2009年1月8日(木)
思い
正月ノンストップ自閉症デスマッチをやったときに分かったことは、
定形発達の人たちは、思いを乗せて伝えるって事なんだ。
確かに、さかいの言うように、「じょん」の書き込みには、何か人としての「思い」が乗っていたような気がする。
さらに、荒らしと言って良いような同じフレーズのしつこい書き込み。
これこそ、人としての、「定形発達」としての正しい行い、「思いを込めた書き込み」だったのかもしれない。
ノンストップ自閉症デスマッチの時に炙り出した話に、「思いを込めた話」の話があって、これをネタに話して話して話し合った。
共通して言えたのは、自閉症に属する人間は「思いを込めた文章」を読むととたんに「嫌悪」を感じるって事だ。
文章とは、事実を伝えるところで、思いを伝える所じゃあない。
事実を伝えるところに、思いを込められては、見るべき事実が見えなくなってしまう。
事実を明確、確実に伝えてそこで相手が「思う」事を願うのが正しい姿だ。
私達「アスペルガー症候群」と診断された側の話は大体こんな結果になった。
確かに、「思い」がこもっている。 流石、ジョンは、浅見昇吾は立派な定形発達の准教授さまさまだ。
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以前対人関係における鏡の話をコメントに書きました。
読み返すと、言葉足らずだったり考え足らずだったり、中途半端な文章になってますね。
鏡は文章と同様、思いとか心の理論でいうところの心で歪むのでしょう。(単なるわたしの推測による理解です。)
自閉症者は思いを受け取る受け皿である心がないので、得体の知れない不安や嫌悪を覚えるのかもしれません。
(これもわたしの推測です。)
ちょっと話が飛ぶようですが、わたしの中では関連があるように考えること。
自閉症者の人格・性格は、定型発達ほどは、生い立ち(特に中学生くらいまでの)に左右されていないかもしれません。
自分も
「感情に訴える」
は嫌いなのですが、
それってうちの家庭環境から来るトラウマみたいなもんだと思っていたのですが、
どうもそうではないらしいことが最近わかりました。
…逆にそう思うとまったく仕組みが違う私に感情的な支えを私に求めていたうちの母親の不毛さにたいしてなんともいえない気分になりますが、
昔はうっとおしいくらいしか思わなかったけど。
文章に思いをのせる・のせないっていうのはよく分からないんですけど、
>事実を明確、確実に伝えてそこで相手が「思う」事を願うのが正しい姿だ。
↑は、私が子供の頃に読んで面白かった物語を、母にもその感激を分かってもらいたいと思って、延々とあらすじを1時間近くにも渡って語り続けたのと似てるのでしょうか?私が読んで感激したのと同じ条件に近くなる様にと、なるべく詳細にあらすじを話したんですが、きっと母にとってはウザかったんだろうなと思います。
まさしくそれで、感想を考えて、伝える手段が、結局最初から最後まで語ってしまう。(この時点で感想文では無くなっているんだけどね)
お前も自分では気付かないだけで、本当はきっとエピソードの宝庫だ。
なんか気付いたら、メールでね。
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