「少しでも情報を」と呼び掛ける山内洋子さん(左)と中国人の夫、章卜魁(しょうぼくかい)さん=那覇市壺川の自宅
1998年に帰国して那覇市で暮らしている中国残留孤児の山内洋子さん=推定(66)=が、故郷と思われる沖縄で、幼いころ生き別れた弟や故郷の情報を探し求めている。名前は帰国時に自分で付けたもので、本名、生年月日さえ分からない。弟の生死も不明だが「ただ一人の肉親。会えることを信じている」とわずかな手掛かりを基に県内各地を訪れている。
山内さんは中国の養父から亡くなる間際に「お前は琉球人で両親と弟がいた。弟は死んだ」と教えてもらった。養父の死後、親類から「弟は生きている」と言われ、帰国して10年間、手掛かりを求めている。
山内さんは4歳ぐらいのころ、沖縄と思われる場所から船で中国に渡った。直後に両親と当時ゼロ歳だった弟と共に中国東北部の黒竜江省・斉斉哈爾(チチハル)市の収容所に移った。両親は収容所で死亡し、山内さんと弟は別々の中国人に養子として引き取られた。
故郷の地名は覚えておらず、実家の裏に竹林があったことや、母親と近所の海へよく歩いて出掛け、船を眺めていたことなどあいまいな記憶しかない。集落ではよく集会があり、お茶や揚げ豆腐が出されたという。子どもたちは「鉄砲かついで フィテサ」という歌詞の童謡を歌っていた。
母親は弟が夜泣きすると、口に塩水をふくんで部屋中に吹きかけ、お払いをした。ヘビが出ると手を合わせてお祈りしながら逃げる習慣もあったという。細くて無口で、いつも優しくほほ笑んでいた母親は、しつけには厳しく、食事前は必ず手を合わすよう言われた。黒砂糖が好きで、収容所へ送られる時も衣装ケースに大量の黒砂糖を入れて運んでいたという。父親は大きくて四角い顔つき、ひげが濃かったことを覚えているが、ほとんど記憶はない。
ご飯にサツマイモを入れて炊いたり、おかゆにサツマイモの葉を入れた食事を主に取っていたという。
姓の「山内」は中国の収容所時代に会った親類と思われる30代女性の名前から取った。「洋子」は中国名の「揚(よう)」と沖縄の故郷が海に囲まれていたことから自分で付けた。
今まで県内各地を訪れ、記憶に一番近かった風景だったのは今帰仁村諸志の集落というが、確信が持てない。「故郷が分かれば弟につながるかもしれない。少しでも情報が欲しい」と訴えている。情報提供は次男の嫁真紀さん090(9789)6080。(稲福政俊)
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