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薔薇豪城の日記

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2008年12月09日 XML このブログを購読する

カムイ伝講義
[ 日本史 ]    

 今日の東京新聞の本音のコラムに、鎌田慧さんが、那須隆さんが亡くなったことを書いています。本文はこういうふうです。
「郷里の新聞社から電話がかかってきた。那須隆さん(84)が亡くなったという。1月下旬に死去していたとわかったのが、今月5日。ご本人が発表を抑えていた。

 電話を切ってからしばらく呆然としていた。那須さんは1949年に発生した「弘前大学教授夫人殺人事件」の容疑者として逮捕されたが、一審は無罪だった。が、検事側がねつ造して懲役15年の有罪に逆転、確定。模範囚だったので、刑期を4年残して出獄した。

 那須さんは那須与一の36代目。そのプライドもあってか、えん罪事件には珍しく虚偽の自白がなかった。仮出獄後、これまた珍しく真犯人が名乗り出たので、再審を請求したが棄却され、二度の絶望を味わっている。
 無実が証明されたのは逮捕されてから28年後だった。

(中略)
 「マスコミに知らせるな」との遺言が、あまりにもむごい、司法と報道を鋭く射抜いている。」

☆この「射抜く」は、那須与一の子孫から取ったのね、パチパチ。と喜んでいるわけにはいきません。なんと惨い仕打ちを国は那須さんにしたのでしょう。那須さんはのちに「国家賠償」の請求の訴えを起こし、最高裁で棄却された。そうしたら、その裁判費用の請求が来たそうです!
 なんということでしょうか。「マスコミに知らせるな」その言葉に、国、そしてマスコミの後ろにいる(自分じゃないから無関心な)私たち能天気な国民への、大きな不信感を痛いくらい感じます。
 二度と那須さんのような目に遭う人が出ないよう、心して記憶、記録していってほしいと思います。

 さて、やっと「カムイ伝講義」が来たのですが,想像以上にきちんとした分析があって、感動ものです。中で、なるほど〜と思った新知識。
「綿花を育てる人々」のところで、(ああ、そういえば綿の花が咲いたロマンチックなシーンがありましたね)農民の大蔵永常という人が書いた綿花栽培マニュアルに、沢山の人手を労する綿花栽培について
【「綿は人手にかかる事、14、5段を経て用をなすものなれバ、国民をにぎはすの大益あり」と書いた。
 経済活性化とは、働く機会(人手にかかること)が増え、多くの人が職を得ている状態なのだ。
 輸入に頼れば国の支出ばかり増えるが、このように自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と永常は考えたのである。
 この場合「豊かさ」とはお金を払って外国人を働かせ、その安価な商品を買って自分は遊び暮らす、という豊かさではなかった。
 いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるという豊かさであった。】

 と、田中優子先生は書いています。
 私たちが忘れてしまった大事なことが、ぼんやりと見えてきた気分です。農民大蔵永常さんって、名実ともに江戸の知識人ですね〜。名前からしてお大尽の農家だとは思いますが、お大尽だってみんなの幸せを考えていたんですよね。すばらしいです。

最終更新日  2008年12月09日 13時25分34秒
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2008年11月28日

仏さま
[ 日本史 ]    

 今日は何の日、日本史カレンダーには「今日は親鸞の亡くなった日」と書かれています。親鸞上人は11月に入り、90歳の身には寒さが厳しく、床に伏す日が多くなりました。
 茨城の弟子たちに、貧しい娘の覚信尼母子を守ってくれるように頼む手紙を書いてから、11月28日に亡くなったそうです。
 佐渡にいる妻の恵信尼に親鸞死去の報が届いたのは、翌月の20日だったそうです。
 でも、これは旧暦で、今の暦では1月14日なんだそうです。寒さが厳しい頃ですね。年代でいえば、1173年に生まれて、1263年に亡くなったそうです。
 今、東京新聞で五木寛之さんの「親鸞」が連載です。人の心に響く良い声をもった利発な男の子です。
 貧乏貴族の家に生まれ、叔父の家に弟たちと引取られた親鸞は、貴族の社会よりも、ドロップアウトした町の人たちに心を寄せるような少年です。
 9歳の時に願って比叡山で修行することになった親鸞は、今日はこのまま家に帰って、家族たちと別れの挨拶をするように、という後の天台座主、慈円に
「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と返します。小説では、慈円のほうから持ちかけるのですが。

