本日は「ユダヤ人だと嘘をついている者達(2)」として、終末の日に、「ユダヤ人だと嘘をついている者達」が鍵となることを見ていきましょう。
聖書の中に「全ての者を偽り者とするとも神を真とすべし」ということばがあります。
だから、全ての人が万一間違えたとしても、神のことばは正しく、真実を語っている、そのように
我々は神のことばを扱うべきなのです。
私達の常識や、経験と異なる、また全然異なることであっても神のことばがそういうなら、一度は
そのことばに沿って考えて見るべきなのです。
私は何をいっているのかというと、このことば、「ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たち」ということばについて語っているのです。
今ドキのキリスト教会において、ユタヤ人(と自称している)について何かいう、意義を唱えるなどということは、全く賛同を得られない、おおいに非難されることだと、私も知らないわけではありません。しかし、神のことば、そして終末について語る黙示録の7つの教会の記述の中で、
2度にわたって、このことに言及されているなら、我々は少しはこのことについて考えてみるべきではないでしょうか。
いや考えてみるべきなのです。その時、終末について、彼等が実は大きな鍵を握っていることが
わかってくるはずです。
7つの教会について研究する人々は、この中でスミルナそしてフイラデルフイア教会こそ、神のみこころに沿った教会であるという意見で一致しています。私もそう思います。
そして、非常に暗示的なのはこの2つの教会の記述中にどちらも、この「ユダヤ人だと嘘をついている者」たちの記述があるということです。
ですから、この人々は、神のみこころの教会におおいに反対し、迫害する人々であることが推察されます。
さて、上記テキストが記されている箇所を見ていきましょう。
”7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”
順に見ます。
”7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”
ここで、「フィラデルフィヤにある教会」という教会が出てきます。このフィラデルフィヤという教会はどのような教会なのでしょう。ある人々は、兄弟の立場に立っている、だから中間祭司階級を置かない、
みなが平等な立場にたった教会だといいます。
失礼ながら、それは誤りであり、惑わしであると思います。
神は教会内における働き人が皆、平等だなどとは語っていません。
逆に「上に立つ権威に従う」ことを述べています。「教会内は皆、平等だ、人の権威には従わない」などと共産主義みたいなことをいっている人々は彼らと同じような誤りに入るでしょう。
平等な権利を約束したはずの共産主義が実は、北朝鮮の金王朝のように、大変な絶対権力となってしまったように、教会内の権威と秩序を否定し、惑わされる人々は、大きな誤りに入っていくと思われます。
フイラデルフイア=兄弟愛と名ずけられた教会の本当の意味あいは、一人の兄弟、我々の唯一の兄弟、主キリストへの愛を全うした、迫害の中でもその愛を全うする教会、そのように思えます。
「聖なる方、真実な方」
この教会に対してキリストは聖なる方であることが語られています。
そして、実はこの教会も聖なる人々、すなわち、この世の汚れから抜け出た者達の教会なのです。
また、「真実」すなわち、あらゆる偽りの教えや霊から抜け出た教会なのです。
「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」
このお方が「開くとだれも閉じる者がな」いことが書かれています。
以前、書きましたように終末の日、7つ目のミレニアムになると、門が開かれます。何故か?
