「諸君」 1997.1
冷戦が終結した89年からすでに7年、91年末のソ連崩壊から数えても5年も経つのに、日本の政界はいまだに余震と残響の中にある。冷戦の終結とソ連の崩壊という世界史的な地殻変動がいかにおおきなものであったか、改めて思い知らされる。
冷戦体制の、日本国内における投影である55年体制が崩れたのは、ソ連崩壊から2年後の93年だが、それから約3年の間に、内閣が変わること5たび。そして今回の選挙では、ついに旧社会党が事実上、消滅した。なし崩しの自滅といってしまえばそれまでだが、それにしても、半世紀の歴史を有する旧社会党が泡のようにあっけなく消滅してしまった光景を見ると、いささかの無常感と、それに倍する腹立たしさを覚えずにはいられない。死ぬなら死ぬで、死に方というものがあるだろう。なぜ半世紀にわたる「生涯」を総括した「遺言」を、自らの手で遺さなかったのだろうか。
そもそも村山政権時代にも、なぜ年来の主義・主張を投げ捨てることになったのか、論理的な説明はまったくされなかった。一時的な支持者も含めれば、戦後の半世紀の間に社会党に望みを託した日本人有権者の述べ人数は、気の遠くなるほどの数になるだろう。そうした人々に対して、真摯な言葉を残すべきではなかったか。
他方、一見すると旧社会党と対蹠的にみえるのが、日本共産党である。ソ連崩壊という地殻変動の直撃にあっても、党としての一貫性と一体性を良くも悪くも守り抜き、今回の選挙でも、微増だが党勢の拡大に成功した。ソ連共産党懐胎の影響を、社会党がまともに食らったのに対して、逆に社会党よりはるかにボリシェヴィズムに親縁性を持つ日本共産党の方が致命傷をまぬかれたという、この「ねじれ現象」には、奇異な印象を抱かずにはいられない。
この明暗の落差は、ひとつには共産党のみが常に政権の蚊帳の外におかれていたため、総保守化傾向を嫌う、体制への批判層の票を「独占」できたことにある。しかし、両党の差異はそれだけではない。
組織防衛に必死だった日本共産党は、91年8月のクーデター事件後、ソ連共産党が解党を発表すると、その直後に、「大国主義・覇権主義の歴史的悪の党の終焉を歓迎する」という常任幹部会声明を発表した。ロシア革命勃発から5年後の22年に、コミンテルン日本支部として結成された日本共産党が、「生みの親」であるソ連共産党の「死亡」を「歓迎」したのだから、奇怪この上ない話だが、ここで重要なことは、ソ連共産党のすべてを悪し様に罵っているようにみえながら、その声明の中で、「レーニンの指導」による「ロシア革命の世界史的意義」を強調し、レーニンの業績だけははっきりと批判の対象からはずして、救い出そうとしている点である。
言葉を濁した社会党がなし崩しに消滅の一途をたどったのに比べ、日本共産党が生き残ることができた現在までの状況を見る限り、ソ連共産党は死んでも、レーニン主義は死んでいないと強弁した日共の一連のプロパガンダは、それなりに奏効したといえるだろう。「レーニン」はまだ葬られてはいない。レーニンの遺体は、今もなお、赤の広場のレーニン廟(びょう)に「聖遺骸」として安置されているが、思想としてのレーニン主義も同様に、神聖不可侵の威信を今なお保っている。そしてそうである限り、ボリシェヴィズムは何度でも蘇りを果たすに違いない。鍵となるのは結局、ボリシェヴィキの創始者、レーニンことウラジーミル・イリイッチの存在なのである。
この点に関して深刻な懸念を覚えるのは、「政治的中立性」を錦の御旗としているはずの一般のジャーナリズムや論壇や学界が、レーニンの歴史的評価の見直しに積極的に踏み込まず、棚上げにして沈黙を守っていることである。共産主義がもたらした数々の災厄とその破産は、果たしてレーニン主義からの逸脱によるものなのか、それともレーニン主義そのものに根ざすものなのか、正面から問おうとする真剣な知的営為がほとんど見当たらず、そのために今、目に見えない知の空白地帯が広がりつつある。もしもその空白地帯の拡大がこのまま放置されれば、そこは、古いレーニン崇拝がひっそり生き延びて生息する空間というだけにとどまらず、別の種類のエクステリミズム(急進主義)が発芽し、生育する肥沃な湿地帯となりかねない。
ここで、ソ連崩壊から約3年後、オウム・サリン事件が発生する9ヵ月前の94年9月に刊行された、『はじまりのレーニン』「(岩波書店)と題する、注目すべき書物をとりあげたい。筆者はあの中沢新一氏。この書物が特異な光彩を放っているのは、ソ連崩壊後の知的空白状況下に、影響力のある知識人の手によってかかれた唯一のレーニン賛美の書だからである。
「すべてに逆らって、レーニン。20世紀の廃墟に、レーニンの笑いがこだまする」というコピーの帯が巻かれた同書は、こんな書き出しで始められる。