 今は、上流貴族の出の慈円から、「この頃都でたいそう人気の「法然」という僧の行状や様子を見て来るように」と言われ、自分をスパイにするつもりか、と思い悩む親鸞(範宴)です。
 
 そんな範宴に、慈円は、貴族のための仏教から民衆のための仏教に変えなければならない、自分もこのお山を変える決意があると言います。
 法然と敵対するのか、慈円と敵対するのか、両方ともと仲良くするのか、鎌倉仏教の相関図はよくわからないので、毎日楽しみに読んでいます。
 今日の所は、法然の説法を聞きに都へ行く範宴に、慈円が、後白河法王の暁闇の法会の話をして、なぜ暁に法会をするのかとの問いに、後白河法王が歌で答えた、その歌を範宴に聞けば、範宴がいずまいを正して歌いはじめた。
 ほとけはつねに いませども
 うつつならずぞ あわれなる
 ひとのおとせぬ あかつきに
 ほのかにゆめに みえたまう
 と、その声に不思議な力があると思った慈円は、その法会に範宴に一曲歌わせると言う。
 そんなシーンでした。 
「出家とその弟子」も昔読みましたが、理解できなかったみたいで、忘れてしまいました。

 どんな人かとネットで調べているうちに、親鸞の父日野有範のお墓が宇治の三室戸寺にあるということを見つけました。
 私の大好きな三室戸寺!それは、他でもかぐや姫伝説の地と売り出している所がありますが、かぐや姫のふるさとはあの近辺の竹やぶであったと、固く信じている私だからです。
 なぜならば、光った竹の中にいた姫の名づけ親は三室戸の長者だと、竹取物語に書いてあるからです。そして、前にも書きましたが、かぐや姫は反体制のヒロインなのですね。
 かつて行った三室戸寺は、竹やぶの多い村の中のきれいな花の寺。でも、当時、羅生門の外は反体制のアンタッチャブルの世界。そこで育ったかぐや姫の価値観は、信念を曲げない自立したものだったと、思って疑いません。
 三室戸寺に行った時、見せて頂いた仏様の後ろ姿。きちんと正座した小さな足の裏が、リアルでかわいらしく、かぐや姫の足みたいでした。
 また行ってみたいです。今度は日野有範のお墓をお参りに。

最終更新日  2008年11月28日 13時17分10秒
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2008年11月27日

神さまその2
[ 日本史 ]    

 列福式の続きです。
 東京新聞の論説室から、に、「江戸の殉教者ヨハネ原」さんについて書かれていました。
 列福式で「福者」に列せられた人のうち
「1623年に江戸、札の辻(港区)で火あぶりの刑に処せられたヨハネ原主水は武士だった。
 原は千葉県で生まれ、徳川家康に仕えていた。御徒組頭というから、主君が移動する際の警護役リーダーだったようだ。
 1600年に洗礼を受けた原はキリスト教が禁止された12年、逃亡生活に入る。だが、3年後に埼玉の岩槻市で捕まってしまう。
 
 その時の処罰がすさまじい。両手の指が切り落とされ、太ももの筋も切られた。さらに額に十字の焼き印が押された。処罰後、河原に放置されたが、キリシタン仲間に助けられたとみられ、行方不明になる。
 それから8年後、今度は江戸市中で捕まる。賞金に目がくらんだ元家臣が、原の居場所を密告したからだ。
 原は浅草近くの療養所でハンセン病を患った人の世話をしていたという。
 不自由な体にされながらも社会の弱者を支え、再びとらわれて生きたまま身を焼かれようとしても信仰を捨てなかった。そこまで人間は強く、崇高なものかと感じてしまう。
 日本史の教科書で殉教は「元和の大殉教」といった記述程度だ。歴史の真実を知るためにも、原のような人物の具体的な物語があっていい。」

