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胎児治療以前にあるもの ~胎児診断とは~

(関連目次)→産科一般  産前・産後にまつわる社会的問題 目次

        胎児診断・治療について 目次

                            ぽち→ Banner_02

(投稿:by 僻地の産科医)

Photo_3 10月10日、11日、12日と横浜で行われた
「日本胎児治療学会」に行ってきました(>▽<) ..。*♡

まだまだ日本では「胎児治療」ができる疾患そのものも少なく
「胎児治療」を積極的に行っている施設も
多くはありません。

でも「胎児治療そのもの」にかかわらなくても、
診断する以上、
「治療すべきかどうか」
「どういったことをするのか」
「治療成績は」
を知らないことには、専門科として話が始まりません!
ので「難しくってわかんなかったらイヤだな~」とおもいつつ
おそるおそる参加してみましたo(^-^)o!

   

話の内容はさまざまで、思っていたほどわからないことはなく、
「へ~参考になるなる~(>▽<)!!!」
「そんな程度か~」
「うん、確かにそのとおり!」などと面白かったのですけれど。

その前に。

ああ、私たちが日ごろ全然気にしていないけれど、
時々、異常を診断した時にぶち当たる壁。

「胎児診断」といえば格好がいいですけれど、

「胎児エコーでみつけてしまった場合」どうすればいいのか。

貴重なご意見の数々を被体験者の立場から、
おかあさま方の発表がありました。

考えさせられることも多く、
抄録をのせさせていただきます!(抄録順)
ぜひ読んでみてください。

    

            陽菜子と過ごしたかった18日間

  

                          伊藤薫

 我が家の長女・陽菜子は生まれたその日に搬送先の院で「重度の心臓病であり、助かる見込みはほとんどありません」と告げられました。妊娠期間中は第一子の長男の時と比べ、胎動も激しく推定体重も毎回1、2週間大きめと言われるなど「絶対に元気な子に間違い無いと思っていました。ただ一度妊娠後期にやたらと長いエコーの後医師に「たぶん大丈夫でしょう」と言われたことがありますが、当時4歳の長男の育児で忙しかったこと、何より一人無事に生んでいるから大丈夫という妙な自信があり特に調べようとはしませんでした。

 出産は帝王切開でした。手術台の上で初めて陽菜子と対面した時ゾッとしました。もちろんこの時点では病気のことは知らされていませんし、外見上も特に変わった様子はありませんでした。また私自身、麻酔が手術中に切れだしてしまい、余りの痛みで意識が朦朧としていたので、じっくり陽菜子のこと観察する余裕はなく、ただ漠然とした不安が頭の中ぐるぐるしていました。
 陽菜子が救急搬送され、病室に一人になると急に「病気の子が生まれたショック」と様々な後悔で涙がこみ上げてきました。そこへ看護師が点滴を変えに来て「あかちゃんのニとは考えてはダメ。母乳出なくなるよ」と言われました。今思えば看護師は、命は助かる可能性があるから今後の為にもしっかり母乳が出るようにケアした方が良いということだったのでしょうが、その時の私には「私が赤ちゃんのことで悩んだりする姿見せるのはみんなにとって迷惑なことなのだ」と思ってしまいました。
 翌朝、実父に同じようなこと言われましたし、夜勤の看護師も「あの病院なら大丈夫」と言うばかり。私はみんなの前ではひたすら笑顔作っていました。でも一人で抱え込むのも限界になってきて、とうとう自分の心守るために「陽菜子が助かるとわかるまで自分の子だと思わないようにしよう。記億にとどめないようにしよう」と考えるようになりました。

 陽菜子の手術前日に搬送先の病院から「会いに来てほしい」と言われ、面会に行きました。そこで陽菜子を抱っこしたりミルク飲ませたりしましたが既に陽菜子に対し心閉ざしていたのでほとんど記億にありません。わざと面会にいかなかった日もあります。そうしていれば万が一陽菜子が亡くなってもすぐに忘れることができて楽だろうと思ったのです。

