1.故若月俊一先生からの餞別の言葉 (1)内科研修医として2年間働く 私が佐久病院ヘ青医連医師として研修目的で就職したのは、1970年4月である。新しい研修医制度ができて3年目、しかし研修実態は旧インターン制度とあまり変わらなかったように思う。インターン制度といえば、研修という名の労働収奪や無給が制度の本質だったが、当時佐久病院は有給だった。佐久病院の研修方式として全国に有名になった「全科ローテーション」は、もう少し後になってのことである。当時は所属した科のみの研修、あとは個人の努力でやるしかなかった。それでも研修医生活は実に楽しかった。毎晩のように同僚と夕食に国道141号線、長野や高崎方面へ繰り出した(この年全国から集まった新人研修医は11名、寝る間を惜しんで語り合い遊びまわった。 この頃佐久病院は若月先生を中心に「農村医科大学」誘致運動を病院ぐるみで展開、病院全体がこの話題で熱病に罹ったようだった。どの会議に出てもこの間題を議論していて、ある種異様な感じさえした。農村医科大学を全職員の討論の中から、住民運動の中からといった雰囲気だった。 医局解体・非入局路線に従って大学を出てきたのに、新しく医科大学を作ろうという、この雰囲気に当時は強い違和感を覚えた。結果的には田中角栄元首相らの反対で挫折、この構想は国に横取りされて「自治医科大学」になったという噂話も聞いたが、今となってはどうでもいいことだろう。 以来約40年が経過、いま地方農村の医療事情はかつてないほど悪くなった。とにかく地方に医者がいない、このひと言に尽きるといってよい。したがって今こそもう一度、「佐久に農村医科大学を」という運動を立ち上げる時だと思っている。現在長野県は健康長寿、日本一を達成し、予防医学先進地としての評価が確立している。1970年時点と違っていまは国も認める揺るぎない実績があるし、その原点に佐久病院があることはいうまでもない。この点については夏用周介院長から期するところありと聞いており、そのうちに正式方針が提示されることを期待したい。 (2)いわゆる「地下水事件」について 1970年秋、松島松翠先生(現名誉院長)から研修医に対し「八千穂村全村健康管理活動参加」の説明会が行われた。先生から「…住民の健康意識が高まってきた、村の医療費が下がってきた」など活動意義が熱心に説明されたが、どうも納得いかなかった。八千穂村住民が病院に来ても各科医長が診察する決まりになっていて研修医は診察できない、何か作為めいたものを感じ取っていた。日々の仕事、研修という名の業務も決して楽ではなかった。したがって素直に「賛成」という結論にならず、以後激しい議論に発展していった。 その過程で11名の新人研修医で「地下水」という名のグループを結成、「きちんとした研修を受けたい、それゆえ更なる労働強化につながる八千穂全村健管活動への参加はボイコットする」という強硬方針を打ち出した。夜な夜な11名が謀議をこらし、こうした意見をビラに書いて院内に配る、院内は騒然として一般職員から厳しい反発が出てくる。病院幹部からは制裁処置を仄めかされ、緊張した局面も出てきた。こうなってくると院内管理体制の矛盾の方に目が向いていく。こうした矛盾を暴くビラを配りながら準深夜帯で看護師たちと議論をしていると、深刻な不満を耳にするようになる。これらをネタにまたビラを書く、強烈な反撃がある、こうしたやり取りがしばらく続いた。 当時の病院管理体制は炎の塊のような61歳の若月院長(当時)と、それをサポートする総婦長たちによる鉄壁の体制下にあった。しかも先述したごとく農村医科大学誘致運動のまっただ中、一糸乱れてもいけない最中に事件は起こった。頻繁にある酒の席が怖かった。眼を血走らせた若月院長が鉢をぶつけるように近づくと、決まって「君たちは…」と詰問された。それでも「地下水」グループの奔放な活動は、半年以上にわたって容認されつづけた。