☆というものでした。すさまじい人生ですね。でも、こういう生き方をした人がいたことを、子どもたちにも教えたいですね。

今日は源氏の日でした。
 宇治十帖に入りました。まずは橋姫です!
 今までの複雑な文章と違って、力強くて分かりやすい。この変化の経緯が、大昔からの研究テーマだったのは、うなずけるくらいの変化です。紫式部にどういう事が起こったのでしょうね。

 その頃、世間からは忘れられたような老年の宮様がいらっしゃいました。立派な家柄のお方で、有る時は天皇の候補にもなった方だったのに、あれやこれやの事情で周囲の人々からも見放されているような有り様です。
 奥様は昔の大臣の姫君で、今の身の上はしみじみと悲しいものではあるけれど、長年のご夫婦中の睦まじさだけが、過ごしがたいこの世での慰めとして、お互いにこの上もなく頼りにしあっておいでなのでした。

 かわいい子どもがほしいと宮が時折お気持ちをお漏らしになっておいでだったのが、ようやくたいそうかわいらしい姫君がお生まれになりました。
 この姫君を大切にお育てしているうちに、北の方は再び懐妊され、宮は、この次は男の子でも、とお思いになったのですが、やはり同じ女君で、ご無事にお生まれになったものの、北の方は産後をひどくお患いになったまま、亡くなってしまわれました。

 宮はあまりのことに途方にお暮れになり、年月を過ごすにつけても暮らしにくいこの世の中、いっそ出家してしまいたいと、お思いになる気持ちも、見すてて出家するには忍びない北の方のお人柄のために、それをこの世に引き止められる絆としてともかくも生きて来たのに、独り残されて何の張り合いもないことになってしまう、とお思いになり、また
 姫君たちを父親の自分が一人で育てあげるのは、皇族の身で体裁がわるいことだと、出家の本意を遂げたい気持ちにもなられたが、姫君たちを託す人もなく残していくわけにもいかないのでした。

 年月が過ぎますと、お二人がそれぞれすくすくと大きくなられるのがかわいく、申し分のない美しさなのを、日々の御なぐさめに、ついつい日をお過ごしになるのでした。
 北の方が臨終の間際に、この君を私の形見だと思ってかわいがってやってください、と
ただひと言遺言なさったことを思いつつ、この中の君をたいそうかわいがってお育てになりました。
 大君は、気だてがしっとりして優雅で、気品があって奥ゆかしい人柄でいらっしゃる。目をかけて大切になさらないではいられない点では、大君の方が勝って、どちらの姫君をも、宮は大事にご養育なさいました。
 しかし、お仕えしていた人々も、将来の見込みがないと、辛抱しきれずに次々とお暇をいただいて去っていき、中の君の乳母さえもが、幼い姫を見捨てて去ってしまったので、宮が一人でお育てになったのでした。

☆今日はここまででした。2人の姫君の父親の8の宮は、実は源氏の弟なのです。ちなみに源氏は2の君。次男です!

