃を行う快感に酔っているのではないか?むしろそれをしたいがための道具としてシステム批判を使っているのではないか?という懸念を表明したまでです。よく読んで下さい。

kmiurakmiura 2009/01/06 11:34 道具=罵倒用語として使われる「イデオロギー」とはまさにそのことさしていますね。でも、それだけではなくて議論が延々とおわらないのは上のような価値観のずれがあるせいだと思います。

fuku33fuku33 2009/01/06 12:36 価値観のずれではなくて、相手の意見を曲解して自分が相手を悪者に仕立てて罵倒するのに都合が良いように解釈して人格攻撃的に強弁するという、議論するに当たっての作法のなさが問題だと思います。例えばこちらがエントリーで書いたことが歪んだ解釈をされたときに、書いた本人であるこちらの方が「そんなつもりではなかった、本意はこういう意味である」と補足したのに、それに耳を貸さず悪意を以てなお曲解を押し通そうとするなんて、アカデミックな場の議論では考えられませんよ。最初にまず「一足飛び」に結論を決めてかかりそのために詭弁を弄したのは私に粘着した側です。それを考えれば、そもそも最初から議論は成り立っていないのですよ。

kmiurakmiura 2009/01/06 13:01 うーん。失礼ながら、ご自分のことを中立、と思っていらっしゃりませんか。そのことが価値観のそもそもの差なのだ私は思いました。私にはトリアージのほぼ一年にわたるいろいろな場所での議論をサマライズして発展的解消をめざす、などという能力は私にはありませんが、しばしば眺めていた限りでは、自分はあくまでも学問的に中立なのであるというfuku33さんと、fuku33さんは批判されるべき考え方を持っているとする人とのすれ違いだったのではないでしょうか。で、後者の方はそもそもの批判から、批判対象であるということをfuku33さんに認識してもらえない(すなわちそれが中立である、という立ち位置)がゆえにますます批判が先鋭化し(=悪意である、とfuku33さんが認識している)、という過程だったのではないかと思っています。こうした見方に気分を害される、というのでしたらしょうもないのですが。

fuku33fuku33 2009/01/06 13:38 私は自分を中立とは思っていません。しかしそもそも、私のエントリーの記述をわざと曲解して解釈し、エントリーを書いた本人である私自身が曲解を避けるために補足した説明を無視し、なお悪意の曲解にこだわって、私や私の意見のある部分には理解を示した人に対して執拗に「脳の失敗」とか「半ば本気で死んで欲しい」というようなネガタグ・ネガコメ攻撃をしたり、あるいは私の仕事先に私に関する根拠のない誹謗中傷メールを送りつけたという点でも、これは議論以前の人格攻撃ですよ。そんなものとまともに向き合えますか。
あなたが「議論」と呼んでいるのは、アンフェアな罵倒とそれをされた側からのその罵倒に対する懐疑であって、そもそも議論ではないのです。真っ当な議論ならば、あんなネガタグ・ネガコメは必要ないでしょう?あなたはああいうネガタグ・ネガコメを他者に貼り付けるという行為自体を真っ当な批判と思われるのですか?支持されるのですか?まして彼らが自らのネガタグ・ネガコメを正当化するためになお詭弁を書き連ねたのはなお批判でもなんでもありません。なお醜悪な人格攻撃です。あれが悪意でなくてなんなんですか?

「悪」ラベリングをしてきたのはどちらですか?私は、そういう行為の背景には、意見の対立があるのではなく、そもそも他者を罵りたい欲望があり、その欲望があるが故に他者と対立しやすい意見をとなえるという倒錯があるのではないかと思います。しかしそれをも一般論として論じようとしても、勝手に自分のことに引き寄せ、見苦しい罵詈雑言をぶつけてくるというのが、私には信じられません。そしてそのような行為に気分を害さないことの方が不思議ではないでしょうかね?

o-tsukao-tsuka 2009/01/08 11:17 fuku33さんの書いてることの大部分が、fuku33さんが似非原さんにやったことに当てはまる気がするんだけど。
どうにも、ネット上と対面のコミュニケーションにギャップがあるような。

fuku33fuku33 2009/01/08 13:41 >o-tsukaさん
他人様のエントリのコメント欄ですから、極力短く答えます。似非原氏の「希望はテラ豚丼」エントリへのコメントのことでしたら、あれは似非原氏もちゃんと納得した話です。第一、似非原氏に僕はどんなネガタグ・ネガコメをつけたこともなく、まして仕事先に中傷メールを送ったこともありません。あなたはまるでちがうことを一緒にしようとされていますが、それはアンフェアです。
もしこの点についてなにかおっしゃりたいことがおありでしたら、kmiuraさんにご迷惑ですから、拙ブログにコメントを下さい。こちらではこれ以上は対応しません。

kmiurakmiura 2009/01/10 09:45 お返事遅れました。

ネット上での罵倒に非常なる不快感を感じられている点、よくわかりました。ただ理解できない点は、なぜそれを左翼と結びつけられるのか、という点です。罵倒は罵倒として、上にあるように批判は2009/01/06 13:38の投稿でfuku33さんがなされているようにすればよいのではないでしょうか。