「ようやく私たちは、レーニンの思想について、話し出すことができるようになった。中沢氏もまたソ連崩壊を「歓迎」している。と同時に、レーニンには可能性が残されているというのである。まるで日本共産党と足並みをそろえているかのようだが、無論中沢氏は日共の「御用知識人」などとは違って、独自のレーニン像を提示している。それは、実にユニークで、あきれるほど独創的なものだ。
共産主義思想の現実化と言われたもの、レーニン主義を体現するといわれてきたもののすべてが、いまや解体した。器が壊れたのだ。だが、そのとき、器の破壊の瞬間に、そのなかからとびさったものを、私たちは見失うべきではない。
壊れたレーニン像を組み立て直そうなどとしてはいけない。私たちは、器が破壊されたことに、よろこびを見出さなくてはならない。そのとき、空中にとびたった、素早い何ものかをつかまえ、それに別の形態をあたえるのだ」
レーニンはよく笑う人だった。動物と子供と音楽を心から愛する人だった。こうした、読み手の警戒心を解除する穏やかな導入部に続いて、レーニンの唯物論思想の核心はその「笑い」に潜んでいるのだとそっと告げられる。
飛躍が始まるのはその直後からだ。レーニンのその「笑い」こそは、ニーチェのいう、「神的」な「笑う力」の噴出であり、バタイユのいう「非−知との遭遇」がもたらす「笑い」と同じものであるとして、突然、ただならない「神的な笑い」に祭り上げられるのだ。
そして「笑うレーニン」は、コスモス的秩序の「底」を突き破り、「無底」の、万物の生命活動の根源的な「物質」(あるいは「客観」「ピュシス(自然)」「ゾーエー(生命)」の運動に触れえた稀有の存在とされる。つまり、コスモス的秩序の中に安住する凡人には到底、到達できない深遠な真理を体現していた「アデプト(成就者)」だというのである。
こうしてレーニンは、「超人」として聖別される。そしてこの「超人」レーニンが率いる「革命の『アデプト』たちによる前衛としての『党』」によって遂行されたロシア革命は、客観的な「物質」の運動が、レーニンおよび「党」を通じて、コスモス的秩序を荒々しく破り、純粋な形で立ち上がったものだとして、全面的かつ絶対的に正当化されるのである。
こうした神秘主義的なレーニン思想解釈やレーニンの再偶像化を、わけがわからんと首をひねり、黙殺してしまうことはやさしい。しかしそういうわけにはいかないのは、第一に、先述した通り、この本が、ソ連崩壊後に登場したほとんど唯一のレーニン賛美の書であり、なぜか批判らしい批判にまったくさらされていないこと、第二に中沢氏が、オウム信者のバイブルであり、麻原自身も教義確立のためのタネ本にしたといわれるチベット密教の入門書『虹の階梯』の筆者であることだ(教団が危機に陥った95年の5月、麻原は正悟師以上の幹部全員に『虹の階梯』を熟読せよという”尊師通達”を出している)。
麻原が唱えたテロルを正当化する論理「タントラ・ヴァジラヤーナ」とは、実際のところ形を変えたレーニン主義に他ならない。「プロレタリア革命という理念のためには、あらゆる暴力・テロルが許される」というのが、レーニン主義の要諦である。これは「人類の救済のためには、拉致も拷問もポアも、無差別大量殺人も許される」というオウム流のヴァジラヤーナ思想と本質的に何ひとつ変わらない。党=教団のみが絶対的真理を宿していると信じる独善も、鉄の規律で忠誠を誓わせる独裁の構造も、さらには終末論的なメシアニズムに支えられている点までも同じである。
オウムが「95年11月戦争」をもくろんでいたことを思い出してもらいたい。強制捜査があと半年、遅れていたならば、間違いなくオウムは、計画通りに東京の上空から70トンのサリンをぶちまけていたに違いない。一瞬にして、1千200万人の都民の大半が死滅するという、ヒロシマ・ナガサキをはるかに上回る人類史上最大のジェノサイドが実行されていたはずなのだ。そうなれば、それこそ無人の廃墟で麻原の笑いがこだまするという、笑えない悪夢が現実のものとなっていたことだろう。
私が雑誌の取材のために中沢氏とはじめて会ったのは、サリン事件から約2ヵ月後の95年5月中旬のことだった。当時は、麻原をはじめ教団主要幹部はまだ未逮捕で、指名手配範は逃亡中、信者のほとんどはマインドコントロールが解けていないという、緊迫した状況下だった。オウムの信者達を一方的に追いつめるばかりでは、彼らが暴発してさらなるテロに出る危険性もあると考えた私は、オウム信者に絶大な影響力をもつ中沢氏に武装解除を呼びかけてもらいたいと考えたのである。この時期、中沢氏の言葉は貴重だった。オウムはかたくなな情報鎖国体制を敷いていたが、唯一の例外は中沢氏で、信者達も中沢氏の発言だけは目を通していたのである。彼はあの時期、一般世間とオウムとをつなぐほとんどただひとつの「回路」だったのだ。