最終更新日  2008年11月27日 21時00分15秒
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神さま
[ 日本史 ]    

 長崎市で24日に開催されたカトリックの儀式「列福式」で、188人がローマ法王から聖人に次ぐ「福者」に列せられたそうです。天正遣欧使節の4人の少年の1人、中浦ジュリアンの子孫の方が、先日東京新聞の「この人」欄で紹介されていました。

 さいたま市の小佐々さんという68歳の方です。
「昔、南蛮国に行った先祖がいる」父親から聞かされた「秘密の口伝」がきっかけで、謎の先祖探しを始めたのは30数年前。
 東京に生まれ育ち、ルーツの中浦は訪ねたことがなかった。
 その小さな港町に通い、天正遣欧使節の4少年1人、中浦ジュリアンの叔父から14代目に当たることを突き止めた。生涯独身の司祭だったジュリアンに最も近い家系。戦国時代に勢力を張った「小佐々水軍」をジュリアンの出自とした自説は、大手出版社の日本史辞典にも載る。
 ローマ法王に面会する栄誉を得て帰国後、キリスト教が禁じられた江戸初期に、長崎で処刑されたジュリアンは国内では初めて、長崎市で開かれた列福式で、法王庁から聖人に次ぐ福者の位を受けた。」
「子孫としても、長年研究してきた者としてもありがたい」

☆ということです。仕事の関係で欧州へもしばしば出かけ、「子孫の中でも最も多く「南蛮国」へでかけたので、ジュリアンの生涯を明らかにするように選ばれたのだと思う」
 と語っていらっしゃいます。
 日本史の時間に、4人の名前を暗記して、それだけだったけど、送り出されて帰って来た時にはキリシタンン弾圧の時代になっていたのですね。

最終更新日  2008年11月27日 11時28分01秒
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2008年11月24日

モスクワスーベニーア
[ 日本史 ]    

 机の中を整理していたら、和田誠さんの絵のアムネスティの絵はがきが。よく見たら10年前の年賀はがきの書いてないのでした。来年用にこれを使おうかと思います。
 今日はナスチャのパパから、モスクワのお土産をもらいました。来年のえとの牛の置物。ぼけた写真の右が牛。その左は今年のネズミの音楽家。その左は、豚です。ロシアのえとはイノシシではなくて豚なんだそうです。その他はほとんど日本と同じ。龍は?ロシアではどうなのか、あとで聞いてみます。

 岩波ジュニア新書の「カレンダー日本史」を見たら、今日11月24日は、1944年、ジャーナリストの清沢冽が、日記「暗黒日記」で戦争指導者を糾弾した日、とあります。
 それによれば
「この日、マリアナ方面から発進したB29爆撃機およそ70機が、はじめて本格的な東京空襲を行った。それに対する軍部の強がりの報道を耳にしつつ、55歳のジャーナリスト清沢洌は、激しい口調でその日記に書いている。
「、、、学徒は、皆工場にあり、工場空襲の場合には、これが全滅の危険にあり。壮丁は軍人として、少年は工場においてーああ。この国は斯くて亡国に瀕す。愚劣なる指導者の罪、ついにここに至る。」
 この1年前、大学、高専生らは「学徒動員」によって根こそぎ軍隊にかり出されていた。清沢は終戦前の5月に死去したが、その日記は「暗黒日記」として出版された。」

 とのことです。
 無知なもので清沢洌という人のことをよく知りませんでした。
 彼は1907年、明治40年、17歳の時に「研学移民」(働きながら勉強する?)としてアメリカに渡り、ワシントン大学を卒業、日米関係に通じるジャーナリストとして活躍しました。
 東京朝日新聞の記者をしていた時、「自由日本を漁る」という本を出版、その中に「甘粕と大杉の対話」という小説があり、それが「国体を冒涜するもの」として昭和4年、東京朝日新聞をクビになったそうです。
 その本の内容は、大杉栄の亡霊が甘粕のところに出て来て、その妄想を論破する、というものだそうで、面白そうですね。読んでみたいです。

 それにしても
「この国は斯くて亡国に瀕す。愚劣なる指導者の罪、云々」って今も使えそうですね。尚かつ、清沢洌のようなジャーナリスト皆無の状況では、、、、。
 来年は良い年にしたいものですね。



最終更新日  2008年11月24日 15時13分10秒
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2008年11月19日

ドングリころころ
[ 日本史 ]    

 先日新聞の書評で、法政大学の田中優子先生の「カムイ伝講義」という本を、民俗学者の神崎宣武さんが取り上げていたので、購入しようと本屋さんに注文したら、在庫切れでこれから印刷するので12月半ば以降になります、との連絡を受けました。
 さすが新聞の書評欄は、購買力のアップにつながるのかも。
(前略)
 「カムイ伝では百姓たちの新田開作と治水事業、綿花栽培、それに付随しての干鰯や下肥の入手が描かれている。著者はこれをもって「百姓ー多様な能力を持つ人々」という。まさにそのとおりで、「百姓百職」という言葉もあった。」
(中略9
「本書は大学の講義録を基にまとめられた。奇をてらわず、劇画に描かれた「もうひとつの江戸時代」を正面から解説した意気に敬意を表したい。
 受講した学生たちは、しあわせだったと思える。」
 
 という評が載っていました。なるほど、私も受講したかったです!ただし、この評の中に
「商人の登場が少ないのは、白??氏の意図にもよるが、著者の歴史観とも通じ合う」という1行があり、謎の商人「夢屋」さんの登場で流通貨幣経済となり、米中心の武士社会に大異変が起こった頃、残りの野菜を漬け込んで「やたらとうまいやたら漬け」を売りさばいた話などがすごく印象的だったので、その点を確認したくて本の購入に至ったわけであります。
 カムイ伝持ってますよ。愛蔵本も。

 今日はアムネスティの日でした、そこを早退して、ある所の古代米の餅つき大会に行ってきました。ご馳走になったのは、古代米を餅米に混ぜて作ったおもち、きなことあんこ、それにお雑煮です。すごく寒いという天気予報が外れて、良い天気の日だまりで、美味しくいただきました。
 12月に縄文の食卓についてすることにしたので、この周辺の環境を守っている方に、お話に来てもらいたいという、依頼のためです。

 とてもおだやかな感じのよい方で、当日はその会のパネルや会報を持って来て下さるとの事で、良かったです。
 しかし、持って行ったチラシを見て、傍にいた約1名が、急に私に怒りをむき出しに。
「古代米のもち、どんぐり」とだけ書いた一行についてです。

  素人がいい加減な知識を振りまくな、ということらしい。
 権威の前では市民は馬鹿にされるのね。宮崎康平さんの気持ちがよく分かりました。
 それに、今度の私たちの催しは「この辺は昔から自然が豊かないい所だったんだよ」「そうだよね〜」「うふ」くらいの話なのにさ!
 実はその人は「きちんとした話をしに行ってやってもいい」というニュアンスのことも言っていたようですが、お餅がまずくなるのでお断りです。

最終更新日  2008年11月20日 07時33分22秒
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2008年11月16日

ビルゲイツは偉い
[ 日本史 ]    

 今日は留学生の日でした。このところ毎週日曜です。今日は「おかーさん、お昼食べないで来てね。グリーンカレー作ったから」というかわいい電話。留学生たちがご飯を作ってくれました。写真はタイのグリーンカレーです。辛い!美味しい、辛い!

 今日ははじめにカレーを食べながら、先日から彼女たちが深刻に悩んでいたタイの子どもたちのことについて、何か自分たちにできることはないかという中で、北部のある県にある寺院の運営している孤児の寄宿学校と関わってみようという話になりました。

 そこは、男の子も女の子も受け入れているそうですが、お寺なので女の子への配慮が難しいそうです。あらゆるものが不足していて、例えば食器が足りないので、先の子たちが食べているのを、次の子たちがそばで立って待っている、という状態だとか。ネットで見る限り、あらゆるものが不足しているようです。

 1月末に何人かの留学生が帰国して様子を見て来るとのことです。私たちおかーさんができることと言えば、「強い円」を少し持たせることぐらいでしょうか?
 というわけで、「つもり貯金」を1月までしようかという話になり、名前をつけようと私が言い(名前は大事だという持論があります!)
 GONG TUN BAN KUNMEA、(おかあさんの家基金)としましたけど、GONG TUNは単なる金集め集団という意味なのかな?

