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♪鐘は上野か浅草の~。 [気になるエトセトラ]

三社権現.JPG
 さて、三社権現なのだ。幕末から明治にかけ、三社明神と名前が改められ、おそらく直後に廃仏毀釈で明治政府から押しつけられたのだろう、1872年(明治5)にわけのわからない「浅草神社」という名称に変えられてしまった。親父は育った家庭環境Click!からか、この「じんじゃ」という呼称には終生違和感を感じており、「神田生姜」(神田明神のこと)とか「神社ビール」(下戸の親父がよく注文したジンジャーエールのこと)とか言って、明治政府の不粋なネーミングを揶揄しつづけ、日本の神々を差別して“等級づけ”し、国家神道や戦争の“道具”に利用された「じんじゃ」という妙な言葉は、できるだけ避けてつかわないようにしていた。
 何年か前、浅草寺に出かけたついでに、東側にある三社権現(明神)あたりもブラブラ歩いたのだけれど(子どものとき以来だ)、周辺の街並みや風景のあまりの変わりように、それが三社権現(明神)であることにさえ気づかなかった。それに、親父は「三社さん(ま)」と呼んでいたので、三社権現=「浅草神社」へにわかに結びつかなかったのだ。社(やしろ)自体も、鮮やかに塗りなおされていたのでなおさらだった。しばらくは、浅草寺の伽藍の一部のように見えていたりする始末。それが、親父に連れられて歩いた「三社さん」だったと、ハタと気づいて思い出したのは家に帰ってきて、少し時間がたってからのこと。そう、親父に連れ歩かれたときの紹介が、江戸の昔からの名称「三社さん」だったので、よけいにピンとこなかったのだ。日本橋界隈は、神田明神の氏子町であって、三社さんとは昔からイマイチ縁が薄い。
 “しばらく”たってから気づいた三社さん、シャレじゃないけれど、ここは歌舞伎の『暫(しばらく)』にゆかりのあるところ。拝殿の左手に、戦前は9代目・市川団十郎が演じる『暫』の、鎌倉権五郎のいわゆる「元禄見得」をきっている銅像が建っていたそうだ。親父と歩いたとき、戦争で団十郎が溶かされた・・・とかいう話も、おぼろげながら聞いた憶えがあるようなないような・・・。戦前の銅像は、彫刻家・新海竹太郎の制作で、森鴎外の撰文に中村不折Click!の揮毛、「九代目市川團十郎」の文字は西園寺公望Click!が書いている。1980年代に入ってから、像を復活させる運動がにわかに起こり、1986年(昭和61)に三社さんの横手ではないが、浅草寺の北側、浅草寺病院の近くに9代目・団十郎像はよみがえった。それについて、親父がなにか言っていた記憶がないので、浅草が地場ではない親父には、それほどの感慨がなかったものだろうか。
三社権現1950.jpg 団十郎暫.jpg
 三社さんについては、いまさら解説するまでもないだろう。主柱は檜前浜成、檜前武成、土師真仲知の3神で、このうち檜前(ひのくま)兄弟は宮戸川(別名:浅草川=現・隅田川の一部)を漁場にするナラ時代の漁師だ。628年ごろ川で漁をしていたところ、小さな観音像がひっかかり、それがのちに金龍山・浅草寺の縁起になったとのこと。どこまでが事実かは不明だけれど、江戸浦の浅草湊は、三浦半島の六浦(むつうら=現・金沢八景)とともに、最新の研究によれば古墳時代から天然の良港として繁栄していたらしく、古代における太平洋沿岸の物流の一大拠点として機能していたようだ。だから、なんらかのいわれが地元でエンエンと伝承されてきたものと思われる。
 余談だけれど、明治政府の神祇官が「勅命」とか称して、浅草寺の絶対秘仏だった観音像を無理やり開帳させ、スケッチしていったバチ当たり事件があった。(明治政府はどこまでバチ当たりClick!なんだろう) そのスケッチによれば、大きさが約20cmほどの、小さな両手両足のない聖観音像だったらしい。この神祇官は、秘仏を見たあと災難に遭って死んだかどうかまでは知らないが、のちに遺族がスケッチを浅草寺へひっそりと返還(奉納)している。
 三社さんの三社祭(さんじゃまつり)は、最近は地元の暴力団がらみの荒っぽい祭りとして、警察沙汰が多いことで有名になってしまったけれど、通称「三社祭」と呼ばれる歌舞伎舞踊『弥生ノ花浅草祭(やよいのはな・あさくさまつり)』の演目でも知られている。初春のおめでたい歌舞伎として、正月の出し物で演じられることが多い。なぜ「弥生」なのかというと、現在の5月17日~18日の祭礼とは異なり、江戸時代には三社さんの祭日は旧暦の3月17日~18日だったからだ。舞踊のほかにも、清元でも「三社祭」は昔から人気があったようで、子供のころから清元を無理やり習わされていた親父の、どうやら十八番(おはこ)のひとつだったらしい。「♪弥生なかばの花の雲~鐘は上野か浅草の~三社まつりの氏子中~」・・・と、清元の中でも超有名な曲だ。
三社祭舞台.jpg 三社権現切絵図.JPG
 三社さんの社殿は、東京大空襲Click!でも奇跡的に焼け残り、いまでは国の重要文化財に指定されている。1996年(平成8)に鮮やかな色に塗りなおされたせいだろうか、子供のころの印象とはまるっきり異なり、浅草寺の伽藍のひとつのように見えてしまった。なんとも情けない話なのだけれど、三社祭が暴力団の資金源になっていそうなのは、もっとさらに情けない。

■写真上:鮮やかな色に塗りなおされた、浅草の三社権現社(浅草神社)。
■写真中は、1950年(昭和25)ごろの三社権現。は、9代目・市川団十郎の鎌倉権五郎。
■写真下は、歌舞伎舞踊『弥生ノ花浅草祭』の舞台で7代目・坂東彦三郎(右)と2代目・尾上松緑(左)。は、1853年(嘉永6)出版の尾張屋清七版「今戸箕輪浅草絵図」にみる三社権現。


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夢でよかったおめでたい話。 [気になるエトセトラ]

竹芝埠頭1.JPG
 あけまして、おめでとうございます。本年も、Chinshiko Papalogをよろしくお願い申し上げます。今年は仕事の都合で、ちょっとペースダウンして不定期掲載にしたいと思います。さて、せっかくのお正月なので、東京に伝わるおめでたい人情物語からスタート。^^
  