私のインタビューを受けた際には、中沢氏はオウムの問題点を内在的に把握して分析し、無難な線で批判を展開してみせた(月刊『現代』95年7月号「悪魔の誕生」)。
ただ、彼の発言でいくつかひっかかる箇所があった。そのうちのひとつが「霊的ボリシェヴィキ」という言葉である。これは70年代末に創刊された『迷宮』という伝説的なオカルト雑誌の編集長、武田崇元氏(本名・武田洋一。現・八幡書店社長)が提出したコンセプトだった。もっとも、私はたまたま彼の発言を当時、目にしていたが、恐ろしくマイナーなカウンター・カルチャー・シーンの蛸壺の中での話であり、「霊的ボリシェヴィキ」などという言葉は、ほとんど人の記憶に残らなかったはずである。ところが、中沢氏はこんな古い話を持ち出し、曖昧な表現ではあったが、オカルト暴力革命を本気で企む党派なり運動なりが現実に存在していて、武田氏がそのイデオローグであり、そうした影響の下で、オウムが誕生したかのような言い方をしたのだった。これには当惑せざるをえなかった。マイナーな雑誌上での放言はともかくとして、現実レベルではどう考えてみても、武田氏にそこまでの思惑や影響力があるとは思えなかったからである。
首を傾げることは、その後も頻発した。私相手に話したこととまったく違うことを、平然と他のメディアで発言したり、「坂本一家を拉致したのはオウムではなく、別の宗教団体」と公の場で発言したり、また中央大学の学内誌『中央評論』誌上で、私の名前をあげ、「オウムを養護せず、批判していると、いつかみじめな思いをすることになる」と「警告」してくれたりと、不可解な言動が連続したのである。
この人は本当に一体何を考えているのか、不思議に思い、彼の著書やメディアでの発言記録を過去に遡って片っ端から読み始めたのだが、そうしてゆくうちにつきあたったのが、『はじまりのレーニン』だった。オカルティズムとの接合によってボリシェヴィズムの再生を図ろうとするこの本を読了してはじめて、私はようやく中沢氏の言葉の真の意味を理解することができた。霊的ボリシェヴィズムを唱道しているのは、武田氏やその他のオカルト陰謀論者などではない。中沢氏その人こそ霊的ボリシェヴィキに他ならないのだ。
『はじまりのレーニン』の内容に話を戻そう。同書において、レーニンが子供や動物が好きな「かぎりないやさしさ」を秘めた人物であることが極端に強調されているとすでに述べた。この「やさしさ」が実のところどのようなものであったかは後述するとして、では、レーニンの別の側面、圧倒的に重要な彼の「残酷」さや「暴力性」についてはどう描かれているか。
――ない。何もか書かれていないのだ。「残酷」という言葉そのものすら、次に引用する一文に一回だけ登場するのみなのである。
「笑う哲学である唯物論は、笑いによって信仰と宗教を凌駕するだろう。またそれは、笑いによって、革命をおこなう。テーブルの下に頭をつっこんでもなおおさまらない笑いの嵐と同じ本質をもった力が、暴力となって国家機構を破壊しようとするだろう。笑いのなかにあっては、かぎりないやさしさと、おそるべき残酷が共存している。優しさと残酷の共存。それは、レーニンその人のことではないか」これだけである。「笑い」には残酷さも含まれているのだよという、一瞬のほのめかしがあるだで、具体的にレーニンの「残酷」とはいかなるものか、耐忍可能な程度のものなのか、あるいは、それがスターリンの「残酷」とどのような関係にあるのかについて、一切言及していない。それらの点についてはただただ沈黙するのみである。ここには、冒頭に述べたような、レーニン評価の見直し作業を棚上げにしている日本の知的空白状況が、そのまま投影されているといって過言ではない。
しかし、日本においては知識人の沈黙が続いているとはいっても、ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。
これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。
22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです><これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。にもかかわらず、その公開から4年も後に書かれた『はじまりのレーニン』には、こうしたレーニンの残酷なテロルの事実は、まるで存在しなかったかのように黙殺されているのである。私がこの書物に驚きを覚える理由がおわかりいただけると思う。