決定的だったのは1971年の小諸でのメーデー、国道を少人数でジグザグ・デモをしたあと、会場で不特定多数の人を相手に内部告発的なビラをまいたことだ。後日談になるが若月院長はここで線を引き、「地下水グループ」排除を決断したという。実際は6月の組合定期大会でユニオン・ショップ制の規約を通用し、地下水メンバーを非組合員と決議することによって、自動的に病院職員の身分を消滅させる形をとった。もう少し細かいことを知りたい人は南木佳士著『信州に上医あり』を参照していただきたい。当時の資料を引用しながら冷静な解説をしているし、当事者である私が読んでも示唆に富んでいる。 私のこの間題に対する総括は1981年、佐久病院に再就職した際に、口頭では何回か述べてきた。当時の私は物事の表面だけ見て、ことの本質を認識できていなかったとつくづく思う。佐久病院全体の活動を大局的に見ていなかったし、歴史的にも見ていなかった。自分の回りだけ見て、直感に頼った判断をしていたと思う。このことが結果的に間違った言動につながり、病院を混乱させ、院内外に多大な迷惑をかけることになった。これについては今でも申し訳なかったと思っている。ただ故意に混乱させ、迷惑をかけようと思ったわけではない。かなり純粋に行動していたように思う。この間題の経緯や事実関係についてはもっと詳細に検証する作業が必要だと考えるが、私一人でできるものでもない。今回は私個人の見解であり、概略だけを述べた。 (3)院長室に退職の挨拶に伺って 1972年3月末、院長室に最後のご挨拶に伺った。私が挨拶の言葉を言い終わるか終わらないうちに、「君も東京へ行くのか!」と怒鳴られた。清里聖路加病院へ行くといったつもりだったが、先生は東京の聖路加国際病院へ行くと勘違いされたらしい。そのことを申し上げると、急に表情が和らいで「まあ、そこに座れ」ということになった。院長室に入ったのは多分その時が初めて、私はとても緊張していた。いろいろな話を聞いたようでもあるが、よく覚えていない。ただ頭に残ったのは「農民のこと、農村のことをよく勉強しなさい」という内容だけだった。2年の研修期間中、正直いって農民や農村のことなど真面目に考えたことはなかった。私はこれを叱咤激励の言葉、餞別の言葉と勝手に解釈した。振り返ってみれば、この言葉が私の医師としての一生を決めたといえる。 2.八ヶ岳山麓第一線診療所で見た農村の変貌 (1)往診を通じて学ぶ 1972年4月から清里聖路加病院に9年、1981年4月から南牧村診療所週3回の非常勤で9年、付属小海診療所に常勤・非常勤合わせて9年、合計27年間を八ヶ岳山麓の第一線医療に従事しながら、変わりゆく農村地域を見てきた。 清里では手づかずの自然が残された美しい景観と牧歌的な酪農の風景に出会った。ここは日本ではないのではと錯覚した。しかし一歩中に入り清里の歴史を知ると、その厳しさを痛感した。清里で出会って結婚した妻の実母は、いまは東京の水瓶となり湖底に沈んだ村の出身、実父は満蒙開拓団として村ごと満州に移住した佐久・大日向村の出身、ともに国策のため村を追われた人たちだった。そして清里に開拓入植、この地で最大の悩みはなんと水がないことだったという。やがて酪農が行きづまりリゾート業への転換、バブルがはじけると不景気の波がぐいと押し寄せてきた。 南牧村では大規模型の高原野菜農業を間近に見た。隣接する川上村と並んでレタス、白菜、キャベツの一大産地、明るく活気に満ちた地域だった。山麓側に目を転ずるとそこには某リゾート企業の大別荘地があり、農業とリゾートが微妙に軋みあっていた。南牧村診療所は村営で、ここでは病院からの派遣医師として行政の内側を体験することができた。このことは後々の人生において、たいへん有益であったように思う。また村看護師・保健師たちの熱心な指導や協力があって、地域保健・医療のネットワークづくりに励むことができた。夜遅くまで診療する日々だったが、疲れ知らずだったような気がする。 1990年春、今は亡き若月俊一・磯村孝二両先生から付属小海診療所への移動を命じられた。当時は診療所医師、胃腸科専門医という二足の草鞋を履き、ぎりぎりのバランスをとり仕事をしていたので決断すべき時期にきていた。小海、南相木、北相木村という診療圏を見て回って驚いた。中山間地城の過疎高齢化の厳しい現実、これを取りまく社会的資源の少なさ、医療・介護の人手不足、嘆いていても仕方ないので全職員で取り組む在宅ケアから始めることにした。