fuku33fuku33 2009/01/10 15:40 私に理不尽な罵倒をしてきた人はいわゆる左翼的な意見を持っている論者が多いように観察しているから、実際の体験から、左翼的議論をする主体のいくらかはそういう傾向があるのではないかと論じているわけです。はてな全体やブログ界全体を把握しているわけではありませんが、いわゆる右翼的な主張をしている人で、もしかしたらやはり非常にえげつない罵倒をしている人がいるのかもしれません。
しかし、自分の観察としては、意見を異にする相手の人格、職業、思想の内面、あるいはメンタルヘルス、身体的能力、まして生存していることそれ自体に対して否定的な罵倒を繰り広げてくる主体は、やはり圧倒的にいわゆる「左翼」が多くはないでしょうか。念のために整理すると、「左翼」の多くが罵詈雑言を口にするというわけではなく、罵詈雑言を口にする人の多くがどちらかというと「左翼」的な論調を罵倒の道具に使っているのではないか?ということです。これは実際に記録があることですから、例えば「こんな言い方をよくするものだ」と呆れさせられるようなネガタグの使用例をはてブで辿ってみていけば、いかにそれらを悪びれず使う人に「左翼」が多いか、実際にご覧になれますよ。「右翼」の人もゼロではないかも知れませんが、割合ということなら、やはり「左翼」の方が多いと思います。これはなぜなのか?自分もこの点についてはなお考えていきたいと思っています。
しかし注意して頂きたいのは、自分は左翼的論調を批判しているのではなく、実はまず他者を罵倒して攻撃欲求を満たす快感を欲している主体がいて、彼らが左翼的論調を「道具として」使っているのではないか?その「罵倒する快感を得る道具として使う主体」を批判しているということです。そういう手法を採用している主体の存在そのものが、むしろ真っ当に考えた末にいわゆる「左翼」的な主張をするに至った人の営みをも貶めているのではないかと懸念いたします。
推測の話ですが、kmiuraさんはどちらかの分野の研究者でいらっしゃるのではないかと思いますが、自分は経営学の研究者としては出来が悪い、識見も狭い方ではありますが、でも思うのですが、社会科学の研究者たらんとして十数年やってきた身から言いますと、真面目に学問的たらんとして考えた意見が自分にあり、仮にそれと違う意見、対立する意見の持ち主と議論する機会があったとしても、真面目に考察した末でのことならば、どれだけ意見が対立しても、相手を理性的に説得しようとするにはしても、それは真摯に論拠を積み重ねる以外の手段はありえようはずもなく、「あたまがわるい」とか「死んで欲しい」というように感情的に相手の人格を罵倒するなんて、考えられないことだと思うのです。自分にはその「罵倒する」行為に至る思考回路そのものが、理解不能です。ですから自分は「罵倒」の背後には論の相違そのものよりもまず、「罵倒したい欲求」があるのではないかと考える理由がそこにあります。
また、「罵倒は罵倒として」、いわば罵倒を「おいといて」批判を加えるべきという意見には自分は与しません。それは結果として、罵倒を容認することになるからです。まともな議論を本気でする気なら、論者が罵倒をした時点でたちどころにその主体は論者でさえなくなる、ということでなければ、議論など成立しようはずもありません。
そしてそもそも、なんで罵倒された側がそこまで罵倒する側の都合の良いように「おいといて」あげなければならないのでしょうか?罵倒される側はやはり気持ちの良いものでは「全く」ありません。さらにその罵倒の影響を選り分けて議論を成り立たしめる負担までなんで負わされなければならないのですか。そんなことが通用してしまえば、少しでも社会について諸説を述べるブロガーは、通りすがりに悪口雑言を並べて人格を攻撃してくるコメンテーターにいちいち意を汲み取って相手をして差し上げなければならなくなると思いますが、そんなことは明らかに理不尽だと思います。罵倒は、それをした時点で議論のルールを踏みにじっているとみなすべきです。ですから自分は罵倒してきた相手と議論する気はありません。「なぜそんな罵倒などをする主体がいるのか」ということについて自分なりの考察をしたまでです。
また、個別具体的な事情に触れるならば、自分は五月以来、時折「バイト先にお前の不届きな行状を知らせるメールを送ってやるぞ」という威嚇を受けていました。また実際に、自分のあるバイト先には「fuku33はイカレテイル(この表現は、元のものとは変えています。あまりにひどい表現だったので、とてもここでそれを書く気にもなれないのです。)」というような怪文書が何回も届いたそうです。幸いバイト先はそれをまともに取り上げようとはしませんでしたが、そういうことをされた私が、なんで「罵倒は罵倒として」脇に置くようなことまで要求されなければならないのでしょうか?不思議でなりません。

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References
  • “癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究
  • ポストモダニズムとホロコーストの否定 (ポストモダン・ブックス)
  • 戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源
  • ファウスト〈第1部〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
  • ゆきゆきて、神軍 [DVD]
  • アメリカの夜
  • ディーバ -ニューマスター版- [DVD]
  • Song for My Father

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