 しかし現実は逆でした。せっかく18日間生きてくれて抱っこもできたのに心を閉ざしていたばかりにその後、自分の記憶として思い出せないことは大変悔しいですし、何より私は陽粟子に「拒絶」という精神的虐待与えたのだと、今でも自分が許せません。
 後日、看護記録を閲覧したら私の陽菜子に対する態度がおかしいので「フォローが必要」というようなことが書かれていました。しかし陽菜子は手術の翌日末明に亡くなってしまいました。

 天使になった後、看護師のみなさんの暖かい言粟がけにより私は陽菜子のことを生まれてから初めて可愛いと思えるようになり、受け入れることができました。陽菜子の身体がある内にそう思えたことは良かったと思いますが、せっかく生きて生まれたのだから陽菜子の意識があるうちに可愛いと思いたかったです。
 陽菜子は胎児診断で病気がわかる可能性があったと思います。もし妊娠期間中に病気がわかり転院していたら私もきちんと精神的ケアを受けることができたのではないか?そうすれば陽菓子のこと受け入れて見送ることができたのではないか?と残念でなりません。又、主人は搬送先の病院から私も転院させるように勧められていたけど、帝王切開だったことと、私自身が何も言ってなかったからその気は無いのだろうと、私に相談することもなく断っていたのです。しかし私は「こども専門の病院」と間いていたので、大人に対する入院設備は無く自分は転院できないのだと思っていたし、もし私も一緒に入院させてもらえるなら言ってくれるだろうと思っていたのです。自分から聞くのは「迷惑かけることになる」から聞けなかっただけです。

 このように突然の救急搬送で母子別々の病院となると、どうしても母親の方に充分な情報が伝わらない可能性があるので、母子一緒に転院した方が良いと思いますが、産後は母体の状態や病院の状況によって転院が無理な場合もあるかもしれないので、やはりできるだけお腹の中でわかって、生まれた後も母と子が同じ病院で過ごせるような環境整えて欲しいと思います。

 胎児診断は早期に治療開始し病気治す為だけでなく例え助からない子でも親が我が子としてきちんと受け入れて見送ることができ、そのあと、どんな結末を迎えるにしても、前向きに生きていく為にも必要だと思います。

  

  

                     命の時間
 
 

                    古田 忍

 4年前の2004年にはじめての子が無脾症候群による総肺静脈還流異常で、生後14時間で永眠しました。この短い命が、彼女にとって最大限の命の長さになれたと納得できる経緯に欠かせない『胎児診断』について、私の気持ちを述べます。

 私がヒカルを授かったのは、結婚10年目のことでした。出産は里帰りと決め、分娩できない個人クリニックで順調な妊娠経過を確認していました。31週、もう里帰り先の病院宛に紹介状を書いてもらおうという検診の日、胎児に『内臓逆位』という異常がみつかり、急遽県立こども医療センターで診察を受けるようにと指示されました。そのときは『念のために診察するだけなので、たいしたことがなければまたこちらに戻ってきて里帰り先への紹介状を書きます』と言われました。

 32週、こども医療センターで産科医のエコーを受け、『内臓逆位はともかく、心臓に疾患があるようだ』と指摘されました。その後詳しい検査をするための入院をし、心臓専門医の川滝先生の心エコーを念入りに受けた後、『無脾症候群』との診断が下りました。同時にその疾患に対するおおまかな治療法・生存率・手術成功率などをお話されました。この病院は、大切な話は基本的に両親揃って聞くことが大前提で、話の場には心臓専門のドクター・産科ドクター・看護師緋目談員が必ず同席していました。検査入院の後の定期健診では、胎児の状態を確認すると共に治療の最大のポイントとなる肺静脈の狭窄の度合いを把握するための心エコーを毎回受けました。肺静脈はなかなか見えなかったようで、予定日に近い日程ではありましたが、成育医療センターで当時最新式であった4Dエコーにて心エコーをし、胎児MRIを撮りました。それでも肺静脈の状態ははっきり確認できませんでした。
 この時点で川滝先生の中では、あれほどまでに念入りに検査をして確認できなかった肺静脈は、致命的だとおおまかに判断されていたのではないかと思います。私たち夫婦は、出生後の状態によっての治療方針の説明を何度も受けました。この何度かの話し合いによって、私たち夫婦と医療スタッフとの信頼関係は築きあげられたと思います。
 