 鮮やかな桃色が美しいシバエビの獲れる芝浦(芝浜)だけれど、いまでもシバエビが獲れつづけていて、神田川のアユと同様に増加傾向にあるのは、あまり知られていない。「昔は芝浦で小エビが獲れたからシバエビというんだよ」・・・という話を聞くけれど、昔というのは高度経済成長の前を指しているようだ。そんなことはない、江戸前の漁師が70年代までに「漁業補償」で廃業に追いこまれ、漁をする人間がいなくなってしまったから、少しはキレイになった海でシバエビは増えつづけているのだ。汚れてしまった東京湾のイメージが、延々と流されつづけてきたせいだからだろうか、江戸前の魚介類がいつのまにか復活の兆しを見せていることに気づいている人は少ない。
 大正期から東京湾を指す、あるいは東京の職能や技術、意匠を指す言葉だが、江戸期には千代田城の城“下町”そのもの、明治期には東京の川で獲れるうなぎClick!のことを指している。
 同じように気になるのは、つい先日もNHKのアナウンサーがニュース番組で言っていたのだけれど、「最近は、めったに東京から富士山が見えなくなりましたから」というのがある。お言葉ですが、東京地方から富士山はしょっちゅう見えてClick!おり、ウソを報道してはいけない。これも、スモッグがひどかった高度経済成長時代に作られた、ニュースでお決まりの常套句なのだろう。東京以外の地域の方が聞いたら、「東京から富士山はよう見えへんのやて」と誤解してしまうじゃないか。当の「現場」にいるのだから、ちゃんと自分の目で見て、確めてから報道してほしい。
 ちなみに、都心の日本気象協会から富士山が見えた日数は、このところ年間でトータル60日前後、つまり2ヶ月前後で、平均すれば6日に一度は必ず見えていることになる。曇りや雨の日、あるいは梅雨どきに見えないのはあたりまえだから、快晴日に見えるこの日数は決して少なくはない。1年の半分は曇りまたは雨だから、富士山の見える晴れの日は、3日に一度ぐらいになるだろう。いまの季節だとほぼ毎日見えており、日数は年々増えてきている。これを、「めったに」とは誰も言わないだろう。都心をやや離れて山手線の外周域(東京西部)へ行けば、富士山はもっと頻繁に見えているにちがいない。60年代から80年代にかけ、年間に数日しか東京から富士山が見えなくなってしまった時代があった。そのときのフレーズを、なんの疑問もなくエンエンと繰り返してきたのだろうか?
富士山.JPG 芝浜の革財布.jpg
 さて、シバエビの芝浦だ。伊豆諸島または小笠原諸島へ出かけるか、東京湾クルーズでお茶や食事をするときぐらいしか用のない竹芝桟橋Click!だけれど、ここがまだ「芝浜」と呼ばれていたころの物語。ちなみに、芝浜の海岸線は、現在の東海道線や山手線が走っているあたりにあった。現在は、海岸線が埋め立でずいぶん南に下がってしまっている。おそらく知っている方も多いだろう、三遊亭円朝の人情噺『芝浜の革財布』。歌舞伎では竹芝金作が書き、6代目・尾上菊五郎が演じて当たりをとった世話狂言としても有名だ。のちに、芝居では巖谷真一による新しい台本も書かれている。三遊亭円朝の原作とされることが多いようだけれど、もっと以前から物語「芝浜」として伝わっていた様子もあるので、円朝が江戸期からの伝承を人情噺に仕立てなおした可能性が高い。
 江戸時代、芝浦の街に政五郎という魚屋が住んでいた。ある日、ねぼけた政五郎は魚市場へ早く出かけてしまい、芝浜で二分金がザクザク入った革財布を拾う。生来なまけものの政五郎は、これで魚屋なんぞやめていくらでも酒が飲めらと、さっそく家に帰っては近所の仲間を集めて宴会をし酔いつぶれてしまった。やがて、目がさめて起きあがると、女房が不思議な顔をして「おまいさん、寝言でお祝いお祝いって、いったいなんのお祝いなんだえ?」。政五郎は、芝浜で拾った革財布の一件を話すと、「やだよこの人(しと)、おめでたい夢でもみてたのさ。いいかげんにおしな、さっさと仕事に行っといで」ということで、残ったのは酒代の借金だけとなってしまった。酒の飲みすぎによる痴呆症かもしれないとショックを受けた政五郎は、それ以降、飲むのをピタリとやめ商売に精を出すようになる。
竹芝埠頭2.jpg 晴海埠頭.JPG
 料簡を入れ替えた政五郎は、棒手振(ぼてふり)のしがない魚屋から、街の裏店(うらだな)へ小さな見世を出す魚屋へ、そしてついには表通りに面して見世をはる表店(おもてだな)の大きな魚屋へと成長していく。やがて、正月を迎える準備が整った表店の大晦日、禁酒をつづけてきた政五郎に女房がめずらしく「ご苦労だったねえ」と1本つけた。そして、二分金がぎっしり詰まった革財布を出してきて、「実はね、おまいさん、あれは夢なんかじゃなかったのさ」と告白する。役人にとどけたけれど落とし主が現れないので、革財布は拾い主へ払い下げになっていたのだ。亭主に身を入れて働いてほしい女房が、とっさに打った革財布をめぐる大芝居。酒をすすめる女房に、「おっと、よそうよそうや。この財布が、また夢になるといけねえ」・・・というのが、円朝噺のサゲだ。
 東京港を眺めていると、たまに晴海埠頭へ世界一周クルーズの豪華客船が入港しているのを見かける。一生に一度は乗ってみたい夢のクルーズなのだけれど、二分金がぎっしり詰まった革財布をはたいて空にしても、きっとまだぜんぜん足りないのだろう。

■写真上:海上から眺めた、芝浦の竹芝桟橋ターミナル。
■写真中は、目白崖線上から眺めた富士山。は、戦前の歌舞伎『芝浜の革財布』の舞台で、六代目・尾上菊五郎の政五郎(右)と、三代目・尾上多賀之丞の女房(左)。
■写真下は、1950年(昭和25)ごろの竹芝埠頭で、現在のような旅客ターミナル施設はまだない。は、晴海埠頭のあたりで先ごろ退役した南極観測船「しらせ」が停泊しているのが見える。


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二宮尊徳と相馬家との深い関係。 [気になる下落合]

目白の二宮金次郎.jpg 二宮金次郎像2.jpg
 以前、下落合の御留山Click!(現・おとめ山公園)に建っていた、相馬孟胤邸Click!の内部を撮影した写真の中で、応接間の窓際に薪を背負って本を読む、「二宮金次郎」の彫刻らしいフォルムを見つけて書いたClick!ことがある。そう、その像は間違いなく二宮金次郎(正しくは金治郎のようだ)=二宮尊徳であり、相馬家と二宮家とは浅からぬ関係で結びついていたのだ。その情報をいただいたのは、当の将門相馬家のご一族である相馬彰様からだった。そして、二宮家と中村藩相馬家とは姻戚関係にあり、そのつながりは江戸時代にまでさかのぼる。
 江戸時代も後期に入るにつれ、幕藩体制における各藩の財政は、相次ぐ飢饉によって急速に逼迫の度を加えることになる。徳川幕府の譜代大名だった相馬中村藩(現・福島県相馬市とその周辺域)もご多分にもれず、たび重なる凶作で藩財政は火の車となっていた。各藩では、租税が軽減される新たな農地の開拓や、洪水の際に農地へのダメージをできるだけ軽減する治水事業、新規の地場産業の育成などに力を注いだ。余談だけれど、将門相馬家は鎌倉幕府が成立して以来、同地を動くことなく治めつづけており、日本はおろか、世界的に見てもこれほど長く同じ地域を統治した領主はまれな存在だ。現在でも相馬家が、同地でことさら親しまれているゆえんだろう。
 1833年(天保4)からはじまった天保の大飢饉で、中村藩は藩の存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けた。このとき、表高では6万石とされた相馬藩の収入は、わずか457石にすぎなかったと伝えられている。相馬中村藩では1845年(弘化2年)、農政改革や質素・倹約、協働、互助、譲り合いなどを思想的な軸とする、二宮尊徳が唱えていた「二宮仕法」の本格的な導入を決定している。これにより、中村藩とその藩民の窮状は幕末に向けて急速に回復していき、「二宮仕法」は廃藩置県後の明治期までつづけられることになった。
 明治維新の直後、幕藩体制が崩壊する混乱の中で、二宮尊徳に恩義を感じていた相馬中村藩では、尊徳の孫にあたる二宮尊親一族を相馬家の国許へ招聘している。こうして、「二宮仕法」による中村地方の農政改革を、そのまま引きつづき二宮家が担当することになった。そして、二宮尊親の娘、すなわち二宮尊徳の曾孫である女性こそが、相馬彰様のお祖母様にあたる方だ。相馬家と二宮家とは、明治以降により強い絆で結ばれることになった。
相馬邸応接室.jpg 相馬邸二宮金次郎.jpg
 わたしが小学校時代、道徳か社会の授業で二宮金次郎(金治郎)は登場していた。二宮家は湘南の小田原(一説では、もともとは大磯Click!の隣りの二宮)出身であり、地元の物語として授業の副教材に取り入れられていたのだろう。だから、本ばかり読んでぜんぜん遊ばない、湘南ボーイらしからぬ二宮金次郎は、ことさら印象的であり、いまでもどこか畏敬とともに親しみをおぼえる。(ちなみに、わたしは金次郎とはまったく正反対の少年時代をすごしている) また、江戸時代に冬みかんが収穫できる北限地は湘南・二宮であり、その開拓とみかんが採れるまでの苦労物語に子供のころ感動したせいか、よけいに「二宮」というワードが記憶に残ったのかもしれない。
 戦前、小学校の校庭には、たいがい二宮金次郎の像が置かれていた。銅製がもっとも多かったようだが、石製やコンクリート製、陶製のものも少なからず存在していた。銅製の金次郎像は、戦時中の金属供出でほとんどが消えてなくなり、石製やコンクリート製のものが戦後までかろうじて残されていた。戦後にGHQが、民主的な教育を阻む象徴として撤去したという話も多く聞くけれど、占領軍の教育機関からそのような指示が出された事実は見あたらない。金属でできた日本じゅうの二宮金次郎像は、すでに戦時中から、とうに消えて溶かされていたのだ。戦後の混乱期における記憶の齟齬か、あるいは戦前の残滓を取り除くために、学校側が“自主規制”で撤去したか(GHQの名を借りたかもしれない)のどちらかだろう。
 仁や徳を基盤とする、いわば「社会主義」的あるいは「共産主義」的な発想、または“キリスト者”的な匂いさえどこかに漂う二宮尊徳の思想と、戦前の軍国主義に象徴的な忠君愛国の「亡国思想」とは、どう見ても重ならず異質のものだ。中国が、ずいぶん以前に「学ぶべき日本人のひとり」として二宮尊徳の名を挙げていたのも、なんとなくわかるような気がする。
二宮尊徳像.jpg 二宮家住宅.jpg
 目白・下落合界隈では、かろうじて目白小学校(旧・高田第五尋常小学校)に、二宮金次郎像が現存している。この小学校に残る像は、めずらしいことに陶製なのだ。一度は強風で倒れて腕を骨折し、“治療”したら今度は生徒が投げたボールが当たって、手の上の本が砕けてしまった。だから、目白小学校の金次郎はしばらく前まで読書をしていなかった。
 さんざんな目に遭っている目白の金次郎なのだけれど、これでようやく、いつでも遊びに出かけられそうな湘南ボーイになったので、今度、手の上にPSPかケータイでも載せて撮影してあげようか・・・などと思っていたら、いつの間にか再びしっかり本を持たされてしまった。せっかくだから、もう少し遊ばせてあげてもよかったのに。

