2008-12-24
俺の努力論
ver.3 2008年12月26日追記
ブログ界隈で定期的に湧き上がる努力論ですが、私も一言・・・のつもりが、なんか、書いてたら、一言で終わらなくなったので、概要を書いておく。
概要
- 第一部:努力と結果の法則性
- 「効率的な努力」とか、「努力の方向性」というのは結果論でしかない
- 確かに、努力のアンチパターンは存在する
- しかし、人生において努力とその結果との間に法則性を見出すことは不可能
- 第二部:「好き」と「努力」
- 「好き」というのは原動力にしかならない
- 「好き」はチート
- 功利的努力は弱い
- 第三部:無敗、ならぬ、無努力
- 習慣化によって、努力の大変さをなくす
- 習慣化のための努力というオチ
- 第四部:「楽しくやれる」批判
- 人間は怠惰だし、刺激は馴化する
- 「楽しくやれる」は入門レベルまで
- 第五部:俺の努力論、まとめ
- あとがき
- 追伸:「何ができるか」「何をしたいか」ではなく「何をしてきたか」(12月25日追記)
- 追伸の追伸:「努力」と「才能」(12月26日追記)
- 参考図書(12月26日追記)
第一部:努力と結果の法則性
私は未来を予測可能だとは思いません。
だから「未来は変えられる」と主張する人が信用なりません。
同じく「運命は変えられる」と主張する人も信用なりません。
予測可能な悪い未来が予測可能な良い未来になる、なんて馬鹿げたことがありますか?
ふざけんな!努力に甘えるな!ですよっ。
「効率的な努力」とか、「努力の方向性」という言葉を使っている人に出会うと、この人は神なのだろうか?と思ってしまう
効率というのは、Output / Input で簡略的に定義できると思う。要するに、株主資本利益率みたいなもんですよね。
それってさ、結果が出てからじゃないとわからないものですよね?
方向性だって、結果が出て、はじめて合っていたかどうかわかるものですよね?
要するに、「効率的な努力」とか、「努力の方向性」って、未来がわかっている人にしか、使えない言葉だと思うんですよね。
脇にそれるけど、努力以前の「何をすべきか」なんて悩みも、結局、神でもない限りわからないっていうのがオチなんだよね。
努力の法則性
- 確かに、努力のアンチパターンは存在すると思うし、受験勉強みたいな、Output / Input が割とわかりやすくて予測可能なものが存在するのはわかるが、あくまで一般論で言えば、「効率的な努力」とか「努力の方向性」ってそう簡単に言えるものじゃない。
- 予測といえば、地球シミュレータがあるわけだけど、これは物理法則を使った計算なので、そうした計算結果と、努力の結果の予測を同列に扱うというのは、考え方としてどうかと思うので、あらかじめ注記する。
- 結局は、この複雑怪奇な人生において努力とその結果との間に法則性を見出せるかどうかという命題なんだけど、もし見出せるというのなら、はっきり言ってやる。「お前はラプラスの悪魔か」と。
参考
(以下の表は「少しずつ理解してきたこと〜蘊奥の窮理編 - おちゃめクールの周回遅れブログ」より、再掲載。)
因果関係を考えるときに忘れてはならないもの
複雑性 | 因果関係は量的に複雑であるということ。 |
---|---|
不確実性 | ある原因が起こるかどうか、それ自体が偶然性を伴っているということ。 |
動態性 | 因果関係が変わりゆくということ。 |
自己言及性 |
第二部:「好き」と「努力」
NHKでやっていたB'zのドキュメンタリー「メガヒットの秘密 〜20年目のB’z〜」から、松本孝弘の言葉を、まずは引用したい。
