商工会議所報WEBダイジェスト 2002 Dec. no597
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近代姫路の財界・政界
 

「播磨」主義と、「兵庫県」広域主義の対立 次に「播磨」主義と、「兵庫県」広域主義の対立です。
明治9年に「兵庫県」という形で飾磨県が吸収された後にも、「飾磨で頑張っていこう。播磨で頑張っていこう」という人たちが、私たちの祖先でまだまだ残っていました。ところが、大久保利通の近代国家プロジェクトの中で兵庫県ができ、中には「兵庫県でいいじゃないか。兵庫県でいこうよ」という人も現れてきます。
ここでは地域主義としての「播磨」主義と、広域主義というイデオロギーで分けましたが、この二つの概念、つまり「私はあくまでも姫路の人間だから播磨で頑張るんだ」という人と、「いいじゃないか。兵庫県で新しい構想に乗って、新しい人生をエンジョイしようじゃないか」という二つの勢力に分けて説明したいと思います。

播但鉄道は非姫路資本播但線が大変重要であることを申し上げました。明治中期の資本金が大きい順に並べると、一番大きいのは播但線です。つまり、播但線は兵庫県を“西の横浜”にするシルクを輸出するためにいかに重要であったのかが、この資本金規模でも分かります。その次にくるのが三十八銀行。当時の人が「さんぱち銀行」と呼んで親しんだもので、後に神戸銀行、そして太陽神戸銀行、今は三井住友銀行ですが、大変重要なものです。

兵庫県の構想の中で播但線が持った意味が高いということを言いましたが、資本金規模をみても当時のこの地域からすれば一大ビッグプロジェクトです。ところが、市史で調べてみてびっくりしたのですが、播但鉄道の株主を整理するとほとんどが東京なのです。播但鉄道は姫路の鉄道ではないのです。本社は姫路にあったのですが、これは株主からみると姫路の人は参加していない。

実は姫路の人は嫌がったのです。造って欲しくない。なぜかといえば、明らかにこれは自分たちの播磨主義を否定する、自分たちの主体性を否定して、兵庫県構想に乗っかっていく代表的なシンボル的な鉄道であるということを理解できていたがゆえに、姫路の人たちはこの鉄道を歓迎しなかったことになります。逆に東京の株主が多い、または横浜、明らかに但馬、または丹波の人たちが多いということは、まさに大久保利通が構想したプロジェクトとしてのシルクを輸出する兵庫県を育て上げる、それに賛同した人たちがここに集っていたことを意味しています。

  三十八銀行    
 

もうひとつ重要な神栄という会社が神戸にありました。この神栄は、播但鉄道と一緒に兵庫県のビッグプロジェクトを具体化していく、シルクを輸出する商社です。今も神戸にあります。

ここで神栄の株主をみると、三十八銀行の人たちと重なっていることが分かります。つまり、国家プロジェクトは播但と神栄が担い手になるわけですが、この中に参加している人物を追っかけていくと、姫路の人たちが嫌っていたプロジェクトに、どうやら三十八銀行の人たちが参加している。三十八銀行は姫路の銀行だというプライドがあったのですが、どうやら姫路のナショナリズムの人たちを裏切るような、つまり「播磨」主義に立たずに、「兵庫県」主義で広域プロジェクトに迎合する、乗っかっていこうとする人たちがそこにいたと考えることができます。

三十八銀行は本店が姫路にありましたが、姫路に背を向けていた可能性が高いということが、市史の仕事をしていて分かってきたことです。

三十八銀行(歴博館蔵)
  播磨主義 その1 近世からの御用商人の系譜    
 

そこで皆さんが関心があるであろう播磨主義、姫路で頑張っていこうという人たちがいたのかどうかになります。槙村という官僚に談判した「姫路の商人」10人がいたという話をしましたが、その人たちが播磨で頑張ろうとした人たちだと思います。

ここで重要なのが濱本八治郎という人で、播磨紡績をつくりあげた人物です。会社の名前にちゃんと播磨と付いているのです。これは播磨で頑張っていこう、兵庫県ではなくて、自分たちのふるさとである播磨を基盤として頑張ろうという意気込み、意思表示、自己主張であると考えていただきたいので
す。

