藤本由紀夫 X デビット・カニンガム アーティストトーク

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このアーティストトークは2008年7月10日、ジョナサン・ワトキンス(IKON Gallery)の発案により、国際交流基金ロンドン日本文化センター主催のイベントとして行われた。 
 
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藤本由紀夫: 本日はお越しくださり、どうもありがとうございます。

最初になぜ、僕がこういう作品を作るようになったかをお話ししたいと思います。
十代の時に出会った電子音楽を勉強しようと、大学では電子音楽コースに入学しました。しかし、当時の電子音楽というのはすごく大きな設備が必要で、そのためのスタジオというのを作らなければいけないぐらい、規模の大きなシステムがないとできないものでした。

僕は子供の時からテープレコーダーやトランジスタラジオなどを使って、家で遊ぶことが好きだったので、電子音楽の大きなシステムで音楽を作るというのは少し抵抗がありました。

そういうときに、ある日本のアーティストのドローイングを雑誌で見たんです。
フルクサス[*1]のメンバーである日本人アーティスト、小杉武久[*2]さんのパフォーマンス・ドローイングでした。なんでこれに興味を持ったかというと、扇風機とかラジオ、釣竿といった、日常の道具を使って電子音楽を作っていたからなのです。自分もこういうふうに軽やかなシステムで電子音楽を作れないかと思ったんですけど、大学の設備はとても大掛かりで、なかなかこういったシステムでは作れませんでした。

70年代は大学の電子音楽スタジオで毎日大きな音で作品を作っていたのですが、これには可能性がないということにだんだん気付いてきました。なぜかというと、もう70年代にはコンパクトなシンセサイザーが登場して、ポップスの世界でも一つの楽器として誰もが自由に操るようになったので、大きな電子音楽スタジオで音楽を作るということが、時代遅れになっていったんです。

そういうところで、いろいろ面白い試みをしているアーティストがポップスの世界にたくさんいることを知りました。なかでもブライアン・イーノ[*3]というミュージシャンのやっていることにとても興味がありました。彼の音楽はとても洗練されていました。60年代のアバンギャルドミュージックをファッショナブルにアレンジしたものだと思ったのです。

70年代の終わりに、友達がブライアン・イーノよりも面白いミュージシャンがいると教えてくれました。それがデビット・カニンガムです。その友達が聞かせてくれたのは、シングル盤レコードで『サマータイム・ブルース』と『マネー』でした。それは僕にとって非常な驚きでした。いわゆるレディ・メードなポップスを使って、とても斬新な切り口でアバンギャルドなポップスを作っていたからです。デビット・カニンガムを知ってから、彼のLP『グレー・スケール』を手に入れました。(藤本氏、『グレー・スケール』のレコードジャケットを取り出す。)これは僕の宝物です。

僕が感動したのは、エラーシステムという音楽の作り方です。
ふだんの生活の中では本当はエラーはやってはいけないことですし、それは音楽でも同じです。でも日常生活では何気なくエラーをしてしまう。それをそのまま音楽を作るシステムにしたところに非常に感心しました。フルクサスとかなりコンセプトが似ていると思ったし、僕自身も彼からの影響でもっと日常生活の何げないことに目を向けて作品を作ろうと決心しました。

それで家の中を見回した時に、目に入ったのがこのおもちゃのオルゴールです。
どこにでもあるようなオルゴールなのですが、良く見ると曲の情報がインプットされていて、自動演奏するという、小さなコンピュータであることが分かりました。これを使って音楽をつくるには、電子音楽のシステムと違うやり方をしなければなりません。アコースティックですから、まず音を大きくするにはどうすればいいかということを考えなければいけないんです。


