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【コラム】勉強すると仲間はずれにされる運動部員

 米国の学校スポーツも完全に自由なものではない。以前、米国社会は大学で行われるスポーツに対し、「知的探求の場である大学がなぜ巨大なスポーツ・ショービジネスに参加する必要があるのか」という疑問を投げかけた。ここでいう「ショービジネス」とは、一言でいえば全国民を熱狂させる大学のアメリカンフットボールのことを指す。米国の大学スポーツはアメフトによる収益が財政の基盤となっており、それを通じてほかの種目を養成するという形で運営されている。そのためアメフトが大学スポーツで占める比重は絶対的なものだ。

 このような批判に応じて登場したのが「学生選手(student athlete)」という概念だ。プロに匹敵する人気を誇る大学のアメフト選手たちも学業に専念すべき学生で、単に勉学とスポーツを並行して行っているにすぎないという論理だ。この概念を構築したのが、米国で大学スポーツを総括するNCAA(米国大学スポーツ委員会)だった。スポーツ選手が大会に参加するためには一定レベル以上の単位修得が必要と定め、また選手たちには個人の家庭教師をあてがって勉強させ、さらにプロチームとの接触も制限するなど、NCAAは学生選手の概念を緻密(ちみつ)に構築していった。そうしなければ大学スポーツはその存在の根拠を失い、NCAAも組織の存続が危うくなるかもしれないからだ。この事実を誰よりも選手たち自身が最もよく理解していた。

 一方、韓国の学校スポーツの実情はどうか。学校の運動部員たちのことを、われわれは「学生選手」と呼ぶ。しかし彼らは果たして本当に学生選手なのだろうか。現場で彼らの声を聞くと、学生選手という考え方は錯覚だということに気付かされる。

 韓国には「学生選手」は存在しない。ただ「学校で運動する選手」がいるだけだ。彼らは「運動部に所属しながら勉強すると、仲間はずれにされる」と語る。たまに授業に参加すると、教師たちから「疲れているだろうから居眠りでもしていなさい」と言われる。程度の差はあれ、中学も高校も大学も状況はそう変わらない。ある選手は「授業中にいすに座ることなんて到底できない」と訴える。座って本を読んだ経験そのものがないのだから、内容が理解できない授業時間は苦痛以外の何ものでもない。

 現場の指導者は「多くの練習をこなさなければいい成績を残すことができない。そのため勉強する時間はない」という論理を展開する。だとすれば、米国のアメフト選手たちはどのようにして厳しい練習と試合を消化しながら、一般の学生と同じように勉学で競争することができるのだろうか。オバマ次期米大統領は中学・高校・大学時代にバスケットボールの選手として活躍し、フォード元大統領はミシガン大学で有名なアメフト選手だった。今も米国の学生選手たちは学内や地域で「スポーツのヒーロー」として活躍し、卒業後も弁護士や医師などとして活躍している。

 結局、違いは選手たちを管理するシステムにあるということだ。韓国の学校運動部に所属する生徒たちはこれまで、勉強の機会さえも奪われたまま放置されてきた。学校当局の傍観姿勢、試合で結果を出さなければならない指導者の行き過ぎた欲望、子供が勉強とは縁のない生活を送る様子を見ながらどうすることもできない父兄、そして自分の将来を自ら考える年齢にない幼い選手たちの無知、これらが合わさって「社会への不適応者大量生産システム」が強固に作り上げられていった。そして子供たち自身がそのシステムの犠牲となっている。このシステムの稼働を直ちにストップさせること、それができて初めて学校の運動部員たちを「学生選手」と呼べるのではないだろうか。

キム・ドンソク記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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