よくある質問

ドラマをご覧の皆様からの質問にお答えします。

<お知らせ> 12月14日(日)放送の最終回 「一本の道」 について
大久保利通が襲撃される場面において、明治11年(1878)とするべきところを、明治11年(1879)と誤って西暦表示をして放送してしまいました。20日(土)の再放送では修正して放送します。
第45回「母からの文」の放送で帯刀が足の痛みを訴えていましたが、けがをしたのですか?

帯刀が足をいためているのは、ケガではありません。この時期から、帯刀は体調を崩し、歩くこともままならなかったと言われています。脚気(かっけ)だったようです。

このあと、さらに別の病にもかかってしまいます。明治維新という激動の時期に、帯刀は病気とも闘っていくことになります。

天璋院(篤姫)の書体は、誰かの字を参考にしたのですか?

劇中に登場する天璋院の手紙などは、番組にご協力いただいている書道家の方にそのつど作っていただいている小道具です。

実際に天璋院が遺された書をお手本にして、出来る限り似た字を書いていただいています。書道の世界では、こういった書き方を臨書(りんしょ)というようです。

書道家の方いわく、天璋院の字は、線が鋭く、たくましい字だとのことです。天璋院さんは、達筆だったんですね。

大坂は「大阪」の間違いでは?

大阪という字を使うようになったのは、明治以後に「大阪府」となってからのようです。それまでは、大坂という字を使っていたようですので、番組でもそうしています。

古くは、浪速・難波といいましたし、15世紀ころまでは小坂(おさか)とも呼ばれていたようです。(国史大辞典等より)

焼けたのは鹿児島?それとも薩摩?

第39話「薩摩燃ゆ」で、薩英戦争を描きました。その際に、小松帯刀は、「鹿児島の町も焼けてしまった」と嘆きました。

その後、「鹿児島は、薩摩の間違いでは?」というご質問をたくさんいただきました。

「鹿児島」という地名は、非常に古くからあります。ドラマにしばしば登場する「鶴丸城」も、当時の正式名称は「鹿児島城」。

当番組では、薩摩藩全体といった広い範囲を示す場合は「薩摩」、一方、狭く鹿児島城下あたりのみを指す言葉として「鹿児島」 と使い分けています。

「篤姫」のDVD発売の予定はありますか?

はい。次のような予定になっています。

NHK大河ドラマ「篤姫」完全版 第壱集 DVD−BOX
(第一回〜二十七回収録) 2008年12月19日発売

NHK大河ドラマ「篤姫」完全版 第弐集 DVD−BOX
(第二十八回〜最終回収録) 2009年3月予定

詳細はこちらから (NHKサイトを離れます)

劇中に流れる曲で、女性ボーカルが入っていますが、どなたが歌っているのでしょうか?(曲の詳細はこちらから

ボーカルは、和田由貴(わだ・ゆき)さん。TBS「輪舞曲」でボーカリストとしてデビュ−。これまでにドラマでは、フジテレビ「サプリ」、「ガリレオ」等に参加。また、吉俣良さんの作品では、NHK土曜ドラマ「マチベン」、 NHKニュース番組「サンデースポーツ〜オープニングテーマ」等でご一緒されています。

滝山のいう「嫁姑のしきたり」って、何?

篤姫と本寿院が初めて会ったとき、篤姫が上段で本寿院は下段でした。本寿院には敷物はありませんでした。

一方、天璋院と和宮の初めての会見では天璋院が上座で和宮が敷物も無しに下座でした。滝山は、「嫁姑の間ならば当然のこと。」と言っています。

このことについて、滝山の主張に一貫性がないのではないか?!という質問が多く寄せられました。

この問題のカギは、本寿院の立場にあります。

本寿院は、将軍・家定の生母であり、篤姫にとっては事実上は姑にあたります。しかし、本寿院は、家定の父・家慶の正室(=御台所)ではありませんでした。御台所と側室との身分の差は非常に大きく、いかに将軍・生母といえども、御台所にとっては家臣の一人に過ぎません。

天璋院と和宮は、いずれも御台所。こうしてはじめて、通常の嫁と姑の「しきたり」が生じるわけです。

家茂と和宮の婚礼後の場面で2人が屏風の前に座っている場面。雛人形も昔は並べ方が現代とは逆でした。今回のような現代風の並び方は、間違いではないでしょうか?

上記のようなご質問を多数いただきました。

さて、ご質問にも例示されている雛人形。確かに、江戸時代は並べ方が男女が逆だったようです。かつては、雛壇に向かって右が男雛、左が女雛でした。「向かって右(座っている人にとっては左)」が上座、という慣習だったからと言われています。

ちなみに、小松帯刀とお近の結婚式も、その並び方になっています。

しかし、明治維新後、西洋の風習が日本に入ってくるようになり、現在では一般的に、向かって左に男雛を置くご家庭が多くなったようなのです。

さて、家茂と和宮の婚礼の場面を撮影する際に、徳川家の婚礼について調べてみました。すると、この結婚式は、それまでの他の徳川家の結婚式とは逆の、異例な配置だったようなのです(「徳川礼典録」、「定本江戸城大奥」を参照)。そこで、ご質問のあった、婚礼後に家茂と和宮の2人が横に並ぶ場面は、当時の並び方としてはあえて逆の座り方にしました。

ただ、上座下座については、まだまだ私どもも分からないことが多く、今後も研究をしていきたいと考えています。

第1話からもう一度見たいのですが、再放送はないのですか?

第1話からの再放送のご要望を、多数の視聴者の方からいただきました。ありがとうございます。スタッフ一同、非常に喜んでいます。

皆さまの熱い(篤い)ご声援にお応えして、“衛星ハイビジョン”での再放送が決定しました。

放送予定は、9月29日(月)から月〜金で午後5:00〜(祝日・スポーツで、途中数回の休止が見込まれます。)これで、本放送での最終回(12月14日予定)の直前の週(12月8日の週)に追いつくかたちになります。

ぜひ、お楽しみください。

天璋院が座っている場面で、腰のあたりに着物?布?が両脇に突き出ていました。あれは何ですか?

いわゆる「腰巻(こしまき)」と言われる格好です。現代で言えばクールビズ?!

普段羽織っている「打ち掛け」をそのまま着込んでは、夏は非常に暑くなります。しかし何か着ないのではカジュアル過ぎる‥。ということではないかと思われます。戦国時代の信長の妹「お市の方」の肖像画に、この姿が描かれているようです。

「しゅ」とは何のことですか?

第29回「天璋院篤姫」において、本寿院付き老女・歌橋(岩井友見)が、「江戸市中では“しゅ”が品薄になっていると申します」とのセリフがありました。このセリフに対して、“しゅ”って何? という問い合わせが多数寄せられました。

“しゅ”は「朱」。硫化水銀がもとで、朱肉の朱です。毒性が強いため、棺(ひつぎ)などに用いて殺菌防腐剤に使われました。ただし、高価だったようで、高貴な人の場合に限られたのではないかと思われます。

篤姫は、結婚しているのに、どうして振袖のままなんですか?

徳川将軍家の御台所は、妊娠五ケ月で「着帯」の儀式があってから「留袖」とするとともに、髪型も「おまたがえし」をやめるのが普通だったそうです。

篤姫は、慶福を家定の養子に迎えるまでは、少なくとも「おまたがえし」で「振袖」であったと言われています。(以上、「幕末の大奥」著・高柳金芳より)。そこで、我々もこの説を取り入れ、篤姫は振袖にしています。

劇中に流れる曲の名前を教えて下さい。

劇中に流れる曲は、すべて作曲家・吉俣良さんのオリジナル曲です。これまでに、篤姫紀行の曲を除いて62曲を作曲していただきました。回によりますが、1回の放送に、 そのうちの15曲から20曲を使います。

選曲をするのは、音響効果を担当するスタッフと演出(いわゆる監督)です。

62曲のうち、曲名がついているのは、サウンドトラック(2月に発売済み)に入っている曲と、篤姫紀行の曲のみ。他の曲は、現時点では、M−32‥みたいに、番号で呼ばれています。

これからも吉俣さんには作曲をしていただき、徐々に増えていく予定です。お楽しみ に。

老中の部屋に、階段はあったのですか?

現存している江戸城平面図には、いたるところに「階段」の印が多く見受けられます。

老中の部屋にも、「階段」がある部屋があったようです。

建築考証をお願いしている平井聖先生とご相談して、よりリアルな江戸城を劇中に再現しようと、今回はセットに階段を付けました。

ただし、残念ながらセットは1階建てなので、階段の上に部屋はありません。

<お知らせ> 第19回「大奥入城」 5月11日(日)の放送について
5月11日(日)の放送内で、大久保正助(原田泰造さん)のセリフで、「伊豆の下田」とすべきところを、「駿河の下田」と誤って放送してしまいました。5月17日(土)の再放送では修正して放送します。
篤姫が、江戸に向かったルートは?

鹿児島を出発した篤姫が大坂までどのようなルートを辿ったのかは定かではないようです。

ただ、鹿児島県出水市に、篤姫が見たという添え書き付きの掛け軸があるそうです。また、熊本の御馬下(みまげ)の角小屋(かどごや)ではスイカで篤姫もてなしたとの話もあるとのこと。

実際は陸路だったようです。しかし、ドラマでは原作『天璋院篤姫』の設定をいかして、あえて海路としました。

鹿児島県歴史資料センター黎明館が発行した図録『薩摩の篤姫から御台所 天璋院』によれば、篤姫は嘉永6年8月21日に鹿児島を出発。9月24日に大坂に到着して、住吉天満宮参拝。29日には京都の伏見に到着。ドラマ内でも描きましたが、京都では近衛家を訪問したり、東福寺に参拝したりして過ごしたようです。その後、大井川、安部川を渡り、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、10月23日に江戸の薩摩藩・芝藩邸に入ったそうです。

今和泉島津家の玄関(式台)に飾られている『書』は、何と書いてあるのですか?

『思無邪』と書かれています。

『思い邪(よこしま)なし』と読みます。鹿児島の尚古集成館には、島津斉彬直筆の『思無邪』の書が遺されており、斉彬が座右の銘としていたのではないかと言われている言葉の一つです。

もともとは、『論語』為政篇第二にあるようで、斉彬以外にも、多くの武将や為政者が愛した言葉です。島津家においても、斉彬以外の当主が書いたものもあります。

篤姫の生家・今和泉島津家の玄関(式台)の場面は、静岡県伊豆の国市の江川邸で撮影させていただきましたが、『思無邪』の額は、そこにもともとあるものではなく、番組スタッフが書いて用意した小道具です。ちなみに、青年時代を江戸の薩摩藩邸で過ごした忠剛(忠剛は、実際に江戸で暮らしていました)が、若き日の斉彬にも多大な影響を与えたとされる島津家25代当主・重豪(しげひで)からプレゼントされた、という設定で作られており、重豪の落款も押してあります。

「風林火山」のホームページ公開終了につきまして

大河ドラマ、連続テレビ小説の番組ホームページの作成にあたっては、「番組宣伝の目的で開設し、番組終了後は速やかに閉鎖する」というお約束で、出演者・関係者の皆様から開設・公開についての了承をいただいております。しかしながら、「番組終了後もホームページを残してほしい」というご要望をいただくこともありますので、運用上、「放送終了後、1か月間程度はご覧いただけるように」させていただいております。

「風林火山」につきましても同様に、放送終了後もホームページを閲覧していただけるようにしておりますが、1月31日(木)の24時を持って公開を終了させていただきました。皆様のお気持ちは大変嬉しいのですが、上記の事情がございますので、何卒、ご理解ください。「風林火山」へのご声援ありがとうございました。引き続き、「篤姫」をよろしくお願いいたします。

1話の冒頭に登場して「その娘を、江戸へ連れて参る」と告げた人影(麿赤兒さん)はどんな人物ですか?

お幸が人影を見るというのは、原作に登場するエピソードです。幻影なので特定の人物ではありません。

1話の冒頭、斉彬を出迎えた武士たちが披露する踊りはどういうものですか?

斉彬のお国入りの際に、地元の侍たちが「侍踊り」で出迎えたという記録があります。ただし、その「侍踊り」自体は現在には伝わっていないため、鹿児島の加世田地方の竹田神社に伝わる「稚児踊り」にヒントを得て、邦楽指導の本條秀太郎さんが作曲し、所作指導の西川箕乃助さんが振り付けを考案した、当番組オリジナルのものです。

於一の部屋の鳥かごに入っているのは何ですか?

十姉妹(じゅうしまつ)です。於一が、好奇心にあふれ、自然を愛し、動物や植物を愛していたことを表現しようと考えました(史実としても、篤姫は江戸城で猫を飼っていたそうです)。ちなみに、よく見ていただくと鳥かご以外にも虫かごもあり、コガネムシがいます。

尚五郎誕生のときに枕元にあった人形は何ですか?

天児(あまがつ)人形です。子どもの健康な成長を願うために用いられました。

於一の部屋の丸窓から、桜島は見えるのですか?

この丸窓がある部屋があるのは、今和泉島津家の上屋敷(現在は鹿児島市大竜町)内という設定です。実際に、上屋敷跡(現在は一般住宅)前から、桜島は見えます。この上屋敷がどのような間取りだったのかという史料は残っていないようです。

ちなみに、指宿市岩本の今和泉郷は、今和泉島津家の領地を治めるための御仮屋(おかりや)(別宅。領地経営のための現場監督署のようなもの)があった場所で、全く別の場所です。

どうして於一(篤姫)は、薩摩ことばを使わないのですか?

薩摩藩では、島津家25代当主・島津重豪(しげひで)の時代には既に、『薩摩ことばを出来るだけ使わないように』といった内容の『お達し』が何度も出ていたようです。

特に、家格の高い武士については、藩主との対面の可能性も高いですし、江戸藩邸詰めの際には他藩との交流も予想されるため、特に厳しく言語の矯正が命じられていたようです。

のちの藩主・斉彬は江戸生まれ、江戸育ち。他藩の藩主や幕臣たちと親交が深かったといいますから、きっと江戸風のしゃべり方だったと思います。上級武士たちは、その斉彬と会話をしなくてはいけなかったわけです。

そうした藩命もあった上に、篤姫の父・忠剛は若い頃に江戸暮らしを長くしていたため、特に江戸風の言語を使うことを心がけていたのではないかと我々は考えました。

そこで、当番組で鹿児島部分の時代考証をお願いしている鹿児島大学の原口泉教授ともご相談した結果、藩主に近い上級武士の人々は薩摩ことばをなるべく利用せず、女中たちや、西郷や大久保らの下級武士たちは薩摩ことばを利用するということで区分けをしました。それによって、篤姫(於一)の家族が所属する階級や、薩摩の身分制度が、全国の視聴者の方にはより伝わりやすくなるのではないかとも考えました。

ただし、篤姫(於一)も、今後物語の展開によっては、薩摩ことばを使う場面がありますので、ぜひお楽しみにしていてください。

薩摩ことばのご指導をいただいているのは、以前に薩摩を舞台にした大河ドラマ「翔ぶが如く」と同じ西田聖志郎さんです。

「天璋院 篤姫」に関する催事はありますか。

「2008年NHK大河ドラマ特別展」の開催予定があります。

詳しくはこちらへ(NHKを離れます)

「風林火山」のホームページが見たいのですが?

大河ドラマ、連続テレビ小説の番組ホームページの作成にあたっては、「番組宣伝の目的で開設し、番組終了後は速やかに閉鎖する」というお約束で、出演者・関係者の皆様から開設・公開についての了承をいただいております。

しかしながら、「番組終了後もホームページを残してほしい」というご要望をいただくこともありますので、運用上、「放送終了後、一か月間程度はご覧いただけるように」させていただいております。

こちらをご覧ください

なお、こちらの「風林火山」のホームページは1月末を持って公開を終了させていただきますのでご了承ください。