デビット・カニンガム: 僕にもちょっと発言させてください。というのも、すでに用意してきた質問リストの半分まで話が進んでしまいましたから。自動巻きのオルゴールみたいです。今、面白いことを言っていましたよね。君は音楽大学、僕は美術大学で学びました。短い間だけど、ブライアン・イーノが先生だったこともあります。君が音楽やサウンド、それから空間を使ってやっていたようなことは、イギリスの音楽学校ではきっとできなかったんじゃないかな……1970年代では絶対無理だったでしょう。


藤本: 日本では今でも僕の作品を音楽としてみてくれませんし、美術の世界でもこれは美術ではないといわれます。


カニンガム: まあそうだろうね。そうか、この後どうやって話を続けようかな。自分がやっていることが「アート」だとか「音楽」だとかそのほか何でも良いんだけど、そういうふうに定義をされることは重要なんですか?


藤本: 自分自身がジャンルから入っていないんです。自分が興味を持ったことからもの作りを始めたので、僕には参考にする人がいなかった。最初にこういうものを作った時は、作品を作るという気持ちがなくて自分で楽しみたい、やってみたらどうなんだろうかという遊びの一つとして始めました。


カニンガム: そう、僕もおそらく君みたいなやり方で制作していたんだと思う。おそらく違う観点からだったんだろうけど。僕が美術大学を卒業したとき、アートワールドにはそんなに活気がありませんでした……少なくともイギリスでは。たぶん、作品で生計を立てられていたアーティストは5人ぐらいしかいなかったんじゃないかと思います。ヘンリー・ムーア[*4]ギルバート&ジョージ[*5]、あとはコーンウォールに住んでいるような人たち3人ぐらい。だから音楽は良いチャンスだったんです……1977年に美術大学を卒業したんですけど、まさにちょうどその時期に音楽業界では明らかに奇妙な動きが起きていて、僕にはそっちの方向へ行くのが当然だったというか……


藤本: 日本でも同じで、友達には美術分野の人がたくさんいますが、彼らも音楽を作っていました。音楽のほうがチャンスさえあればお金が入りやすい時代だったからなんです。とりあえず音楽をやって、有名になってから自分の好きな美術をやろうという人がとても多かった。70年代から80年代の初めにかけてのことです。

でも今はそういう人はあまりいなくて、美術と音楽を分けずに自分の表現として、必要に応じてビジュアル作品や音の作品を作る。自分の考えを表現するための道具としてビジュアルやオーディオを利用するという作り方をする人が増えてきているような気がします。


カニンガム: 音楽やサウンドとかの次は、空間について話しましょう。少なくとも僕が知るかぎり、君の一番良く知られている作品『EARS WITH CHAIR』について話しましょうか。これについてちょっと説明してもらえますか?

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*1: フルクサス(Fluxus)リトアニア系アメリカ人のジョージ・マチューナスが主唱した前衛芸術運動、またその組織名。1960年代の初めころからNYを中心として、欧米各地でハプニングあるいはイヴェントといった「行為」を表現形式として行う。

*2: 小杉武久(1938年~)日本の作曲家、演奏家。1960年、水野修孝らと日本で最初の集団即興演奏のためのグループである「グループ・音楽」を結成。1960年代初めにはフルクサスにも参加。1977年のアメリカ移住以来、マース・カニングハム舞踏団の作曲家、演奏家として活躍。1995年より、マース・カニングハム舞踏団音楽監督を務める。

*3: ブライアン・イーノ(Brian Eno、1948年~)イギリス出身の音楽家(イーノは自らを「ノン・ミュージシャン」と呼ぶ)。作曲家、プロデューサー、音楽理論家。視覚芸術のインスタレーション作品などにも積極的にも参画している。

*4: ヘンリー・ムーア(Henry Moore、1898年~1986年)20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家。ヨークシャー生まれ。

*5: ギルバート&ジョージ(Gilbert and George)イギリスの美術家。ギルバート・プロッシュ(Gilbert Proesch、イタリア出身、1943年~)とジョージ・パサモア(George Passmore、イギリス出身、1942年~)の二人組。

Translator: 
山本 陽子