(YouTube:B'z メガヒットの秘密 [7/8 ]より、3分56秒あたり〜)
(成功した理由について聞かれて) 俺ね、例えばギターなんかでもそうなんだけども、 もう・・・思いの違い、思い込みの違いだと思うよ うん、だから、例えば、その・・・ 僕が、音楽の才能だとか、ギターのそういう・・・、才能? とかっていうよりも 人よりそれがあったっていうことじゃなくて・・・その、 ほかの人よりも相当好きだった、ていうか、好きだってことが、 やっぱ原動力になるんじゃないですかね だから、 もう誰にも負けないぐらい好きなものを見つけることだよね でも、これって、どうやって出会えるかって、偶然じゃない? だから、僕は本当に15歳だったかな? 14、5歳でギターというものに出会えて、 本当、ラッキーだったと思う うーん・・・ 俺、だって、あれできなかったら、ほかのこと、何もできないもん ほんとに(苦笑)
要するにですね、「好き」っていうのは原動力にしかならないということだと思いますよ。
要するにですね、「好き」っていうのは原動力にしかならないということだと思いますよ。*1
しかも、その「好き」が社会的に認められていないものだったら、ただの変態ですからね。
ただ、原動力がある人ってのは、相当稀有な人だと思うし、相当強い人だと思う。
デフォルトで背水陣敷いてくるんだからね。
普通は、討死しますよ。背水陣なんか敷いたら。でも、生き残っちゃう人、いるんだよね。
ほんと、常時、火事場力発揮とか、どんだけチートだよ、とか思うけど、例えば、恋人に「あなたしか見えないの」「あなた以外いらないの」とか真顔で素面のときに言われたら普通、ドン引きするよね。
功利的努力の弱さ
なんで努力するの?
普通はさ、何かの功利的な目的のために努力するんだよね。
正確に言うと、「功利的な目的がある」という自己正当化・自己合理化を以って努力するんだよね。
要するに「今はつらいけど、将来、楽するために頑張る」といった長期的なものから「この資格取ったら、基本給が2万円増える」という短期的なものまで、努力するためのさまざまな理由が存在するわけ。ここには最初に述べた「努力と結果の法則性」がある程度確定的なものもあるし、はっきりいってカオス過ぎるものもある。
で、こうした功利的努力ってのは、長続きしなかったり、身を結ばなかったりするわけだけども、その理由は、すでに述べてある。
- 一般的に努力とその結果との間に法則性を見出すことは不可能 → 学習性無力感を味わうきっかけはたくさんある
- 「せっかく努力したのに、無駄になった!ムキー!!もうやらない!」
- モチベーションが自己正当化・自己合理化でしかない → 努力をしない理由を考えることなんて簡単
- 「なんとなく、努力の方向性が違うような気がしてきた。しばらく、様子を見よう。」
- 「無駄になるかもしれない努力をするほど暇なんてないし、今はやらないでおこう。」
結局ね、「なんで努力するの?」の問いって
努力しなくて良い合理的な理由を教えてくれ
ってことなんだよね。実際のところ。功利的努力というのは、こういう状態に簡単に陥る。経験がある人はわかると思うけど、こうなってしまった子供を教えるのは本当に苦労すると思う。
だから、繰り返しになるけど「好き」っていうのはチートなんだよね。
誤解を恐れずにいうと、愛とか神話とか宗教のような情動レベルの話だから、そりゃもう次元が違うわけよ。モチベーションコントロールのために「功利的に好きになる」とは似て非なるものだと断っとくよ。
第三部:無敗、ならぬ、無努力
「努力をしないために、努力が必要」だとぉ?もう、死んでしまえばいいよ!
