桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への手紙 -エルサレムの歴史的意味-
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新年早々、思いつくままに記してみます。
イスラエルは、和平交渉中であるにもかかわらず、昨年末に、パレスチナ自治区のガサ地区(イスラエル西部の地中海沿岸に面する一部地域)を空爆し、今度は、新年早々、空爆に支援されつつ、約1000台の戦車でガサ地区を攻撃・包囲しました。規模からして、それは、完全に戦争です。中東は、歴史的に見ても、戦争の絶えない地域です。背景には宗教の違いがあります。
歴史的に見れば、紀元前に、イスラエル王国が栄えた時期もありましたが、やがて崩壊し、その後、ユダヤ人が住むパレスチナとして、宗教的にも、重要な位置を占めてきました。しかし、1947年に、イスラエルが建国され、従来の住人の一部は、特別な地域(ガサ地区及びイスラエルとヨルダンに挟まれたヨルダン川西岸地区)に追いやられ、そこが今日のパレスチナ自治区になりましたが、あくまでも自治区に過ぎず、独立国ではありません。
たとえるならば、イスラエルがパレスチナ本家を乗っ取り、イスラエルとした国土の特定の地域に、従来の住人の一部を同一敷地内分家を作って追いやりましたが、宗教観と政治的条件の相違から、両家のいざこざが絶えず、親イスラエルの米国がクリントン政権の時に仲介し、和平交渉を開始しましたが、それから約8年経っても、まだ、共存条件は、達成できず、それどころか、過去にない大規模な戦争に突入しました。
むかし、いまのイスラエルの北部に、ナザレという村があり、イエスは、そこで誕生し、途中、紆余曲折はありましたが、やがて、ヨルダン川西岸を南下して、さらに、西に向かい、南部中央地区にあるエルサレムに向かいました。エルサレムは、宗教的に、歴史的に、宗教の聖地として、絶大な権力を有していました。エルサレムはイスラエルとパレスチナのヨルダン川西側地区の境界にまたがっており、イスラエルとパレスチナの共有地とされています。もちろん、両者とも、自身の物と主張していますが・・・・・・。イエスの"最後の晩餐"はエルサレムの城壁内の施設で行われました。そして、イエスは、翌日、城壁外のゴルゴタの丘で十字架刑になりました。
いまのイスラエルとパレスチナ自治区は、特に、エルサレムは、イエスに関係している、世界的にも、歴史的にも、絶対に犯すことのできない聖地ですが、それだけに、実際には、ローマ帝国の紀元前の時代から、もちろん、紀元後も、宗教上の権威の象徴として、激しい争奪戦が展開されてきました。十字軍戦争もそのひとつです。
いまのイスラエルとパレスチナの戦争を見ると、キリストへの視点からして、見るに耐えない蛮行であり、一日も早い解決がなされることを祈るばかりです。
桜井淳
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