桜井淳所長の最近の講演内容-物理学者アルビン・M・ワインバーグの「超領域科学」の歴史構造-
テーマ:ブログ【講演要旨】
Ⅰ. はじめに
アルヴィン・M・ワインバーグ(Alvin M. Weinberg、核物理学者、1919.4.20-2006.10.18、享年87歳)は、戦時中の1945年に米テネシー州オークリッジにあったクリントン研究所(戦後の1947年にオークリッジ国立研究所に改名)に26歳の時から勤務し始め、1945-1948年の4年間、物理部門の管理職の職位に(26-30歳)、その7年後の1955年から1973年までの18年間、研究所長の職位にあった(36-54歳)。彼は、若くして際立った能力を有していたため、研究所の重要な職位に抜擢され、研究者や研究管理者として能力を発揮したばかりでなく、科学哲学の分野でも優れた業績を残し、世界をリードした。
我々が彼について認識している特筆すべきことは加圧水型軽水炉の概念の提案者であることとTrans-Scienceの概念の提案者であることであろう。
前者に対してはつぎのように評価されている。「しかし戦時中に「マンハッタン計画」で濃縮技術が開発され、核分裂性のウラン235の濃度を高くした濃縮ウランが利用できるようになり、軽水でも十分に減速材の役目が果たせるようになった。これに目をつたけオークリッジ国立研究所のアルビン・ワインバーグ(1946年、当時26歳)は、安価で使い方も熟知している普通の水、軽水を減速材として用いることを考えていた。しかも軽水はそのまま冷却材として燃料が発生する熱を取り出すこともでき、一人二役が可能である。人間が最も使いなれている無尽蔵の軽水を冷却材のみならず、減速材として用いることができれば、コスト的にも、取り扱い上でも、また原子炉システム設計上も極めて有利になる。・・・・・・しかし、水は温度が上がって沸騰すると、水と蒸気の混じり合った複雑なものとなり、原子炉内のウラン燃料の周囲で減速材兼冷却材として計算どおりの性能を出してくれるか、という点で自信がなく、おそらく原子炉が不安定になるのではないかと考えられていた。一方、水を沸騰させないようにするためには、沸点以下の低い温度で用いねばならず、そうなるとたくさんの熱を原子炉から取り出せず、動力源としては魅力がなくなり、実用的でないと考えられていた。これに対し、ワインバーク等は、それでは水を沸騰させずに温度を上げればいいのだから、水の圧力を高くして高温・高圧の液体状としてもちいればよいと、という結論に達し、ここに後に世界中で最も普及することになる加圧水型軽水炉(PWR)の概念が誕生した。・・・・・・当時まだ高圧技術が十分に発達していなかったので、水の圧力、つまり温度をあまり高くできず、熱効率が悪くなるため経済性で不利と考えられていた」(西堂&ジョイ・イー・グレイ 1993 76-77 91)。ただし、( )内は、引用者が補足した。
後者については1972年(オークリッジ国立研究所所長時代の53歳の時)に刊行された論文に記されている(Weinberg 1972)。今回は、その論文を基に、アルヴィン・ワインバーグが提案したTrans-Scienceの内容と歴史構造、今日的意味について吟味してみたい。Trans-Scienceは、Transに何々を越えてという意味があるため、通常、「超科学」と訳されているが、論文の内容と包含する範囲から意訳して、「超領域科学」と訳すケースもあり(藤垣 2002)、むしろ、後者の方が適切であるように思えるため、以下、後者を採用する。
Ⅱ. アルヴィン・ワインバーグ「超領域科学」の内容と時代背景
アルヴィン・ワインバーグの論文(Weinberg 1972)で特に有名なフレーズは「科学に問うことができても、科学には答えられない問題がある」(questions which can be asked of science and yet which cannot be answered by science.)である。その論文では、彼の得意分野の原子力を事例に、科学と公共政策(public policy)の有り方を論じている。「超領域科学」の具体的な事例としては、(1)低レベル放射線被ばくの生物学的効果(biological effects of low-level radiation insults)、(2)低確率事象(probability of extremely improbable events)、(3)対象となるエンジニアリングな問題(engineering as trans-science)の三つの問題を採り挙げている。