努力と習慣
「好き」チートを使わない限り、努力はもろい。よほどの目的意識、自己合理化や自己暗示がなければ、努力は長続きしない。
以前、子育ての話で、下記のようなことを書いた。
褒める、叱るだけじゃない
子育ては演出の部分で勝負が決まっていると思う。プロゴルファーの横峰さくらの実家はテレビを見ないときは電源を抜いていたそうだ。つまり、ボタンを押すだけではテレビはつかない。そうした演出の部分の不断の努力が、本来的な意味のしつけや教育なのであって、「褒める、叱る」ってのは、「しつけ・教育」の下策にあたると思う。
「孟母三遷」、「孟母断機」といった言葉があるけど、演出には頭も使うし、我慢したり、駆け引きしたり、やり過ぎないようにモニタリングしたりと、とにかく大変である。
継承問題
そうした努力が大変とはいうけども、「それが普通なんじゃないの?」的な家庭からすると、大変じゃない。習慣化されていると大変ではなくなる。
で、話は元に戻って「だから早期に習慣化しとこうね」という話になる。結局、家庭の習慣(良い悪い関わらず)を子供が継承する過程が、しつけであり教育なのだと思う。
「大人になってから習慣を変更するのは大変」「家庭の習慣を子供が継承する」となれば、当然、格差の再生産という話になる。
“格差が遺伝する”というのも、所得的な面もあるけど、家庭の習慣といった文化資本の“遺伝”の影響が大きいのではないかと思う。残酷だが、現代社会では、特にそうなのではないだろうか。
Re:三つ子の魂百まで……問題は「教育」や「しつけ」ではない - 明橋大二 Fan! - おちゃめクールの周回遅れブログ
その努力を無努力にする
上記の子育ての話で出たが、「習慣化されていると大変ではなくなる」という話だ。
「習慣化のためにまた努力かよ」って話だけど、そうだよ。その通りだよ。で、もうちょっと話を聞いとくれ。
勝ちの段階
ところで、勝利というものには段階があるらしい。
- 奇勝・・・たまたま勝つ
- 優勝・・・相手より優れて勝つ
- 必勝・・・勝負に臨めば、確実に勝つ
- 常勝・・・勝つことが普通になる
- 不敗・・・勝負に臨んで負けることがなくなる
- 無敗・・・勝負を超越し、負けという概念がなくなる
で、努力も、無努力にしてしまう。つまり、努力という概念をなくす。
救いようのないオチ
努力を無努力にする方法。
一つは、「好き」チート。これは言うまでもない。でも、はっきり言って「天啓」なわけで、まあ、考えるのはよしましょう。
もう一つは習慣化。これが、僕らの最後の砦。
結局、そのために努力が必要という救いようのないオチ。
子供の調教には親の努力が必要だし、大人の調教には ムチとロウソク 本人の多大なる努力が必要だ。
第四部:「楽しくやれる」批判
「勉強が楽しくなれば、勉強すると思う」だあ?
セックスでも教えてろってんだ!
でも、「楽しくやれるように工夫すればいいじゃん」って必ず言う輩がいるので、まだまだ補記が必要だ。
努力しないのがフツーなんだぜ?
そもそも論でいくと、人間を含め、動物ってのは、怠惰でその日暮らしなわけで、ミオスタチンの話を知っている人はわかると思うけど、筋肉は無いほうが自然主義的には合理的みたいだし、記憶の忘却曲線を考えれば、知識だって無いほうが合理的と考えられる。要するに必要でない限り、怠惰でミニマムなのが自然主義的にあるべき人間の姿なんですよ。
刺激は馴化するんだぜ?