さきほど申しましたように、三十八銀行は本店は姫路にありましたが、どうやら姫路ではなくて神戸に目が向いていたわけです。結論から申し上げますと、濱本は三十八銀行からお金を借りていません。これは貸してくれなかった可能性が高いわけですが、三十八銀行からお金を借りずにどうしたかというと、自分たち自ら姫路商業銀行というものをつくって、そこからお金を借りて、紡績会社をつくる生産事業を展開しています。

そういう意味では、金融機関を通して考えると、三十八銀行が広域派・兵庫県派であれば、この姫路商業銀行は播磨主義を具体化する、姫路を復興させていこうとする銀行であったと考えて下さい。その他、姫路銀行があります。これは系列が違い、濱本はこれにはタッチしていませんが、これも姫路財界の中軸を担う銀行で、後に姫路商業銀行と姫路銀行が合併して姫路銀行になります。これは大正10年の銀行大合同によって、三十八銀行に吸収され、神戸銀行になりますが、それまでは、姫路銀行・姫路商業銀行というものは姫路を基盤にして、姫路の商人たちをバックアップしています。かつ、姫路の商人たちがつくりあげた銀行というプライドを持った銀行だったということが分かってきました。

3代会頭 濱本八治郎姫路商業銀行の中で大変重要なのは濱本という人物ですが、当時「那波(なば)屋」という屋号をもった商人でした。代々、木綿を扱っていまして、当時姫路藩の中では、姫路木綿が東京・江戸に出荷されて、大変戦略的な稼ぎ頭だったために姫路藩の財政が大変潤ったという事実があり、それを担っていたのが濱本率いる那波屋という老舗商人です。ですから、自分たちは姫路藩を支えたんだというプライドもありますし、兵庫県になっても自分たちは姫路で頑張るんだというプライドが商人たちの中にありました。ですから、彼らは商業に基盤を置きます。もちろん、播磨紡績という生産会社を作りますが、姫路「商業」という二文字が冠されていたことは、彼らが伝統的な商人としてのプライドを背景に、商業に基盤を置き、かつ地域の姫路に基盤を置きながら自分たちは頑張っていくんだというプライドを持った人たちでした。つまり、江戸時代からの御用商人の系譜を踏むプライドを持った商人たちでした。

  播磨主義 その2 日露戦争後に牛尾梅吉    

もう一人重要な播磨主義のメンバーがいました。それが牛尾梅吉です。今のウシオ電機の牛尾治朗さんのおじいさんです。調査して分かったのですが、牛尾梅吉は播磨を大変重視して頑張っていました。

当時の牛尾家は梅吉が死んだ後でも、息子の健治を通して播磨の中では大変重要な存在だということが分かります。かつ、牛尾が大きな会社で社長ないし役員をやっている会社は、牛尾合資、姫路商業銀行と姫路銀行が合併した姫路銀行。ここで重要なのが山陽瓦斯(がす)株式会社、山陽商事で、彼が関わった会社には必ず山陽という名が冠されているのです。これは明らかに播磨主義。山陽という名を通して播磨で頑張っていこうとする牛尾の意気込みを表現しています。

2代会頭 牛尾梅吉8代会頭 牛尾健治
  姫路商工会議所の誕生    
 

重要なのが、この播磨主義の中に濱本と牛尾という存在がある事が分かったのですが、残念ながらこの二人が仲が良くなかったのです。

これが商工会議所の設立が遅れた最大の原因です。これは、80周年ですので、あまり言うと良くないのですが、実はどこの府県でも市制がひかれ市になると、大体行政的な自治が認められますから、当然ビジネスマンはそれを体現して中央からなるべく独立して自立しようとして商工会議所をつくります。岡崎でも、市が成立するとすぐ、明治24年ですが岡崎商工会議所が出来上がっています。

商工会議所というのはやっぱり政治的な独立が保証された時には、ビジネスマンの主体性を表明する恰好の器なんですね。ところが、残念なことに姫路の場合、市制がひかれて約30年経たないと商工会議所が出来なかったのです。この最大の原因は業界の足並みの悪さであります。これは二人が悪いという言い方で理解しないで下さい。これは何故かというと、もともと姫路というのが、城下町の立地が背景にあったと思うのですが、大変、経済的な中心というのが分散していたという特徴があります。当時を調べていくと商工会とか、何とか協会がいっぱいありまして、これを整理するだけでも大変で、頭がゴジャゴジャになってしまったんですが、姫路商業会とか姫路商業協会とか一字違うと大変混乱するような名称があって、あと野里のところが野里商工会という独特のグループが存在していました。

