小田二郎少佐の手記「三光」

―「三光」日本流入の記念碑的存在―


 この手記は1957(昭和32)年に発行された『三光』(カッパブックス)のなかの一編で、日本に「三光」という言葉が入り込んだハシリという意味から、記念碑的存在といえるでしょう。ですが、残虐度はほかの「手記」と比べればおとなしく、物足りない(?)とお思いになるかもしれません。
 実は『三光』には、本田義夫少佐という「仮名」が用いられ、しかも文中に所属部隊名の記述がありません。このため、調査をするにも進めようががなく、やむをえず放置しておきました。
 ですが、ほかの事件を調査中、本田義夫の実名が小田二郎 少佐とわかり、戦友会の協力のもとで検証することができました。小田二郎少佐は第63師団 隷下の独立歩兵第78大隊 の大隊長を歴任、この時代の自らの“残虐行為”を「手記」に残したのです。


 1  手記「三光」の概要

   @  拷 問 殺 害

  〈 私は河南省僕陽県の李家荘を中心とする部落を攻撃するため、1941年5月9日の深夜、大隊の総員800名をひきいて闇夜を利用して攻撃を始めた。 〉
 というところから「手記」は始まります。手記全文 ⇒ こ ち ら をお読みください。

 村は静まりかえっていました。第5、6、7中隊方面からさかんに銃声が聞こえてきますが、戦況報告があがってきません。待ち切れなくなった少佐は土塀の東門を入ります。
 そこで、甲田助五郎・第5中隊長に会うなり、「オイ、戦果はどうだ、鹵獲品(ろかくひん)はどうだ」とたたみかけますが、いい返事がありません。
 「戦果がない! 何のために射撃したのだ。貴様の中隊はなってないぞ」と少佐はどなりつけます。そのうち、甲田大尉から斉藤1等兵が行方不明になったという報告があります。
 「私はかっとなった。何たるぶざまだ。そんなことだと、第一俺の首があぶない。1等兵の命と俺の首との取り引ができるか、と思うとむかっ腹がたっておさまらない」。そこで、拷問調査を始めます。
  「私は天皇崇拝よりくる凶暴性と、中国人民に対する蔑視感から、中国人民を虫けらのように考えていた」 と自ら記す小田少佐も水責め拷問に加わりますが、だれも白状しないどころか、ある逞しい青年は「燃えるような憤激の目でにらみつけて」きます。
 そこで、その青年の50歳くらいの父親を引き出し、少佐は拳銃を息子の後頭部にあて、「残忍な顔をひきつらせながら」父親に向かって白状しないと殺すと脅します。ですが、「おれの言っておることは正しいのだ。殺すなら殺せ」と父親は決然と言い放します。カッとなった小田少佐は許司 軍曹に射撃を命じます。
 「拳銃は火を吐いて、烈々たる闘魂に燃える息子は、ぱったり前にのめるように倒れた。乾いた大地は、音もなく愛国青年の尊い命をまた吸い込んで入った」。
 そこに斉藤1等兵の手榴弾による自殺の報が舞い込んできます。自分の首を心配していた小田少佐は、心の底から安堵の笑いがこみあげてきたた、というのです。
  
  A  ナツメ林伐採

 次に小田少佐はナツメ林の伐採策にでました。
 この村の15町歩あまり、2500本のナツメが農民の生活源と知った少佐は、
 〈 私はこの棗(ナツメ)林を眺めながら、これを完全に切り倒してしまえば住民は生活の道を失い、きっと八路を離れるにちがいないとうなずきながら、つぎからつぎに音を立て、土煙をあげて倒れていくさまを、心地よく聞いていた。
 大塚信義中隊長は誇らしげに、
 「朝から100本を伐りました」
 「馬鹿に少ないじゃないか、鋸はいくらあるのだ」
 「30個あります」
 「鋸1丁で1時間2本に足らん。中隊長はやる気があるのか。・・・棗林を伐るのも戦争だ。棗林を憎しめ。この棗林のために宮尾部隊は全滅したのだぞ。午後はどうしても300本切ってしまえ」 〉