しかも、楽しくやろうとしても、結局、すぐ飽きちゃうんですよ。それが「馴化」という僕らの行動原理のようなもの。
飽きるのは馴化といって動物の性なんですから。その簡単で誰にでも出来るような「当たり前のこと」を根性で続けてください。
もっとも、馴化は「習慣化されていると大変ではなくなる」につながる大事な要素ではある。
駄サイクル
さらに「楽しくやればいいじゃない?」ってのは、結局、入門レベルという箱庭の中でしか生きられないメソッドなんですよ。
そこにこだわると、駄サイクルを繰り返すという落とし穴にはまる。
あー 駄サイクルだねー ぐるぐる廻り続けるだけで 一歩も前進しない 駄目なサイクルのこと 輪の中で 需要と供給が 成立しちゃっているんだよ 自称ア〜チストが 何人か集まって そいつら同士で 見る→ホメる→作る→ホメられる→・・・ を繰り返しているんだ それはそれで 自己顕示欲を満たすための 完成された 空間なんだよ で、自称ア〜チスト ってのは常々 やってて楽しい と思える程度の練習は するが 本当に身になる 苦しい修行は ツラいからせず・・・ 一方的に発表できる 個展はするが 正式に裁きを受ける コンペやコンクールは 身の程知るのが怖いから 出ず・・・ 馴れ合いの中で 自分が才能ある ア~チストだと 錯覚していく・・・ 駄サイクルの輪は 自称ア~チストに 限らず いろんな形で どこにでもある・・・ 輪の中にいると 気付かないんだ
よく学校の部活動は、「競技部門」と「同好会部門」に分ければいいのに、とは思う。リソースの問題で無理だけどね。
第五部:俺の努力論、まとめ
以上、つらつらと書いてきたが、まとめをするとこうなる
- 努力の効率や方向性なんて後付けだよ。ただ、やった努力とその結果があるだけだよ。
- 「好き」なものがあるのは凄いことだよ。でも、その「好き」って狙って手に入るものじゃないから、期待するのはよくないよ。
- 「好き」でなくても、努力することが習慣になると苦痛じゃなくなるよ。でもそのためには時間がかかるし大変だよ。
- 「楽しくやれる」のは入門レベルまでだよ。結局、上を目指すなら戦わないといけないんだよ。
あとがき
私は、スクリーニング論者だから、過程と結果に対してあまり法則性を重視しない。
よく「因果関係と相関関係は違う」といわれている。これに対して、語弊があるが「因果関係なんてわかりっこない」という考えが私の根底にある。
例えば生存競争というスクリーニングの結果、後になって生き残った理由みたいなことがわかっても、それは偶々そのときのスクリーニング条件で確率論的に生き残るように選ばれたに過ぎないわけであって、「強いから生き残った」わけではない。そういう時は、便宜上「生き残ったから強い」と表現している。一時が万事こんな調子である。
さて、スクリーニング論とは、淘汰主義と言い換えることもできて、
この世界はスクリーニング(選別)の連続である(選別則)
という考えである。
私のスクリーニング主義を具体的にあらわしたのが
というエントリーである。
さて、「何かやりたい」、あるいは「何かをしなければならない」となったとき、「プログラミング入門」に出てきたように、いくつもの関門が出てくる。「やりはじめるまでの関門」「継続する関門」「完成度の関門」などなど・・・。その関門をどこまで突破できるかというだけの単純な話なんだけど、世の中には、そもそも「何をすべきか」で悩んでいる人が多い。努力論が流行る根底には、どう努力するべきかよりも、「何をやるべきか」の悩みが多いというのがあるよね。*3
第一部で書いたように「何をすべきか」なんて、結果論だし、神でもない限りわかるはずがない。マーケティング的にも一部の軽薄な人種とマニアを除いて、8割の人は独自の価値観をもっていないので、周りに流されて生きているんだよね。だからアルファブロガーとかインフルエンサーとかVALS理論とかあるわけだ。
「何をすべきか」より「何をしたいか」とか言っちゃう人がいるけど、そりゃ浅薄だと思う。
世の中の8割の人は独自の価値観をもっていないわけで、自省的な人ほど、そこに気付いて、「何をしたいかわからない自分」に悩んでしまう。非常に残念なんだけど、そういう風に悩む人は本当に一生悩み続けないといけないわけだ。そう簡単に「選択と集中」と言われても困るっつーの。なあ?
