先日、苅谷剛彦さんと対談したときに、日本のように「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が1億以上」というような市場をもつ国は世界にほとんど存在しない、ということを指摘していただいて、「ほんとにそうだよな」と思ったことがある。
「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が一億以上」いるということは、言い換えると、「日本語を解する読者だけを想定して著作や出版をやっていても、飯が食える」ということである。
日本人が「内向き」なのは、要するに「内向きでも飯が食える」からである。
「外向き」じゃないと飯が食えないというのは国内市場が小さすぎるか、制度設計が「外向き」になっているか、どちらかである。
どうしてそんなことを考えたかというと、テレビの政治討論番組で「フィンランドに学ぶ」という特集をしているのを横目で見ていたからである。
フィンランドはノキアという携帯電話のシェア世界一のブランドを有している。
どうしてそういうことになったかというと、ノキアは「はじめから世界標準をめざしていた」からである、というのが識者のご説明であった。
それに比べて日本のメーカーは国内市場オリエンテッドな商品開発をしているから国際競争に後れを取るのだと叱責していた。
それはちょっと考え方が違うのではないかと私は思う。
フィンランドは人口520万人である。
兵庫県(560万)より小さい。
兵庫県のメーカーがもし大阪でも岡山でも使えない「兵庫県仕様」の機械製品を作っていたら、それはたいへん愚かなことであるということは誰にでもわかる。
「兵庫県でしか使えない機械」を作る手間暇と「大阪や岡山でも使える機械」を作る手間暇がほとんど変わらないときに、わざわざ市場を制約する人間はいない。
ノキアが「世界標準をめざして製品開発した」のは誰でもわかるとおり「国内市場限定で製品開発したのでは、投下資本が回収できないから」である。
フィンランドの企業が「フィンランド国内市場限定」で商品開発している限り、フィンランド最大の企業でも「甲南みそ漬け」や「芦屋ラーメン」の企業規模を超えることはできぬであろう。
だから、彼らが国内仕様を世界標準と合わせるのは当たり前である。
日本はまるで事情が違う。
日本には巨大な国内市場がある。
国内市場限定で製品開発しても、売れればちゃんともとがとれる規模の市場が存在する。
世界標準で製品開発するのと、国内限定で製品開発するのでは、コストが違う。
これは例外的に「幸運」なことなのである。
その事態がどうして「内向きでよくない」というふうに総括されて、誰も彼もが「そうだそうだ」と頷くのか、私にはその方が理解できないのである。
いいじゃないですか、国内仕様で飯が食えるなら。
国の規模という量的ファクターを勘定に入れ忘れて国家を論じることの不適切であることを私はこれまで繰り返し指摘してきた。
例えば、中国は現在あまり適切な仕方では統治されていない。
だが、この国は人口14億である。55の少数民族を擁し、少数民族だけで人口1億4千万人いる。それだけで日本の人口より多いのである。
それが「日本と同じように法治されていない」ことをあげつらうのはあまり意味のないことである。
中国の統治制度を非とするなら、それに代わるどのような統治制度がありうるのか、せめてその代案について数分間考える程度の努力をしてからでも遅くはないのではないか。
フィンランドが現在たいへん好調に統治されていることを私は喜んで認める。けれども、その好調の重要な要素は「人口が少ない」ということであることを見落とすわけにはゆかない。
もし、兵庫県が「鎖県」して、兵庫県民の納めた税金ですべてのシステムが運営されていた場合には県民たちのタックスペイヤーとしての当事者意識はきわめて高いものになるであろう。
かりに「独立兵庫県」が「高福祉高負担」を政策として掲げた場合には、税金がどのように使われているか、県民の検証はきわめてきびしいものになるであろうし、高負担にふさわしいだけの福祉制度の充実が目に見えるかたちで示されれば、県民たちは黙って負担に耐えるであろう。
国が小さければいろいろなものが目に見える。国が大きくなるといろいろなものが見えなくなる。
