今は亡き友へ [2006年01月17日(火)]
親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう二十年になります。 これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。 私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。 人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。 この二十年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。 そして今、私はこの翼で大空へ翔(と)び立とうとしています。 誰(だれ)よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。 私は精一杯やってみるつもりです。 あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。 こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。 また逢える日を心待ちにしております。 最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。 翼のはえた“うし”より 11年前のこの日、神戸の友人加藤貴光君が亡くなりました。 阪神大震災の犠牲者6434人/日本の全人口1億2775万7000人=0.005% 日本では、単純計算で0.1%の中の5%の確率でしか出会わない震災犠牲者の1人が加藤君だったのです。 当時私は、「生きる」とか「死ぬ」ということがどういうことなのか、全然わかっていませんでした。自分の身近なところで「命」の重さについて、実体験することがなかったからです。 震災のことが記事になるたび、 「生きている」ということに対する責任を感じます。 失敗も成功も、彼の分まで「生」を謳歌したいと思います。 それが、命あるものの使命だと思います。 加藤君と震災犠牲者の皆様のご冥福をお祈り申し上げます。 ****** 以下、これまでに掲載された新聞記事の抜粋です。 阪神大震災で死亡 息子紹介する本胸に 安佐北の加藤さん、あす被災地へ=広島2005/01/16, 大阪読売新聞 朝刊 「世界平和を作り出す一翼を担いたい」。広島市安佐北区出身の加藤貴光さんは、ジャーナリストの落合信彦さんに触発されて国際情勢に興味を持ち、国連職員を目指したが、阪神大震災に被災し、二十一歳の若さで亡くなった。あれから十年。母、律子さん(56)は、一人息子を取り上げた落合さんの著書を胸に、「1・17」の被災地に向かう。 「国と国との信頼関係を作るのは人と人。だから、一人でも多くの人と話したい」。一九九三年に神戸大法学部に進学した貴光さんは、国際交流を目的に各国の学生が集まる「国際学生協会(ISA)」の活動に参加。九四年にはソウルで韓国の学生と交流し、ISA神戸支部長も務める国際派だった。しかし、あの日、兵庫県西宮市の倒壊した自宅マンションのがれきの下で息絶えた。 「心の傷にふたをしようとしても、悲しみが一瞬にして噴き出してしまう」。律子さんはそう話す。悲しみは癒えないが、それでも息子を縁にした人との出会いが支えてきた。落合信彦さんもその一人。 入学直後、大学生活の意味を見失いかけた貴光さんが、大阪で毎年開かれる落合さんの講演を初めて聞き、直後に自宅に電話をかけてきた。「『二十代は冬の時期。そこで土壌を肥やさないと春に花は咲かない』と話していた。霧が晴れたよ。落合さんに自分のリポートを読んでもらえるよう勉強するよ」。興奮した息子の声を母は今も鮮明に覚えている。 律子さんが「貴光のことを落合さんに知ってほしい」と、筆を取ったのは二〇〇二年五月。「落合さんの存在が生きる糧となり、精いっぱい生きた“加藤貴光”という一人の青年が、この世にいたことをどうか心の片隅に置いてやって下さいませ」。十数枚の便せんと、貴光さんが日韓の歴史観について書いたリポートなどをその年の大阪での講演前に事務局に託した。落合さんは、講演の開始時間を遅らせてまで目を通し、講演中には「感動的な出会いがあった」と貴光さんのことを紹介した。 数日後、落合さんから電話があり、「素晴らしい学生でしたね。私も断腸の思いです」と言葉をかけられ、昨年四月に出版された著書「崖(がけ)っぷちで踊るヤツすくむヤツ逃げるヤツ」(青春出版社)では、貴光さんのリポートや律子さんの手紙などが約二十ページにわたって紹介された。 「ようやく自分のことを見つめることが出来るようになった」と言う律子さんは、昨年九月から市内の在宅ケア関係のNPOで働き始めた。十七日には、貴光さんが一番輝いていた神戸大キャンパスを訪れるつもりにしている。 阪神大震災7年 国連職員めざしていた友よ…夢は僕が継ぐ 神戸大院生、遺族に誓う2002/01/17, 毎日新聞 夕刊 ◇来年秋渡米、慰霊碑前で遺族に誓う 国連職員になることを夢見ていた学友の遺志を継ごうと、神戸大大学院生の村上友章さん(27)=兵庫県宝塚市=が、阪神大震災から7年となる17日、神戸市灘区にある同大学の慰霊碑前で、誓いを立てた。「夢は僕が引き継ぐ。21世紀を戦争の世紀にはさせない」。震災直後、内戦の傷跡が生々しいユーゴスラビアを訪れ、犠牲になった学友のマンションのがれきを埋めて追悼した。その時から温めてきた思いだった。村上さんから誓いを伝えられた亡き友の母親は「息子が抱いていた平和への思いをぜひ伝えてほしい」と語った。【内田達也】 (以下略) 阪神大震災で死亡した神戸大学生の母 新ユーゴの子らをヒロシマへも招待 1997/12/27, 毎日新聞 大阪朝刊 阪神大震災のがれきが、新ユーゴ(ユーゴスラビア連邦共和国)の子どもたちのヒロシマ来訪を実現させた――。