 出産は予定日の5日後でした。病気を知ったときから、出産は主人立会いでと決めていました。光は大きな産声をあげ、大きな目を開けて私を見つめました。私たちが目を開けた光に出会えたのは、これが最初で最後でした。主人がその場に立ち会えたことは、本当に大切なひとつの思い出です。光の状態は手術不可で、私たちは光をありのままで天寿を全うさせる選択をしました。光が亡くなるまでの時間、私たちはNICU内のファミリールームで家族で過ごさせてもらったりして、大切な時間をいただきました。
 残念ながら亡くなってしまったのですが、解剖の結果、肺静脈は閉鎖に近い狭窄で、14時間という時間を生きられたことが奇跡のような状態でした。私は胎児診断のよって、あらゆる状況での治療法が出生前に準備されていたことが、この命の長さにつながったと確信しています。胎内で病気を見つけていただいていなければ予定通り里帰りし、個人病院で出産し、訳も分からないうちに光の命は尽きていたことでしよう。診断によって、私は『障害者の親になる』心構えも十分
にできました。しかし初めて診断を受けたときは、『お腹の中の子の病気が分かるものなのか』と大変驚きましたし、正直に申し上げれば、子供は授かれば必ず無事に生まれてくると思っていた私には衝撃的でした。なんといっても、昨日までは気楽な妊婦だったのですから、晴天の霹靂です。私は妊娠の定期検診の意味を良く分かっていませんでした。経過が順調であればあるほど、その検診は定期的なイベントでしかありませんでした。
 エコーに写る我が子が動いている様子をみたり大きさを測ったりして、母になる実感を得ていました。しかしエコーの本来の意味は『胎児診断』そのものにつながっているはずです。そのことに私は当事者になって初めて気がつきました。
 
 「胎児診断が突然のものであった」と感じるのは、医療者側と妊婦との間で、検診に対する意識の違いが大きいからではないかと思います。私は『なってしまったものはどうしようもない、これからできることを考えよう』と、すぐに気持ちの転換を図ることができましたが、やはりそれでも気持ちが塞ぐことが多かったです。不安な気持ちや疑問は医療スタッフに伝え、その都度丁寧な説明を受けることで前向きに考えていくことができました。

 ところで光は亡くなりましたが、胎児診断を受けた後に新生児死を経験するのは、ある程度の覚悟は出来ていたとしてもやはり辛いものです。何故亡くなったのかという原因は納得できても、あんなに治療法があったのに助けてあげられなかったという絶望感が自分を襲ったものです。そんな中、胎児診断から出産という流れの続きに同じ医療スタッフが私の悼む気持ちに寄り添ってくださり、光との思い出を共有してくださることが心の癒しとなり支えとなりました。胎児診断、出産の後、治療が可能な子には医療スタッフが全力で治療にかかり、なおかつ家族へのフォローもあるかと思いますが、亡くなった場合は出産まででその流れが途切れてしまう場合が多いような気がします。
 私はブリーフケアを受けることができましたが、他の方の話を聴くと、病院によっての対応の違いにいたたまれない気持ちになることもあります。診断・出生までは全力だった医療舗が、喪失の後に事務的になってしまっては、築き上げた信頼関係は崩れ、遺族に更なる悲しみの追い討ちをかけることになるかと思います。私は光を診てくださった病院には最後まで信頼を置き、次に授かった息子も迷うことなくそこで出産しました。息子がなんらかの疾患を抱えているようであれば、胎児診断を受けたい意向も知らせました。もし病気が分かっても、この病院となら自分は頑張れると思いました。

 胎児診断は必要だと思います。
 そして医療者側が患者の思いを的確に判断し、フォローし、信頼関係を築きあげることが大切だと思います。これからも、診断で多くの子どもが出生後すぐの治療が望めることを願います。

