
《13》男子サッカー・大久保嘉人
小嶺忠敏国見高総監督(上)
競争の中で一歩一歩進化
感慨深いものがある。3月のアテネ五輪アジア最終予選。アラブ首長国連邦(UAE)ラウンドでU―23(23歳以下)日本代表から漏れ、日本ラウンドでは黒星発進したチームを、その後の2試合で3ゴールを決めて救った大久保。その五輪世代のエースを育てた6年間の記憶を、小嶺はゆっくりとさかのぼった。
「嘉人は中学時代から知っている。平山相太(国見高―筑波大)と同じように、ここまで成長するとは誰も思わなかった。五輪代表チームの柱にまでなるとは…」
1993年にJリーグが誕生。そのとき、小嶺を危機感が襲った。プロが傘下のユースチームを強化し始めたのに伴い、九州の選手が本州に行く現象が起きたのだ。「これではいけない」と小嶺は動いた。95年6月に中学生向けのサッカー教室「オールナガサキ小嶺フットボールアカデミー(NKA)」を設立。狙いは、長崎県内の子どもたちのレベルを向上させることだった。
約60人の中学生を毎週月曜日に国見高に集め、同高コーチらの下で練習させた。このアカデミー1期生に中学1年の大久保がいた。福岡県苅田町出身だが、「うまくなりたい」と地元に下宿しながら国見中に通い、NKAの門下生となっていた。小嶺の中学生を育てたいとの強い意志と大久保のサッカーにかける固い決意が偶然にも2人を引き合わせたのだ。
「第一印象は体が小さく、すばしっこい選手と思った。FWなのにボールを取られたら、DFまで下がり、とことん追っかけていた」
負けず嫌いな性格は、他のチームの選手と競い合う環境に適していた。進化の軌跡を少しずつ残していったが、中学時代は並の選手だった。それでも、小嶺に迷いはなかった。NKAでも国見高に進んでも、一貫して長所を伸ばすことだけに集中させた。それはスピードあるドリブルに磨きをかけることだった。
「1人抜いただけでは満足させないようにした。1人抜いたら次は2人。2人抜けば3人と、彼の良さを引き出すよう努めた」
中学時代に小嶺と出会ったことが、大久保には幸いだったに違いない。黙々とその指導に付いていくうちに技術が磨かれ、高校2年になるとトップチームに昇格。だが、まだ大きな課題があった。それは天性の闘争心をいかにプレーに結び付けるかだった。 (敬称略)
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▼大久保 嘉人(おおくぼ・よしと)1982年6月9日生まれの21歳。福岡県苅田町出身。昨季Jリーグ1部24試合に出場し日本人選手最多タイの16得点。フル代表では通算15試合で無得点。168センチ、61キロ。
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