ですから、姫路の商工会議所の設立が遅れたというのは、やはり伝統的な江戸時代の経済を背景にして中心が分散していたということ。その中で最も強かったのは濱本だと思いますが、その濱本と新興勢力としての牛尾との関係がなかなかうまくいかなかったというのが一番大きな商工会議所設立の遅れの背景だったと理解しています。

設立当時の当所庁舎

「姫路」は、どこへ行くのか?牛尾は元々、インフラであるガス、電力、銀行に大体の基盤を置いて、純粋な生産やモノを作ることにあまり積極的ではないことが特徴です。その点から考えると、むしろ濱本のほうが生産工場をつくって、そこの土地に、自分たちのモノを作っていこうという意欲はあったように思います。
ところが、残念なことに濱本の播磨紡績が失敗して以降、姫路の中に姫路のお金で造った生産工場というのが少なくなってきます。むしろ、本社を大阪や神戸におく工場というのが姫路に増えていく。つまり、姫路は、工場をつくるのではなくて、行政と一体となって土地を提供する、大阪・神戸に本社をもつ生産企業に土地を提供するという、今風にいえば工場誘致という方向に転換していく傾向にあります。
私は、もし牛尾梅吉がインフラだけでなく生産企業に関心をもてば、また違った方向があったのではと考えますが、残念ながら姫路のお金で姫路の生産工場が増えていくことはもうありませんでした。

つまり、この頃から姫路の財界は自分たちでモノをつくる意欲を失っていき、そして、モノづくりは大阪・神戸の人たちに任せ、土地を提供するという姿勢に変わってきます。
その結果、昭和4年、日本毛織、山陽皮革、そして片倉、福島、大同マッチ、日の出紡績、東洋紡績というふうに、つまり、生産は大阪・神戸に任せる。姫路城は大阪・神戸の資本“外資”に取り囲まれる時代がやってきます。

昭和4年の段階で姫路の資本で出来ているのは、姫路メリヤス、それと龍田紡績、日本フェルト。姫路の中心はこの三つだけです。
広畑製鐵所にしても、今の西芝、東芝姫路工場にしても、外の資本に生産を依存する体質からのものです。
この方向というのが、この次にどうなってくるのか分かりませんが、私は古臭い考えですが、モノを作るという考えをもう一度育て上げていくことが大変重要になってくると思います。
姫路というのは、経済だけではなくて、他の面でもある意味では大変辛い立場なんです。教育と軍隊というもので、この街は大変栄えましたが、姫路高校が戦後、神戸大学の教養部に吸収され、復活しませんでした。

では、姫路はどう自己主張していくのか、という時に唯一残ったのが姫路城だったわけです。まあ、文化ということになってくるわけです。
唯一姫路城が残ったというのは、重要なポイントになるわけですが、私はやっぱり商工会議所のメンバーの方に考えていただきたいことは、バランスの取れたシステムといいますか、モノを作る、自分たちで作っていくという開発の必要性と、それを売る商業です。基本的には、姫路は商業というものが大変強い街だと思います。もう一つは、これは牛尾治朗さんと話をしたんですが、やっぱり教育を姫路にもってこなければならない。神戸大学中心という体質を改める。そのために姫路獨協大学ができましたが、まだまだ弱い。大学ができるというのはどういう効果があるかというと、若い人がいっぱい来るということです。
そのためには財界というものが力を持って、生産と商売というもののバランスをとりながら、教育内容の充実、そういう働きかけが重要なのではないでしょうか。
なかでも、歴史教育が重要ではなかろうか、ということです。ある時、姫路の店主の方とお話をしたら、牛尾治朗さんは知っていても、梅吉は知らなかったです。歴史教育、姫路財界史は重要で、そのことを通してもう一度、21世紀の姫路市のあり方、山陽の復興というのが重要となってくるのではないかと思います。

   
籠谷直人氏 籠谷直人氏

1959年京都市生まれ。父親は、飾磨区妻鹿生まれで、子供の頃より姫路にはたびたび来ている。その関係で、姫路市史の作成に特別執筆者として関わる。著書に「アジア国際通商秩序と近代日本」など。

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