本日は「ユタヤ人だと嘘をついている者達」という題でメッセージしたいと思います。
罪ということばの原意は、「的外れ」だと聞いたことがあります。
考えさせられることばです。クリスチャンとして、私達が、主の前に生きていこうとする時、私達の大きな問題は、「的外れ」であることです。
さて、私達はそのような的外れであるかもしれませんが、唯一的外れでない方が、神であり、そしてそのことば、聖書のことばです。
その聖書、黙示録の中で、2度にわたって、「ユタヤ人だと嘘をついている者達」について
書かれています。
このことは、意味があると思います。ですから、このことを通して、
私達は、終末という時を考えるのに、「ユタヤ人だと嘘をついている者達」について
知る必要があることを知りましょう。
さて、上記テキストが記されている箇所を見ていきましょう。
”黙示録2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。「「しかしあなたは実際は富んでいる。「「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。”
順に見ていきましょう。
”8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。”
スミルナとは、没薬という意味です。没薬は死者に使う薬ですから、このことばは、死、殉教と
関係したことばと思われます。
この教会は、殉教と関係する、殉教者の教会なのでしょう。
「初めであり、終わりである方」とは何をいわんとしているのでしょう。
これは、ものごと、また歴史の初めも終わりをも支配なさる方という意味あいでしょうか。
聖書には、「金持ちとラザロ」の話が出てきます。ラザロが犬におできをなめられ、
金持ちがぜいたくに遊び暮らす場面のみ、切り取って「どちらがいいですか?」と聞かれたら、
我々は何と答えるでしょう?誰だって、「金持ちがいい」というに決まっていると思われます。
しかし、これは、ものごとの途中しか見ていない、一部しか見ていない結論です。
何故ならこの物語りには、始めだけでなく、終わりもあるからです。
この物語りの終わりには、アブラハムのふところに抱かれているラザロがいます。
そして、ハデスに苦しむ金持ちがいるのです。
終わりを考慮にいれるなら、「ラザロの生き方」がよいこと、これが良い結論をもたらすことがわかるのです。
このことを考慮すると、主が「初めであり、終わりである方」といわれる時、
途中経過のみで、結論を出してはいけないことがわかるのです。
スミルナの教会の途中経過は、困難が予想され人間的に見れば、楽しいもの、望ましいものではないかもしれません。
しかし、私達は、「初め」と、「終わり」終わりを支配する方に目をとめ、この方に従うべきなのです。
「死んで、また生きた方が言われる。」
このことばも暗示的です。主は死を経験したが、しかし、後に蘇られた方だと語っているのです。
同じく、スミルナの教会も死を経験するが、しかし、主にある蘇りを経験するようになる、
そのことを語っているように思えます。
”9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。「「しかしあなたは実際は富んでいる。「「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。”
”「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。”
と書かれています。この教会は一体、どの時代の教会をさしているのか、私には、今ひとつわからないところもあるのですが、
しかし、私がわかろうと、わかるまいとあまりたいしたことではありません。主が
知っておられる、そのことに意味があります。
主は「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている」といわれます。
ぴったりあてはまるかどうかわかりませんが、共産主義の
政権下における、この「スミルナ」のような教会の話をよくききました。
ルーマニアの地下教会から、西側の国へ来て、共産主義の下にある地下教会の声を
語ったリチャードウオムブランド氏を通して、私達は、これらの教会について
ききました。
キリストのゆえに、職を、学校を追われ、また投獄さえ受けている多くの兄弟姉妹について
聞いたのです。
世界から見捨てられたようであっても、しかし主は
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」といわれています。
”しかしあなたは実際は富んでいる。”
これらの困難の中にいるクリスチャンに対して、主はしかし、「あなたは実際は富んでいる」といわれます。それで、私達は、人の視点による結論と、神の視点による結論は違う、異なるものであることが
わかるです。
上記共産主義の地下教会から西側に来たウオムブランド氏は、共産主義の迫害の下にある、
物質的には貧しい、しかし、霊的には富んで、麗しい教会について述べました。
ですから、私達は、人のいう「富むこと」と神の前に「富むこと」は違うことを知るのです。
”またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。”
さて、ここで、「ユダヤ人だと自称している」人々について書かれています。
一体ここで書かれているのは、どのような人々についてなのでしょう?我々はこれはどのような人々なのかをよくよく知るべきだと思われます。何故なら、短いほんの2章、2-3ページにしか過ぎない「7つの教会」に関する記事の中に2度もこの「ユダヤ人だと自称している」人々について書かれているからです。
ですから、この人々が終末の教会に関して大きな鍵となる人々であることが予想されるのです。
「ユダヤ人だと自称している」人々と書かれている以上、これらの人々は、「実際にはユダヤ人」ではないのに、しかし「自分達はユダヤ人だ」と自称している、そのような人々であることが、
予想されます。
このような人々が今の世界に実在するでしょうか?