当たり前のことである。
だから、小国には「小国の制度」があり、大国には「大国の制度」がある。
「小国」では「いろいろなものを勘定に入れて、さじ加減を案分する」という統治手法が可能であり、大国ではそんな面倒なことはできない。だから、大国では「シンプルで誰にでもわかる国民統合の物語」をたえず過剰に服用する必要が出てくる。
小国が「したたか」になり、大国が「イデオロギッシュ」になるのは建国理念の問題や為政者の資質の問題ではなく、もっぱら「サイズの問題」なのである。
話を戻そう。
「日本の問題」とされるもののうちのかなりの部分は「日本に固有の地政学的地位および地理学的位置および人口数」の関数である。
ということは、日本とそれらの条件をまったく同じにする他国と比較する以外に、私たちが採択している「問題解決の仕方」が適切であるかどうかは検証できないのである。
もちろん、私たちがただいま採用している問題解決の仕方はさっぱり適切であるようには思われない。
さて、その不適切である所以はどのようにして吟味されうるのか。
論理的に言えば、その成否は「今採用している問題解決の仕方とは別の仕方」を採用した場合には何が起きたかというシミュレーションに基づいて採点すべきである。
「日本と地政学的地位も地理学的位置も人口数も違う国」で採用したソリューションの成功と比較することにはほとんど意味がない。
にもかかわらず、相変わらず識者たちは「アメリカではこうである」「ドイツではこうである」「フィンランドではこうである」というような個別的事例の成功例を挙げて、それを模倣しないことに日本の問題の原因はあるという語り口を放棄しない。
たしかほんの2年ほど前までは「アメリカではこうである」ということがビジネスモデルとしては正解だったはずであり、その当時、かのテレビ番組に出ていた識者たちも口々に「アメリカのようにしていないことが日本がダメな所以である」と口から唾を飛ばして論じていたかに記憶している。
その発言の事後検証については、どなたもあまり興味がなさそうである。
しかし、「自分の判断の失敗を事後検証すること」こそ「今採用している問題解決の仕方とは別の仕方を採用した場合には何が起きたかというシミュレーション」の好個の機会である。
その機会を活用されないで、いつ彼らはその知性のたしかさを証明するつもりなのであろう。
興味深いのは、この「日本と比較してもしようがない他国の成功事例」を「世界標準」として仰ぎ見、それにキャッチアップすることを絶えず「使命」として感じてしまうという「辺境人マインド」こそが徹底的に「日本人的」なものであり、そのことへの無自覚こそがしばしば「日本の失敗」の原因となっているという事実を彼らが組織的に見落としている点である。
こうも立て続けに日本の選択が失敗しているというのがほんとうなら、「日本の選択の失敗」のうちには「日本の選択の失敗について論じる言説そのものの不具合」が含まれているのではないかという懐疑が兆してよい。
ある人が、立て続けに人生上の選択に失敗していたとしたら、私たちはその理由を彼が「成功した誰かの直近の事例をそのつど真似していないこと」にではなく、むしろ「彼の選択の仕方そのものに内在する問題点」のうちに求めるであろう。
ふつう私たちがバカなのは、私たちが「りこうの真似をしていない」からではなく、端的に私たちがバカだからである。
そう考えてはじめて「私たちの愚かさの構造」についての吟味が始まる。
別に私は識者たちの知性の不具合を難じているのではない。
個人レベルではできることが国家レベルではできないということはそれが、それこそが「日本の問題」だからである。
私たちがうまく問題を解決できないのは、私たちの問題の立て方が間違っているからである。
「日本の問題」のかなりの部分は「サイズの問題」に帰すことができると私は考えている。
だが、日本は他国と「サイズが違う」ということはあまりに自明であり(小学生でも知っている)、そのような周知のことが理由で「日本問題」が起きているということは専門的知識人たちには許容し難いことなのである。
だから、彼らはそのような単純なことが「日本問題」の原因であることを認めようとしない。
でも、残念ながら、実はそうなのである。
例えば、私自身は「生きる日本問題」である。