■写真上:目白小学校に残る、陶製でめずらしい二宮金次郎像。は、本ではなくケータイが欲しそうな修復前の金次郎。は、いつの間にか本を持たされていた現在の姿。
■写真中は、相馬邸の応接間で1936年(昭和11)の1月に撮影された『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。は、二宮金次郎像の拡大。
■写真下は、伝えられている二宮尊徳像。は、小田原に現存する生家の二宮家住宅。


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これからというときに逝った松下春雄。 [気になる下落合]

松下春雄旧邸跡.JPG 松下春雄家族写真.jpg
 1928年(昭和3)3月になると、松下春雄Click!は「八島さんの前通り」近くの3年間住んだ下落合1445番地から、目白文化村Click!の第一文化村に接する北側、下落合1385番地Click!へと転居している。相変わらず「下落合風景」を描きつづけていたが、同年3月20日の引っ越しは新婚生活のためで、翌4月6日に渡辺淑子と結婚している。
 この年、出身地である名古屋で定期開催されていた「サンサシオン」第5回展に『木蔭』を出品し、第9回帝展には『草原』を出して入選している。ともに自宅の近所を描いた「下落合風景」だが、このころから松下は水彩ではなく油彩で絵を描くことが多くなり、出品された両作ともに油絵だ。『松下春雄作品集』(名古屋画廊/1989年)から引用してみよう。松下没後の1934年(昭和9)に発行された、『美術』2月号に載った辻永の文章だ。
  
 昭和三年(二十六歳) 自分の感じを表現し又自分の力を盛るためには最早や水彩画ではもの足らなさを痛感したのであろう。水彩画を擲つやうに捨てゝ、今迄の額縁などもすつかり人にやつて仕舞つて断然油絵に転向した。そして秋の帝展には居宅附近の草原を写して出品して又首尾よく入選した。聡明なる君の作品は最初は水彩画の連続として相当明るいものであつたが、質実を旨として印象派風から遠ざかつたその作品は年々健実味(ママ)を加へ、又漸く人物画家として立たうと決心してからは特に重厚な画品を供へるやうになり周囲の人達とかけ離れて一人超然として独自の境地を開拓することに猛進したのである。 (辻永「松下春雄君を憶ふ」より)
  
松下下落合文化村入口1925.jpeg 文化村入口2008.JPG
松下春雄木蔭1928.jpg 松下春雄草原1928.jpg
 結婚した年の12月に長女が産まれると、精神的にも安定し制作意欲が高まったものか、精力的な創作活動をつづけている。「下落合風景」を主体に、風景画ばかりでなく人物画も多く手がけるようになっていく。出品する展覧会も増え、故郷のサンサシオンをはじめ、日本水彩画会、光風会、本郷洋画展、聖徳太子奉賛美術展などへ次々と作品を送り、帝展にも毎年入選しつづけている。1929年(昭和4)6月に杉並町阿佐ヶ谷へ引っ越し、翌年の1930年(昭和5)の第12回帝展では、ついに『花を持つ女』が特選に選ばれている。
  
 僕は特選にならうとは夢にも思ひませんでした。僕にはまだ早いやうな気がするのです。来年こそはと思つてゐたのに一年早く来たのです。これからが大事だと思ふと何かしら変に緊張した気がします。 (「名古屋新聞」1930年10月15日号より)
  
 1932年(昭和7)4月、松下春雄は再び落合町へともどってくる。自宅を新築してアトリエを構えたのは、落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)、これが松下の最後の住居となった。すぐ目の前の葛ヶ谷303番地(西落合1丁目303番地)には、刑務所から仮釈放されたばかりで一時期は上落合にもいた柳瀬正夢Click!が住んでいて、松下の建てたアトリエを頻繁に借りては仕事をしていた。松下アトリエで仕上げられた柳瀬の作品には、『Kの像』(1934年)などがある。また、松下アトリエの南側、西落合1丁目279番地には、やはり結婚したばかりの丸井金猊が、1937年(昭和12)にアトリエを構えることになる。葛ヶ谷へアトリエを建設したころから風景作品は極端に減り、松下の画業は人物と静物が中心になっていく。
松下春雄夏木立1928.jpg 松下春雄庭先1929.jpg
松下アトリエ1938.jpg 松下アトリエ1947.JPG
 同年10月に開催された第13回帝展には、『機織』が無鑑査で出品されている。同年の『パレット』No.30に掲載された、織田善雄の文章から引用してみよう。
  
 (前略)「機織」は去年の帝展出品画であり、大作であるが、他は新作が多いと聞く。新作はすべて明るい。ともすると、ヤニ色が少し気になつた過去が、すつかり清算されてゐる。「花」「画室にて」「母子小品2」「早春」など、最も僕の好きなものであつた。特に「早春」の美しさからは、「詩」が香高く迫つて来た。無雑作にして細かく描いてないやうで描いてある。統一された情緒が気持よかつた。人物・風景・静物いづれをも、統一された個性で描きこなせる人は、松下君よりない。 (織田善雄「第十回サンサシオン展を見て」)
  
 1933年(昭和8)には長男が産まれ、松下春雄は30歳になった。この年も押し詰まった12月、故郷の名古屋に帰った彼は、ついでに伊勢旅行を思い立って出かけている。その後、12月下旬に西落合の自宅にもどってから急に体調を崩し、そのまま帝大病院へと入院。12月31日に、急性白血病のため急逝した。12月19日にはいまだ元気で、名古屋の友人たちと会っているので、東京へもどってから入院して急死するまで、おそらく1週間ほどではなかっただろうか。鬼頭鍋三郎が死の直後、「名古屋毎日新聞」1934年1月12日号に寄せた文章から引用してみよう。
  
 暮の十二月五日から十九日まで名古屋へ松下が来てゐて、その間僕は三度会つた。・・・今度あつて異様に深く感じたことは彼の絵画に対する熱情である、それは全く信仰とも云つてもいいと思ふ程なもので、僕も大いに彼によつてネヂをかけられた訳だが、彼自身餘りにネヂを巻き過ぎて、ゼンマイをこわしてしまつた。 (鬼頭鍋三郎「死の前後(上)画人松下春雄のことゞも」より)
  
柳瀬正夢K氏の像1934.jpg 松下春雄デスマスク.jpg
 松下春雄よりもスタートが遅かった、佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!に隠れがちな彼の「下落合風景」Click!だけれど、その作品を一同に集めた「松下春雄展」が東京で開かれないのは、なんとも寂しい気がする。松下の死の翌年、1934年(昭和9)の第15回帝展では、絶筆『母子』が再び特選に選ばれている。

