東大文学部は理系?文系?
さらに、具体的に大学や学部について考えていくと、文系・理系という分け方が人間の行動様式とは特に関係のないことが、よりよくわかります。
偏差値が文系・理系それぞれの系統のランクを決めるとするのであれば、究極の文系人間であるはずの東大文学部に入る場合、文科Ⅲ類から行くとしても二次試験において数学は必須ですし、文系だからといって0点で許されるはずもなく、普通の大学の理系の合格偏差値よりも高い学力でないと合格できません。例として東大文学部を挙げてみましたが、文系で数学を課す大学は珍しくなく、数学の偏差値を論理的思考力のバロメーターとして採用するのであれば、文系・理系という分け方よりも大学の偏差値で決めた方がまだ精度は高いでしょう。
国語について考えてもまったく同じです。東大工学部は、ほかの文系よりも国語の成績はよいはずです。
そう考えると、なぜ、論理的思考力あるいは情緒性について考えたときに、大学の偏差値の話ではなく「文系理系」という切り口になってしまうのかという疑問が出てきますが、それについては、最後にお話ししようと思います。
大学での学問は、高校での学問より、さらに「理系」的になる
少なくとも、大学入学時における文系・理系の別によって、論理的思考力や情緒性において、何らかの違いが現れるわけではない、ということが示されたかと思いますが、では、大学に入ってから、文系人間・理系人間が作られるのか、というと、やはりそうではないと言わざるを得ません。なぜなら、大学で行う学問もまた、論理性が重視されるからです。
少なくとも文系だからといって、何かを研究・分析しない論文でも許されるかというとそうではありません。大学入試では、論旨をまとめたり、抜き出したりすることで○をもらえましたが、大学では、自分の力で論理を構築せねばならず、その意味で、大学での学問は、高校での学問と同様、より「理系」的であると定義することもできるでしょう。
文系・理系話の本質は、「ソフトな学歴差別/逆差別」
では、なぜ、あえて人を「文系・理系」と分けてあれこれ言ってしまうのでしょうか。これは、理系を偏差値の高い大学、文系をそうでない大学に置きかえてみれば、すぐわかります。
一般的に言われる、文系・理系それぞれの長所と短所について簡単にまとめておくと、
・文系は、情感が豊かだが、論理性がない
・理系は、論理的思考力があるが、人間らしい感情がない
となるかと思いますが、これを
・偏差値の低い大学を出ている人は、情感が豊かだが、論理性がない
・偏差値の高い大学を出ている人は、論理的思考力があるが、人間らしい感情がない
と言い換えても、ステレオタイプな学歴差別だったり、学歴逆差別と同じになります。「あの人、東大卒で、勉強はできたかもしれないけど、なんか冷たい感じがするよね」とか、「あの人は、学歴がないから、やっぱり全部感情論で話すよね」などという、感じのよくない言葉を、文系・理系に当てはめることもできるかと思います。
また、「だから文系は……」という話が、「だから理系は……」という話よりも多い点にも注目すると、理系(=ここでは高学歴)の人が、そうでない人を蔑視しているという本質がよく見えてきます。
つまり、学歴差別が大好きだけど、世間体があって露骨な物言いができない人が、最後に頼りにする差別の手段、それが「だから文系は…」「だから理系は…」という言い方なのです。
一見、進路の選択やライフスタイルについて批難しているように見えるので、多少は差別感が弱まるのがポイント。露骨な文系批判・理系批判が表立ってされないのは、やはりその本質が差別にあるからでしょう。