   

   

克成はいつもここにいる~胎児診断により看取った命~

        

               吾孫子久美子

 私は35歳結婚10年目を迎えました。現在は相模原市内の病院で助産師として働いています。私には天国に5人の大切な宝者が先に逝って待っていてくれています。

 地上に生きている子どもはいません。2回連続で流産し神奈川県にある大学病院の不育症外来で夫婦の染色体以外の膨大な検査をしました。「染色体に異常がわかってもどうすることも出来ないから。」というのが担当医の考えでした。検査の結果何も異常がなかったので3回目の妊娠にトライしました。そしてこの3回目の妊娠のときに胎児診断を受けました。そしてこの子、克成が私に染色体転座があることを教えてくれました。それから2回妊娠しましたが流産しています。今は着床前診断を受けるために体外受精にトライしています。

 私は当初から助産院でのお産を希望していました。
 学生時代にアルバイトをさせて頂いた所で大学の担当医からも「30週までは大学で健診を受けて順調だったらいいですよ。」と言われていました。胎児の異常に気付かず30週から助産院で健診を受けていたら、原因がわからず死産していたかもしれない。分娩中に心音が悪くなり搬送され緊急帝王切開になったかもしれない。克成は蘇生を施され針を剌され検査を沢山受けたかもしれない。私は解剖に同意しないと思うので真相は闇の中になっていたでしょう。助産院の先生に対する信頼は失われ、私の子宮にもメスが入り傷だけが残ったかもしれない。そして何よりも何でもっと早く異常に気付いてあげることが出来なかったのか?自分を責めたと思います。

 胎児診断を受ける度に夫婦で泣き苦しみ混乱しました。でも、時間が経ち二人で冷静になると受けた診断の病名をパソコンで調べ、
「だいたいこの年齢でこの手術を受けて、次は体重増やしてからだね。」
「母乳を沢山搾って運ばないとね。定期券作らないとね。」
「心臓の手術がまず先だから口唇裂は後回しだね。」
と、調べながら障害を持つ子どもの親になる覚悟が少しずつ芽生えてきた気がしました。自宅周辺を走る養護学校のバスを見るたびに「いつか克成もあのバスに乗って学校に行くのだな。お世話になります。よろしく。」と、心の中で思っていました
夢は叶いませんでしたが。

 私は自分の両親に胎児診断で異常がわかる度に覚悟して欲しくて電話で報告していました。その度に両親は飛んで来てくれました。しかし両親が発する言葉の意味は私の思いとは正反対のものでした。私は重度の障害があるけど頑張って育てるから応援して欲しいという思いでした。しかし両親は「重度の精神遅滞や心臓に障害があったらあなたが苦労する。今回は諦めなさい。」と、言われました。諦めるってどういうこと?殺すってこと?お腹の中の克成に聞こえていることが悲しくて泣きながら喧嘩をしました。そしてあれから6年経った今も両親から言われた言葉を受け入れることが出来ず心の距離感を感じています。

 私達は胎児の性別は産まれてからの「お楽しみ」でした。
26週で心臓に異常が見つかってからは性別を確認し名前で呼んであげることが出来ました。しかし転院・検査入院の日々で苦しい妊婦生活でした。今でも「子どもの死」の宣告を受けた大学病院の近くを通ると胸が苦しくてたまりません。あの苦しかった日々を思い出すからです。

 32週に退院してからは、克成に何をしてあげたらいいか?必死に考えました。妊娠初期から少しずつ用意していた絵本も沢山読んであげました。花火大会、パパとママの思い出の旅行先、ディズニーランドにも連れて行きました。私の目を通して完成に沢山の風景を見せてあげたかったのです。36週1日助産院で死産となりましたが、これらの思い出は亡くなった後の私達の支えになりました。

 最後にお腹に命を宿したときから元気に産まれてきて欲しいと思っていた私達にとって、胎児診断は受けても受けなくても苦しかったと思います。しかし、
 お腹の中で胎児にどんなことが起きているのか?
 異常があるなら何か治せる方法はあるのか?
 医療者が私達親と胎児に向き合い説明し、産まれた後にどうなっていくか?