それは、「全ての事に時」があり、6日間、すなわち、丸6000年が経過するまでは、主が閉じられた鍵により、門は閉ざされているからです。しかし、その日、7日目、すなわち7つめのミレニアムになると
門が開かれ、鍵は開けられます。そして、この日に開けられた門は、決して閉じられることがないことを知って下さい。何故そんな断定的なことがいえるのか?それは、ここに「彼が開くとだれも閉じる者がな」いと書いてあるからです。
それが人からのものなら、しばらく開けてあるのみであり、色々問題や妨害が来ればすぐ閉じてしまうかもしれません。しかし、「彼が開くとだれも閉じる者がな」いと言われた方が開けたなら、どのような事態になっても決して、決して閉じられることはないことを知りましょう。
「彼が閉じるとだれも開く者がない」
そして、もう一つのことを我々は知らなければなりません。それは、「彼が閉じるとだれも開く者がない」ということです。
この門は、知識や啓示と関係しているように思えます。
私達の大きな誤解は、誰でも勉強したり、学問を身につけ、英知を養えば、「必要な」聖書や預言解釈の理解に達すると誤解していることです。
だから、この世の知者、学者が学ぶように神学校や、神学大学院へ学べば必要なことが理解できると
「誤解」しているのです。私は、知識は不要、学校は不要とそんな極端なことを言う訳ではありませんが、しかし、”「彼が」閉じるとだれも開く者がない”といわれたことばにも耳を傾けるべきと思っています。
私達が啓示を受けたり、真に理解したり、見たり、聞いたりすることができるのは、ひとえに
「彼が」私達に啓示を与えて下さり、理解を与え、目を開き、耳を開いてくれたからだということを知るべきなのです。
多くの啓示がこの時代に開かれても、全ての人がそれを見るわけではなく、理解するものでもありません。
ある人は見るでしょうが、ある人達は決して見ません。その違いは何故起きるのでしょう?
何故ある人達に対しては、啓示の門が開かれないのでしょう?ここに記された、「彼が閉じるとだれも開く者がない」とのことばがその理由です。それは、主がその人の目を閉じ、啓示に対して、見ることができないようにされるからです。
主イエスの時、神により門を閉じられ、その結果、決して啓示の門が開かれなかった人々がいます。
それは、当時の宗教の専門家、律法学者、祭司長、パリサイ人達です。
福音書を見ると、12弟子や、酒税人、罪人、遊女には開かれた「主イエスに対する理解、啓示の門」
は、これらの宗教の専門家には、最後迄、決して開かれなかったことを見ます。
何故かれらは見ることができなかったのでしょう?学問が足りないのか、聖書の知識が足りないのか?
そうでもないようです。聖書は、「彼が閉じるとだれも開く者がない」と語ります。
すなわち、神が彼等の目を閉じたのです。それで、彼等に対しては、決して決して
門は開かれなかったのです。神がそう判断したということがポイントなのです。神は彼等の(人前ではなく、)隠れた行いを見ており、そして彼等が白く塗られた墓、表面はきれいでも、
内側はあらゆる不潔な物に満ちた人々であることを知っていたのです。
それで、その結果、彼等に対して、門は閉じられ、彼等は啓示を見ることができなくなりました。
同じことが終末の日にも起きるでしょう。
私達の神の前における歩みが、門が私達に対して開かれるかどうかを左右します。
”8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。”
フイラデルフイア、キリストに愛される教会に対して主は、まず「わたしは、あなたの行ないを知っている。」というようにまず、行いに関して語りました。これも暗示的です。
何故なら、終末の日に多くの神の民は「口先だけのクリスチャン」「口舌の輩」になるからです。
しかし、聖書の多くのみことばは「みことばを行う」ことに関して述べていることを知りましょう。
終末の時代、多くのクリスチャンは口先だけの人々、みことばを行わない人々になるでしょうが、
しかし、主の愛された教会、フイラデルフイアのように「行い」にポイントがあることを知りましょう。
”見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。”
門は隠されたことがらや知識の啓示と関係があるようです。
そして、この教会に対してこそ、「門を、あなたの前に開いておいた」と語られています。
すなわち、この教会こそ、終末の日に正しい啓示を神から、開かれる教会なのです。
他の教会、すなわち、テアテラ(カソリック)、サルデス(プロテスタント)等に対しては、
このことば、「門を、あなたの前に開いておいた」とのことばは語られていません。
ですから、この啓示、フイラデルフイアの教会に対して開かれた啓示は、カソリックやプロテスタント
には開かれない可能性があります。
”なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。”
この教会、終末に起きてくる2つの教会の一つ、フイラデルフイアの特徴のもう一つは、
キリストのことばを守ることです。これは、もう一つの終末の教会、対照的な教会、ラオデキヤ(民のさばきの意味)が、裁かれるべき教会であることとは、反対です。
彼等はキリストのことばを守らず、戸の外に追いやっています。
終末の日、最後迄、キリストのことばを守り、行う人々にみこころがあることを知りましょう。