 夕方のNHK世界ニュースで、昨年52歳で会社を退職したビルゲイツが(もうそんな年になっていたのね!)世界の再貧困の子どもの命を救おうと、旺盛に活動している姿を映していました。
 世界の人々、「自分の子どもがマラリアやエイズで死ぬ事が無いと思っている多くの人たちに」死に瀕した子どもを救うために何かしてほしいと語っていました。
 偉いですね〜。でも、私がかかわっている留学生たちも偉いです。母国の子どもたちのことを心配するとき、彼女たちの顔はいっせいに曇って、見ていて気の毒なようです。
 
 12月14日には、おかあさんの家で、生物多様性の料理研究会をします.テーマは「縄文の食卓」で、古代米のお餅、雑穀クッキー、などを作ります。
 今日、その話もしたら、彼女たちはよく知っていて、大学の留学生クラスで、ビデオを見せてもらって日本史の勉強をした時に、縄文土器のことも習い、興味を持ったと言っていました。
 当日は、加曽利貝塚の関係の友達が話に来ると言ったら、とても喜んでいました。帰りに
「勉強だけじゃなくていろいろな話をしてくれてありがとう」とお礼を言われました。
 疲れも吹き飛ぶ気分でした。明日から、おかあさん基金のための「つもり貯金」スタートです。

 



最終更新日  2008年11月16日 19時53分24秒
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2008年11月11日

今日は何の日?
[ 日本史 ]    

 昨日ブックオフに行ったのは、本を探すためでした。あいにく無かったのですが、井出孫六の「秩父困民党」。と、先日NHKでスナドリネコさんをやったので、思い出して「ぼのぼの」を買おうかなと。
 秩父困民党は、明治17年(1884年)10月30日、山深い秩父の里で、自由自治元年の旗を掲げ、「恐れながら、天朝さまに敵対す」と闘った人々がいた、、、。
 今日あたりは、敗残の兵は追っ手の目を逃れてちりぢりになっていた頃です。

 岩波ジュニア新書の「カレンダー日本史」では、10月30日のところに
「秩父困民党の蜂起が始まった」日として書かれています。
「蜂起の予定日より1日早いこの日の夕方、埼玉県秩父地方の農民の蜂起が始まった。翌日には武装した農民3千人が椋神社に集まった。生糸の下がり生活に困った農民によって、8月頃からつくられた困民党が農民に蜂起を呼びかけたのである。」と。

 井出孫六さんの「峠」白水社には
「明治16年から17年にかけて、秩父地方を深刻な不況のどん底に突き落としたのは、世に言う松方デフレ政策であった。すでに明治16年の秋、秩父盆地に700軒からの身代限り(破産者)が生まれていた。」
「養蚕には春先、なにがしかの準備金が必要だが、3月、8円の借金をし、11月にそれを返却するとして、元利合計26円50銭になるという高利、しかも繭の値段は暴落し続けている。」

「明治17年夏、和田山に各部落の17人の代表が集まって相談をした。郡役所にも裁判所にも警察にも再三かけあったにもかかわらず、事態解決のきざしは見えない。高利貸しとの直接交渉しか残されていない。」
 
「負債農民と高利貸の間に立って斡旋すべき郡役所にその能力はなく、むしろすべての官は負債農民にきびしく、高利貸し間接的に擁護するようなかたちで、農民の怨嗟をかきたてた。斡旋者なき対立は危機の様相を深めていかねばならなかった。」
 それから
9月8日 蓑山で集会
9月26日 千鹿谷で集会
9月30日 28か村代表,大宮警察署へ高利貸し説諭の最後の請願
10月10日 岩殿沢で会合
10月12日 井上伝蔵宅で最高戦術会議、蜂起決定
10月26日 粟野山で戦術会議、11月1日蜂起決定
10月30日 最後の幹部会議紛糾、蜂起

 浅尾忠男詩集より
「粟野山幻歌」
やはり粟野山は
苛酷な山なのだ
標高わずか
670メートル
城峰山につらなる
秩父山塊のひとつだが

(中略)
分け入るほどに
のぼり道はけわしく
ぬかるみは深く
ぼくらの呼吸はあらあらしくつのるのだが

(中略)
聞こえてくるのは
労働と貧困と借財に
身代限りとなって妻子と別れ
棲家をあとにあちこちの山間に
身を潜める男たちの
吐息とため息と
また
山林集会を繰り返した
男たちの囁きかわす低い声

かれら困民党の男たちの
蜂起へのあつい息づかいにかこまれた
田代栄助
井上伝蔵
加藤織平
明治17年10月26日の
最後の山林集会は
この山のどのあたりであったのか

明治の圧政と貧困の闇は
はやくも夕闇のただよいはじめた
雑木林の彼方にいまのみえかくれするのだが

ようやくたどりつた
無人の山小屋のまえ
疲労困憊にうずくまりながらも
ぼくらは 聞く
困民党の男たちが
いのちをかけた
世直し
世均しの歌
嗄れた
困民の歌を

 自由民権運動の高まりの中、生絲相場の暴落で生活苦に陥った3000余名の農民が、負債据え置き年賦償還、税金の軽減、徴兵制改正、などを掲げて蜂起した秩父事件。彼らは11月2日、大宮郷に進出、警察や裁判所などを占拠し、秩父盆地一帯を掌中に収めました。彼らは憲法を作り、小さな政府の形を作りました。
 ことを重く見た明治政府は、鎮圧のため軍隊を派遣、竹槍とサーベル、火縄銃と最新式村田銃とのたたかいで、4日、困民軍は解体。
 その後、秩父の山ひだを縫って信州めざして敗走し、11月9日、峠を越えて最後の決戦を迎えます。戦死したもの、生きて捕えられ刑死したもの、刑期を終えてそれからの人生を長らえたもの、秩父困民党の人々は、ひそかにしかし誇りをもって、村々の人たちの胸に生き続けてきました。

 翌日、八ガ岳には初雪が降ったそうです。その雪を見る事なく、多くの農民が戦死したのでした。

最終更新日  2008年11月11日 20時16分01秒
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2008年10月31日

ハッカ油
[ 日本史 ]    

 昨日誤ってハッカ油の小瓶を倒してしまい、半分ほどこぼしてしまいました。拭き取った手で顔を洗ったら、スースーしてたまりませんでした。今も家中ハッカの香りが漂っています。
 ハッカ油には思い出があります。

 末期の癌で入院していた父の最後の頃、腹部に痛みが走った時に、看護婦さんが暖めたタオルにハッカ油をつけて、温湿布をしてくれました。それで、気持ちも痛みも静まったことがあるのです。そんな思い出とともに、今日は父の命日でした。
 日暮れが早くて、すぐに夜霧が出る頃でした。

 先日、父親のごく若い頃の話を聞く機会がありました。田中智学とともに、戦前活躍した本多日生が、父を評して「○○くんはおとなしいから」と言ったことがあったというのです。
 本多日生は、1867年の生まれ(ローザルクセンブルクに近い)で、1931年に亡くなっているので、すごい昔の話です。こう書くと私がすごい年みたいですが、私は父が49歳の時の子どもなので、そこんところ、よろしく!