■写真上は、目白文化村に接する下落合1385番地の松下春雄邸があったあたりの現状。は、死の前年1932年(昭和7)の正月に撮影された家族写真。
■写真中上上左は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』。上右は、現在の同所だが箱根土地本社の庭「不動園」の盛り土が削られ平地になっているため、視点の高い同作の描画ポイントには立てない。下左は1928年(昭和3)の『木蔭』で、下右は同年制作の『草原』。いずれも下落合を描いた風景だが、目印となるような道路や建築物がなく描画場所は不明だ。
■写真中下上左は1928年(昭和3)制作の『夏木立』で、上右は1929年(昭和4)ごろ描かれた『庭先』。松下は1929年(昭和4)6月ごろまで下落合1385番地にいたので、冬枯れが残る『庭先』は同所の可能性が高い。下左は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる西落合1丁目306番地界隈。昭和10年前後の地番変更で、306番地が305番地になっている。下右は、1947年(昭和22)に撮影された同所。5棟の家のうちのいずれかが、旧・松下春雄邸だと思われる。
■写真下は、1934年(昭和9)に松下のアトリエを借りて完成した柳瀬正夢『K氏の像』。は、1934年(昭和9)の正月に描かれた鬼頭鍋三郎『松下春雄デスマスク』。
 


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大正時代の結核予防最前線。 [気になる下落合]

血を吐く男1921頃.jpg
 戦前、結核は「死病」と呼ばれて非常に怖れられたけれど、罹患した人のそばへ寄ると伝染するから近寄らない・・・という、結核に対するシンプルなとらえ方や考え方は、実は江戸時代に「労咳」と呼ばれたころからの“俗説”だったことが、早くも大正期の社会には一般的に普及しはじめていた。日本人の大多数は、生まれてからとっくの昔に結核菌を体内に保有しているのであり、それが発病Click!するかしないかの分かれ目は、本人の生活習慣や体質によるものだとする見解が、西洋医学の立場から次々と世間に発表されている。
 中村彝Click!が晩年にかかった主治医であり、東京市結核療養所(江古田結核療養所)の副所長だった遠藤繁清Click!医師も、講演や雑誌類の記事執筆を通じて盛んに啓蒙活動を行なっている。さまざまな誤解や、病気に対する間違った認識から、逆に結核にかかる危険性を豊富な実例をしめしながら紹介し、むしろ子供時代(小学生と特定している)のころに結核菌が体内に入ることを、免疫を獲得する意味でもたいへん重要なことと“推奨”しているのだ。遠藤の結核に関する認識は、小学校におけるツベルクリン検査と陰性の子供に対するBCG接種として、そのまま現在でもまったく変わらずに受け継がれてきている。子供時代を通じて結核菌に侵されないと、むしろ大人になってからの発病の危険性が急激に高まることまで指摘していた。1922年(大正11)に発行された『婦人画報』2月号の、遠藤医師による「結核予防に関する世人の誤解」から引用してみよう。
  
 結核菌は現在到る処に散在しますから、大概の人は、少年期から青年期にかけて、其侵入を受けてしまいます。従て大都会の住民中、大人になつてもまだ、結核菌一疋だも持ち合せぬ者などは殆ど無く、若しありとしても、全く例外と云つてよい、其事は反応検査や病理解剖によつて明瞭であります。/斯く、大都市の大人は、大概結核菌の侵入を受けたのであるが、皆が皆肺病になりはせず、成るのは僅少の部分に過ぎず、他の大多数は菌を有しながら、健康を保ち居るのであります。故に結核菌が飛び込むが最後、必ず肺病に罹らざるを得ぬといふものでない事が明かで、等しく菌の侵入を受けながら、或者は肺病を起し、或者は起さぬ。故に結核菌の侵入(伝染)と肺結核の発病とは別個の問題と見ねばならないのであります。
  
結核菌.jpg 彝アトリエ近影.JPG
 大正中期、日本の人口は6千万人ほどだったが、その中で肺結核を発病している人数は100万人超の約2%と推定されている。東京市内だけを見ても、おおよそ10万人以上の人たちが結核を患っていた。これは、貧富の差や地域別に関係なく、東京市全体に在住する各階層にまんべんなく患者が存在していた。子供時代から、身辺の衛生面にことのほか気をつけ、結核菌を寄せつけないような家庭で育った人ほど、逆に大人になってから罹患するケースが多いことを指摘し、遠藤は免疫力の重要性を強く指摘している。
 また、貧困層が集団で罹患するケースも紹介され、過酷な肉体労働や不摂生の連続により体力が低下しているとき、体内で結核菌が制圧できなくなって急激に増殖し、肺結核を発症することも挙げている。遠藤医師は、可能な限り休養や睡眠を多めに取り、特に酒やタバコなど免疫力を低下させるような嗜好品の過剰摂取を控えて、健康に留意するよう奨めている。
  
 然らば抵抗力の欠乏は如何なる場合に来るかと云ふに、夫は種々雑多でありますが、一言にして掩へば、生活上の無理と申して差支ないと思ひます。例へば万事不規律な生活、酒色其他の不健全な夜ふかし、過激の労働、体力不相応の運動甚しき粗食、種々の原因による憂鬱煩悶、閉ぢ籠めたる室内の生活、休養の足らぬ職業、気苦労多く暮らし、病後産後等の休養不足等、要するに体力を甚しく消耗して、之を補給する途に乏しき様な生活を続ける時に、肺病が起り易いので、之等の無理が動機となつて、従来潜伏し居つたものが爆発するのでありますが、先天性要因のある人は、此無理に堪へる力が比較的乏しいのであります。尤も日頃の心掛け次第で体質を改造する事は必ずしも難事ではありませぬ。
  
結核レントゲン.jpg 静物1921頃.jpg
 最後に、患者を隔離すれば結核の伝染は防げる・・・という単純な考え方に対して、「只他人からの菌のみ用心して、夫さへ守れば大丈夫と安心して居ると大変な誤りでありますが、事実は此誤解等が大多数でありますから、夫で私共は微力ながら数年来此の方面の知識の普及に努めて居るのであります」と結んでいる。
 遠藤医師によれば、中村彝が結核を発症したのは極端な粗食Click!と不摂生、そしてストレスClick!の蓄積による「憂鬱煩悶」による・・・ということになるのかもしれない。おそらく結核をめぐる上記のような意見を、遠藤は彝にも詳しく話して聞かせただろう。1921年(大正10)の初めあたりに、彝は遠藤繁清・著の『通俗結核病論』をすでに読んでいる。晩年の彝は、小熊虎之助Click!から紹介された遠藤医師を深く信頼していたようなので、彼の言葉に耳を傾けていたにちがいない。

■写真上:1921年(大正10)ごろに描かれた中村彝『血を吐く男』の鉛筆素描。彝の死後にアトリエ保存のために結成された、「中村画質倶楽部」の所蔵印が右下に押されている。
■写真中は、結核菌の顕微鏡写真。は、中村彝アトリエに残る濃い屋敷林の現状。
■写真下は、結核患者のX線写真。は、冒頭の『血を吐く男』の表面に描かれた『静物』。


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会費1円で「こりゃ安い!」1930年協会。 [気になる下落合]

佐伯祐三マンガ.jpg 佐伯祐三写真.jpg
 大正期に洋画家たちがよくマンガを描いていたのを、曾宮一念Click!中村彝Click!岸田劉生Click!を例にあげてご紹介Click!にしたことがあったけれど、今度は1930年協会の“マンガ家”たちについてご紹介したいと思う。1927年(昭和2)発行の『アトリエ』7月号に掲載された、同協会の画家たちが互いに描き合ったマンガと、日置加賀夫の文章とがそれだ。
 この時期、1930年協会のメンバーたちは、第2回1930年協会展Click!の仕事や展示準備で忙しかったのではないか。『アトリエ』7月号は6月中に出ていると思われるが、おそらく同展の真っ最中に書店の店頭へ並んだものだろう。もっとも多く描いているのは木下孝則だが、彼がいちばんヒマだったのだろうか。8点の似顔絵のうち、半分の4点を彼が描いていた。また、2点をなぜか1930年協会へ参加してたとも思えない野長瀬晩花が描き、1点を前田寛治が、最後の1点を木下孝則の兄である木下義謙が自身で描いている。『「一九三〇年丸」の乗組員』と題する記事を、少し長いが同誌から引用してみよう。
  
 一九三〇年協会は日本通ひの汽船です/ひるがへすオレンヂ旗も美し
 口笛も爽やかに里見氏は/汽罐部室で閑言
 あゝ バーミリオンに燃ゆる、/ノアール・デイボアールの石炭は美しと、
 さてまた厨房で/小鴨や玉葱をクツクするのは/林武氏、佐伯夫人、
 写実ならでは夜も明けぬ、前田寛治氏/『靴屋』もやつたり『花』もいけ!(ママ)
 船客掛は野口氏や木下兄弟
 パリ仕込みのあか抜けた/日本娘の御相手するのは孝則氏
 老人やN夫人と五月の庭や吊橋の礼/賛するのは義謙氏だ。
  