私の思考の仕方そのものが「端的に日本人的」だからである。
私の考えていることの87%くらいは「日本人だから、こんなふうに考える」のであり、私がウランバートルや平壌やブロンクスで生まれていれば,絶対に「こんなふう」には考えていない。
そして、私が「こんなふう」に書くのは、私が「日本語が通じるマーケットに通じれば十分」だと思っているからである。
だって、そこだけで1億3千万いるんだから。
私が幕末や明治の人の逸話を録するのも、60年代ポップスの話をするのも、こうやって正月テレビ番組の話をするのも、「それを(一部想像的に)共有している数万の読者」を想定できるからである。
その数万の読者のうちの10%でも定期的に私の著書を購入してくれるのであれば、私は死ぬまで本を書き続け、それで飯を食うことができる。
「たずきの道」ということに関して言えば、私にはぜんぜん世界標準をめざす必要がないのである。
「おまえの言うことはさっぱりわからんね」とアメリカ人にいわれようと中国人にいわれようとブラジル人にいわれようと、私はI don’t care である。
外国人に何を言われようと「明日の米びつの心配をしなくてよい」ということが私のライティングスタイルを決定的に規定している。
しかし、今の日本のメディアを見る限り、自分が100%国内仕様のライティングスタイルを採用しているということをそのつど念頭に置いて書いている人はあまり多くない(ほとんどいない、と申し上げてもよろしいであろう)。
中には「英語で発信すれば世界標準になる」と思って、「私はこれから英語でしか書かない」というようなとんちんかんなことを言う人もいる。
だが、世界仕様というのは要するに「世界市場に進出しなければ飯が食えない」という焦慮、あるいは飢餓感のことである。
「私はこれから英語で発信して、世界標準の知識人になるのだ」ということを日本語で発信して、日本の読者たちに「わあ、すごい」と思わせて、ドメスティックな威信を高めることを喜んでいる人間は、夫子ご自身の思惑とは裏腹に、頭の先からつま先まで「国内仕様の人」なのである。
失礼だけれど、骨の髄まで国内仕様でありながら、世界標準を満たしていると思い上がっている人間は、自分が世界標準とまるで無関係な「ドメスティックプレイヤー」であることを知っている人間より、さらに世界標準から遠いのではないかという危惧はお伝えしておかなければならない。
帝国主義国家が植民地獲得に進出して、よその人々を斬り従えたのも、「世界市場に進出しなければ(たのしく)飯が食えない」と彼らが(たいていの場合は根拠もなく)信じ込んだからである。
私は人間たちが「外向き」になったことで人類が幸福になったのかどうか、まだ判定するには早すぎるのではないかと思っている。
「家にいてもたのしく飯が食える人間」は「世界標準仕様」になる必要がない。
そして、私は「家にいてもたのしく飯が食えるなら、どうして寒空に外に出て行く必要があるものか」とこたつにはいって蜜柑を食べている人間である。
「内向き」が繰り返し問題とされるのは、「内向き」では飯が食えないビジネスモデルを標準仕様にしたからである。
「外向き」になるにはアメリカにはアメリカの、フィンランドにはフィンランドのそれぞれの「お国の事情」というものがある。その切ない事情についてはご配慮して差し上げるべきであろう。
だが、わが日本にはせっかく世界でも希なる「内向きでも飯が食えるだけの国内市場」があるのである。
そこでちまちまと「小商い」をしていても飯が食えるなら、それでいいじゃないか。
2009年はたぶん日本は「内向きシフト」舵を切るようになると私は推察している。
でも、「内向きシフト」は「みなさん、これからは内向きになりましょう、さあ、ご一緒に!」というような元気一杯なものではない。
「私は内向きに生きますけど、みなさんはどうぞご自由に」というのが「内向きの骨法」である。
追伸:と書いてアップしてから平川くんのブログを見たら、「内向き礼賛」というタイトルが掲げてあった。
お正月の賀詞交換のときに、「『内向き』でいいじゃないか、ねえ」と平川くんと怪気炎を上げたのであるが、ちゃんとこうやってふたりで同じテーマで、ちょっとだけ違うことを書いている。
併せてお読みいただければ、私の言いたいことはさらによくご理解いただけるでありましょう。