結論からいえば、存在するといえる可能性があります。
何故なら;
*今、中東のイスラエルに住む人々、またアメリカ等で「ユタヤ人」だと
自称している人々は、三交社「第十三氏族」アーサーケストラー著によれば、
カザール人種の子孫であり、セム族である、アブラハムの子孫とは、
何の関係もない人々だからです。
*ノアの子供がセム、ハム、ヤペテであり、
それは、そのまま3つの人種の先祖であるといわれています。
すなわち、セム=黄色人種、ハム=黒色人種、ヤペテ=白色人種です。
アブラハムすなわち、ユダヤ人の祖先は、セム族ですが、今ユタヤ人と称している人々は明らかに、
白色人種(ヤペテ)であり、ユダヤ人とは縁もゆかりもないことがわかります。
彼等の一人、たとえば、キッシンジャーとかアンネフランクとかを連れてきて、「この人は日本人です」(日本人はセム族=黄色人種の一つである)と仮に紹介されたとしても彼らは色も白いし、外見も黄色人種とは、異なるので、とても本当には見えないでしょう。しかし逆に彼等を連れてきて、「アメリカ人です」「カナダ人です」と紹介されたとしたら、そこには何も違和感はありません。ですから、これを考えても確かに彼等は白人系なのです。
それなのに、「遺伝子を調べたら彼等はユタヤの子孫であることが判明した(!?)」などの嘘まで
つくり出して、このことを信じさせようとする人々、また悲しいことに
これをすっかり信じる愚かなクリスチャンもいるとのことです。
残念なことです。
「かえってサタンの会衆である人たち」
さて、聖書はさらに驚くべきことを書いています。
このように「ユタヤ人だと自称している人々」は、また「サタンの会衆」だと述べているのです。
これは本当でしょうか?
こんなことをいえば、「反ユダヤ主義だ」とか、すぐ騒ぎ出す人がいることは、よく承知していますが、我々が望んでいることは、ただ、聖書が真にいわんとしていることを正しくとらえたいということであって、特定の民族を「根拠もなく」非難することではありません。
しかし、はっきりいっておきますが、根拠があり、聖書がそういっているなら、彼等を
そのように、悪魔礼拝者であると呼びます。何故なら我々の根拠は聖書であり、聖書だけだからです。私達が望んでいることは、聖書のことばに忠実でありたいということであり、愚かで、
盲目で、「自分は聖書より、イエスキリストより、黙示録を書いたヨハネより、人道的であり」、
善良であると誤解している「偽善者」の尻馬に乗ることなどは全く望んでいません。
聖書は「ユタヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者」について明白に語っているのですが、
彼等はその聖書のことばを投げ捨て、誤った自分の義をたてたいため、「他人を非難する」ただの
愚か者です。
中東のイスラエルにいる彼等については、確かに「悪魔礼拝者」である可能性があります。
歴史を調べればすぐわかることです。
この民族の歴史を調べれば、彼等はイギリス、スペイン、フランス、ドイツ、ロシア、それこそ、
あらゆる国々から追い出されていることがわかります。
何故そうされたのか?それは、ろくに調べず、ものごとの裏をとることを知らず、すぐ言われたことを信じる、「全てのことを吟味せよ」とのことばに従わない愚か者たちのいうように「彼等は神の民だから迫害された」訳では決してありません。
彼等が、そのようにして追い出されたのは、または、彼等のいう「迫害」を受けたその理由は、
彼等が「悪魔的」だからです。彼等は、悪魔礼拝、儀式殺人等の
驚くべき罪をそれぞれの国において、行い、それゆえ、
それらの国々の民衆は、彼等と共に同じ国に住むことに耐えきれなくなり、それで、ユダヤ
人を追い出したのです。
そんなことを歴史をきちんと調べればわかることなのですが、愚かな盲目な人々は、メシャニックジューから聞かされた嘘を
うのみにします。
彼等がどのような人であるかは、プロテスタントの祖、マルチンルターが「ユダヤ人と彼等の嘘」の中で、詳しく述べています。
また、アメリカを、ヨーロッパ、イスラエルを支配している彼等の悪魔的な行いに関しては、
KKベストセラーズ「悪魔の13血流」フリッツ・スプリングマイヤー著や、集英社の「赤い盾」を始めとする広瀬隆氏の著作等に詳しいです。
「ののしられていること」