 情報提供をしてもらうことで、最初はショックで苦しみましたがイメージがつき現実を受け止めることが出来ました。適切な胎児診断を受けたことで私達夫婦にとって、胎児である克也にとって素敵な選択が出来たと思います。今こうやって子どもの死を受け入れ前向きに生きていけるのは克成の死が納得したものであったからだと思います。真相が闇の中であれば私は今も苦しみながら生きていると思います。胎児診断で克成は「生かす命」ではなく、「看取る命」であると教えてもらいました。
 胎児診断は胎児の代弁者であり、胎児が自分で何かを思い私達親を導いてくれた結果だと思っています。克成が私達に「パパ、ママ。僕はお腹の中でしか生きていけないよ。でもいろんな所に連れて行ってくれて、愛してくれてありがとう。」って思ってくれているのではないか。
 親バカですがそんな風に思っています。パパは胸に手を当ててこう言います。「克成はいつもここにいる」と。

  

   

              私の経験

  

                寺島美奈子

 「赤ちゃんの心臓が右にあるようです。心臓病かもしれません」と指摘されたのは、妊娠25週の検診のときでした。
 そのときは、そんなはずはない、何かの聞違いに決まっていると、おなかの赤ちゃんが病気かもしれないという可能性を否定し続けていました。産院から近隣の大学病院を紹介され、そこで赤ちゃんには心臓に複雑な奇形があることが判明しました。しかも、「うちの病院で治療するのは無理な病気だから、より専門的な病院を紹介します」ということで、県立のこども病院を紹介されました。

 いまとなっては、その時点てこども病院を紹介していただいたことにとでも感謝していますが、このときは「うちの病院で治療するのは無理」だという先生の言葉に絶望していました。
 こんなにも大きな病院で治療できないと言われるほど重症だということは、この子には「未来」はないのだと悲観し、何かいけなかったのだろうと自分を責め続けていました。
 家事やこどもたちのお世話も手につかず、赤ちゃんの病気のことばかりを考えて、赤ちゃんにも家族にも申し訳なくて、しっかりしなくてはと思えば思うほど泣けてくるという日々を過ごしました。

 そんな私か立ち直ったのは、こども病院の先生から病気に関する詳しい説明を受けたことと、同じ境遇の仲間と励ましあう機会があったからです。妊娠30週での検査入院のあとに病気と今後の治療に聞する説明を受けました。じっくり時間をかけて説明を聞き、そのとき先生から紹介していただいた本を繰り返し読むことで病気への理解を深めていきました。おなかの赤ちゃんが重症心疾患であることに変わりはなくても、病気に対する理解を深める前と後とでは気持ちがずいぶんと変わっていました。「うまくいけば助かる病気だから頑張ろう」と思えるようになりました。

 様々な理由で管理入院していた妊婦さんたちとお互いの胸中を語り合いレみんな私と同じように辛い思いをしている。私だけではない」と思えたことも大きな励ましとなり、出産が近づく頃には、「不安」よりも「これから家族で力を合わせて病気に立ち向かっていこう」という前向きな気持ちのほうが大きくなっていました。もし出産するまで病気がわからないままだったら、私は相当混乱していたことと思います。
 実際、病院で知り合った方と話をすると「赤ちゃんだけ別の病院に救急搬送されて、私ひとり蚊帳の外でとても不安だった]とか「わけがわからないまま手術の同意書にサインをした」というようなことをよく聞きます。
 私の場合は早めに病気がわかっていたので、自分自身の気持ちを整えて、家族(特に兄姉について)の今後のことや助成制度の申請の準備も整えて、あらゆる百万万全の体制でお産にのぞむことができ、出生後すぐに赤ちゃんの治療を開始できたということが大きな利点でした。
 ただ、妊娠中におなかの赤ちゃんが病気だとわかると、残りの妊婦生活が大変なストレスとなります。前述したように出産までに気持ちの整理がついていたことは大変よかったと思いますが、そこへ行き着くまでの心の葛藤は相当なものでした。
 せっかく前もって病気がわかったのですから、そういった母親の気持ちをしっかりとサポートする体制作りをさらに進めていってもらいたいと思います。