 木下兄弟は「船客掛」で、渉外的なお相手ばかりしているようなので、やっぱり少しヒマだったのかもしれない。(爆!) 里見勝蔵Click!がこのころ、バーミリオンに取り憑かれている様子がみえて面白い。同じ時期、佐伯祐三Click!バーミリオンClick!をよくパレットに絞り出していた。下落合の家々には、オレンジがかった赤い屋根が多かったせいだろう。何枚も描いた八島さんちClick!の屋根も、バーミリオンがつかわれている。松下春雄Click!が描いた「下落合風景」シリーズClick!にも、赤い屋根の家が数多く登場していた。
林武マンガ.jpg 林武写真.jpg
前田寛治マンガ.jpg 前田寛治写真.jpg
野口弥太郎マンガ.jpg 野口弥太郎写真.jpg
  
 海がしけて空かき曇りや(ママ)/キヤプテン佐伯が
 よろこびによろこびに/打ち震へ
 海が凪いで 空晴れ渡りや(ママ)/セイラー小島はのうのうと
 エスタークなるセザンヌに/思よせての制作だ、
  
 なぜか、佐伯が船長ということになっている。前年、帰国半年後の1926年(大正15)9月、第13回二科展へ石井柏亭と有島生馬の推薦によりパリ作品を19点も出品して、いきなり二科賞を受賞していることから、佐伯の知名度がいちばん高かったことによるのだろう。パリでなにかと佐伯の面倒をみ、ヴラマンクなどにも紹介して先に帰国していた里見勝蔵にしてみれば、どこかに忸怩たる想いがあったかもしれない。1930年協会の結成にしても、もともと佐伯の発案ではない。
 空がかき曇ると、佐伯が喜びに「打ち震へ」ているという記述が興味深い。快晴の青空よりも、曇り空を描くほうがやはり好きだったのだろう。どうりで、彼の「下落合風景」シリーズClick!の画面は、どんよりとした空模様Click!がやたら多いはずだ。中には、晴れ間があるのに、あえて曇り空にしてしまった作品もあるのではないか。
小島善太郎マンガ.jpg 小島善太郎写真.jpg
木下孝則マンガ.jpg 木下孝則写真.jpg
  
 さてあまたある船客に/ひしめき合ふは画学生
 船賃一円こりや廉い/貴様のセザンヌちと古い/俺はヴラマンクのひい孫だ
 俺はルオール珍らしがらう/フリエーズは俺のぢいさんだ
 思ひ思ひのスタイルで/草土社系をあざわらう。
 とにもかくにも/千九百三十年協会は/日本通ひの汽船です
 初夏の空にひるがへる/オレンヂの旗色も(ママ)美しさ。
  
 いきなり年会費の話が出てきて、1円はこりゃ安いとうたっている。いったい1930年協会の記事なのか、それとも現在よく見られる一般記事を装った、同協会の媒体広告なのだろうか。第2回1930年協会展の開催に合わせるように、この記事が掲載されていることを考え合わせると、同協会と『アトリエ』(アトリエ社)とがタイアップしてこしらえた、展覧会の認知度を高めるためのアピール広告ではなかったろうか。そう考えると、「船客掛」=渉外担当のスポークスマンと思われる木下孝則が、もっとも多く似顔絵マンガを寄せている理由もわからなくはない。でも、「草土社系をあざわらう」などと書いて、はたして大丈夫だったろうか? 60cmほどの重たい簿記棒Click!を手に、いきなりアトリエ社の編集部へだいぶくたびれてはいたろうが、岸田劉生が殴りこんできやしなかっただろうか。
木下義謙マンガ.jpg 木下義謙写真.jpg
里見勝蔵マンガ.jpg 里見勝蔵写真.jpg
 それにしても、マンガを描いた4人の画家のうち、確かに木下孝則の作品がいちばんこなれかつ優れている。当時、彼は本業の絵画よりも、マンガのほうがうまかったのではないか。(爆!) ここに佐伯のマンガが残されなかったのは、返すがえすも残念。

■写真上:木下孝則が描いた佐伯祐三。8人のマンガで、全身像は唯一佐伯だけだ。
■写真中上:同じく木下孝則が描く、から林武Click!、前田寛治、野口弥太郎。
■写真中下:野長瀬晩花が描いた、からへ小島善太郎、木下孝則。
■写真下は、木下義謙が描いた木下自身。は、前田寛治が描く里見勝蔵。共通しているのは、みな実際よりもやや老け顔で描かれていることで、3年後の1930年を想定しているのだろうか。
 


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気が知れねえ六本木。 [気になるエトセトラ]

六本木ヒルズ.JPG
 麻布(六本木)育ちの義父は、よく自分の街のことを「気が知れねえ」ところだといっていた。東京オリンピックのとき、メインストリートを覆ってしまった不粋でうるさい首都高と、流行りもんばかりを追いかける街で雑然として落ち着かないから、自嘲気味に「気が知れねえ」と言っていたのではない。これ、六本木を地場にする人間でなければ言えない、昔ながらの冗談なのだ。
 江戸期のここは、乃手の中でもことさら広大な屋敷が建ち並んでいた、閑静で人通りもまれな武家屋敷街だった。明治以降、小高い丘上はハイカラな高級住宅街となり、丘下は下町Click!っぽい街並みがつづく町場に変貌したけれど、麻布一連隊や三連隊(第一師団Click!)が設営されたぐらいで、相変わらず静かで緑が多い街並みだった。義父は、麻布区六本木町と呼ばれていたころにここで育ったのだけれど、江戸期の六本木町は現在の交叉点から外苑東通りを南東へ下った、通り沿いの狭いエリアのことを指すのであって、現在の六本木通りからは少し離れた町名にすぎなかった。麻布といい六本木といい、なんとなく原日本の香りがする地名なのだ。
 麻布は「マップッ(ma-put)」と発音すれば、原日本語(アイヌ語に継承)では麻布川を連想させる「水浴の河口」という意味になる。江戸期に埋め立てられる前の江戸湾は、麻布から目と鼻の先だった。地名の音に一度漢字が当てはめられてしまえば、読みの音が変わったり、後世(おもに江戸期が多い)に当て字に引きずられて連想できる付会が発生したりするのは、全国どこでも見られる現象だ。六本木は「ロクポンキ(rok-pon-ki)」と発音すれば、「小さな簀の座所(休息所)」という意味だ。おそらく江戸期や明治期に生まれたと思われる、町名由来の付会臭がプンプンする伝承もいくつかあるのだけれど(松の木説や屋敷の家名説)、江戸期でさえすでに地名の由来がわからないとする率直な記録も残っている。そこで、義父の冗談にもどってくるのだが、六本木の「気が知れねえ」は、江戸時代から言われていたシャレのひとつなのだ。六本木という町名なのに、由来となった「木が知れねえ」というわけだ。
六本木和建築.JPG 六本木西洋館.JPG
 もし鎌倉時代あたりに、木が6本この界隈に並んで生えていたことから、地名に「六本木」と付けられたとすれば、江戸期にいたるまでの間にまったく忘れ去られてしまったことになる。でも、地名が伝わっているのに由来や伝承が途切れてしまうのは、江戸東京ではあまり聞かない。人の口の端を通じて、なんらかのかたちでフォークロアが伝えられる可能性のほうが、むしろ高いのだ。しかも、これだけ特徴のある地名にもかかわらず、それが途切れて伝わっていないことを考えると、相当に古い地名の可能性があるように思えてしまう。
 また、「木」にちなんだ家名の屋敷が6棟、つまり青木家、一柳家、上杉家、片桐家、朽木家、高木家があったから「六本木」と呼ばれるようになったという説がある。これは、江戸期のいつの時代のことを指しているのだろうか? ちなみに文化文政時代の絵図を見ると、一柳家や上杉家は見つかるものの、他家は見あたらない。でも、巨大な松平大膳大夫の屋敷は、すでに存在している。少し時代が下って、幕末の万延年間の切絵図を見ると、片桐家は見つからないもののほかの5家はそろって存在している。でも、「木」にちなんだ家は、松平屋敷をはじめ正木家、榊原家、金木家、木田家・・・etc.と、6屋敷どころではなくなってしまい、「十本木」と名づけてもまだ足りない。たまたま、ぴたりと「木」の付く屋敷が6棟あったから「六本木」と呼ばれるようになったとするなら(そうでなければ由来話がおかしなことになる)、いったいいつの時代を指しているのだろうか? 後世に切絵図を見て、誰かがちょいと思いついた付会(明治以降の匂いがする)の公算が高いように思うのだ。
乃木希典邸.JPG 六本木住宅街.JPG
 さて、もうひとつ、この「気が知れねえ」には伝承があって、麻布の周辺には赤坂や青山と色名の付いた地名が多いのだが、少し離れて白銀(金)に目黒とで(離れすぎのような気もするが)4色そろい、残りの黄色が麻布あたりにあればちゃんと陰陽五行の5色がそろうのに・・・てなことで、「黄が知れねえ」となったとかならないとか。これはもう、江戸期に流行った茶番Click!で初心者の若旦那あたりが、ネタに困って考えすぎたあげく仕方茶番で使いそうなまだるっかしいシャレの最たるもの。「黄が知れねえ」場所が別に麻布でなくても、その近辺であればどこでもいいわけだ。
 義父が晩年に、地元・六本木のことを「気が知れねえ」と言っていたのは、江戸のシャレ飛ばしの「木が知れねえ」なんかではなく、戦後の街の変貌とコミュニティが崩壊していくありさまを見て、マジに「気が知れねえ」と思っていたのかもしれない。

■写真上:六本木のランドマークのひとつとなった六本木ヒルズを、旧・龍土材木町あたりから。
■写真中:通りから少し外れて散歩すると、昔ながらの古い家々がいまでもしっかり残っている。
■写真下は、旧・麻布1連隊(現・東京ミッドタウン)の北側に位置している旧・乃木希典邸。は、かろうじて残っている赤坂氷川明神もほど近い閑静な住宅街の通り。


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空襲で妙正寺川の中へ逃げた高良一家。 [気になる下落合]

高良邸1.JPG
 1936年(昭和11)2月26日、高良とみClick!は大雪の新宿にいて二二六事件Click!のニュースを知った。新宿方面に事件のウワサが伝わってきたのは、同日の午後になってから・・・というClick!が多いようだ。おそらく、不安になった彼女は動いていた山手線で高田馬場駅へともどり、西武電気鉄道(現・西武新宿線)に乗り換えて下落合駅から自宅(当時の地番は旧・下落合3丁目680番地で、現在は中落合2丁目)に引き返したと思われる。1983年(昭和58)に出版された、高良とみ『非戦(アヒンサー)に生きる』(ドメス出版)から引用してみよう。
  
 一九三六年(昭和一一)年(ママ)の二月二六日、いわゆる二・二六事件のニュースを、私は雪が降り続く新宿で聞き、これは大変なことになったと思いました。また、どのような関係を通してかは覚えておりませんが、その頃私は陸軍省に行って、陸軍のインド征服計画および「満州国」独立、そしてアジア征服計画を、大臣や局長から聞いたこともあります。今顧みても何と暗い時代であったことかと、戦慄を覚えます。 (同書「行動する心理学者として」より)
  
 高良とみが、「二・二六事件のニュース」と書いている点に留意していただきたい。ラジオは当日の朝から沈黙していた・・・というのが「公式」の記録だけれど、うちの親父も祖母Click!とともに「ラヂオのニュース」を聞いたと一貫して口にしている。同日の様子を、目白駅の向こう側の江戸川橋近くに住んでいた、当時はまだ6歳だった都筑道夫は、『推理作家が出来るまで』(フリースタイル/2000年)の中で、こう表現している。
  
 私の記憶にある昭和十一年二月二十六日は、物音のしない一日であった。雪がつもっていて、物音が吸いとられるせいだったろう。(中略) 両親や祖母も、あまり喋らなかった。雪のふりつもったところが見たくて、私が外へ出ようとすると、父親に叱られた。その口調で、なにか大変なことが起ったらしいのは、私にもわかった。(中略) 子どもごころにも、異様に緊張した一日だった。それが、二・二六事件の日だという認識を持ったのが、いつだったかはおぼえていない。
  
 家にいた都筑家では、なぜ「大変なことが起った」のを早くから知っていたのだろうか?
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 同日の午後、西武電鉄を高良とみとは逆方向から乗り、高田馬場駅で山手線に乗り換えた女性がいた。江戸期からつづく神田の家に生まれ、垢抜けした言動が美しかった彼女は、中井駅のとなりの新井薬師駅から乗りこみ、下落合の丘を眺めながら高田馬場経由で山手線の日暮里駅あたりへと向かう予定だった。高良とみとは、人出が極端に少なかった駅やホームのどこかですれ違っているかもしれない。彼女は、新井薬師の商店街にあったうなぎ割烹「石田屋」に、仲居として働きはじめたばかりだったが、店の主人と恋愛関係になり待合茶屋で待っている彼のもとへと急いでいたのだ。のちに駆け落ちすることになるふたりだが、女性の名前は阿部定、待っている男は石田吉蔵だった。
 さて、高良とみが「戦慄を覚え」たように、その後わずか5年で日本は太平洋戦争へと突入することになった。空襲が予測される時期になると、高良家では家族を茨城県へ疎開させているが、夫の高良武久は高良更正院(のちに高良興生院)の運営と、慈恵医大の教授を引き受けていたので、東京を離れられなかった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、当夜たまたま慈恵医大で宿直だった彼は、次々と運ばれてくる負傷者の手当てに忙殺されている。
 元・米国人のキリスト教伝道師宅だった疎開先の家を、憲兵隊に「敵の財産」だと没収された高良とみは、やむをえず家族を連れて旧・下落合3丁目1808番地(現・中落合1丁目)の、高良更正(興生)院に隣接した自宅へともどってくる。疎開先の家を憲兵隊から執拗に追われたのは、前年の1944年(昭和19)に起きた良心的兵役拒否の「石賀事件」に、高良とみが関連していたと憲兵隊からにらまれていたからだ。彼女は連日、憲兵隊本部から呼び出しを受けて尋問されており、疎開先の家屋没収も彼女への嫌がらせのひとつだったと思われる。そして、1945年(昭和20)4月13日夜の空襲Click!を迎えることになる。少し長いが、同書から引用してみよう。
高良興生院1944.JPG 高良興生院1960.jpg
高良家ファミリー.jpg 高良邸2.JPG
  
 ところが、四月一三日夜、再び東京は空襲を受けたのです。B29が急旋回してくる中を、私は三人の娘たちに貯金通帳や米の配給帳を入れたかばんを一つずつ背中にくくりつけ、防空壕からさらに川の中洲へ避難させました。武久と私は、病院の者たちと共に防空頭巾をかぶり、防火につとめているうちに、隣の幼稚園の石炭置き場に焼夷弾が落ち、あっという間に燃え拡がってしまいました。/火はどんどんこちらへ近づいてきます。私の頭巾の左側にも火が燃え移り、あわてて頭巾を投げ捨てた瞬間に、大きなドカーンという音がしました。私たちの目の前の病棟に何本もの焼夷弾が落ちたのです。私たちは必死で消火にあたりました。そうしているところへ、思いがけなく坂の上からきた消防車が、川の水を吸い上げて母屋へ燃え移ろうとしていた火を消してくれたのです。患者さんのベッドに炎がぶすぶすくすぶっているのを見た私は、すぐに傍にあった枕でポンポンたたいて火を消しました。ふと目を上げると、高田馬場方面の東の空に、真っ赤なトマトのように焼けた太陽が昇ってくるのが見えました。辺りは一面火の海でした。 (同上)
  
 当時は十三間通り(新目白通り)は存在しないので、消防車は目白崖線の「坂の上から」やってきたのだ。おそらく、神田川・妙正寺川沿い一帯が空襲されているので、目白通りあたりの消防署から聖母坂を下り、駆けつけてきた消防車の1台だったのだろう。あたりは「火の海」だったと書いているが、この川沿いの中小工場をねらった空襲で亡くなった方Click!も少なくない。
妙正寺川1.JPG 妙正寺川2.JPG
 また、高良家が妙正寺川の川中へ避難しているのも興味深い。当時は、すでに妙正寺川の整流化工事とコンクリートによる護岸工事は終わっていたが、まだ現在ほど川底が深く浚渫されていなかったのだろう。川底には、水面から顔をのぞかせている「中洲」があり、家族はそこへ避難していた。彼女は「川の中洲」と書いているが、砂洲は川のまん中ではなく、妙正寺川の南岸に沿って中井方面へと長くつづいていた。この砂洲については、敗戦後すぐに米軍のB29から撮影された空中写真でもハッキリと確認することができる。高良家だけでなく、妙正寺川の川の中へ避難したお宅はまだかなりありそうだ。ご記憶の方があれば、ご一報いただければと思う。