こうして3つの異なる地域性をもつ場所で仕事をし、それぞれの地域の実情や役割、地域が持つ貴重な価値を学ぶことができた。それは往診という仕事を通じてだと信じている。昨年春までの3年間は往診専従医だったので、約30年にわたって実に多くの農家を訪問し、そこの人たちに農業や農村の実情を詳しく教えていただいた。今でも週1回往診を続けているが、今でもこんなによい勉強の機会はないと思っている。 (2)農村地域とは それでは30年かけて農民や農村のことがどれほどわかったのかと問われれば、まだよくわからないと答えるしかない。それでも今から10年以上前、私なりに農村地域とは何かについて考えたことがある。その時私が定義した農村地域とは、「人間にとってかけがえのない生命の根源であり、母なる大地でありつつも、常に都市と国策の犠牲になってきた地域」だとした。これは北海道・富良野の下田憲先生との往復書簡のなかで書いたものだが、のちに『地域をつむぐ医の心』(1998年、あけび書房)という本に収載された。私は「都市と国策」と書いたのだが、若月先生はこの本のゲラ刷りを読んで、先生の序文のなかで「国策と都市」と順番を入れ替え解説されている。言葉の順序まで気をつけろという先生のご指摘だったように思う。 この定義が農村をやや被害者的に捉えているという自覚はあったが、なにかの機会にこの話になり、「これでは農村と都市の連携がでてきにくいね」と注意されたことがある。現在は多少修正した考えをもっているが、農村・都市の連携問題は一般的にはいろいろあるにしても、保健・医療・福祉がらみの形にすることは相当難しいと考えている。可能性があるとすれば、近年北相木村国保診療所の松橋和彦先生が立ち上げたNPO法人「りんねの森」の活動かもしれない。中心テーマは里山づくりであるが、活動のなかから森林療法研究会が生まれ、課題のなかには森の中に緩和医療診療所を作ることも盛りこまれている。都市部からの参加者が最初から何人かいて、献身的な活動をされている。いまでこそ都市と地方の格差などと社会問題になっているが、こうした格差はいまに始まったことではない。
(3)地域医療とは? 近ごろ地域医療という言葉が日本中に氾濫している。医療関係者はいうまでもなく、政治家も官僚もマスメディアも無条件に多用している。そして皆がこの言葉を使って妙に納得しあっている。いかにも変だ。佐久病院と厚労省が同じ意味を込めて使うことはありえないが、うっかりするとその違いをあいまいにされてしまう。先のアメリカ兵による沖縄少女暴行事件の際、皆が綱紀粛正という大合唱で事の本質を隠蔽したように、地域医療というあいまい語を使って同様の隠蔽があるように思う。私自身のこの用語に対する基本認識についてはいくつかの文章に書いてきたので、ここでは省略する。結論だけいえば地域医療の本質は、国の制度・政策に対する抵抗と闘いの実践的論理だと考えている。 ここでは医療者のなかでも混乱している点について触れておきたい。つまり地域医療(狭義)VS専門医療という対立的な構図についてである。前者は劣位、後者は優位という誤った意識さえ含んでいる。これはどちらかという問題ではなく、患者住民は両方とも(広義の地域医療)必要と考えているのであって、このニーズに応えることこそが住民本位の医療ということになるだろう。 さらに農村地域をよく見てみると、古くからある村落共同体の多くは機能不全におちいり、伝統的家族制度は崩壊に瀕し、過疎高齢化は究極にまで達し「限界自治体」といわれる地域さえでてきた。こうした地域では安全・安心な暮らしができる地域再生がなければ、保健・医療・福祉だけ生き残ることなど不可能である。よく地域医療の危機という言葉が使われるが、この背景には多くの場合地域そのものの危機が内在している。 しかし全国の医療団体、学会、研究会の多くが、まだこの認識に到達していないように思う。つまり社会保障システムの一部としての医療が危機なのであって、その認識は地域の危機までつながっても伸びてもいないのではないか。ましてや産業論とか財政論のテーマとしては捉えられていない。 私は1999年病院長に就任した際、ある医学雑誌社の取材で「農村地域における地域医療とは医療の一部ではなく、地域の一部である」という考えを述べたことがある。この根拠となったのは、次に述べるメディコ・ポリス構想が頭にあったからである。 3.『メディコ・ポリス構想』の提言と病院理念の変更 (1)メデイコ・ポリス構想とは? 1988年6月『農村医学からメディコ・ポリス構想へ』−若月俊一の精神史−(川上武・小坂富美子著)が出版された。川上武先生は臨床医であり、たいへん高名な医学史研究者である。 また医学・医療に関する膨大な著作活動を行い日本医療界随一の理論家であり、若月先生とは昔からの盟友である(その川上先生が今から20年前にこの本を出版され、世界で初めて「メディコ・ポリス」という用語を提起された。先生は「医療・福祉都市」と漢字表記されている。これは佐久病院の歴史と若月先生の精神史を綿密に分析するなかから生まれたものであり、佐久病院が21世紀に目ざすべきビジョンとして提唱されたものである。 この構想を極端に要約すると、農村地域は過疎高齢化が進み地域崩壊の危険にさらされているが、一方で高齢者医療・福祉ニーズは増大しており、ここを逆手にとった新しい農村再生、過疎地城の活性化策として、病院の命運をかけて取り組むべきであるとした。つまりこれからの時代は、保健・医療・福祉を地域社会の経済構造を支える重要な産業として評価しなおし、これらを軸にした新しい町作り、村おこしを目ざすべきだという画期的な提案である。 さらにこの構想では再生に向けての基本条件として、第1は医療・福祉システムの整備、第2は教育施設の充実、第3は住民の生計を確保できる産業の振興であると指摘した。さらに構想実現の必要条件として、第1に看護大学など医学・医療系大学の誘致、第2はシルバービレッジ・高齢者の村の誘致、第3は医薬品・医療機器企業・関連研究所の誘致の3点にあるとした。 この構想提起から10年、1998年6月に環境経済学者の宮本憲一教授(大阪市大名誉教授・前滋賀大学学長)らのグループによって「地域経営と内発的発展』(農文協)が出版された。この本で宮本教授らは長期間にわたり佐久地域の3町村(川上村、旧臼田町、旧望月町)の経済学的調査を行い、産業構造の推計や地域財政論の視点からメデイコ・ポリス構想の有効性を壌証した。さらに景観を重視する視点から地域ぐるみの公園化を意味するパルコ(パーク=parkと同義語)を加え、「メディコ・パルコ・ポリス構想」を提唱された〈国際的な分野で環境問題に取り組み、世界を舞台に活躍している教授ならではの指摘である。 宮本教授によれば都市型のものはすでにアメリカにいくつかあり、日本では神戸市などで「医療産業都市」構想として具体化が進んでおり、佐久地域を中心にした農村型モデル実現に希望を託したいと述べている。 (2)病院理念の変更 こうした経過を踏まえながら1997年9月、「佐久病院長期構想プロジェクト委員会」が発足、9つの専門部会と事務局(事務局責任者・油井博一現事務長)をおき、計71名の委員によって1年以上議論を行った。そして.1999年3月、「佐久総合病院理念と行動目標」を新しく策定しなおした。最大のポイントは中核理念である「農民とともに」は今後とも継承していくことを確認し、理念の結語部分をそれまでの「農民とともに・病院づくりを目ざします」から、「農民とともに・地域づくりへの貢献を目ざします」に変更したことにある。さらにこの地域づくりの具体的中身として、第2行動目標で「…メディコ・ポリスの実現に努めます」という表現を盛りこんだ。いまこのような理念・目標を謳う病院は世界に例がない。 基本理念・行動目標の全文を記載しないと意味が通じないかもしれないが、それは佐久病院のホームページに掲載してあるので参照していただきたい。またここに至る経緯では1994年第48回病院祭での若月私案発表などたくさんのでき事があるが、今回は省略した。同時進行にあった『佐久病院史』(監修・若月俊一/編集代表・松島松翠、1999年7月、頚草書房)の編纂作業から受けた影響も少なくなかった。 (3)病院再構築問題の基本的視点 こうして確定した病院理念・行動目標をふまえ、まもなく「佐久病院再構築プロジェクト委員会」(委員長・筆者、事務局長・盛岡正博前副院長)が組織され、再構築基本計画の検討が始まった。外部コンサルタントも入れた院内議論、地元JAや関係市町村との公式・非公式協議を重ね紆余曲折はあったが、2002年3月メディコ・ポリスの実現をめざす基本計画案が策定され、3月末の佐久病院運営委員会(最高決定機関)において承認され公表された。この運営委員会に基本計画案として提出されたものが佐久総合病院再構築特別号(『農民とともに』108号)であり、この文書のタイトルは、「ともに創ろう、いのちと暮らし」となっている。 この承認された基本計画書において、地域的には大きく3つに機能分化(美里地区を入れると4つだが、まだ議論途中にあった)させることを明記したし、場所問題についても関係者の合意を得て場所を特定し明記した。病院の判断だけで場所を特定明記することなどありえない。計画書公表後は地元地域をはじめ各方面で多くの議論を呼んできたが、この計画書の全体像を考慮することなく、場所問題に歪曲し議論する傾向について私自身は強い警戒心をもっている。 この計画書はメディコ・ポリス構想を広く佐久地域に適用し具体化したものであり、先述したように単なる佐久病惚だけの病院づくりを目ざすものではない。この中心にある考えは昨今の地域医療の危機を克服し、戦後一貫する国の医療制度・政策の矛盾を止揚することだけでもない。この地域の医療・福祉・教育などをさらに充実させ、低迷する佐久地域の地域再生・活性化に貢献することを目ざすものである。 低迷と敢えて述べたのは、佐久平周辺の急速に発展した商業集積都市(化)の華やかさ、一方でその陰の部分が心配だからである。農・商業などの伝統的な産業は元気を失いつつある。浅間テクノポリス(工業集積都市)にしても、数多の企業は安い労働力を求めてアジア諸国に進出していった。新幹線や高速道路などの公共事業は造るときは一時的に雇用が起きるが、その後は雇用がしぼんでいく。大型店舗の集積都市は便利できらびやかだが、地域の地場産業として末永く定着してもらえるかどうか。億兆円単位の売り上げをもつ大型店舗はもはや大商業資本である。一方で資本は高利益を求めて飛翔するという法則性をもっている。その多くが地元資本でないことも気にかかる。 そして佐久病院が再構築問題で提起した基本的な視点は、21世紀の佐久地域における中心産業を何にするのか、それを支える関連産業をどうするのかというごく一般的な問題である。つまり地方であればどこでも悩んでいるごく普通の問題であるが、実は地方の財政問題と対になっている最も困難な問題でもある。現在地方で中長期的にみて、この難問をクリアしているところはほとんどない。
いま佐久地域が日本、世界に向かって発信できる最高の目玉は、「健康長寿、日本一、世界一という実績であり、これをもっと発展させ地域づくりに生かすことだと確信している。半世紀以上にわたって農村医学・医療のために心血を注いできた若月先生の精神や思想を継承するということは、これらを実現するための地域変革とその運動づくりに全力を尽くすことだと思っている。 すでに南佐久地域では小さなメディコ・ポリス″が誕生した。5力町村で人口約1万7千人の中山間地域である。1999年4月特養老人ホームのべやまの新設に始まり、小海診療所の駅舎移転、老健こうみ新設、小海分院新設など一連の事業で、南部5力町村および地元JAより総工費の半分以上、合計で40億円近い補助金をいただいた。この一連の仕事は鷹野弥洲年前事務長が中心になって成し遂げたものであり、その強勒な精神力と昼夜を間わぬ行動力の貴重な成果である。この詳しい経過については、鷹野前事務長自らが執筆した文章が『農民とともに』3月号に掲載されているので参照していただきたい。「農民とともに」という精神は、実にこうしたことを指すのではないかと思う。 そして小さなメディコ・ポリスは着実に成長している。私が小海診療所で働いていた頃、南佐久地域での病院職員は総勢18名だった。それが今は200名を越えたであろう。メディコ・ポリス構想実現の評価をどのような指標で行うか問題もあろうが、新規かつ正規の雇用創出は重要な指標だと川上先生は指摘している。南佐久地域における今後の展開については、『農村医療の原点W』(2007年5月、佐久総合病院編)に小論を書いたのでそれを参照していただきたい。さらに数百名の雇用創出が可能だと信じている。 4.農村医学・医療の発展が健康長寿世界一の長野地域へ (1)読破しきれない論文 私がその論文に出会ったのは清里時代の1978年から81年までのどこかである。『農村医学』(若月俊一著、1971年、頚草書房)という第2刷の558頁の大著、その巻末論文(附)「某工場に於ける災害の統計的並びに臨床的研究(上)(下)」がそれだ。この本のあとがきを読むとこの大著は「…武谷三男氏、川上武氏、天明佳臣氏の3氏によって企画発案され、巻末の論文掲載は川上氏の希望だ」とあった。1942年「民族衛生」という雑誌に掲載された論文だが、さっそく読んでみて途中でギブアップした。難解な統計学の数式が出てきてわからないのである。いまでも佐久病院でこの論文を読破できるのは、公衆衛生学・疫学をきちんと勉強した西垣良夫副院長ほか健康管理部の医師だけではないだろうか。病院図書室にこの本は置いてあるはずなので、ぜひ一度読んでみていただきたい。 これが工場災害に関する論文であるにもかかわらず、その後農村医学研究の基礎となるすべての要素を含んでいるという意味で第一級の論文だと評価されてきた。しかし当時この論文は治安維持法違反との疑いをかけられ、若月先生は1944年1月逮捕、目自署に1年間拘置されるきっかけともなった。この本は現在入手不能であるが、農村医学の本格的なテキストブックであり、基本的なモチーフや方法論、実践の記録がここにすべてある。退職したいま、もう一度挑戦してみたいと考えている。 (2)佐久病院で働いた誇り 佐久病院で出張診療が開始されたのは、若月先生が赴任した1945年の12月である。1952年には定期出張診療班が確立、この活動のなかから住民参加による定期的集団検診が実施されるようになった。やがて1959年、八千穂村全村健康管理活動が始まった。この活動はその後厚生連健康管理センターによる全県レベルの集団健康スクリーニングへと発展、国保系医療機関の健管活動と競いあいながら、現在でも毎年県下10万人がこの検診を受けている。長野県の総人口は約230万人、このうち受診対象者層の人数を考えると、10万人という数字がもつ意味は重い。ここには農村医学・医療の運動論がはっきり貫いている。 旧厚生省の統計によれば1960年代前半、日本人の平均寿命は東京都が男女とも群をぬいてトップだった。つまり医療の量と質がその寿命を決めていたといえる。当時の長野県は長寿とはいえなかった。ところがその後長野県が男女ともに寿命をのばし、こんにち男女平均では最長寿といってよい。しかも老人医療費は過去10年以上、全国最低だという。この理由については調査も行われて一定の見解も示されているが、医療だけでは長生きしないことがはっきりしたように思う。第一線的な保健・医療・福祉の包括性やそのシステム、地域社会での暮らし方にその謎を解く鍵があるように思う。これらの成果は「長野モデル」と表現されているが、その原点・原型が先述した出張診療(+演劇+衛生講話)にあることは間違いないし、この間佐久病院が果たしてきた役割はきわめて大きいと思う。この成果に対し佐久病院の一員として働けたことを、いま心から誇りに思っている。さらに冷静で科学的評価を行うには、長野県保健医療の運動史を専門家らのグループによって解明してもらうことだと考えている。この点で長野県厚生連がどのように貢献できるか、大いに期待したいと思う。 また佐久病院史の中心には農村医学・医療への取り組みが常にあった。古くはカリエス、こう手、冷え等が、さらには農夫症、農機具災害、農薬中毒等があり、近年では環境汚染問題にも取り組んできた。これらの活動は日農医研究所、健康管理部が中心になりながら、多くの病院職員や農村保健研修センターと連携し、国内だけでなく国際的レベルで展開されてきた。学術組織である農村医学会をみても県、国、アジア、国際と重層的に形成されており、この分野の深さと広がりを実感する。私自身は直接の研究や活動に携わったことは多くなかったが、第一線診療所で仕事をしながら、よりよき農村医学の徒であろうと誇りを胸に抱いてきた。 (3)山のようにある農村医学のテーマ 私は脳梗塞を患ったため2003年5月末をもって院長職を退任、その後10カ月間リハビリをやりながら、管理業務の引き継ぎ・相談事に携わってきた。それでも自由な時間がたくさんあり、以前から気になっていた農村医学的テーマの整理に時間を割くことにした。 最初に若月先生が「今日の農村医学的テーマ鳥轍図」を作成したのは1962年のことである。それを見ていると農村医学のイメージが盛り上がってきて、各項目の相互関係や具体的な改善策として実践の重要性がよく理解できた。個々のテーマは本や思いつきから出てきたものでなく、長年の農民生活・農村実態調査から抽出されたものであった。さらに病院業務ではなく、自主的な仕事、運動としてこれに取り組む情熱がこの鳥轍図から伝わってきた。 約20年後の1981年に改訂版が発表された。全体にテーマの項目数は減ったが、農業の機械化にともなう農業災害の多発や農業病の認定、ガン・成人病に対する健康管理方式の確立など、時代の変化を反映するテーマが配列されるようになった。 それからまた20年、私がこのテーマ鳥轍図の荒い試案をつくって院内に公表したのは、2000年4月の看護専門学校学生を対象にした学校長訓話という場だったような気がする。これ以降未完成試案であることを承知しながら、院長業務の多忙さに流されて忘れてしまっていた。そして病気になり自由な時間が手に入った。近年の病院諸活動を整理し関係する出版物から資料を集め、62年版と81年版の鳥轍図を睨みながら、パズルの空自を埋めるように一つひとつテーマをはめ込んでいった。そして完成したのが2003年の冬だった。それが資料として添付した私の改訂版である。
5.われわれのス口ーガンについて (1)最後の若月語録 終戦の翌年1946年2月、佐久病院従業員組合が結成され、初代組合長に若月先生が選出された。ここで次のような組合の綱領ともいうべきスローガンが決議されたが、これは佐久病院自身のスローガンでもあった。 T.従業員の生活の安定と文化の向上 U.病院内の徹底的民主化 V.佐久地方人民の保健の向上と医療の民主化 W.農村医学の確立 X.他の民主団体との連携(これは後に追加) この5つのスローガンのなかに、民主・民主化という言葉が3回出てくる。民主主義に対する渇望、期待が溢れていると同時に、なんとしても民主化を果たそうという強い決意が読み取れる。そしてこの年の10月、若月先生は院長に就任した。 以来50有余年、1998年春若月先生は総長職を退任、その記念式典の講演で「民主化は2割か3割か…」と述べられた。そして「医療の民主化は、地域の民主化なしには実現できない」といつものように締めくくった。これは若月先生現職最後のメッセージである。これを聞いたとき「2〜3割」の多い少ないではなく、民主主義を最初から最後まで気にかけていた類なき指導者のもとで働けたことを、心底ハッピーだと思った。 (2)危ない社会の風潮 1999年5月、院長室に某新聞社から一本の電話がかかってきた。少し前に成立した「周辺事態法」に関わる電話取材で、「有事に際し傷病者の受け入れに、佐久病院は協力するかどうか」という内容だった。私個人は協力しないと答えたところ、病院長としてはどうなんだと切り返された。一瞬考えた後、「農協の病院だから、その時には組合員の意見を聞いて決める」と責任逃れの答えをした。電話を切った後、若月先生なら「病院長としても協力しない」と毅然と答えただろうと、我ながら情けなく思った。それにしてもこの種の問題を電話取材してくる風潮に、たいへん危険なものを感じた。 この年の通常国会では住民基本台帳法や国旗・国家法など、有事に関する一連の法律が通過成立した。90年代に入り政治・社会情勢は右傾化の速度を増していたが、これによって集大成といった感じだった。戦後民主主義の流れは途絶し、ナショナリズム、ファッシズム復活へと逆行していく道が顕在化した瞬間だったかもしれない。以後あの「9.11」を経てアフガン、イラク侵略戦争の勃発、憲法違反の自衛隊・海外派兵へと突き進んでいく。風景としては違っていても、かつてこの道は確か来たことのある道、危ないだけでなく間違っている。われわれが、日本が、戦争に巻き込まれる危険性があるというのではなく、すでに参戦している。生の姿が見えにくいというだけであろう。遅いかもしれないが、覚悟を決めて反抗するときだと思う。 (3)もう一度『農民とともに』 “われわれのスローガン”はいまや病院労組定期大会議案書の表紙裏で見られるだけになってしまった。いつの間にか病院ホームページからも消えた。これでよいのだろうか。5つの項目のうち、どれ1つとってみても忘れていいほど達成などしていないし、ひと昔まえより後退しているものさえある。私はこのスローガンこそ佐久病院の根源的存在意義だと考えてきた。この5項目をひと言でいえば中心スローガンである『農民とともに』であり、われわれはその意味するところをいつも噛み締め、歌うだけでなく具現する使命があるように思う。 今回「退職記念講演会」という場を設けていただいた夏川院長をはじめ、関係の皆さんと全職員の皆さんに心よりお礼と感謝を申し上げます。また前後合わせて29年の在職期間中、諸先輩を含む大勢の皆さんにお世話になり、まことにありがとうございました。 最後に1961年4月、大学に同時に入学した4人の同級生のうち、盛岡正博厚生連専務理事(現役入学)を除く橋勝貞前副院長と藤井伸前心療内科医長と一緒に定年を迎えられたことは、個人的なこととはいえ嬉しいかぎりです。伊澤敏副院長より「ファイティング・スピリットを持った世代だった」と、身に余る評価をしていただきました。 佐久病院は難しい時代に、難しい課題をもって船出しましたが、いつの時代でも闘う精神を忘れませんでした。そこに希望と誇りをもって、これからも進んでいってほしいと思います。 ※資料『今日の農村医学的テーマの鳥瞰図試案』 (若月・1962年作成、1981年改訂/清水・2003年改訂) |