 と大塚信義中尉にハッパをかけます。
 そこにノッポの福富中尉が、戦果(馬40頭、ロバ50頭など)を報告してきますが、その手柄顔がシャクにさわります。内心は戦果に満足しながらも、「福富、思ったより少ないじゃないか・・」とさらにハッパをかけます。
 翌日、甲田大尉がヤセ細った60過ぎの男を連れてきます。男は明日からの生活の糧を失うので伐採を止めて欲しいと懇願しますが、少佐は、「何をぬかす。・・お前たちがここに2度と住めないようにするのがわしの戦法だ」とどなりつけ、蹴とばします。そして、部下に命じ射殺させました。
 連隊命令により、小田部隊がここを引き揚げるさいに、5、6、7中隊に部落を焼くように命じ、それぞれ70戸、50戸、80戸を焼き払います。
 どす黒い煙につつまれた紅蓮の炎をながめながら、小田二郎少佐は
 「ざま見やがれと腹の底から、さも憎々しげにつぶやいた
 と自分をこのように表現しているのです。


 2  意図した作り話

 ご覧いただいたように、「妊婦の腹を裂く・・」などといった「手記」に比べれば、残虐度はまあ、おとなしいと言えると思います。残虐度は別にして、表現に違和感を持った方も多いのではないでしょうか。
 「残忍な顔をひきつらせながら」 「さも憎々しげにつぶやいた」 などと、自分を表現するでしょうか。明らかに小田少佐以外の第3者でなければ書けない少佐の表情で、この種の形容が頻繁にでてきます。これは「三光」にかぎらず「手記」全体に通じる特徴です。
 このことは、「手記」を書く際に、誰かのアドバイスなりがあって、このように書いた(なかば強制された)と思われます。抑留者が「手記」を書く際に、3人の日本人が助言にあたり、何度も書き直したという経緯がありますので、おそらく当たっているのではないでしょうか。

  @  関係者が読めばすぐにわかる不思議な部隊

    少佐の「手記」は1941(昭和16)年5月9日以降 の出来事と日時を特定しています。また、小田部隊が連隊下 にあったことも明記しています。ここが真贋を見きわめる大きなポイントの一つです。

 下の表(2表)をご覧ください。表は独歩78大隊の編成表で、同大隊の戦友会が作成したものです。
 2つの表のうち、上の表は全体(除く昭和14,15、16年)、下の表は小田二郎少佐が大隊長であった時期を中心に拡大したものです。
 ( スキャナーの性能の関係で、直接関係のない昭和14、15、16年の3年間を省略してあります)

63師団独歩78大隊編成表

独歩78大隊編成表

 上の表が示すとおり、
 第63師団は(北支那方面郡の直轄師団として)、1943(昭和18)年6月末、独立混成第15旅団、第16旅団を基幹に編成されました。
 63師団は、2個の歩兵旅団(第66と第67旅団)を隷下に、各旅団は4個の独歩(どっぽ)大隊をもって編成されていましたので、8個の独歩大隊があったわけです。したがって、63師団は連隊編成ではなかったのです
 また表は、独歩78大隊は、第1中隊から第5中隊までの5個歩兵中隊、それに機関銃中隊、歩兵砲中隊とで編成されていたことも示しています。
 また、下の拡大した表から、次のことが読みとれます
 小田二郎少佐は独歩第78大隊の大隊長であったことは明記されていますが、大隊長の就任時期は、久刀川赳夫中佐の後任として昭和19年3月だったことが明記されています。ですから、1944(昭和19)年3月からから終戦までの17ヶ月が小田少佐が部隊長にあった全期間でした。
 ですから、「手記」にある1941年は小田少佐は部隊長ではありませんでした
 では、1941年当時、小田少佐はどこにいたのかといいますと、第35師団隷下の旅団の副官(大尉)でした。旅団副官という役目がら、部隊を指揮することはまずなかったのです。
 
  A  登場人物は実在するのだが

 さらに、おかしなことがあるのです。登場人物のほとんど(すべて?)が、小田少佐が部隊長であった時代の実在の部下なのです。
   甲田助五郎大尉(第5中隊長)、大塚信義中尉(第7中隊長)、福富(秀雄)中尉、許士軍曹、
 それにここでは書けませんでしたが、榎本栄一中尉(大隊副官)、清水藤三郎中尉らも登場しますが、すべて実在の部下だったことに間違いありません。
 つまり、1941年という、甲田大尉ら登場人物からすれば、まったく関係のない時代にさかのぼって、自分たちが実名で登場する、不思議な「手記」になっているわけです。
 もちろん、大塚信義(一義の誤り)中尉は、第3中隊長であって、第7中隊長であるはずもありません。なにせ、第5中隊までしかなかったわけですから。
 ですから、独歩78大隊の人たちが読めば、おかしな話だと思うわけです。では、なぜこのようなおかしな「手記」が生まれたのか、だれでも疑問に思うことでしょう。
 78大隊の間からは次のような推測が生まれていました。つまり、小田少佐は「手記」が虚偽であることを関係者が見分けられるように、「シ グ ナ ル」 をそこに秘めたのだと。

  B  戦友会の会報「戦友」より

  〈 この本(『三光』のこと) が出版された当時、一部読書家の戦友はいちはやくこれを知り、苦渋を飲む思いで読み、口を閉ざした。筆者がこのことを知ったのはズット後のことで・・・〉
 と戦後、教職にあった元将校は、「戦友」に書いています。さらに、
 〈 昭和16(1941)年の5月、78大隊は河北省の固安にあり、小田少佐はまだ大尉で35師団の旅団副官であったから、甲田大尉を指揮する筈もない。僕陽は35師団の警備範囲で78は行ったこともない。宮尾部隊の全滅も斉藤1等兵の逃亡もない。〉

 〈 もっと肝心な事は、昭和19(1944)年3月、小田部隊長着任後、大隊総員800名を指揮して出動したことは1度もないし、勿論部落に放火したこともなければ棗林を伐採した覚えもないのだ。 〉

 〈 鶏や卵を失敬した事もあろうが、78大隊の軍紀は比較的厳正であり、『三光』に書かかれるような悪逆非道な部隊ではないのだ。 要するに『三光』は大嘘という事である。 〉

 と言い切っています。

 63師団から岸川師団長ら、独歩78大隊からは小田少佐のほかに関口藤治中尉(第2中隊長)ら5人が抑留者となりました。しかし、この5人の名前が「手記」にはでてこないのです。
 そこで、部隊関係者が読めば「虚偽」と判断がつくように、わざわざこのような矛盾に満ちた部隊下での出来事を書いたのだ、という推測が生まれるのです。
 そして、 「冷静でしたたかな計算がかくされているのを読みとることができるのだ」 という元将校の見方が戦友の間で支持されています。

  C  戦友会側の反論

 独歩78大隊の戦友会に出席し、聞き取り調査をしました。また、「戦闘詳報」についても当たりました。
 長くなりますので、戦友会側の反論をいくつか書き出しておきましょう。
 ナツメ林伐採について、「そんなバカな作戦があるはずがない」 と強い調子で話すのは一村成彦・第4中隊長 でした。一村中隊長の名前は上の表に出ています。ナツメ林はどの部落でも多く見られたといいますが、それを伐採することは村民を敵に回し、日本軍にとって何一つ利点がないというのです。
 一村・元中隊長は独混15旅時代から78大隊にあって、常に第一線に立ち、もっとも実情に詳しい一人です。話によれば、小田少佐とは折り合いが悪くかったと自ら話しています。ですが、「手記」のような行為はなかったと断言していました。
 また、他の戦友の話も大差ありませんし、現存する「戦闘詳報」 のすべてに目を通しましたが、戦果といえば、「遊撃小組射殺3、小銃1、手榴弾6、地下壕覆滅21・・」といった程度であって、部落を焼くといったことを窺い知るような記述にぶつかりませんでした。
 「手記」の真贋はハッキリしている と思います。
 むしろ問題なのは、筋立てといい、表現といい、こんな3流映画の脚本のような「手記」が、歴史学者、教職員、文化人らの間で信じられているというおかしさでしょう。


―2005年 5月 1日より掲載―


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