中沢氏は、こうした事実の発表を知らなかったのだろうか。しかし、仮にも学者が思想と歴史に関わる重大なテーマで本を書こうというときには、慎重にデータベースを参照するのは当然のことだろう。「知らなかった」ではすまされない。
また、仮に資料を収集し、参照したものの、自分が頭のなかに作り上げた「超人」レーニンのモデルにそぐわないとして恣意的に切り捨てたのだとしたら、これは問題外である。「シオンの議定書」をでっちあげるような類の、妄想に取りつかれた安手のデマゴーグと何ら変わるところはない。
もっとも、何割かの責任は、レーニン情報の空白を放置していたジャーナリズムにもある。そうであれば、改めてレーニンの暴虐ぶりについてのファクトを徹底的に提示するとしよう。いつまでも、レーニンに対する歴史的評価を宙吊りにして、空白地帯を放置しておくわけにはいかない。
アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。
まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。
「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。
「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。
一、出荷量を増やすこと。
二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。><チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。
この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」
ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。
――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。
いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。
話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。
『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」
また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)
『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」
レーニンは子供が大好きだったと、中沢氏は『はじまりのレーニン』の中で繰り返し何度も述べている
「レーニンは子供の体を愛撫したり、動物の体をいじったりするのが好きだった。それも独特のやさしさと、デリカシーをもって愛撫するのだ。その様子は、ゴーリキーにも強い印象を残した。彼は書いている。『彼は子供をやさしく愛撫した。軽快で、デリケートでまったく特殊な仕草だ』。同じことは、他の人達も感じていた。かたくてやさしく、軽快にすばやく、かつデリケートに。レーニンの愛撫。それは、弁証法的唯物論の『実践』としての愛撫なのだ」文中、愛撫に異様に偏執しているのは中沢氏の個人的な趣味なのだろうか。それはさておき、この一節と、ラトゥイシェフのテクストの続きを読み比べてみよう。
「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」レーニンが周囲から子供好きと見られていたことは否定はしない。問題はその愛し方、可愛がり方である。中沢氏のいう愛撫の巧みさなど、チャイルドポルノではあるまいし、この際どうでもいいことだ。
大人というものは、愛するいたいけな子供に、愛すればこそ、自分の信じる価値観をそそぎ込みたいという欲求にかられるものである。結局のところ、レーニンもまた、その例にもれなかった。ただ彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。
そもそも、動物や子供が好きといったエピソードは、どんな独裁者も必ず身にまとおうとする陳腐で凡庸な粉飾の定番に他ならない。だから私は、正直なところ、中沢氏が『はじまりのレーニン』をこんな書き出しではじめる神経が理解できないのだ。
「この本を読む人は、ただレーニンがよく笑う人であったこと、動物や子供にさわることが好きな人であったこと、音楽を聴くと喜びを感ずる人であったということだけを、予備知識としてもっていただきたい。そうすれば、彼の弁証法的唯物論も、彼の革命思想も、彼の『党』のことも、自然に理解できるように、この本は書かれている。まるで洗脳セミナーかカルト教団の勧誘のような語り口である。中沢氏は他のすべての予備知識を捨てるように呼びかけるが、あいにくとそういうわけにはいかない。たとえば、レーニンの「動物好き」とやらも、実は相当に怪しいのである。よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。
いや、むしろ、すべての先入観をすてて、ただそのことだけを予備知識として、この本を読んでほしい」
何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。
また、レーニンが人並み以上に音楽を愛好していたかどうかについても、かなり疑問がある。クループスカヤは、1963年4月7日付の「イズベスチヤ」紙のインタビューを受けて「彼(レーニン)は音楽を聴くと疲れるたちで、自分で楽器を弾いたことはありませんでしたし、また絵をかくこともありませんでした」と答えているのである。
さて、それでは、「笑い」はどうか。確かにレーニンはよく笑う人だった。これは多くの人が証言しており、疑問の余地はない。しかし、中沢氏の言うように、それが「神的な笑い」なのかどうか。ここでその正体を明らかにし、決着をつけておこう。
中沢氏はクループスカヤの『レーニンの思い出』(岡林辰雄訳、青銅社刊)から、彼女がレーニンとはじめて出会った1894年2月の謝肉祭の晩のエピソードを引用している。その夜、サンクト・ペテルブルグ市内でマルクス主義者達の小さな集まりが開かれた。席上、集会参加者の一人が文盲退治委員会を作ったらどうかと提案したとき、同席していたレーニンは、いきなり笑い出した。以下、その場面を活写した中沢氏のみごとな文章を紹介しよう。「それを聞いたとたん、ウラジーミル・イリイッチが、笑い出したのだ。そして、こう言った。『けっこう。文盲退治委員会で祖国を救おうとするお方は、さあ、どうぞ、ちっとも邪魔なんかしませんよ』。
それはそれはいじわるで、悪魔的な、おそろしい笑いだった。クルプスカヤは、ぞくぞくするものを感じた。人間のこんな笑いを、彼女は今まで見たこともなかったからである。それはすでにシニカルな冷笑をこえていた。冷笑の背後には、知的な優越感がある。つまり、シニカルな冷笑にあってはひとつの『主観』が、自分よりも未熟な、あるいは劣った別の『主観』を、優越感で笑うのだ。
ところがウラジーミル・イリイッチのこのときの笑いのなかには、笑っている『主観』すら、存在していないように感じられた。そうではなく、そこでは、知識人の両親やらセンチメンタルな自己満足やらを発揮している『主観』にむかって、なにかとてつもなく『客観的』なものが、破壊的な冷笑を浴びせているような感じなのである。ウラジーミル・イリイッチの体をとおして、『主観』の外部に広がるなにかの力が、意識のなかにあふれだし、それが『主観』の両親を吹き飛ばしてしまおうとして、笑っていた。それが、クルプスカヤの体験した、最初の『レーニンの笑い』であった。
レーニンのそんな笑いを見たのは、それが最初で最後で、そののち二度と、彼女の前では、彼はそんな笑いを見せることはなかった、と彼女は書いている」御覧の通りの、すごい筆力である。中沢氏はその場に居合わせて、自分の耳でレーニンの「悪魔的な、おそろしい笑い」を聞いて、震撼し、その体験を綴っているかのようである。では、この場面は原典では、いったいどのように描かれているのだろうか。親切なことに、このくだりには注が付され、引用のページまで明記されているので、私はさっそく該当個所を開いてみた。
「そのとき一人が――おそらくシェウリヤギンだったと思うが、あきめくら(原文ママ)退治委員会の中で活動するのが一ばんだいじなことだといった。ウラジミル・イリイッチはこれを聞いて笑った。その笑い声は少々意地悪くぶあいそうに感ぜられた。――わたしはそれから後に、彼がこんなふうに笑ったのを、二度と見たことがなかった。
『なに、かまうものですか。あきめくら退治委員会で祖国を救おうとするお方は、さあ、どうぞ、邪魔はしませんよ!』」これだけである。このときのレーニンの笑いについて原典に書かれていたのは、たったこれだけなのである。念のため、大月書店版『レーニンの思い出』(松本滋・藤川覚訳)も調べてみたが、そちらでは「その笑い声はなんだか意地悪く、すげない調子に聞こえた。……私はその後、彼のそんな笑い声は一度も聞いたことがない」と訳されている。「ぶあいそう」「すげない調子」の意地悪な笑いが、中沢氏の筆にかかると、先に引用したとおりの途方もないものに化けてしまうのだ。これはペンの詐術ではないのか? それとも魔術的アカデミズムとでも命名すべき、エクリチュールの新技法なのだろうか。私にはそれこそ著者の「主観」的な解釈としか思えない。
レーニンがどんな風に笑ったかなど、どうでもいい些事(さじ)にすぎない、と思う人も多いに違いない。私もそう思う。中沢氏がレーニンの「笑い」に過剰な意味づけをほどこし、それを跳躍台として「超人」レーニン像を「捏造」しなければ。そしてそんなレーニンに率いられる共産党を「革命の「アデプト」たちによる前衛」に仕立てあげたりするのでなければ――。
中沢氏は「笑い」と「党」をこう結びつける。「『党』に対して、レーニン自身が行ったイメージづくりや理論化を見ていると、いよいよこの『党』なるものが、笑いや蕩尽のなかに潜んでいるものと密接な関連をもっていることがわかってくる。
どはずれな大笑いが、意味の世界をぐらつかせると、言葉の動きの底部に、物質的なゾーエーの力が侵入してくる。その物質的ゾーエーは、流動性を備えた、純粋な力そのものだ」「『革命の党』というものも、レーニンのイメージのなかでは、純粋な矛盾、純粋な差異である。その物質的ゾーエーの組織体というものに、よく似たものだったのである。
『党』は、革命の実現をめざす。そのプログラムの最終的な目標は、資本主義世界の相対的な変革にある。それは根こそぎの変革、資本主義の『細胞』である商品からはじまって、国家にいたるまで、社会の前構成を巻き込む変革でなければならない」この通りである。レーニンの笑いを、「底」を突き破って侵入する「客観」や「ゾーエー」に突き動かされた「神的な笑い」なのだと、とてつもないものに仕立てあげてしまうと、あとは一瀉(しゃ)千里、「社会の全構成を巻き込む変革」というはるかな革命の地平まで読者を連れ去ってしまうのだ。中沢氏の「主観」、おそるべしである。
いや「主観」ではない、「客観」なのだ、と中沢氏は言うかもしれない。だが、彼の言う「客観」とは、この現実の世界の背後に仮構された「真のリアル」なるものに他ならない。しかしそれこそは、ニーチェのいう「背後世界論者」の「主観」によって生み出された虚構以外の何ものでもない。
中沢氏の「主観」はひとまずおくとして、実は、レーニンの笑いのなかには、中沢氏が言うのとはまったく別の意味での秘密がひそんでいたことを記しておこう。
レーニンは、『はじまりのレーニン』に出てくるのとは別の場面で、文字通りの「どはずれたばか笑い」を何度か爆発させている。だが、そうしたエピソードは、公式の伝記などからは抹消されてきた。なぜか。その笑いは、精神に異常をきたしていたレーニンの病状の深刻な進行を物語るものだからである。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙の中でこう述べている。
「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。
頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。
懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。
そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。
ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。
レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。
「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。
「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」こんな明快な定義が他にあるだろうか。
法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。
ラトゥイシェフはこう述べている。「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。彼の命令書には『誰でもいいから、100人殺せ』とか『千人殺せ』とか『一万人を「人間の盾」にしろ』といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。