   

             胎児診断について
      
 

           鵜飼礼子(うがいれいこ)

 私は2007年5月10日第一子である長男希望(のぞみ)を31週3日で出産し、5月18日生後8日で亡くしました。結婚して9年目に授かった大切な子でした。
 高齢出産である事と顕微授精での妊娠と言う事で、担当医から羊水検査を薦められました。丁度その話がある前の検診で、両手両足をバタバタ動かしている映像を見たばかりでした。高齢出産のリスクなどは色々調べていましたので、かなりリスクがあると覚悟はしていました。羊水検査の危険性の説明も受けました。しかし、その結果、もし病気が見つかった場合、私達に中絶と言う選択肢はありませんでした。夫婦で話し合い、どんな障害が合っても私達の子どもだから頑張って育てようと決めていたからです。諦める気が無いなら検査はしなくて良いと言われ、羊水検査は受けませんでした。

 5ヵ月に入ってから、胎児が小さいと言われ始めました。
小さいながら少しずつは大きくなっていて、順調ですと言われていました。少しはりが有るからと、飲み薬を飲み始めました。そして、30週に入った時、こういう赤ちゃんはお腹の中で仮死してしまう事があるから、入院して管理した方が良いと言われ、31週に入院しました。直ぐにモニターを付けて、はりが有るからと、点滴を始めました。その後細かいエコーを一時間位かけて撮り、先生の口から初めて心臓に奇形があると言われました。そして直ぐに救急車で東京女子医大病院に搬送されました。さらに一時間検査をし胎児が小さいので成長を待って出産になると説明を受け、MFICUに入院しました。まだ赤ちゃんの肺の機能が出来ていなので、出産に備えてステロイドを打つと説明されました。

 しばらく先の出産と思っていたのに入院二日目の夕方、バタバタとスタッフがベッドの回りに集まり、先生から、赤ちゃんからSOSが出ている。帝王切開で半々、自然分娩では多分助からない、30分で決めて欲しいと言われました。
 そく、赤ちゃんに会える可能性が有るならと、帝王切開をお願いしました。出産して初めて心臓の他に沢山疾患がある事がわかり、先生から18トリソミーが疑われると説明されました。聞いた事も無い病名でした。ステロイドは一本しか打っていない状態での出産でしたが、希望(のぞみ)は奇跡的に自発呼吸をしており、人目呼吸器は付けずにすみました。

 産科の先生からは羊水検査を受けていれば分かった病気ですと言われました。新生児科の先生に羊水検査を薦められたが、どんな手でも受け入れると断った事を話したら、その選択に間違いはありませんでしたと言われ、ホットしました。毎日毎日必死に頑張る我が子の姿を見て、生きて産まれて来てくれたことに感謝し、生きて取り上げて下さった先生に感謝しました。毎日可愛い顔を見せ、色々なポーズを見せ、抱っこしている時の安心しきった顔を見ていると、亡くなってしまうかも知れない病気だと言う事を忘れてしまいました。

 もしあの時に検査し病気が分かって諦めていたら、この可愛い我が子に会う事も出来なかったと、改めて羊水検査を受けずに出産して良かったと思いました。
 今回、検査を受けずに出産に望んだお蔭で、我が子を抱く事が出来、母親、父親になれ8日間と言う短い時間ではありましたが、幸せなかけがえのない時間を親子3人で過ごす事が出来ました。産科の先生からは、もし次に妊娠する事があれば、羊水検査を受けて下さいと言われました。

 この一年沢山の方と出会い赤ちゃんに起こる沢山の病気がある事も知りました。全てが羊水検査で分かる訳ではなく、また胎児の段階で治療の出来る病気もあると聞きました。今の医学でも救ってあげられない病気がこんなにも択山あるとは思いませんでした。近い将来、遺伝子・染色体レベルの治療が出来る世の中になって欲しいと思います。