 おとなしいとは何を言ったのか、本多師の意図は不明です。私は覇気がないという意味だと取りましたが、これを教えてくれた人は「ほめたんだ」といいます。おとなしい○○くんは、そののち立派に成長しました。
 
 田中智学、本多日生は、戦前の日本で多くの人を引きつけた人でした。1910年、中学生の宮沢賢治は盛岡でその話を聞き、影響を受けたそうです。
 石原莞爾も本多日生の信奉者となりました。ある意味、戦争へ向かうことを推奨した?ような気がします。が、その辺りのことはまだ知りません。(そのうち勉強したいと思います)
 その中で、「仏陀背負いて街頭へ」の妹尾義郎は、本多日生のもとで、ある小作争議の仲介に行き、小作の現実を知り、日生のもとを離れて治安維持法で投獄されたりしました。
 この時、本多師は政府の要人をブレーンに持ちながらも「妹尾くんを助けたい」と語ったそうです。
 妹尾義郎は1960年、共産党に入党し「生涯の望みがかなった」と語って、その年に亡くなったと、さっきネットで調べたら書いてありました。
 割と近い歴史に、いろいろなことがあったんですね。
 
 では、宮沢賢治の詩集より
 「春と修羅」
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
いかりのにがさまた青さ
4月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
 れいろうの天の海みは
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN春のいちれつ
    くろぐろとエーテルを吸ひ
      その暗い脚並みからは
        天山の雪の稜さへひかるのに
        (かげらふの波と白い偏光)
        まことのことばはうしなはれ
       雲はちぎれてそらをとぶ
      ああかがやきの4月の底を
     はぎしり燃えてゆききする
    おれはひとりの修羅なのだ、、、 

☆父の葬儀のあとに私が作った歌(思えば毎年書いてるみたい)
*振り向けば父を看取りに通いたる 道続きおり葬儀の果てて 

 

最終更新日  2008年10月31日 20時19分58秒
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2008年10月29日

頭の良い兄弟
[ 日本史 ]    

 昨日の東京新聞夕刊に「サラリーマン江戸紀行」という、江戸研究家の高尾善希さんのコラムが載りました。隔週の火曜日連載です。
 割と身近でびっくりしたのは、この癒し系&新進気鋭の江戸研究家は、我が家の近く、加曽利町の出身だったのです。加曽利といえば、貝塚が有名ですが今は貝塚の住所は多分桜木町です。
 そして、1974年生まれで、うちの息子が入学した時の3年生です!
 弟さんは高尾紳路さんという囲碁のこれも新進気鋭の人で、山下さんと対戦した時の名手「山下勝ち」のエピソードで「ヒカルの碁」のモデルになったんだそうです。
 兄弟揃って若くてそれぞれの分野で名を上げるって、すごいですね。ご両親が優秀なんでしょうか?と、思いがけず近くの方だったので、月並みなPTAママの感想を持ってしまいました。
 若い人たちがマイペースで活躍している姿って、いいですね。
 
 さて,本題の江戸紀行ですが、今回も篤姫。こんな書き出しです。
「大奥の女中は見聞したことを口外しないよう誓書をとられた。彼女らは義理堅く明治後も家族にすら口を割らない人も多かった。
 しかし中には口の軽い?女中もいて、明治25(1892)年その証言を集めた「千代田城大奥」がまとまった。

 そこに篤姫と和宮の性格が書かれている。篤姫は「平素規律正しく物事規矩に外れ、又は超えたるをいたく気に触へられ」た。
 つまり、決まり事にうるさい人。他の書には煙草盆を置く位置も1分1厘寸法が測ってあったとあり、御付きもピリピリしていた。
 対して和宮は「規律に拘はせられず、物事磊落」という。つまり「まあ、よかろう、、」の寛容な性格。

 幕末の土壇場、15代将軍を誰にするかという政治問題でも、篤姫は先代の家茂の遺言を尊重し田安亀之助を推薦するが、和宮は時勢を理由に先代の夫の遺言を無視し徳川慶喜を推薦するという具合である。

 サラリーマンの世界でも、上司は細かく神経質だったり、大らかな親分肌だったりと、タイプはいろいろ。それに気を使い、部下が右往左往する姿は、今も昔も変わらない?」

 という篤姫と和宮の性格比べでした。和宮って、何も出来ず、意思ももたない人のように思っていましたが、以外と自分を持っている人だったかもね。



最終更新日  2008年10月29日 10時35分39秒
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