PROFILE
08.4.4 UPDATE

― 小学生時代(不二見サッカー少年団)
サッカーを始めたのは1年生の時です。きっかけは特にないですよね。清水という土地柄なので、やはりサッカーが盛んでしたから。とはいえ、みんなが入るという訳ではなく、少年団に入るのは学年で20人くらいでしたから、清水という土地の中でも特にサッカーが好きな人だけ入る…ということだったと思います。不二見サッカー少年団は小学校の少年団でしたので、指導者は先生と父兄の方ぐらいでした。ここでは細かいことはやりませんでしたね。技術練習は清水市の選抜チームである清水FCで習いました。清水FCは 3年生からで、僕は3年生の頭から入りました。清水FCはセレクションがありました。少年団の先生にお前からお前ぐらいまで行ってみろ…って言われて、試験を受けに行くんです。リフティングを何百回出来ないとだめなどの審査基準があったと思います。3年生の時には同学年が50人くらいいるんです。それが4年生になると40人くらいに減って、5年生になると30人くらいになって、6年生では少し入って18人のチームをA、Bと二つ作るんですね。それで全国に遠征したりしました。技術練習はなかなかすごかったですね。だいたい、リフティングでタッチラインとタッチラインの往復をするのがアップですからね。(笑)それから足だけ、腿だけ、ヘディングだけ…のリフティングをやって、練習が始まるわけですから。でも、そのくらいのリフティングはみんな出来ましたけどね。6年生ぐらいになると、「やめろ」と言われるまで出来ました。だから、いまサッカースクールに行ってリフティングができない子どもを見ると「もっと練習しなきゃ」って思いますよね。清水FCでも練習は基本が中心でした。止めて蹴る。これだけ出来れば、小学校だったら出来ますからね。当時、県内では清水FCはぶっちぎりで強くて、僕らの代では3年生から6年生まで一度も負けませんでした。(笑)5年生の時だって、6年生の大会に出て全国3位くらいだったりして。「準決勝、1回負けちゃったよ…」って感じで。そんなぐらいだったので、修行じゃないですけど、全国に対戦相手を探しに行きましたね。よみうりランドでの全日本少年サッカー大会でも6年生の時に優勝しました。試合よりは、生活態度への指導が厳しかったですね。ご飯は絶対に残すな。片付けは全部自分でやれ。泣きながらご飯を食べている子もいましたね。合宿なんかも小学校3年生から、清水の山奥で4泊とか5泊くらいするんですよ。6年生くらいになれば全然平気なんですけど、小さい頃はきつかった。その中で泣いちゃう子もいましたけど、くじけない逞しい子が生き残ってきたように思います。望月重良(元横浜FC)、斉藤俊秀(湘南)、西ヶ谷隆之(元新潟)とかは当時からテクニックも精神力もありましたね。

― 中学生時代(清水市立第四中学校)
東海大一中とかからも誘いはありました。清水FCの選手にはある程度声をかけたようです。でも、私立でしたから誰も行きませんでした。清水市立第四中学校は二つの中学校が一緒になるところでしたので、強くなりそうだな、って感じでもありましたしね。中学校は県内でも強かったので、不満はありませんでしたが、全中には行けませんでした。やはり東海大一中が強かったんです。中学校時代にも清水FCがあったんです。堀田哲爾さん(元日本サッカー協会理事)という方がいて、金曜日の夕方から5年生、6年生、中学1年生とか中2、中3、高1を集めて、違う年代を一緒に練習させるトレセンがあったんです。それが良かったですね。部活以外にもそういう練習をしていました。清水FCはいわゆる地域トレセンで、地域トレセンが集まって県内で大会をして優勝したチームを中心に県選抜を作り東海を戦って、その中で優勝したチームを中心に東海選抜を作るんです。一応、県大会も東海大会も優勝していたので、県選抜と東海選抜には入っていましたが、優勝したチームに入っていなかったら僕は選抜には入っていなかったと思います。ずっとサイドバックをやっていた地味な選手でしたからね。ちなみに全国大会では東京が優勝で、東海は準優勝だったと思います。

― 高校への進学
当時は清水商業と清水東と東海大一高が清水で強かったんですね。清水東は勉強ができる学校だったんですよ。「ギリギリで入れるけど、入っても3年間勉強ではビリだぞ?」って先生に言われたんです。(笑)それはちょっときついなあ、って思って。じゃあ、清商かなあ…って思ったんですけど、清商は上の年代が大岩さん(鹿島)、名波さん(磐田)、山田さん(元仙台)、薩川さん(元柏)、田光さん…というものすごいメンバーだったんですよ。この人たちと一緒にやったら面白いだろうけど、2年生になっても試合に出られないかも知れないな、って思ったんです。1年生はともかく、2年生には試合に出たかったので。じゃあ、東海大一高かなって受験をして入りました。

― 高校生時代(東海大学第一高校)
当時は望月保次さん(元清水育成コーチ)という東海第一が全国優勝した時の監督だったんですけど、その人を頼って広島から田坂さん(元セレッソ大阪)とか森島(セレッソ大阪)とかが来ていた時だったんですね。練習は1対1とか2対2とかが中心で、根性系の練習は一度もありませんでした。技術が中心の練習でしたし、とてもいい監督でした。1年生時はサブで出たり出なかったりでしたが、2年生からはレギュラーになれました。この頃は清水東が強くて、大会としては、県大会の準決勝で1度、決勝で2度負けて、一度も選手権の本大会には出られませんでした。インターハイも1、2年とあまりいい成績ではなかったんですが、3年生の時、全国大会が静岡であったんです。そこで清水東と東海第一の2校が出場できることになったんです。その決勝で清水東と東海第一の対戦になって、延長で清水東に負けてしまいました。国体は3年生の時です。静岡が全国優勝しました。3年生の時にユース代表に入って海外遠征に行きました。コーチが東海第一の望月さん、監督が永井良和さん(元横浜FC監督)だったんです。この監督コンビが途中から西野さん(ガンバ大阪監督)山本さん(元磐田監督)体制になったんですね。ユースに入った時には清水の上手い選手に慣れていたつもりだったんですが、上手い選手はいっぱいいるんだなあ、という印象を持ちました。びっくりしたのは山口貴之(現町田)ですね。山口が超上手くて、びっくりしました。

Jリーグが開幕する前にナビスコ杯だけがあった年がありましたよね。あの年の春に高校卒業だったんです。その時に望月さんがコーチとしてエスパルスに行くことになったんですが、岩下(岩下潤さん/清水U-15監督)と小谷(小谷勝治さん)がエスパに行ったんですよ。僕は大学に行け、と言われていたんですね。他からは話もなかったので、僕の力じゃ無理なんだろうなあ…って思って。元々先生になりたかったので、大学に行って教職をとろうと思っていきました。

― 大学生時代(東海大学)
上には田坂さん(現清水コーチ)や鳥居塚さん(草津)がいて、あと海本さん(新潟)がいました。東海大ではまあ大人のサッカーになってきたな、という感覚がありました。大学になるとみんながぶちあたる身体能力の壁もあまり気にならなかったですね。もともと大学生までは、身体能力だけでやってきたんですよ。昔は足が速かったんですよ、僕は。(笑)ユース代表の仲間たちの半分はプロになっていたんですけど、まったく興味がなかったんですね。秋口からナビスコ杯が始まったんですが、それもあまり気にならなかったですね。普通に見に行きましたもん。すごいなあって感じで。転機は2年生の時です。東海大学が東海1部リーグから東海2部リーグに落ちたんです。その時、いろいろな人から意見を言われたんです。「プロに行くことを考えた方がいい」って。ユースに行っても、西野さんや山本さんに「お前、どうするんだ。2部でいいのか?」って言われるんですよ。言われているうちに「2部じゃやばいよな。俺、プロに行けるのかな?」と考えるようになったんです。当時、ユニバーシアード日本代表にも入り、大学でも一通り大会にも出たし、代表でもユースが終わってオリンピックのカテゴリーになっていたこともあったし、行ってもいいのかなって気持ちになったんですね。そこで大学を辞めて、プロに行こうと決めたところ、いくつかのチームから話をもらったんです。

ジュビロに行く決め手となったのは、オリンピックの合宿後です。2年生の2月に合宿がつま恋であって、合宿が終わった時に山本さんから「おい、服部、ジュビロの練習に1週間くらい来いよ。大学行っても、やることないんだろ?」って言われたんです。すでに大学のサッカー部に退部届を出していて参加できなかったんですね。山本さんはそれを知っていたから声をかけてくれたんです。「あっ、行きます、行きます」ってジュビロに行ったら、それが入団テストだったんですよ!(笑)3日間サテライトで、3日間トップで練習をしました。良香(松原良香さん/フェリーチェFC代表)や久藤(福岡)という1学年下でオリンピック代表に入ってきた選手や、俊哉さん(藤田俊哉選手/名古屋)が練習に参加していて、知った顔が多くいたので練習にはすんなり溶け込むことができました。その時、監督はオフトで「うーん…」ってことだったらしいんですけど、山本さんが「いやあ、獲っておいた方がいいですよ!」って強く押してくれてOKが出て。まあ、僕の方も断る理由はなかったですし、問題もなかったので、まあいいか…って。(笑)あまり深く悩んだ記憶はありません。他からも話はあったにしても、やはりジュビロがいちばん熱心だったこともありましたし。今、思うと、関東一部の大学に行っていたら、4年生まで大学に行っていたと思いますよね。

― プロになれた一番のポイントは?
僕の場合は巡り合わせでしょうか。違う地域にいたら、選抜チームに入れなかったりしたかもしれないし、いい指導者に出会わなかったかも知れません。そういう巡り合わせと運でここまで来れたんじゃないかと思います。もちろん自分は一生懸命やってきたんですけど、評価するのは指導者やその周囲の方々ですからね。そういう方たちが僕のようなタイプの選手を嫌いだったら国体にも入れなかっただろうし、ユースにも入れなかった。それに高校の監督がユースのコーチっていうのはかなり運が良かったと思います。(笑)そこに入ったことによって、オリンピックまで上がれたわけですし、どこか違う選択をしていたら今がなかったかも知れませんので、運もあるけれど、その都度いい選択が出来てここまで来たのかなって思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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