■写真上:高良興生院と高良邸が建っていた、旧・下落合3丁目1808番地の現状。現在、建物の1階はベーカリー兼カフェ「スワン」になり、コンサートや展覧会など多彩な催しが開かれている。
■写真中上は、1938年(昭和13)制作の「火保図」で高良更正(興生)院のできる前の様子。は、1947年(昭和22)の同所。かろうじて高良邸が焼け残り、病棟もいくつか残っている。
■写真中下上左は、1944年(昭和19)の空襲半年前に撮影された高良邸。上右は、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」にみる高良興生院。下左は、妙正寺川で危うく難を逃れた高良一家。手前左から、高良登美、高良武久、高良とみ。下右は、現在の同所。
■写真下は、昭和橋の上から見た妙正寺川で、川の右手が高良興生院にあたる。は、旧・白百合幼稚園の敷地前あたりから眺めた昭和橋。ほどなく、下落合駅へと抜けることができる。


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戦後の広告業界を牽引した衣笠静夫。 [気になる下落合]

衣笠邸.JPG 衣笠静夫.jpg
 8月の記事Click!で、旧・下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)に住んでいた丸美屋(ミツワ石鹸Click!)の衣笠静夫のもとへ、長谷川利行Click!がやってきたように書いてしまった。その直後に、記事中へ急いで訂正を入れておいたけれど、衣笠静夫が下落合の丸美屋社主だった三代目・三輪善兵衛邸Click!(旧・下落合1丁目350番地)の離れ家に住むようになるのは、戦時中に軍の民需事業の一環で派遣されていたシンガポールから帰還したあと、1946年(昭和21)3月ごろからのこと。したがって、1940年(昭和15)に死去している長谷川利行は、下落合の南側の戸塚町にあった片想い相手の藤川栄子Click!アトリエは訪ねたかもしれないけれど、「下落合の衣笠邸」を訪問できるわけがないのだ。
 戦前の衣笠邸は、西巣鴨町大字池袋字大原(現・池袋3丁目界隈)にあり、長谷川利行は佐伯祐三Click!をはじめとする1930年協会の仲間を訪ねるついでに衣笠邸へ立ち寄ったのではなく、池袋モンパルナスClick!に住んだ画家たちとの交遊ついでに、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の貨物列車による震動が悩みの種だった衣笠邸へも、顔を見せていた可能性が高い。もちろん、利行は東日本橋(旧・西両国)の薬研堀界隈、わたしの実家の斜向かいにあった丸美屋本社ビルへ衣笠を訪ねているのは、前回ご紹介したとおりだ。すずらん通りClick!を、浮浪者のような格好をしてやってきた利行が、オシャレな丸美屋ビルへと消えていくのは異様な光景だったろう。
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 衣笠静夫を単にミツワ石鹸の重役であり、電通の吉田英雄とともに現在の広告業界の基礎を築いた広告人・・・とだけ紹介するには、少なからず抵抗感がある。戦前の広告人と今日のそれとは、かなり質的な違いが存在するからだ。現在の広告制作における役割は、プロデューサーをはじめ、クリエイティブディレクター、アートディレクター、コピーディレクター、デザイナー、コピーライター、イラストレーター、プランニングディレクター、プランナー、スーパーバイザー、アカウントディレクター、イベンテイター、各種コーディネーター・・・などなど、実にさまざまな専門職に分業化されているが、衣笠静夫が制作現場で活躍した時代、彼が担った役割はそのすべてだったといっても過言ではない。
 時代の推移と業界の進展により、彼はアートディレクターという肩書きに集約されて呼ばれることが多くなったようだが、より今日的なショルダーを冠していえば、制作すべてを統括するクリエイティブディレクターという肩書きのほうがふさわしいかもしれない。役職が細分化される以前のクリエイティブワークは、画家であり詩人でもあり、図案家、企画家、マーケッター・・・と、そのすべてを備えたマルチ人間的なスタンスや、ことに芸術家的な肌合いが不可欠とされていた。
 池袋の大原にあった衣笠邸の様子は、当時、結婚したばかりの愛子夫人が回想している。1974年(昭和49)に出版された、『ロマンと広告―回想 衣笠静夫―』から引用してみよう。
  
 日曜日になると、両手にいっぱい本をたくさん買ってくるのです。それがよほど楽しみのようでした。池袋の立教大学の近くの夏目という古本屋がゆきつけのようでした。買いすぎて不足分をわたくしはよく払わせられました。本は本棚がいっぱいなので畳の上にじかに積んでおくようになりました。自分では掃除をしないので、わたくしが掃除をしようとするとさせないのです。本の重量で床がぬけそうになったことがしばしばありました。大分かわったところのある人でした。
                                       (宮崎博史「衣笠静夫小伝」より)
  
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 そして、衣笠静夫を頼って東日本橋の丸美屋商店を訪れていたのは、長谷川利行だけではなかった。さまざまな画家や作家が出入りしていたようで、その中には売れるあてのない詩稿を手に、ダダイスト高橋新吉Click!もすずらん通りを通ってきていた。同書から引用してみよう。
  
 タダの詩人、高橋新吉などはもっとも多く静夫の恩恵を受けた。新吉はどこの出版社でも買手のない彼の詩稿を丸美屋の事務室まで売りに来た。静夫はこの詩人の空腹を助けるためにいつも快く自分のポケット・マネーで、この不思議な詩稿を買いとっていたのである。/また、当時まったく顧みるものもなかった洋画家長谷川利行も、その作品をしばしば静夫に買ってもらっていた。静夫以外誰一人彼の画をみとめてくれるもののない時代だった。静夫はこの陋巷に住む貧しい画家の作品を高く評価していた。静夫は自分で買えぬ時は会社の同僚にたのんで無理に買わせることもあった。(同上)
  
 衣笠静夫が世界じゅうから蒐集した、さまざまな画集や詩集などの文学資料は、一度関東大震災Click!ですべて焼失しているが、それから再びコツコツと収集した蔵書は1万冊にもおよび、現在、それらの膨大で貴重な蔵書は、おもに詩集類を中心に「衣笠詩文庫」として早稲田大学に寄贈されている。また彼は、下落合の地元では「目白文化協会」という地域活動を通じて、目白・落合界隈に住んでいた芸術家や文化人たちのコミュニティ活動へも積極的に取り組んでいた。
  
 衣笠静夫は「目白文化協会」という地域団体の常任幹事もしていた。この文化活動にも彼は一生懸命に尽力した。これは敗戦後、荒廃した目白地区に住む名士や文化人や芸能人の楽しい集りであったが、このことについては、小野七郎常任幹事の「読書家衣笠さん」という一文にくわしく誌されているので、ここではすべて省略することにする。彼の珈琲好きについては前にいくたびか書いたが、彼は目白通りの珈琲店には連夜のように現れて、なかなかその方面でも顔が売れていたそうであった。(同上)
  
 ここに書かれている「目白通りの珈琲店」とは、衣笠邸から北へ歩いて目白通りへと出る右手の角、現在の桔梗屋書店のところにあった喫茶店のことだろう。
ミツワ石鹸媒体広告1.jpg ミツワ石鹸媒体広告2.jpg
ミツワ石鹸pkgデザイン1.jpg ミツワ石鹸pkgデザイン2.jpg
 敗戦後、東京へもどった衣笠静夫は、三輪家が疎開中で空き家になっていた下落合の三輪邸離れ家へひとりで住みこみ、15年間にわたる長い戦争でめちゃくちゃになってしまったブランド、ミツワ石鹸の本格的な復活に取り組むことになる。そして、さまざまなマスメディアを通じて配信する、今日ではあたりまえとなった媒体広告のシステムづくりと、丸美屋1社のみならず電通の経営陣とともに、広告業界全体の質の向上や人材の育成に全力をつくすことになる。
 なによりもタバコとコーヒーが大好きだった衣笠静夫と、彼には気を許して甘えていたらしい長谷川利行、さらに地元・下落合における「目白文化協会」の活動については、記事のボリュームが足りないので、機会があったらまた改めてご紹介したい。

■写真上は、下落合の衣笠静夫が暮らしたあたり。は、1959年(昭和34)の衣笠静夫。
■写真中上上左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる三輪善太郎(のち三代目・三輪善兵衛)邸あたり。このときは、丸美屋商店の社主はまだ二代目・三輪善兵衛の時代だ。上右は、二代目・三輪善兵衛のプロフィール。下左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる三輪邸敷地。下右は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同邸界隈で、すでに三代目・三輪善兵衛(善太郎)の時代となっていた。
■写真中下は、衣笠静夫の作品で1927年(昭和2)ごろに描かれた『魚』(左)と、1932年(昭和7)制作の『梨』(右)。特に前者は、どこかシュールレアリズムの匂いがする。下左は、1951年(昭和26)ごろに下落合の三輪邸庭で撮影された衣笠静夫(右端)で、中央は三代目・三輪善兵衛。下右は、1954年(昭和29)に放送されたミツワ石鹸提供のラジオドラマ「いのちかけて」の収録記念写真。左から衣笠静夫、ひとりおいて宇野重吉、ふたりおいて滝沢修、岸恵子。
■写真下:衣笠静夫が昭和初期に手がけた、ミツワ石鹸の媒体広告とパッケージデザイン。


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明治から東京人のあこがれ・大磯。 [気になるエトセトラ]

大磯エリザベス・サンダースホーム正門.jpg
 湘南電車(東海道線)に乗って保土ヶ谷のトンネルを通り抜け、大船駅をすぎるあたりから、全身が弛緩して精神的にも穏やかになっていくのがわかる。潮の香りがはっきりと感じられる藤沢をすぎると、顔つきまでが変わってくるのだそうだ。「東京にいるときと顔つきが違う」とは、家族や友人たちからよく言われること。そう、子供のころ遊んだ“庭”へ帰ってきたような気がするのだ。
 東京の日本橋や隅田川界隈、また鎌倉でも同様のリラックス効果が表れるようだけれど、湘南海岸の比ではない。茅ヶ崎をすぎて、やがて大磯の丸みを帯びた穏やかな輪郭の高麗山や湘南平の山並みが見えはじめると、もう肉体的にも精神的にも完全に弛緩状態となる。北には大山・丹沢山塊が見え、箱根・足柄連山の向こうには、東京で見るのとサイズがまったく異なる、大きくて真っ白な富士山がのぞいている。房総半島の先端から三浦半島、江ノ島、烏帽子岩、伊豆大島、真鶴半島、初島、そして伊豆半島と一望のもとに見わたせる湘南海岸の真んまん中は、わたしが物心つくころから網膜に焼きつけられた原風景だ。
 平塚の駅舎はとんでもなく大きくなったけれど、大磯駅の駅舎はまったく変わらない。おそらく、箱根土地(株)建築部Click!の仕事だろう。このサイトの目白文化村Click!でおなじみの堤家は、いまでも大磯に住んでいる。駅から一気に「こゆるぎの浜」まで下ると、そこには昔とまったく変わらない風景が広がっている。この渚沿いの北浜海岸では、1月に江戸東京でいう“どんど焼き”が行なわれる。大磯では「左義長(さぎちょう)」と呼ばれて、国の重要無形民俗文化財にも指定されている行事だ。(東京でもそう呼ぶ地域がある) その形態は、東京の“どんど焼き”とまったく同じだ。
 ちなみに、“どんど焼き”は東京弁の下町Click!言葉(中でも日本橋/神田/浅草界隈に限定?)では、現在ではほとんどつかわれないけれど、お好み焼きのことも指している。いろいろな具を入れ、鉄板の上に盛りあげて焼くところが、どんど焼き=左義長にそっくりだったからだろう。乃手では、いまも昔もつかわれなかった言葉のひとつだ。北浜で催された左義長を見物した島崎藤村は、温暖で風光明媚な大磯を終の棲家に選んでいる。
大磯駅.JPG 平塚駅二代目1925.jpg
大磯こゆるぎの浜1.JPG 大磯こゆるぎの浜2.JPG
 こゆるぎの浜を西に向かって歩くと、すぐに西行の三夕の歌でも知られる鴫立沢(しぎたっさわ)の小流れにぶつかるが、そこにあまれた俳諧の庵「鴫立庵(でんりゅうあん)」が見えてくる。鴫立庵は、小田原の僧で俳人でもあった崇雪が1664年(寛文4)に建立して、いまは日本三大俳諧道場のひとつとなっている。この崇雪という人は、湘南地方ではもっとも重要な人物だ。そう、そもそも相模湾の海岸風景を「湘南」と呼称したのは、資料でたどれる限りこの江戸初期に生きた崇雪が最初だからだ。現在でも「看盡湘南清絶地」と刻まれた石碑が、鴫立庵に残されている。
 読み方が難解だったせいか、いまでは「しぎたつあん」と呼ばれることが多いようだけれど、わたしが子供のころ、地元の人たちはたいがい「でんりゅうあん」と呼んでいた。
 親父や母方の祖父Click!が好きで、わたしを連れてよく鴫立庵には立ち寄ったが、萱葺き屋根の瀟洒な庵は、いまも昔も変わらない。鴫立庵から少し西へ歩くと、道路の北側に島崎藤村の自宅がそのまま残っている。「大磯は温暖の地にて身を養うによし」と、当時足を悪くしていた藤村は、妻・静子にあてた1941年(昭和16)2月28日付けの手紙で次のように書いている。
  
 昨日午後
 例の天明さんより貰った草履をはき
 志ぎ立沢まで歩き
 久しぶりで好い散歩をしました。
 砂の歩き心地も実によかった。
 この調子では足も達者にならうと楽しみに思はれる。
  
大磯鴫立庵1.JPG 大磯鴫立庵2.JPG
大磯藤村邸.JPG 大磯藤村邸書斎.JPG
 佐伯祐三Click!の大磯における避暑宅Click!の、すぐ近くにお住まいのさいれんとさんClick!より、クリスマスの装いとなったエリザベス・サンダースホームClick!(旧・岩崎弥太郎別邸)の冒頭に掲載した写真と、めずらしい資料をお送りいただいた。1957年(昭和32)に朝日新聞のカメラマンだった影山光洋によって撮影された、ホームの子供たちの写真は貴重だ。のちに撮影されたカラー写真を参考にして、さいれんとさんがモノクロ写真に着色されている。
 赤に白いストライプが入ったセーターは、当時の阪神タイガースに在籍していた若林選手が、子供たちへプレゼントしたお揃いのセーターらしいとのこと。撮影場所は、ホームの南側にある本館近くのキリシタン美術館あたりで、背後に写っている建物が当時は教会として使われていた岩崎別邸の茶室、現在のキリシタン美術館が建っている位置にあたる。
大磯エリザベス・サンダースホーム1957.jpg
大磯伊藤博文別荘.JPG 大磯池田成彬別荘.JPG
 北側に屏風のような山を背負っているため、冬は東京より4~5℃も暖かく、夏は逆に太平洋からの海風で東京よりも4~5℃は涼しい、日本初の本格的な別荘地・大磯Click!は、親父や祖父の世代以前の明治初期から、鎌倉とともに東京人あこがれの土地なのだ。ちょっと見栄っぱりだったらしい佐伯米子が、他の新しい別荘地ではなく大磯へ避暑に行くことを承諾したのも(ひょっとすると本人が言い出したのかもしれないが)、どこかわかるような気がする。
 でも、当時から地価はかなり高騰していたらしく(ヘタをすると地域によっては鎌倉よりも高いかもしれない)、父方の祖父にはおよそ手が出なかったのだろう、大磯からさらに西へ35kmも離れたところに、ささやかでいじましい別荘Click!を建てては、ひとりで喜んでいたようだ。

■写真上:クリスマスの飾りつけを終えた、エリザベス・サンダースホーム(旧・岩崎別邸)の正門。
■写真中上上左は、国立駅Click!のデザインによく似た昔のままの大磯駅。上右は、1925年(大正14)に撮影された二代目・平塚駅。は、こゆるぎの浜の渚で伊豆半島の天城山が見えている。
■写真中下は、鴫立沢の畔に崇雪によってあまれた鴫立庵。は、島崎藤村邸とその書斎。
■写真下は、1957年(昭和32)に撮影されたエリザベス・サンダースホームの子供たちで、背後に見えているのは旧・岩崎別邸の茶室。は、旧・伊藤博文別邸(左)と旧・池田別邸(右)。伊藤邸は一時期薩摩治郎八Click!の別荘となり、戦後は中華レストラン「蒼浪閣」になって、わたしも子供のころ親に連れられてよく食べに出かけたけれど、昨年閉店してしまったのはちょっと惜しい。


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