さて、主につくスミルナの教会の人々が「ユダヤ人だと自称している人々」からののしられていることがここに記されています。
このことばは非常に象徴的、暗示的、またものごとの真実を述べています。
今の時代においては、少しでもユダヤ人を悪くいうなら、非人道的、とんでもないことになっているようです。私達はもちろん、このんで、特定の民族を非難することを望むものではありませんが、
しかし、また反面「神のことばに混ぜ物を」入れるような愚を犯すつもりもありません。
水を混ぜ、うすめたウイスキーなりは、薄くて、酒本来の味がしない(らしい)のですが、
同じように混ぜ物をしたみことばは、本来の意味から薄められてしまっています。
私達は、聖書が「ユタヤ人と自称する悪魔礼拝者」について述べているなら、
それを薄めたりせず、みことばの語った通りをとらえていきたいと願っているものなのです。
くり返しますが、
このことばは非常に象徴的、暗示的、またものごとの真実を述べています。何故なら、
歴史を見るなら、多くのクリスチャン迫害に、この「ユダヤ人だと自称している悪魔礼拝者」がかかわっているからです。
最近の歴史を考えてみても、たとえば、18世紀のフランス革命を見てもその黒幕は、
「ユダヤ人だと自称している悪魔礼拝者」であることを研究者は述べています。
この反キリスト革命は、まさに悪魔的な革命であり、その中で、
ルイ16世国王、マリーアントワネット王妃は、首を切られて殺されています。
この革命の中で、教会の神父は、「キリスト教信仰を捨て去る」旨、宣言させられていきました。
また、ノートルダム寺院においては、「自由の女神」ということで、街角の売春婦が崇められました。
また、革命の中で、「徳の神」という名目で、ルシフアー崇拝が行われました。
この血に飢えた革命の中で真のクリスチャンは迫害されていったのです。
また、20世紀におきたロシア革命は、フランス革命の再現といわれています。
この革命政府のスタッフの90%は、ユダヤ人に占められています。
この無神論を旗印にした革命の真のねらいは、キリスト教撲滅であり、
この国の下で、多くのクリスチャンが迫害され、投獄され、命を失ったことは、
多くの人が知ることです。
共産主義とは、その発明者(といわれる)マルクスがユダヤ人であり、共産主義革命を起こした
レーニンも奥さんがユタヤ人だといわれるように、ユダヤ発のものです。
この国で迫害されたクリスチャンは確かに「ユダヤ人だと自称している人々」にののしられたのです。
このことは、この最初の共産主義の国ソ連から、共産主義を輸入した国々においても
同じ話です。
”10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。”
「苦しみを恐れてはいけない」というようにこの教会は、苦しみ、困難、迫害を通る教会です。
また、スミルナ(没薬)ということばもこれを予表します。
この苦しみ、困難はどこから、来るのでしょう?もちろん、悪魔から来るのですが、
しかし、この地上において、その悪魔の手先、手段となって、働く人々がいます。
それは誰か?この文脈の中で、聖書は、たった一種類の人々について語ります。
それは、「ユタヤ人であると自称し」「サタンの会衆である人たち」です。
ですから、歴史上のクリスチャンに対する多くの迫害は、彼等、「ユタヤ人であると自称し」「サタンの会衆である人たち」から来ていることを覚えて下さい。公にはそういわれていないでしょうが、これが本当の「教会史」なのです。
ユタヤの息のかかったロックフエラー等の援助するアメリカ神学校発の教会史には、真実はないことを
知りましょう。
”見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。”
ユダヤ人マルクスが発明した(とされている)共産主義の国、中国、北朝鮮等では、今でも
主につく人々が投獄されます。しかし、これは、試し、試験であることを知りましょう。
学校の試験を通せば、その人がちゃんと勉強しているか、いないか一目瞭然となります。
同じように、この試しの中で、私達の本当の心、忠実が試されます。
「死に至るまで忠実でありなさい。」
さて、私達がスミルナまたフイラデルフイアの教会の歩みをしようとする時、「死」に対して、
心を定める必要があることを知りましょう。
