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まず姫路だけを議論していく前に、一つ考えていかなければいけないのが、姫路を含む兵庫県という存在です。市と県の問題です。姫路の話に直接入る前に、兵庫県をどのように考えていくか、ということからお話ししたいと思います。 明治政府が、明治維新の後に新しい領域の秩序といったものを、これはもっぱら税金を取ることが一つの大きな目的ですが、県境を設けるようになります。しかし、県境は、今私たちが個人の力では何ともしようのないような、そういうものとして線があるわけですが、実は明治政府が引いた線引きは、非常に経済利害に基づいて引かれた側面が大変強い。言い方を変えれば、それ以前の伝統的な秩序を無視して線を引いているところがあります。 今の兵庫県が実際につくられたのは明治9年の地域の大統合ですが、その前の明治4年の廃藩置県は、クーデターのようなもので、ある晩、突然、明治天皇の命令によって実施されるという、大胆な、合意を得ないクーデター的な形で統一がなされていきます。 統一された後には新しい県をつくっていくわけですが、新しい名前、名付けが必要になります。ところがこの名付けも大変おもしろい面があり、新しい明治政府は古い徳川幕府、江戸幕府を潰して出てきますから、外様ではない譜代藩とか親藩といった徳川幕府に親しい地方の藩に対しては徹底的に弾圧を加えます。その中の一つが姫路です。 当初、明治4年の廃藩置県の時に姫路県というのが出てきます。ところが、姫路というのは基本的には徳川幕府に対して味方というか、親しい立場としての名前でしたから、明治政府はこれを許しませんでした。そのために出てきたのが飾磨県でした。明治4年11月2日に姫路県ができて、11月9日、約一週間で飾磨県に名前を変えたというのは、やっぱり新しい明治政府にとって、姫路という名は使ってはいけない、忌み嫌う名だということです。 ところが、この飾磨県も明治9年の8月21日の第三次府県統合によって兵庫県という形で吸収されます。これはすでに兵庫県が存在していますから、飾磨県が兵庫県に吸収という中身で兵庫県が登場します。 新しい県がこの明治9年の大統合で出てきますと、県庁を当然置く必要があります。飾磨県庁は姫路にあったわけですが、兵庫県に吸収されましたから、今度県庁はどこに置くのかということになって、この広大な兵庫県の中に出来た県庁は摂津の神戸です。 これは何度も申し上げますように、明治政府にとっては、自分が潰した徳川幕府に親しい地域に対して、その旧城下町に県庁を置くということは明治政府としては大変忌み嫌います。姫路藩に県庁を置くということは、選択肢の中になかったわけです。 この明治9年の府県大統合は、当時の鉄道の敷設が大きな背景になっていました。当時の鉄道は、今のJRになりますが、県の事業になります。その市ではなく、県の裁量によって敷設が認可され、そして設置されていくということで、県をつくっていくということと、鉄道を敷設していくということは大変大きな連携をもった話です。 この明治9年の統廃合は大変強引にやられたために、明治9年から明治14年にかけては県の再置運動が起こります。 下からの抵抗運動が強くて復活した県がいくつかあります。明治13年に徳島県が復活しますし、明治14年には鳥取県が島根県と分離されます。福井県も復活します。そして明治16年には富山県・佐賀県・宮崎県が復活します。明治20年になると奈良県が復活します。 明らかに飾磨県の人たちも、明治9年の大統合の後に飾磨県の再置運動をしています。では、なぜ、明治政府は、大久保利通は、飾磨県の復活を認めなかったのでしょうか? |
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ある時、東京から槙村という巡察官が姫路に参ります。その時に、槙村が姫路の宿に泊まっていることを知った「姫路の商人」10人が、押しかけて行きます。この商人は、槙村に「飾磨県を復活してほしい」と願い出るのですが、見事に断られます。なぜ断ったかというと、槙村の説明によると「明治政府は神戸港・神戸を育てる必要があるんだ」と強調しています。 これは大変重要なことで、幕末開港の頃の神戸というものは、今では想像できないくらい貧しい村です。だいたい新しい港を開く時は、外国人が入って来ます。横浜もそうですし、神戸もそうです。当時は尊王攘夷という運動がありましたので、外国人と日本人が同居するのは大変危険な面があるので、港を造る時には伝統的には日本人の住んでいない貧しい寒村、寂しい所に港を造るのが基本姿勢です。 しかし、国際都市にするには、港を造るには、インフラを整備するためにはお金が要るわけです。ところが、それを税金でなんとか稼ごうとするわけですが、この西摂津という小さな所では税金がうまく吸い取れないという問題がありました。そのために考えたのは、播磨から税金を吸収しようという構想です。 つまり、大統合で、飾磨県または姫路県を認めないというのは、「神戸港を育て上げるためには播磨の税金を投入してやる。そのためには豊かな播磨を独立させるわけにはいかないんだ」という大久保利通の構想があったわけです。 |
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それから、「姫路の商人」10人と槙村という官僚の話の中で、二つ目の再置を認めない理由は但馬です。 今でこそイメージが難しいのですが、当時シルクはアメリカに輸出されて、ドルを買う。日本の政府がドルを稼ぐ。これを経済学、経済史では難しい表現で「外貨獲得産業」と言っています。当時の日本はまだまだ後進国ですから、工業化を図るためには機械を輸入しなければいけない。また、軍事国家として出来上がるためには軍艦を造らなければいけない。そのためにはどうするかというと、原料がなければ、また軍艦を買うためには、日本の円は信用がありませんから外貨で買うわけです。その外貨を稼ぐためには、どうしても戦略的な商品であるシルクが決定的に重要です。この但馬と丹波のシルクを神戸港から輸出しようということです。 ところが、地図を開いて見てみると、丹波と但馬から鉄道を引いてダイレクトな鉄道を引こうと考えたのですが、ここは大変山が険しくて、当時のお金では山をくり貫いて鉄道を造るのは基本的にはできなかったのです。トンネルを開設する技術は明治の後半になってしかできないわけで、当時はコストを考えると、トンネルを掘る金がない、技術もない。そうすると、平坦で一番金のかからない、コストのかからない、最低コストでできる、そして迅速にできる鉄道路線を考えなければいけない。それが播但線だったわけです。 つまり、このように考えていきますと、なぜ飾磨県・姫路県が復活しなかったかという理由は、明治政府にとっての非常に大きなプロジェクトが関係していたということです。一つは神戸港を育てる。そのためには豊かな播磨から税金を取る。そのためには県の復活は認めない。それともう一つは、北のシルクを播但線を通して神戸港から輸出する。そのためには但馬と播磨をくっ付けなければいけない。という二つの明治政府の大規模なプロジェクトの中で、飾磨県・姫路県は主体性を認められなかったということです。 これは飾磨県・姫路県にとっては悲劇ですが、当時の大久保利通は極めて有能な官僚ですから、おそらくあの人物がいなければ、日本は中国・インドと同様に植民地になっていただろうと思われます。国家的なプロジェクトを取るか、地域の主体性を選ぶかは、いつの時代でもぶつかることで、その辺の評価は歴史家として大変難しいところですが、我々のサイドから考えれば、近代国家として急速に自立していかなければならない日本にとってみれば、飾磨県の悲劇は必要であったということになってくるのです。(つづく) |
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