  

   

             健太郎くん、ありがとう
      
 

                 森田 弘恵

 2003年1月17日生まれの長男のあと三度の稽留流産を経て健太郎はお腹の中にやってきました。予定日は2008年3月3日。40歳にしてやっと来てくれました。
 10月初旬、かかりつけの産婦人科での19週の超音波検査の時に胎児に腹水が見られ、こども医療センターを紹介されました。20週で検査入院。この時はまだはっきりとしたことはわからず、隣のベッドでお友達になった患者さんとのんびり縫い物をしていました。そして21週1日、2007年10月23日に説明がありました。両側性の肺嚢胞性腺腫様奇形、心臓の奇形。大きくふくれた両方の肺に心臓は圧迫されて細長く小さい。何て苦しそうなことだろう。あきらめる選択肢も提示されましたが、心臓は生後治療可能、肺の疾患は胎内で治る事もあるようだ、との説明を受け、先生方の全力でサポートするとの言葉にすがり、苦しくても生きる手助けをするのが親のつとめと妊娠を継続させました。
 毎週の通院で胎児の状態に一喜一憂しつつ、何とか年を越しました。これが一つの目標でした。何の治療も出来ない現実に大変歯がゆい思いを持っておりました。

 異常は年末から始まりました。毎日毎日お腹が太きくなりとにかく苦しい。もう少しだからがんばらなければと、我慢していました。年明け32週で羊水排液。ところが33週高位破水となり出産まで入院となりました。病院にいれば家事から解放され、苦しくても安心でした。
 安静にして数日、状態は落着いたかのように見えましたが、健太郎は夜中にお腹の中で大暴れして大量に破水をさせ、さらには陣痛まで引き起こしました。酸素で補助してあげて自発呼吸が出てくれば救命する、という治療方針のもとで、明け方緊急帝王切開で出産しました。

 「森田さん!赤ちゃん!」と助産師さんの声に見た健太郎の顔はまさにうちの子でした。触れた頭はとっても温かくて、それだけで本当にうれしかったです。でも健太郎は一生懸命呼吸をしようとしたけれど、呼吸はできなかったそうです。術後、病室で小一時間親子三人で過ごしましたが、いつの間にか健太郎の頭は冷たくなっていました。新生児科の先生の死亡確認はちょうど日が昇る頃でした。
 私は身体が落着き、健太郎の病理解剖が終わってから、病室で服を縫いました。生後はNICUの長期入院と信じていたので、健太郎のものは一切準備しませんでした。退院までの3日間、病棟スタッフに見守られながら旅立つための衣装一式をそろえました。死んだ子を囲んでの不思議な一週間でしたが幸せな温かい日々でした。

 病気がわかってからの3ケ月間は周りの人達の温かい気持ちに励まされ、家族一緒に様々な行事を行い、充実した日々を過ごしました。この子は病気だけれど、長男の時と同じように日常生活を送ろう。その間健太郎はあんなに腹水を貯めて病気も持っているのにお腹の中ではいつも元気でした。超音波検査で、胎盤からへその緒を通じて肝臓へ入っていく血液の流れを見た時は感動でした。楽しい思い出がたくさんあります。
 でも今、健太郎の話をしてくれる人は身近な友人達と家族だけ。子供を火葬場で見送ることは心が切り裂かれる思いです。会いたい気持ちは辛い切ないものから懐かしい気持ちに変わってきました。他人の悲しみと向き合うことがいかに勇気のいることなのでしょう。

 弟を命名した長男惇之介5歳もお別れの時あんなに心身ともに参っていたのに数日後「赤ちゃん、今天国で何してるかなあ?」と聞いてきました。子供はすごいです。死んだことは悲しいけれど、ちゃんとお兄さんになっていつも話しかけています。
 胎児診断されたおかげで寿命短い子ともしっかり向きあうことができました。ああ、これが『QOL』なのか、とあるときふと気づきました。
 これが健太郎くんのお話です。

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