何故なら、彼等、「ユタヤ人であると自称するサタンの会衆である人たち」は、タルムードに書かれているように、クリスチャンの命を奪うことを願っているからです。そんなわけで、私達は、主に従うという時、自分は何を犠牲にすることができるのか、自問する必要があるかもしれません。
スミルナの教会に関して、主は「死に至るまで忠実」であることを語っています。
それで、
私達は、この教会の歩みをしようとする時、自分は「死」に対して、どのように対応するのかどうか、
前もって心をきめる必要があることがわかります。
すなわち、自分の肉体の命を失っても主に従うつもりがあるのかどうかということです。
今の時代は多くのことがらに関して誤った教え、考えが行き渡っている時代です。
こと肉体の命をどう扱うかと言うことに関しても同じように間違った教え、考えがあるかもしれません。
聖書は明らかに肉体の命に関して、これは、一時的なものに過ぎないことを述べています。
「肉体をころしても魂を殺し得ない者を恐れるな」と述べています。
この肉体の命は、最終目標ではないし、結論ではないし、また最善、至高のものでもないと述べているのです。
他の箇所では、以下のように書かれています。
”ヨハネの福音書 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。”
ここでは、私達のこの世での命が、ひと粒の麦にたとえられています。そして、この命、ひと粒の麦が
死ねば、「豊かな実を結」ぶことについて書かれています。
そのようなわけで、私達は聖書的な生死感を持つべきであることがわかります。
”そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。”
ここで「いのちの冠」について述べています。肉体の命を第一にするというより、この命、永遠の命こそ、クリスチャンが目標にすべきものです。
このことを正しくとらえることは、今の時代、必要なことだと思います。
たとえば、将棋は、「王」を取るゲームです。途中で、飛車や角をとられたら、形成不利になるかもしれませんが、負けとはいえません。要は最後に「王」を取れば、これは勝ちなのです。
同じ意味あいで、クリスチャンの目標、ゴールは「永遠の命」を得ることであることを聖書はくり返し、くり返し述べています。
投獄や殉教は、人間的に考えるなら、できればしない方が良いのかもしれませんが、
しかし、私達が大事にすべき問題、結論は、肉体の命ではなく「永遠の命」であることを思い出しましょう。
「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とのことばは、正直考えさせる文章です。「死に至るまで忠実で」あることと、「いのちの冠を与え」ることが、
ワンセットになっているように読めるからです。
ということは、不忠実な者は、命の冠、すなわち永遠の命が危ないのか?
そうですね、安易なことや、結論めいたことは、私にはいえないのですが、とりあえず言えることは、
私達は正しい目標、もっとも大事なものをとらえ、それから目を離してはいけないということです。
「命に至る門は狭く、それを見い出す者はまれ」といわれたなら、なにはともあれ、命、永遠の命を得ることに目標を定めなければならないということです。王様より、飛車や角を大事にする人の将棋は、へぼ将棋と呼ばれ、将棋の本質がわかっていないと笑われます。もし、私達が聖書で何度となく、強調されている、「いのち」に目標が定まっておらず、惑わされているなら、それと同じ間違いを犯していることになるのです。
”11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。”
ここで書かれている「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」とのことばも暗示的です。このスミルナ教会の人々が、第一の死、すなわち、肉体の死を経験することが暗示されているようにも見えるからです。
そのようなわけで、私達が、スミルナの教会の道を歩むつもりなら、肉体の死、殉教を考慮しなければ、ならないように思えます。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー