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失踪ヒッチハイクガイド このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2007-04-15

[]友達は労働08:48

ろうどうたいへん

ここでよく話の出る早稲田の「あかね」という部分から話をしたほうがいいかもしれない。今日イベントがあって、途中から大勢で押し寄せてきたひとには不愉快なことをさせてしまったかもしれない。それは申し訳ない。それはともかくとして、やはり、なんていうか、自分の正直な感覚としては、スタッフとして、イベントをやるというのはどうも疲れるという印象が強すぎるなあと思ったりもしたのでした。それは、イベントというものを客として眺めることと、スタッフとして眺めることの重要性みたいなところで行き来しなきゃいけないんだなあと思ったりもしたのだった。

それが疲れるのは、別に人がたくさん料理を頼んで「キムチチャーハン作らなきゃー」とか、伝票のつけ忘れがあったりして「うわー」となることでもない。いや、それは結構重要なんだけどね。でも、それはあまり嫌いではない。問題は、スタッフ目線からやると、やっぱりなんだか人間関係大量生産的な部分があって、それがあまり好きにはなれないなーとか思ったりしたのでした。

俺があかねに入るために研修して頂いて、いまでも尊敬している人の一人が次のように語っていた。「友達の多い人は好きではない。それは流れ作業だからだ」と語っていたことがずっと俺の中では頭に離れられなくて仕方がないのだ。

なぜ友達が多いほうがいいのでしょう

生まれてこのかた、今ほど友達が多い時期はなく、これからは下り調子になる可能性が大きい。ここで問題です。なぜ友達が多いほうがいいのでしょうか。答え。それが労働だから。なんで労働になるのか。それはまさにポストフォーディズム的生産形態を決定付けているのが、このような「流れ作業的人間関係」とでも言えるからなのだ、といってみよう。

ポストフォーディズム的生産形態においては、製品管理が問題になってくる。だって、大量に作りすぎたらあまっちゃうじゃん。あまっちゃうとそれをおいておくコストで大変だよね、という話だ。だからこそ、製品管理が重要になるのだけれども、製品管理を支えているのは他ならない人間関係というファクターである。もう少し言えば現場間におけるネットワークだといえる。人間関係というファクター重要になるとするならば、そして、人間関係が増えていくと、人間関係の合理化が図られる。この合理化こそが重要だ。もし、携帯電話人間関係希薄化しているという言葉に分があるとするならば、それは決してメディア/技術論的問題ではなく、携帯電話というものが現代の「合理性」を象徴しているからに過ぎないからだと言えるだろう。

なぜ友達がいないと人から変な目で見られるのでしょう

つぎに問題です。なぜ友達がいないと人から変な目で見られるのでしょうか。答え。あなたは労働をサボっているからである。だいたい労働というのはイヤなことでもやらないといけないのであるが、このイヤなことでもやらないといけないという部分が重要なのである。たいてい、友達との付き合いを維持するということが既にイヤな感じなのである。友達が多くて交流時間が多い奴はたいていブルジョワかズルしているかである。プロレタリアートに友達を作っている暇など無い。作っている暇があったらさっさと家でオナニーをするわけだ。まさに無産階級

それは言い過ぎたが、もし無産階級という定義の拡張をするとするならば、無産階級の「無産性」とはすなわち人間関係の無産性ということに言い換えることができるかもしれない。これははてなの「非コミュ」とは関係あるかもしれないし、関係ないかもしれない。要するに人間関係を作りうるほどの文化資本とかそういうものをもてなかった層がいうということだ。

事実、俺が「ひやとい」で日銭を稼いでいるわけだけれども、概算してみて、だいたい12万くらい稼げることがわかったとして、家賃6万、光熱費1万、食費2万くらいで計算すると3万円くらいになるわけで、いったいこれでどれだけ友達が出来るというのか。これでただはなくそをほじったりする時間のために3万があるのではなく、友達と遊ぶために稼ぐお金ならば、これはどこまで労働なんだ。そして、このイヤなことをやらなければならないということこそが、労働なのである。

労働=友達少数化

しばらくの間、友人と三日間くらい寝泊りを過ごしたわけなんだが、なかなか非生産的でよかったことを思い出す。デニーズモーニングセットを注文してはだらだらとよだれをたらしながらメシを食ったりするのである。これは重要だ。如何に重要か。それは反労働的身体の形成にやくにたつのだ!と言ってみよう。

基本的に友人と話す内容などしょうもない話ばかりなのである。例えば「うんこという発音は如何に面白いのか」を延々と話していたりして、すこし笑ったりするのである。そこには生産性がない。しかし、これが一人の友人と延々と話をするのと、複数の人間とやるのでは意味が違う。前者はまったく何も生み出さないのに、後者はまさに人間関係が生み出されているからである。そこには対価が生まれるのだが、前者には対価がまったくない。まさに無駄である。だいたい「うんこ」の話をしていて何が楽しいというのか。

流れ作業、反対

だから、人の多い交流は流れ作業になりやすく、なりやすいが故に「もうすこしなんとかしろよー」と思ってしまう自分がいていやーな気分になってしまうのである。人集めるならちゃんと話したいし、ちゃんと話できる場というものがほしいものなのであるがなかなかもらえないところに悲しさがあるのである。ぼんやりしていたらいつのまにか六時や七時くらいになって、明けた空みてぽかーんとしたりしなかったりしてみたいものなのである。いや、もちろん、それなりに沢山の人は残ってくれるけれども、その残り方にしたってパラパラという感じで非常に悲しい感じになってしまった。あとから沢山の人がきてぐだぐだしていたけれども、そのぐだぐだ感はとてもよくて、俺は好きだった。

それでも労働を。

だけれども、そのようには言ってられない状況もあるわけで、つまりそういう流れ作業を阻止するための流れ作業というものもやらなければいけないのである。それは俺のエゴだけが優先されるだけではないし、また場の維持という問題もあるし、場のプレゼンというのもあるわけで、これは立派な労働であり、他の日による反労働のために、そういう労働もしなければいけないのだなあ、と少し明るい空を見ながら思ったのでした。

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