また、「わたしの名を否まなかったからである。」と書かれています。
これは、キリストの名前より、悪霊マリヤの名前を大事にしているカソリック、そして、
このような背教の教会といそいそと合同、エキュメニカルな一致に入る、
背教のプロテスタント教会とは対照的です。
彼、ローマ法皇は2002年10月16日、サンピエトロ広場で、「教会と、厳しい
試練に会っている人類の生命」をマリアの手に委ねたそうです。彼は、「マリアに私の未来 も委
ねた。私はすべてを彼女の手の中に置く。そこで母なる愛をもって、マリアは彼
女の息子にそれを委ねるであろう」と述べたそうです。
また教皇は、マリアの祈りを「献身的に、
そして機械的にではなく」祈るならば、「生命の神秘とキリストの業に関する黙
想」として示したとのことです。「アベマリアの祈りを繰り返すことで、福音と伝統とによっ
て伝えられた、地上における神の子の使命の重要な出来事について熟考できる」
と教皇は説明しているとのことです。
私達がこの記事を読んでわかることは、彼、教皇が、くり返し、キリスト以外の他の名前、マリヤの名を強調していることです。この教会は、「わたしの名を否まなかった」と称賛されるフイラデルフイアとは、まことに対象的です。
”9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。”
さて、この教会においてこそ、「ユタヤ人だと自称している悪魔礼拝者」に関する記述があります。
ですから、彼等はこの教会、フイラデルフイアの教会を憎悪、攻撃することがわかります。
ここで、「サタンの会衆に属する者」と書かれています。ここで会衆と訳されていることばは、KJVでは、シナゴーグ、すなわちユタヤ教の会堂と書かれています。
ですから、このことばは、明らかに今ユタヤ人と呼ばれる人々、シナゴーグに集う人々に関して述べているのです。彼等を悪魔礼拝者、実際はユタヤ人ではないのに、ユタヤ人だと嘘をついている人々だと
述べているのです。
私達がこんなことをいえば、「反ユタヤ主義だ」「許せない」などという声がすぐあがるのでしょうが、
しかし、他ならぬ聖書がそう述べていることを知りましょう。
”見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。”
さて、この教会は、「彼等に勝つ教会」です。「ユタヤ人だと自称している悪魔礼拝者」に勝つといってもあまりピンとこない人が多いかもしれませんが、実はこれは、教会の歴史、裏の真の歴史を知っている人々にとっては大変なことがらなのです。
というのは教会の歴史とは、実は「彼等」にだまされ、偽られ、道を曲げられ、ほんろうされる
歴史だからです。
教会に入り込んだ彼等の働きにより、教会は、本来あるべき姿から全く違うものへと変型され、
道を曲げられてしまったのです。
キリストの代わりに悪霊マリヤを拝み、神のことばを侮り、キリストは復活しなかった、この話は
民衆の願望が作り上げたものなどと、情けない信仰を広げる腐り果てたものに変わってしまったのです。
しかし、もうだめか、「彼等の」もくろみは、最後まで続くのかと思われる中で、
突然、「彼等の偽り」に勝利する教会、フイラデルフイアがあらわれることを聖書は述べています。
フイラデルフイア(兄弟愛)の教会とは、我らの唯一の兄弟、キリストへの愛を全うする教会と
思われます。
このことは、エデンの園で蛇、みことばを曲げる蛇に一敗地にまみれたエバに対して、女の末(子孫)が
「蛇の頭」を砕くと預言されたことの成就です。女は教会の型であり、終末の最後にあらわれる
みこころの教会、フイラデルフイアこそみことばを曲げる蛇の民族の働きを破るものだからです。
このことは黙示録12章には以下のように表現されています。
”黙示録12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。”
ここで書かれている「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」
とのことばは、フイラデルフイア(兄弟愛)と符合します。
ですから、某悪魔礼拝の民、蛇のわざを破り勝利をもたらす教会がフイラデルフイアなのです。
”10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”
「忍耐について言ったことばを守る」以上、この教会は困難、迫害を通る教会なのです。
「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時」と書かれています。
ですから、この時には、誰も彼もがこの試練の時を経過することを知りましょう。
その時、このキリストのことばを守る人とそうでない人とには区分があることを知りましょう。
”11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”
「わたしは、すぐに来る。」と書かれています。誰でも知っている通り、キリストの時代から、
もう既に2000年が経過しています。それなのに、今頃になって、何故主は「すぐに来る」と言われるのでしょうか?1000年は短い期間ではないし、2000年過ぎたのですから、
更に長い時間が既に経過しています。たとえ、明日主の再臨があったとしても、「すぐに来る」とのことばの通りとは思えないのですが、しかし、何故主は「すぐに来る」と言われたのでしょうか?
私はこんな風に思います。この「すぐに来る」とのことばは、終末の困難、艱難の中にいる人々に
特別に語られたものなのです。
今の私達の多くはキリストの再臨を切実に必要としてはいません。
もちろん、主の再臨が来れば、うれしいのですが、しかし、
主の再臨がなければ、明日命がないとか、あるとかいうレベルの問題は「まだ」起きていません。
しかし、時代が変わり、艱難の時代になり、明日の命も危ないという時になるのでしょう。
明日をもしれない状況になった時、私達は切実に主の再臨を待ち望むのでしょう。
唯一の助けぬしを求めるのでしょう。それは、あのエステル記に記された
「絶滅に定められたユタヤ人」のような時です。
そのような終末の特別な艱難に入った人々に対して、主は「すぐに来る」と言われます。
そうです、艱難は来るでしょうが、しかし、その時は定められ、限られているのです。
そして、主は「すぐに来る」と言われるのです。
”あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”
この教会は冠を持っている教会であり、また、既に「持っている」教会です。
「見えると誤解しているが実は盲目であり、裸、みじめなものである」教会、ラオデキヤとは対照的です。
”12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。”
「。彼はもはや決して外に出て行くことはない」と書かれています。このことばは、逆にこの教会が、実は人の間では嫌われ、うとまれ、排斥され、外に追い出された人々の教会であることを暗示
するように思えます。
”わたしは彼の上に..わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。”
この教会の上に「新しいエルサレムの名」が書きしるされます。ということは、
黙示録に出てくる新エルサレム、神のみこころの回復された教会の主体は、このフイラデルフイアだということがわかります。
そうなのです。ですから、この終末の時代、神のみこころの道を歩もうとする人々は、
ラオデキヤでも、サルデスでも、テアテラでもなく、フイラデルフイアの道に注目しなければならないことがわかります。はっきりいいます。この終末の時代に、テアテラ、すなわち、カソリックの歩みにみこころはなく、サルデス、すなわち、プロテスタントの道にみこころはなく、また、ラオデキヤ、
すなわち、聖霊のリバイバルといいながら、悪霊に浮かれているような教会にもみこころはないのです。
黙示録は明らかに新エルサレムなる教会こそ、キリストの花嫁たる教会であることを語ります。
そして、その新しいエルサレムの名が他でもない、フイラデルフイアの教会に記されると言うなら、我々はこの教会の歩みに目をとめるべきなのです。
フイラデルフイアの道とは何か?これは、偽り者、再臨に関する大嘘を吹聴して回った、
あのJ.N.ダービーやその追随者に従うことなどでは決してなく、兄弟愛、すなわち、
我々の唯一の兄弟であるキリストに従う道であることを知りましょう。
「わたしの新しい名とを書きしるす。」
ここで、主は終末の教会、フイラデルフイアに対して、「新しい名とを書きしるす」といわれています。
ですから、この教会には、テアテラ(カソリック)、サルデス(プロテスタント)とも異なる
新しい名前が付けられる可能性があります。
このことは、主イエスの時に成就し、彼に従う人々は、いままでなかった名前、「クリスチャン」という名前をつけられました。同じことが終末にも起きるかもしれません。
どのような名前かわかりませんが、とにかく、終末の時、主につくみこころの民にある名前がつけられることはあり得ると思えます。
”13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”
終末においてはますます、聖霊の声に聞き従うことにポイントがあることを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー