鰤端末鉄野菜 Brittys Wake このページをアンテナに追加 RSSフィード

You have eaden fruit. Say whuit. You have snakked mid a fish. Telle whish.

鰤端末 書庫 Wikimedia関係日誌 これは誰?

2009-01-06

[][][] 精神を病んだ人がネットを使うということ

昨日まとめた 「配偶者がうつ病になったときにするべき、たった一つのこと」へのコメントとお返事 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wakeで、精神を病んだ人がネットを使うということについて、自分の経験から簡単に触れた(わたしは死別反応に伴ううつ状態のため、投薬と面接による通院治療を数年間に渡って受けたことがある)。それが、やや否定的な評価であることからか、ブックマークコメントで軽い反論のようなものを二三いただいた(一例)。

わたしは基本的に面識のない他人に助言はしない。可能性を示唆することはあるが、効果的な助言というのは本人を知り状況を知り自分がなんらかの知識を有する局面でしか出来ないものだと思っている。いっぽうで、自助グループの経験を通じて、個人的な状況を語るということの効果も、他人のそれを聴くことの効果も知ってはいる。なので、個人的な経験の共有に留まる限りでは、ネット上でやりとりすることにも意味はあるだろうと思っている。

だから、わたしも少し自分の体験に触れてみようと思う。すべてを書くわけではない。それはまだわたしのなかに十分に結晶化され、無毒化されてはいない。だから、書けない。ブックマークコメントでいった「呪詛」とはこのことである。その一部はウィキペディア日本語版と関わっており、それが私にあのコミュニティに曖昧な態度を取らせていることは確かである(すべてが唾棄すべきものとも思っていない、純粋な悪も純粋な善もこの地上には珍しいのである)。少なくとも、一部の人々は、わたしがまだ自死遺族であることを公にはせず、なので自分の身元を大幅には公開していなかったときに私の本名を暴くことに熱心だったし、あるいは私がプロジェクト内で公開していた写真に性的な意味をもつAAを組み合わせるなどの辱めを行って恥じることがなかった。また私にとってより重大なことに、それを公然といさめる人も当時日本語版のコミュニティにはいなかった。わたしがあのコミュニティに温かい気持ちをあまり持たず、活動の中心をいよいよ他の言語へ遷していったとしても、それはお互い様だろう。そういうときに、わたしの怒りや嘆きを受け止め、わたしの悲しみに寄り添ってくれたのは、Jimmy Wales や Anthere こと Florence Devouard をはじめとする国際的なコミュニティの仲間達であり、またごく少数の日本語版ユーザだった。彼らがいなければ、わたしがウィキメディア・プロジェクトに踏みとどまることはなかっただろう。

閑話休題。

わたし自身も、ネット上の自死遺族コミュニティに二三御世話になっており、そこで得たいろいろな体験がその余には換え難いものであることを知っている。精神を病んでいる人がネットコミュニティにかかわることを、わたしが全面的に否定しないのも、そういうネットコミュニティで得た、いろいろな、多くはポジティブな経験が根底にある。ただ、そのようなネットコミュニティでの経験は大きな危険と隣り合わせであることも強調したい。上で書いたようなネット上での心ない攻撃や中傷は、心が弱っているときには大きな試練となった。不眠が悪化したことも何度かあったし、またそこでいわれたことがショックで家からまったく出られない日が数日続いたこともしばしばあった。そうして、そこでいわれたひどいことがらには、私への中傷だけではなく亡夫への中傷さえあった。なかにはウィキペディア日本語版を攻撃するためだけに、プロジェクトとは何の関係もなくその人たちが会ったこともない亡夫にいわれのない中傷をする人々もいたのである*1

ネットでの一握りの慰めを得る代償として、どれだけの血をわたしの心が流したか、それを私は考量したことはない。これからもすることはないであろう。おそらく答えのでるものではないし、答えが出たとしても過去の自分の助けにはならないから、それは現在のわたしにとっては意味のない問いである。他の方にはもっと役に立たないだろう、畢竟それはわたし個人の体験である。ネットに関わる人は、みなそれぞれに自分でその危険と利益とを考量するべきなのだ。あるいは責任能力のない、未成年者や制限行為能力者であれば、その保護者や後見人が。

わたしはいま現在自分がこのようにあることを後悔してはいない。しかし数年前の自分に助言を求められたなら、いくつかのウェブサイトには書き込みをしないこと、それ以上に閲覧しないことを答えるだろうとは思う。難しいのは、そうしたウェブサイトには、かけがえのない人間関係をもたらしたものも含まれるだろうということだ。ただ、冷静に自分の過ごしたこの数年間を振り返れば、ウェブサイトの閲覧から受けた精神的なダメージのおかげで自分自身のグリーフワークは複雑化し、やや困難な仕事になっただろうということを否定できないだろうとは、思っている*2精神を病んでなおネットの悪意に直面するということ、そのことは、健康である場合に増して、甚大な結果をもたらすリスクを伴う行為である――そしてその危険はネットがまさに現実の一部だからこそリアルな危機として現し身を備えた己の心身に及びうる――ということは、自分の体験からではあるが、云っても許されるかなとは思っている。

