目の不自由な人に知識をもたらし、社会参加への道を開いた点字。発明者のルイ・ブライユ(仏、1809~52年)が生まれて、今日1月4日で200年になる。ブライユの点字は現在、世界中で用いられている。日本では明治中期、石川倉次(1859~1944)によって「日本点字」に作り直され、今では地域の学校でも全盲の子どもが点字を使って、目の見える友達と一緒に学んでいる。「点字の父」ブライユの足跡をたどり、点字が果たしてきた役割と価値を見つめなおしたい。
バスから降りて曲がりくねった道を歩いて行くと白い壁の一軒家が現れた。「ルイ・ブライユ博物館」の小さな表札がなければ誰も気付かない。200年前も今も変わらぬ、フランスの小さな村の普通の家だ。しかし、世界中の盲人たちの文字への光明はこの家から生まれた。
ルイ・ブライユはパリ東郊40キロのクーブレ村のこの家で生まれ、育った。ブライユの父は村で代々続く馬具職人で、博物館の1階には当時の作業場がそのまま保存されている。悲劇はそこで起きた。ブライユが3歳の時、両親の留守中に皮を裁断するナイフで遊んでいて手が滑り、刃が片目を貫いた。その後、感染症のため彼は5歳で両眼の光を失った。
博物館の案内係、べネディットさん(60)によると、ブライユの家庭は村の中産層で、両親は当時としては珍しく共に読み書きができ、ブライユを村の普通の小学校に通わせた。彼は優秀な児童で、村の篤志家の支援もあって10歳の時、バランタン・アユイが創立した世界初の盲学校、パリ国立盲学校に入学した。
盲学校では当時、アユイが考案したアルファベットを浮き立たせた線文字を使っていたが、これは読むことも難しく、書くことは不可能だった。やがて、陸軍大尉シャルル・バルビエが盲学校を訪れ、彼が夜間に情報を伝達するため考案した、フランス語の音を12の点と線の組み合わせで表した暗号の一種「ソノグラフィー」を紹介した。
ブライユは強い興味を示し、盲人が解読しやすいよう点の数を減らし、音でなく文字そのものを表すよう工夫を重ねた。そして1824年、15歳のときに6点からなる点字を考案した。現在の「ブライユ点字」の原型だった。博物館の2階にはブライユの肖像と共に3種類の点字の資料などが展示されている。
彼は19歳にして盲学校の教師に任命され、ブライユ点字で生徒たちに教えた。しかし、盲学校は彼の点字を公式には認めなかった。べネディットさんは「ブライユ点字は盲人以外には読めず、健常者との間に壁を作るとの抵抗が強かったから」と説明する。
ブライユには「最高位の勲章レジオン・ドヌールを贈る提案があったが、盲人であるとの理由で見送られた。友人たちは代わりに彼の点字に『ブライユ』の名を冠することで讃(たた)えた」との逸話もある。
いずれも19世紀に盲人の置かれた厳しい状況を示しているが、「盲学校でブライユ文字は日常的に使われており、唯一の公式文字認定に時間がかかっただけ」の声もある。ブライユは控えめな性格で、自身の不運は一切記録には残していない。
パリ盲学校が正式に認めたのは考案から20年後の44年だった。そのころ、彼の持病の肺結核は進行しており、52年に死去。仏政府は2年後、ブライユ点字を公式に認め、死後100年に当たる1952年、遺体はクーブレ村からフランス中の国民的英雄の遺体が納められているパリのパンテオンに移された。
博物館の中庭にある大理石の板にはこう記されている。「彼は見ることのできない人々に知識の扉を開いた」【クーブレ村で福井聡】
パリにあるバランタン・アユイ協会のフランソワーズ・マドレイ・ルシーニュ事務総長(71)に、ブライユ生誕200年の意味など聞いた。【パリ福井聡】
--ブライユ点字はどう広まったのか。
◆彼は1824年にブライユ点字を発明し、教師をしていたパリの盲学校の授業で使い始めたが、バルビエの点字も同時に使用された。いくつかのシステムがあっていいとの考えからだった。
1878年の伊ミラノでの盲人会議を機に英国、ドイツなどヨーロッパ全体に広がった。ブライユ点字の最大の利点はどの言語にも応用できる点で、欧州から米国、そして日本にも広まった。ブライユの遺体がパリのパンテオンに移された1952年ころには、ブライユ点字は国際的な地位を確立していた。
--ブライユはどんな教師だったか。
◆教えるだけでなく生徒が学ぶことを助けようとする教師だった。仏語、数学、歴史、科学、音楽など多くの教科を教え、疲れを知らない勤勉な教師だった。彼はまた数学や楽譜用の点字も発明し、教会でオルガンとピアノを弾いていた。
--結婚は?
◆彼は生涯独身だった。当時、盲人の大半は病院で暮らし、病院は原則結婚を許していなかった。盲人男性と健常女性の結婚が始まるのは20世紀に入ってからで、盲人女性が結婚できるようになったのは1950年代になってからだ。盲人学校は男女別学で、ブライユたちが女性に会う機会はほぼなかった。
--この200年の間のブライユ点字の発展の歩みは?
◆最初の100年間の最大の功績は、ブライユ点字の誕生によって初めて、盲人の中に知識人が生まれたことだ。それ以前は盲人が書に親しむ機会はなかった。また、パンテオンに遺体が移されたことが、フランス中のすべての人々の盲人に対する意識に大きな変化をもたらした。
次の100年での大きな変化は、盲人用のコンピューターが開発され、盲人も自由にネットを利用できるようになったことだ。多くの人はコンピューターの音声がブライユ点字に取って代わるのではないかと考えたが、違った。ブライユ点字はコンピューターのタイプでも使われ、今も盲人の日常に生き続けている。
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1854年 フランスのルイ・ブライユ(全盲)考案の6点式点字がフランスで公式文字として認められる
66年 わが国に初めて点字が紹介される
90年 東京盲唖(もうあ)学校が同校教員、石川倉次翻案の「日本点字」案を採用
1901年 官報で石川案を「日本訓盲点字」として公示
22年 大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)が「点字大阪毎日」(現・点字毎日)創刊
25年 普通選挙法公布。キャンペーンの成果で点字投票が認められる
28年 全国盲学校雄弁大会(現・全国盲学校弁論大会)創設
29年 文部省、初の盲学校用点字教科書「初等部用国語読本」発行
43年 「点字毎日」に改題
55年 ヘレン・ケラーが「点字毎日」を視察
61年 盲人用郵便物無料化
70年 著作権法改正、点訳図書出版は著者の許可なしにできることに
73年 司法試験の点字受験認められる
79年 共通1次試験で点字試験採用
91年 初の国家公務員試験(1種・2種)点字試験実施
98年 参議院本会議の総理大臣指名と議長、副議長選挙で国会史上初めて点字投票が認められる
99年 天皇、皇后両陛下が「点字毎日」ご視察
05年 「点字毎日音声版」創刊
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毎日新聞社は、新聞社としては世界でも例のない点字新聞「点字毎日」(週刊)を発行している。創刊はラジオ放送もなかった1922年で、全盲で初の英国留学を果たした中村京太郎が初代編集長に就任。第二次世界大戦中も発行を続け、視覚障害者へ貴重な情報提供手段となった。
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■人物略歴
全盲の社会言語学者。トゥールーズの普通高校で最初の盲人教師、モンペリエ大学教授、ルーアン言語学研究所所長を経てフランス国立科学研究センター(CNRS)のディレクター。
毎日新聞 2009年1月4日 東京朝刊