スクリーニング論的には、そこで悩んで戸惑うようでは、結局、その程度だってことなんですよ。で、それでいいじゃないかって僕は思うけどね。
最後に、今年も断トツのマイアルファブロガーのヌカちゃんのエントリーを引用して終わろうと思う。
子供たちは確かにみずから選択して生まれてきたわけではない。その通りなのだけれど、生んだ親も、実は多かれ少なかれ間違いだらけの人生で、つらいことが多いのだ。
(略)
親はまた、相手に対し錯覚しているだけではない。自分についてもしばしば誤解している。とびが鷹を生むことはないのだけれど、とびが生まれて初めて、自分が鷹ではないことを悟る親が少なくない。
追伸:「何ができるか」「何をしたいか」ではなく「何をしてきたか」
読み返していて、書き足りない点に気がついたので、追記します。
努力が実を結ばない理由のひとつ、「過去に無頓着」という話。
減量にせよ、経営にせよ、受験にせよ、一般的に“なぜ失敗したか”を調べると、計画通りに成し遂げられなかったという事実にぶち当たる。
それで、“なんで計画が失敗したの?”って話になると、偶発的要因だったり、そもそもムチャな計画だったとか、いろいろ出てくるわけだけど、最も低いレベルの過ちとして、「過去を分析してなかった」というのがあるわけですよ。だから、
計画立てる前に、お前、過去の記録できてんのかと問いたい。
となるわけで、特に自宅浪人する人は、完全に“自分が経営者”になるわけだから、自分がどんな人間か(過去の経営実績)を知っておかないとマズイ。絶望的にマズイ。
自宅浪人できるかどうか、予備校の通うべきかどうか、その費用対効果を含めて考えたいなら、まず、自分の実績を分析しなよ、と。
大体、自分が週にどの程度勉強できているかも把握してないで予備校の費用対効果とかちゃんちゃらおかしいですよ。
「何ができるか」「何をしたいか」
まあ、どっちでもいいんですけど、そこで悩むのなら、自分が「何をしてきたか」をよく見つめなおすと良いのではないですか。
案外ね、将来に悩む人は自省的なわりに自分の過去に無頓着だったりすると思いますよ。自分の過去を見返して、大したことをやってきてないんだったら、そりゃあなたが大したことない人間だってことですよ。「とびが生まれて初めて、自分が鷹ではないことを悟る」みたいなもの。
追伸の追伸:「努力」と「才能」
「才能よりも努力できまる」とか「才能がなければ努力する意味はない」とか「ぶっちゃけ全部運」とか、いろいろ考え方はあるし、第一部で述べたように、そこに法則性を見出すのは難しい。
私は以下のように考えている。
資質=才能と置き換えて読んでください。
- 人間の成長とは
- 人間の成長を何かに例えるとしたら、建築ではなく、彫刻である。
- 人間は成長するに従って、何かを得ることで個性を獲得するのではなく、何かを捨てることで個性を獲得するのである。
- 一度捨てた部分、削ってしまった部分は取り戻せない。
- 人間の成長とは、削って磨くことである。
- 人間の資質とは
- 人間の資質とは、彫刻の原材料の物性と量である。
- 人間の成功とは
- 人間にとって、成功するしないは、彫刻作品がどの程度社会に認められるか、である。
- スポットライトの当たり方が良くて映える作品もいるし、ホコリが被っているというだけで敬遠される作品もある。
- 貴金属やダイヤモンドといった希少性のある極一部の作品を除いて、評価というのは想像している以上に、場当たり的であり、相対的である。
ここで言いたかったことは2つある。
- 努力というのは、強制的に「削って磨く」行為であるから、当然、他の可能性を潰すことになる
- よほどの社会的に認められた希少価値がないかぎり、評価なんて適当
実際はどんぐりの背比べ的なところがあったのに、大きな結果の差になることがある。
実践的には、ある程度割り切りながら、野村克也流に言えば、「人から評価されることが真実。自己評価に意味はない。人から良く評価されるように心がけよ」ということになるだろう。
参考図書
努力について、それが日本において社会的にどのような意味を持っているのかを考えるのであれば、データを駆使した社会科学的論考を展開する竹内洋は絶対に外せない。
さらに、ごく最近の若者達の「勉強しない努力」について鋭く切り込んだ内田樹の「下流志向」もお勧め。