広島市安佐北区の主婦、加藤律子さん(49)が「ユーゴと神戸の被災児たちをよぶ広島の会」を結成した。一人息子の貴光さんが神戸大2年の21歳の時、阪神大震災で倒壊したアパートで死亡。そのがれき片を新ユーゴの桜の根元に埋めた貴光さんの親友が来年3月、新ユーゴから子どもたちを日本に招くことを知り、広島にも招待することにしたのだ。 親友は、貴光さんと同じゼミで学んでいた兵庫県宝塚市の神戸大大学院生、村上友章さん(23)。震災から1週間後に貴光さんの死を知り、「形見に」と、アパートのがれき片を拾った。 村上さんは震災直後の1995年3月、新ユーゴの市民が被災児23人をホームステイに招待した際に参加。「国境を超え、若者が理解と信頼を深める交流を重ねることが大切だ」と話していた貴光さんも一緒にと、がれき片をポケットに入れ新ユーゴに持参した。 そして首都のベオグラードでの植樹祭の時、1本だけあった桜の苗木を選び、「貴光君の気持ちを咲かせたい」との思いを込めて根元に埋めた。この記録を偶然、目にし、“がれきの物語”を知った加藤さんは大感激。村上さんと面識はなかったが、すぐに村上さん宅を訪れ、礼を述べた。 村上さんらは来年3月、ホームステイのお返しに新ユーゴの子ども23人を神戸に招く計画を進めているが、子どもたちは原爆が投下された広島の訪問を希望。そのことを村上さんから聞き、加藤さんは手助けすることにしたという。 「広島の会」は加藤さんの友人の詩人、主婦らが参加。震災で被災した神戸の子どもとともに広島に呼び、2日間の日程中、原爆ドームの見学や運動会などの交流行事を企画している。 加藤さんは「新ユーゴの子どもたちには、震災から立ち上がろうとしている神戸の様子や、被爆から復興した広島の活気を肌で感じてもらい、紛争の後遺症に悩む祖国に希望と勇気を少しでも持って帰ってもらいたい。きっと、貴光も喜ぶでしょう」と話している。 【栗田愼一】 阪神大震災犠牲者44人へ追悼手記、学生新聞で特集 神戸大生/兵庫 1996/01/24, 朝日新聞 朝刊, 神戸大合同慰霊祭 1人1人の死が実を結ぶこと信じて/阪神大震災 1995/03/18, 大阪読売新聞 朝刊, 31ページ, ◆「きょうが卒業式」◆ 白菊とスイートピーに囲まれ、四十一人の遺影がほほ笑みかけていた。様々な夢と志を持った学生らを突然襲った悲劇から二か月目の十七日、神戸大で営まれた合同慰霊祭。ありし日の姿をしのび、手を合わせる人の列が絶えなかった。 (中略) 式には〈生〉への感謝の手紙を残した法学部二年加藤貴光さんの遺骨を抱いた母律子さん(46)(広島市安佐北区)の姿もあった。 国際ボランティアの夢を持ち、日本国際学生協会神戸支部委員長だった貴光さんは、昨年の広島アジア大会でひたむきなモンゴルの野球チームに感激し、今夏モンゴル訪問を計画していた。高校時代は生徒会長、大学ではボランティアグループのけん引車。 律子さんは、「今日は、彼の卒業式のつもりです」と話し、ほほ笑む祭壇の遺影に「天国でも、リーダーシップを発揮しているんでしょう」と語りかけた。 (・・以下省略) 震災死の神戸大生、母への手紙 広がる感動の輪 遺族に激励の手紙/広島1995/03/10, 大阪読売新聞 朝刊, 31ページ, ◆パステル画も◆ 阪神大震災で亡くなった神戸大法学部二年、加藤貴光さん(21)が生前、母親に「あなたにもらった翼で大空へ翔(と)びたちます」と感謝の気持ちをつづった手紙に、感動の輪が広がっている。手紙を紹介した二月一日付本紙朝刊を読んだ全国の読者らから「親子のきずなの強さを教えられた」などと百通近くの励ましの手紙が遺族らに寄せられ、神奈川県平塚市の画家桐本美智子さん(54)は手紙に天使が花を添えているパステル画を贈った。 貴光さんは広島市安佐北区口田四、会社員宗良さん(44)と律子さん(46)の一人息子。 神戸大に入学時、付き添った律子さんのポケットに手紙をしのばせた。「親愛なる母上様」で始まり、二十年間育ててもらった礼を述べ、「あなたを母にしてくれた神様に感謝の意をこめて」と結んであった。 本紙が全文を紹介した後、日本テレビや平塚市のFM局「湘南ナパサ」などが取り上げた。番組にゲスト出演した桐本さんは、母を思う貴光さんの純粋さに打たれ、A3判の画用紙に手紙のコピーの周りで花を抱える三人の天使を描き、律子さんに贈った。神奈川県厚木市の青少年会館はこの絵を「親子関係を考える」教材にするという。 このほか、遺族らには〈体が不自由なことから母に反感を持っていましたが、手紙は私に感謝の心を教えてくれました〉などと感動を伝える手紙が次々に寄せられた。 桐本さんの絵を手にした律子さんは「貴光がこの世に存在したことが形で残ったことになり、うれしい。震災から一月半、泣く回数は減りましたが、寂しさは募るばかりなので、励みになります」と話している。 阪神大震災 犠牲の神戸大生39人 地震につぶされた夢 祖国を狙う留学生も1995/02/01, 東京読売新聞 朝刊, (中略) 法学部二年加藤貴光さん(21)(広島市)は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さん(44)はたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑(うし)年生まれで愛称は「ウシ」。荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん(46)。 大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙=別掲=を忍ばせたという。母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。 >その手紙の内容が、冒頭のものです。 |