◎「歴史都市」金沢 「城下町」のトップランナーに
今年は国の都市政策が一つの転機を迎える。古都保存法の理念を拡大した「歴史まちづ
くり法」の施行で「歴史都市」が新たに認定されるからである。その第一号が確実視される金沢にとって新法は都市づくりの有効な手段となるが、「歴史都市」という漠然とした呼称に満足しているわけにはいかない。「古都」「小京都」といった実態の伴わない観光イメージを払拭(ふっしょく)し、今こそ「城下町」のトップランナーを目指す旗を高く掲げるときである。
歴史を振り返れば、金沢は加賀の一向一揆が支配し、その後、前田家のもとで大規模な
城下町建設が進められた。金沢御堂(みどう)(尾山御坊)の跡に城郭が築かれ、一向一揆の時代の寺内町が都市基盤となった。宗教都市から城下町、さらには軍都、学都へ。時代とともに都市の顔を重ねてきたのが金沢である。戦後は一向一揆を「階級闘争史観」の立場からことさら高く評価し、前田家の治世を軽視するような風潮もあった。だが、一向一揆も加賀藩も、どちらも大切な金沢の歴史である。一方だけを持ち上げるような偏った見方にくみせず、歴史の連続性の中で金沢の本質を見つめ直したい。
金沢は長らく「小京都」「古都」と言われてきた。古い町並みが残る地域を十把一絡(
じっぱひとから)げにする紋切り型の呼称を押し返せなかったのは、それに勝る都市の個性を打ち出せなかったからである。外から逆輸入された観光イメージに私たち自身が安住してきた側面も少なからずある。その点で世界遺産登録運動も、金沢の顔を取り戻し、際立たせていく「平成の城下町づくり」と言ってよいだろう。
城下町は江戸幕府の成立前後に各藩領主のもとで計画的に建設された都市である。わず
かな期間に百以上の都市群が一挙に誕生したのは世界でも特異な例とされる。日本の主要都市は城下町をベースに発展した。だが、近代的な都市計画の中で改変が進み、戦災で焼け、城下町の面影を面的にとどめる都市は少なくなった。
幸いにも戦災を免れた金沢には、城や大名庭園、大名墓所、さらには寺院群、茶屋街、
用水群、石切丁場など城下町の要素がフルセットで残る。これらの文化財指定や選定が進み、江戸期の都市構造が徐々に浮かび上がってきた。
その過程では文化庁から「肝心かなめの城が史跡でない金沢は城下町の代表選手とは言
いにくい」という急所を突く指摘もあった。金沢城跡が国史跡となった今、胸を張って城下町のトップランナーを目指す環境が整ったといえる。
金沢城公園では県体育館が取り壊され、背後の高台から三十間長屋の姿が見えやすくな
った。金沢城でも数少ない国重要文化財の城郭建築物が市街地から望めるのは貴重である。体育館がなくなっただけで新たな城の風景が出現する。復元という大がかりな事業に限らず、やれることはたくさんあるはずだ。
宮守(いもり)堀の水堀化、河北門復元、玉泉院丸跡整備など平成の築城は新たな段階
を迎える。大事なのは城下町のランドマークとしての城をいかに城らしく見せるかである。
辰巳用水や卯辰山山麓寺院群、戸室石切丁場、土清水塩硝蔵などの文化財指定も加速さ
せたい。むろん指定されたからといって景観が変わるわけではない。それでも文化財となった風景が違って見えるのは、その価値に気付くことで場所の歴史が立ち上がってくるからだろう。
広坂緑地に立てば、金沢城の石垣や明治期の赤レンガ建築を生かした石川四高記念文化
交流館、大正期の面影を残す旧県庁舎南ブロックなどが見渡せる。このような歴史の多様性こそが金沢の魅力であり、非戦災都市の財産である。歴史が地層のように積み重なった都市にはさまざまな物語が隠されている。平成の城下町づくりにはそれらを探す楽しみがある。
論語に「近き者説(よろこ)び、遠き者来たる」とある。歴史や文化がどれほどあって
も、地域に住む人たちがその価値を認めてこそ、評判を聞きつけて人々が集まってくる。金沢検定やふるさと教育の熱気も、城下町のトップランナーとして走り続けるためのエネルギー源として大事に育てていきたい。