中沢氏は私のインタビューに応えて、「人間的ではない、大いなる愛」という言葉を用いて、「真の宗教が持つ『聖なる狂気』」について語った。また、麻原を「たぐいまれな宗教者」として中沢氏以上に高く評価していた吉本隆明氏は、「浄土の倫理は、我々の世界の倫理よりはるかに大きい」などと、意味不明の発言を繰り返してきた。血のめぐりの悪い私は、どちらの発言も、即座には理解できず、その真意をはかりかねたものだが、こうしてレーニンの唱道した理想と、その実現のための実践の真相を知れば、「人間的ではない愛」も、「浄土の倫理」とやらも、おおよそ見当がつく。要するにそれは「愛する」者の「救済」や「解放」のためには、その人間を犠牲にすることもいとわない「愛」であり、「倫理」である。それは、人間のここの生命など、ほんのとるに足りないものに見えてくるような、仮構された超越的な視座から見おろされた光景がもたらす倒錯以外の何ものでもない。なぜならば、身体という「唯物論」的制約に拘束される人間存在は、自分の肉眼では決してそのような「無限遠点」に立って世界を見ることはかなわないからである。世界の巨大さと自分の矮小さが逆転されるような光景は、観念や想像力や、あるいはそれこそ瞑想修行による変成意識体験がもたらす錯像に他ならず、「無限遠点」の「無限」とは、ヘーゲルの言葉を借りていうなら、畢竟(ひっきょう)、「悪無限」でしかなく、「真無限」たりえないのだ。
中沢氏の多用する「無底」という概念も同じことである。「底」のある有限世界と対立的にとらえられている限り、それは単なる観念上のヴァーチャル・スペースでしかない。
にもかかわらず、そうした、決して手に入らない「無限遠点」をはるかかなたに切なく求めてしまうのが人間というおかしな生き物なのであり、それと自己の身体や環境の息苦しい制約の中で体験する日常の現実との間を、危うい「遠近法」で綱渡りして生きる他はない存在なのである。
その遠近法のバランスが一方に傾けば、まったき俗人として凡庸な欲望にまみれた日常に埋没する「頽落(たいらく)」にはまりこみ、逆に傾けば、倨傲(きょごう)の理想を他者にも強制するボリシェヴィキやオウムのような破壊的なエクステリミズムに走ることになるのだ。
ただ、ここで重要なことをつけ加えておかなくてはならないが、暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。
レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった
ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。
<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。この書簡には、さらに続きがある。
5月19日 レーニン>
<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
むろん、いくら偶像を破壊しても、また新たな偶像が生み出されることだろう。ロマンティックな革命幻想や解脱の夢想に一人耽るのも自由といえば自由だ。当人の決断で当人自身が党やカルトに飛び込むことは、究極のところでは誰にも止めようがない。
しかしながら、甘い言葉でそうした幻想を他人の耳元でささやき、脱日常の実践をそそのかしておいて、実際に「底」が抜けて日常性から転落してゆくと、それを見送りながら、自分自身はいつでもその一歩手前で身を翻し、こちら側の世界にとどまる、そんなメフィストフェレス的誘惑者の「罪」ほど重いものではない。
共産主義にシンパシーを抱きながら、革命運動に身を投じるためのあと一歩が踏み出せない、中途半端なブルジョワ青年の反問を描いたベルナルト・ベルトリッチ監督の『革命前夜』という作品を思い出す。いつまでも続く「革命前夜」に生きている万年青年、それが『はじまりのレーニン』の著者の正体ではないか。ベルトリッチの『革命前夜』の主人公と中沢氏の違いは、前者が結局、自分を取り巻く退廃的な日常の中で生きることを受け入れていくのに対し、中沢氏の方は「宗教学者中沢新一は死んだ」と言いつつ、大学という安全圏に自分の身を置き、オウムを持ちあげておいて、旗色が悪いとなると口を閉ざし、資本主義の繁栄の成果を存分に享受しながら、それを否定するかのようなあざといポーズを取り続けている、その違いである。
「チベット密教の教えは、普通の日本人にはなかなか教えられない。これはレーザー兵器みたいなものですからね」などともったいぶらず、霊的ボリシェヴィキを結党してゾクチェンでも何でも教えこみ、「客観」や「ゾーエー」とやらをこの世界に侵入させる革命を自分で実行すればいい。その決断を下せず、いつまでもぐずぐずと「革命前夜」にとどまるなら、その程度でしかない自分自身を自覚し、他人を無責任にそそのかすのはやめておいた方がいい。人をそそのかし続けて、永遠に裁かれないメフィストフェレスなど、存在しはしないのだ。