そして、(2)においては、壊滅的原子炉事故と大地震の二つを採り挙げている。壊滅的原子炉事故の発生確率は、イベントツリーとフォルトツリーを駆使して計算できるとしているものの、その結果の信頼性に疑問を呈している(pp.210-211)。彼は、「超領域科学と公共政策」(pp.213-217)と「超領域科学の公共性と政治的公共性」(pp.217-222)の項においても、当時としては、最新の多種多様な原子力安全問題を考察している。(3)では、確実な実験データがないにもかかわらず、決められた予算とタイムスケジュールで物を作らねばならないエンジニアのノウハウとしての"engineering judgement"に潜む不確実性問題を採り挙げている(p.211)。
その論文が執筆された当時の時代背景は、(1)1972年という論文掲載年、(2)彼が当時オークリッジ国立研究所の所長の職位にあったこと、さらに、(3)上記下線部の表現からして(ただし、その論文には、イベントツリーとフォルトツリーという用語は、使用されておらず、英文の意味からして、筆者が意訳しました)、世界的に原子力発電所の建設ラッシュが続く中(原産 2000 67)、なおかつ、米原子力委員会が、原子力賠償法の再検討のための参考資料にすべく1971-1974年(佐藤 1984 152)、MITのノーマン・ラスムセン教授の指導の下に、US-AEC(途中から改組にともないUS-NRC)安全研究局のサウル・レビン次長が総括して、数百万ドルと延べ数百名の研究者を投入して実施された「原子炉安全性研究」(US-NRC 1975)の初期の段階である1971-1972年初めまでの時期と情報に基づくものと思われる。「原子炉安全性研究」とは、当時、不可能と思われていた100万kW級軽水炉の炉心溶融発生確率をイベントツリーとフォルトツリーというNASAで開発されたふたつの手法を適用して決定し、原子炉格納容器機能喪失にともなう放射能大放出事故(代表的なPWR2型事故とBWR2型事故等)の影響を評価した歴史的画期的研究である。1971-1972年初めまでの段階では、まだ、計算結果は公表されていなかったものの、彼の職位と社会的位置づけからして、いち早く、情報を入手でき、それを基に「超領域科学」という斬新なキーワードで問題提起したものと推察される。
Ⅲ. 歴史構造と今日的意味
アルヴィン・ワインバーグの論文(Weinberg 1972)で議論された三つの具体例は、当時としては、「超領域科学」として成立したかも知れないが、いまでは、必ずしもそのように定義できるとは限らず、特に、壊滅的な原子炉事故や"engineering judgement"に潜む不確実性問題は、エンジニアによっては、意見が分かれるものと思われる。筆者は成立性に懐疑的である。「超領域科学」の分野は、科学や技術の進歩にともない、また、経験や知識等の蓄積によって、固定的な概念ではなく、時代によって、常に、入れ替わる物であると受け止めている。今日、遺伝子組み換え技術やBSE(金森・中島 2002, 小林 2002 2007)、さらに、温暖化対策等が「超領域科学」と位置づけられているが、筆者は、それらに対しても、懐疑的である。それらの現象と影響の範囲は、予測できないほどではなく、「超領域科学」と定義できるほどの困難性は、存在していないように思える。何が分からなければ、分からないと定義できるのか、主観的な問題であって、明確な判断基準など存在していない。「超領域科学」の今日的意味は、むしろ、阪神大震災(兵庫県南部地震1995)、スマトラ沖地震(2004)、新潟県中越地震(2004)・中越沖地震(2007)のように、地震や津波の予測と影響のような自然現象にあるように思える。
Ⅳ. 考察
評価(あと30行補足)
文献
西堂紀一郎&ジョイ・イー・グレイ 1993 ; 『原子力の奇跡』、日刊工業新聞社。
Weinberg, Alvin M. 1972 ; Science and Trans-Science, Minerva, Vol.10, pp.209-222.
藤垣裕子 2002 ; 「第6章科学政策論」のp.150、金森修・中島秀人編著『科学論の現在』のpp.149-179、勁草書房。
佐藤一男 1984 ; 『原子力安全の論理』、日刊工業新聞社。
原産 2000 ; 『世界の原子力発電の開発動向』、原産。
US-NRC 1975 ; Reactor Safety Study, WASH-1400, NUREG 75/014.()
小林傳司編 2002 ; 『公共のための科学技術』、玉川大学出版部。
小林傳司 2007 ; 『トランス・サイエンスの時代』、NTT出版。