ドキュメンタリー映画「A」やノンフィクション「死刑」(朝日出版社)など、鋭い視線で現代のタブーに切り込む森達也さん。最新刊「東京スタンピード」(毎日新聞社)は2014年の東京を舞台に、市井の人々が暴徒化し、ささいな理由から見境なく特定の人間を襲い、やがてその集団暴走(=スタンピード)に主人公が巻き込まれていく様子を描いた初の本格小説だ。森さんに話を聞いた。
--執筆のきっかけは。
関東大震災後に起こった福田村事件です。今の野田市と柏市(ともに千葉県)の中間にあった村で(震災後に結成された地元の自警団に、朝鮮人と間違えられた)行商の一行が殺されたんです。彼らは香川から来た人たちだった。なぜ殺されたのかというと、(発音の)イントネーションが違いますから。彼らは被差別部落出身だったこともあって闇に付されてしまった。こじれちゃったんです、話が。朝鮮人差別であり被差別部落差別であり、みたいなところで。
--森さんといえばノンフィクションのイメージがあります。
報道ドキュメンタリー中心でやってきたんですけど、学生時代は自主映画をやっていて、当然ドラマなんですよね。たまたまテレビの番組制作会社に入ったら、そこがドキュメンタリー専門の会社で、ドキュメンタリーを渋々はじめたという経緯です。だから、やっと書けたという感じです。やっぱりぼくはメタファー(隠喩)って大事だと思うんですよ。要するに間接話法。ノンフィクションはどうしても直接話法を要求されますから。本当に読者に届くのは、ぼくは間接話法だと思うんですよね。
--作中、テレビがあおる「凶悪犯罪」が「過剰なセキュリティ意識」を創出し、その結果、人々が「自警団」などを作り、スタンピードに至る様子が描かれています。
海外のジャーナリストが日本に来て、日本のテレビニュースを見て言います。「何でこんなに殺人事件のニュースばっかりやってるんだ」と。「国連で何が協議されているのか」とか「ダルフールは今どういう状況か」とかのニュースがほとんどない。あるのは誰かが誰かを刺したとか殺したとかね。もちろんニュースバリューがないとは言わないけれど、妻が夫を殺した場合、妻の高校時代の写真を取り上げることに、どんな意味があるのか。ある意味、デモクラシーが進むとこうなっちゃう。資本主義が進むと今のこういう状況になっているというのと近いものがあって。資本主義とデモクラシーという戦後の世界の両輪が、そうとう危うい存在であるというのを感じますよね。
--2014年という時代設定について。
来年再来年だと、いくらんなんでも早すぎますし。ワールドカップの開催をどこかに入れたかったとか、そうやっているうちに2014年になっちゃったのかな。このまま進めば14年あたりに臨界を超えるかなと。ぼくはあれ(ワールドカップの高揚は)ナショナリズムだとは思ってません。あれは擬似ナショナリズムで、要するにみんなまとまりたいってことですね。べつに国家うんぬんではないんですよね。最近よく右傾化と言う人がいるけれど、単なる集団化というか、そこにたまたま国家というツールがあるから、それを無自覚に使っている。
--作中では老人による若者への暴行が多く描かれています。
理由は二つあります。2000年に少年法が改正されましたけど、原因となったのは少年の犯罪の凶悪化・多発化です。でも実際は増えてもないし、凶悪化もしていない。誰がこれを変えたかというと団塊の世代です。実は一番、10代の事件が多かったのは団塊の世代が十代のころなんです。その彼らが社会を変えられる大人になったら「少年が怖い」と法を変えてしまいました。なんて身勝手な世代だろうと思ってね、これが一つ。あと、やっぱりこれを書く前から、テレビはどんどん視聴率が落ちて年寄りのメディアになると分かっていたので。であれば60代以上が見てテレビの影響を受けるだろうと。たぶん作中の時代だったら、団塊の世代が70代直前くらいで、そのあたりが悪くなるだろうと。まぁ間接話法ですから。
--作中に登場する「平均(アベレージ)と標準(スタンダード)」について詳しく教えてください。
ぼくもうまく整理できてないんですよ。直感的にね、作中にもありますけど、平均というのは文字通り「平均値」で、すべてを足して割るものですよね。標準というのは理想的な「こうありたい」というものが入ったもの、というのがぼくの中の解釈です。
--「(人の)アベレージは簡単に人を殺す」と作中にあります。
殺すと思います。つい最近ノーベル賞作家クッツェーの「鉄の時代」(河出書房新社)を(読んだのですが)、南アフリカの作品なんだけど、アパルトヘイト断末魔の時代で、それまで黒人を迫害してきた白人がおびえちゃって、どんどん自警団を作るんです。で、その自警団が黒人を見て「線を越えた、あいつをぶっ殺せ」っていう作品で。官憲ではなく自警団、市民なんですよね。ただ同時に最近テレビでありましたけど、第二次世界大戦が終わったあとアメリカで前線における発砲率を調べた人がいて、2割か1.5割か。そう簡単に人は殺せないんですよ。だからこれは矛盾しているようですけれど、アベレージは人を殺せるけれど、スタンダードは人を殺せないというのが、ぼくの中にあります。
--作中、物理学者ニールス・ボーアが「核兵器は危険であるがゆえに各国は話し合い、一致団結せざるをえない」と核兵器の廃絶を願って説いた「ボーアの夢」の挿話があります。60年代以前は「楽観主義」と非難されたものの、その後、実現していった思想です。日本の未来に「ボーアの夢」という希望はありますか
あると思いますよ。ぼくは性善説で、人間は善なる生き物だと思っていて。でも善なる生き物だからハッピーだとは思っていない。善なる部分が人を殺したりするわけで、むしろ悪の方が被害が少ない。だから性善説ではあるけれど、その善なる部分の怖さを知った上での性善説なんで。ただ、そもそも(人は)善なる存在ですから、変わるかもしれないし気づくかもしれない。それがよくないと分かれば変わるわけで。そういう意味で「ボーアの夢」的な発想は非現実的ではないと思っています。
--読者に一言お願いします。
そんなにハードな話じゃないと思っているので。間接話法ですから。恋物語でもあるし、そっちを読んでください。(帯の『大虐殺』の文字を指して)大失敗だね、これ。「果たして二人の愛は成就するのか」とかにすればよかったね(笑い)。
プロフィル
森達也(もりたつや)
1956年広島県生まれ。1998年、自主制作ドキュメンタリー映画「A」を発表。2001年、続編の「A2」が山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞、市民賞を受賞。著書に「放送禁止歌」(光文社)「職業欄はエスパー」(角川書店)「いのちの食べかた」(理論社)などがある。
2009年1月4日