北河内地域文化誌「まんだ」79号所収

太平記より 「交野の春の桜狩り」
 
 太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」の段。
「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。」

 有名な道行文の冒頭の部分である。ここに片野(交野)の名が出て来る。
 
 荘重な七五調の、波打つような華麗なリズムに乗せながら、ひたひたと迫る哀切さに彩られた道行文。最も完成された道行文、道行文の最高傑作とされるその文章は、交野の春の桜と、嵐山の秋の紅葉を対置することから始まる。
 それは、京都の南にある交野と、北にある嵐山との対比でもあるが、それ程までに、当時、交野は桜の名所だったのである。
 
 この対句には、それぞれに原典がある。
 交野の桜の方は、新古今和歌集巻二、藤原俊成の歌
「またや見ん かたのの御野(みの)の桜狩(さくらがり) 花の雪散る春の明けぼの」
  嵐山の紅葉の方は、拾遺和歌集巻三、藤原公任の歌
「朝まだき 嵐の山の寒むければ 紅葉の錦きぬ人ぞなき」

 いずれの歌も技巧を尽くした歌である。
 俊成の歌の「かたの」と云う語は、「再び見ることは難しい(またや見ん)」の「難(かた)し」と、地名の「交野」を掛けた掛詞である。
 公任の歌の「錦」と云う語は、紅葉の形容と、衣服の錦の両方の意味を持ち、「きぬ」は「着ぬ」と「絹」の掛詞である。
 道行文の名文はまた、名歌とされる歌を下敷きにしているのであった。
 
 
 時は元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の側近、日野俊基(としもと)は幕府転覆を企てたとして六波羅探題に捕らえられ鎌倉へ護送され、鎌倉の葛原で斬られる。その時、京都から鎌倉への囚われの身の道中が、かの道行文となるのであった。
 事の顛末は、その七年前の正中元年(1324年)から始まる。
 
 かねてから、国家権力のすべてを自らに集中して天皇親政を行うことを理想とし、醍醐天皇の延喜の時代、村上天皇の天暦の時代に帰ることを目標としていた後醍醐天皇は、秘そかに倒幕を企てる。その画策の中心になったのは、側近にあった少壮血気の青年貴族、日野資朝(すけとも)と日野俊基であった。かれらは同志として、公家では四条隆資、藤原師賢、平成輔らを引き入れ、武士としては美濃国の土岐頼員、多治見国長らを引き入れる。
 ところが、この密謀は露見する。正中元年(1324年)九月十九日早朝、六波羅は突如として多治見国長と土岐頼員の居宅を大軍をもって包囲する。二人はそれぞれに一戦の後に自刃して果てる。その夜、日野資朝と俊基も六波羅に捕らえられて、やかて鎌倉へ護送される。
 鎌倉において彼らは、さすがに、天皇が張本人であるとは証言せず、天皇もまた釈明の使者を鎌倉に送って弁明したので、幕府も天皇の責任は追及せず、翌年八月、俊基を赦免し、資朝は佐渡に流罪にして、この事件を決着させた。事件の張本人が天皇であることは殆ど公然の秘密であったが、幕府としては、この事件をさほどの重大事とは考えなかったからである。こうして、第一回目の倒幕計画は脆くも挫折する。これが正中の変である。
 
 しかし、後醍醐天皇は諦めてはいなかった。画策の中心は赦免されて都に帰った日野俊基である。とは云え、その倒幕計画は慎重になった。天皇は天徳二年(1330年)には南都の春日神社、興福寺、東大寺に行幸し、比叡山延暦寺に行幸して、社寺勢力を倒幕に引き込むことを図る。
 元弘元年、天皇は醍醐寺の文観、法勝寺の円観、浄土寺の忠円などに関東調伏の祈祷をさせる。四月二十九日、このことを報せる密告を幕府は受け取る。かくて、元弘の変が勃発する。
 事に驚いた幕府は不意をついて、俊基、文観、円観、忠円らを逮捕し、彼らを鎌倉へ送る。この時の俊基の関東への護送を描いたのが本題の道行文である。
 太平記はその道行を、きらびやかな名文で飾っているが、その道中は誠に悲惨なものであったと云う。特に俊基は、企ての急先鋒であったし、しかも重犯である。途中でいつ殺されても不思議ではなかった。今日殺されるか明日殺されるかと怯えながらの旅、一人の供も許されず、関東の荒武者に引き立てられ、粗末な伝馬に乗せられて、東海道を下って行ったのであった。
 幕府は、文観を硫黄島へ、円観を奥州へ、忠円を越後へ流刑にするが、俊基については、翌年六月、鎌倉の葛原岡で斬刑に処し、あわせて、先に正中の変で佐渡に流した日野資朝をも佐渡で斬殺する。
 
 
 その後の顛末も簡単に記しておこう。
 幕府は今回も天皇については何も手を下さなかった。先の正中の変の際の処置に習ったものであろう。ところが、八月二十四日夜、天皇は突如として皇居を抜け出し奈良に向かい笠置山に入る。その天嶮と僧兵を頼んで、はっきりと挙兵に踏み切ったのである。幕府は二十万八千の大軍をもって笠置山を囲み、笠置は落城、天皇は捕らえられて隠岐へ流される。しかし、やがて天皇は隠岐を脱出、その間諸国に反幕の火の手が上がり、遂に幕将足利高氏の天皇側への寝返りによって鎌倉幕府が滅亡に至るのは、周知の所である。
 
 
 それにしても、太平記は一体誰が書いたのであろう。小島法師が書いたものとされているが、その小島法師とは一体誰なのか。その一節を見ただけでも、並々ならぬ学識の高さを伺わせるが、同時に、天下の情報が集まる場所に身を置いていた人物であることを要件とする。
 私は、小島法師とは、隠岐へ流される後醍醐天皇を追って行き、美作の院の庄で桜の幹に十字の詩を刻んだ備後三郎児島高徳のことではないかと思っているが、もはや、その理由を述べる紙数がない。(児島法師「児島高徳」説についてはコチラ