Inspired by:

関連エントリ:

[] 速読狂時代

「知らないと損する英語の速読方法」というエントリが注目を集めている。三部に渡る大作である。(1)だけ読んだ限りでは、わりと王道だと思った。

トニー・ブザンの Rapid Reading を参考にしているようで、とすると他の本でも紹介されている方法かなと思う。ブザンの方法は、いくつかの技法の組み合わせからなっていて、よいやりかただと思った。わたしが読んだのは確か Use Your Head である。

Use Your Head

Use Your Head

  • 作者: Tony Buzan
  • 出版社/メーカー: BBC Active
  • 発売日: 2003/05/08
  • メディア: ペーパーバック

そのうちの幾つかのやり方――ペンなどをガイダンスにして読む――というのは速読が特に必要でない場合にも有効かと思う。さらに、英語速読法の訓練としてブザンの本を読むのもありかな、と思う。

ただしid:kousuke-iさんの方法は、人を選ぶと思う。まず1)怠惰な人には向かない。この手の速読法訓練はわたしも二度ならず試みたことがあるが、いずれも挫折した。ちなみにわたしは毎年ダイエットにも挫折している。今年は「毎朝日のあるうちに30分外に出る」という目標を立てたが、三が日終わらない前に挫折した。つまり決まったことを毎日するのがとても苦手なのである。そういう私にはあの手の緻密な練習法は向かないらしい。でもやりとげられればかなり早く読めるのだろうとは思う。現に、やってみたらすこうしだけだけれど読むのが前より速くなった。気がする。じゃないかな。なので皆様はがんばってください。もっともある程度努力し時間を割かなければ、言語習得というのは無理だというのは以前書いた

次に2)ある程度英語がすでに読める人でなければ向かない。というより、薦められているやり方では、大学入試レベルの英語が辞書なしで読める――つまり相当の上級者でなければ、速読の訓練がそもそも成り立たず、また読んだものも頭に入らないだろうと思う。クラッシェンの第二言語習得理論には「N+1仮説」と呼ばれるものがあって、曰く学習者のレベルを少しだけ上回る教材を使うときにのみ、効果的な習得が起こるという。kousuke-iさんの方法を、初学者やあるいはまだ基礎が十分でない人が、自分の実力を超える教材で試すと、効果があがらないだけでなく学習意欲の減衰をも招くのではないかと危惧する。

とはいえ速読が必要な方にとって、言及されている訓練法がかなり有効であることは推測に難くない。またわたしが挙げた二番目の難点については、適切な教材を選ぶことで、かなり回避できる。

そこでkousuke-iさんの方法を実践して速読の訓練に乗り出す方に、私からおすすめしたいことは二点ある。まず1)上述の速読法訓練を試すなら、自分の言語習得レベルにあっているかどうかを検討するのがよいだろう。大学受験の長文読解問題が、辞書なしには読めないレベルであったら、残念ながらまだ時期尚早かと思う。そういう方には、以前このブログでも言及した「対応する日本語文を読んだあとで、長文を読む」タイプの訓練のほうが向いていると思う(この訓練法については松永さんのエントリ「訳すな、構造を理解せよ、そして、とにかく長いのを読め[絵文録ことのは]2008/12/26」が詳しい)。一方、300ワードほどの文章にひとつかふたつ分からない単語や句が出るレベルなら、そろそろ速読法の訓練を試してもよいだろう。ただしその場合も、外国人学習者向けに、使用単語を制限した教材を使うほうが特に学習初期には効果的かと思うし、人によっては逆に精読の訓練(以前に「訳すな、頭から読め」で紹介したような)がかえって有効であるかもしれない。

次に2)本気で速読法の訓練をしたいなら、日本語等あなたの母語でも同じ訓練をしたほうがよい、ということだ。逆にいうと、母語で一定以上のスピードで読める人なら、とくに特殊な訓練をしなくても自分の言語能力に相応の速さで、外国語の文章を読むことが出来る。前にも述べたことだが、外国語の運用能力は母語の運用能力を決して上回ることがない。これは速読の場合も同様である。

なおわたし自身はあまり速読ということを意識して行わない。とはいえ、たまに大量のものをよむ必要はあって、その場合には立花隆さんの方法を用いている。氏の、ある書評本で紹介されていたのだと思うが、各段落の第一文ないし第二文までを読むというものだ。これにトニー・ブザンの棒やペン等のガイダンスを使って、読んでいる文をなぞるようにして追うという方法を併用することもある。これだけでも、かなり速くスキミング(要点だけを読むこと)が出来る。ご関心のある向きは、いちどお試しを。

関連エントリ:

*1:そうした攻撃は、実はなお、いまでも続いている。回復してきた今では私はそれを無視できるが、そこに至るまでには、多くの有形無形の支援を必要とした。名を挙げることはあえてしないが、改めてここでお礼申し上げる。

*2:なお、このことはネット外には危険がないことを意味しない。以前のエントリ「悪意と希望」では、亡夫の死後、まだ死別反応の続いていた時期に痴漢の被害にあったことで恐怖等からしばらく外出できなくなったことについても簡単に述べている。