「僕は、これほどまで生きたかった。」(扶桑社刊)を読みました。著者は芸人コンビのキリングセンス(既に解散)の萩原正人。当時、妻と息子(小学校1年生)の3人暮らし。爆笑問題の所属する事務所「タイタン」のタレントです。爆笑問題の再出発後、初期の頃の文章、ビデオには必ず出てくるキリングセンス。「でも、聞いたことがないな〜」と思い、ネットで調べてみたところ、なんと彼は物凄い試練を経験していたのでした。それは、慢性のB型肝炎、そして肝硬変──余命半年という告知でした。時系列で並べると以下の通り。●1998年5月。芸人仲間から「真っ黒ですね。ハワイでも行ったんですか?」と聞かれる。持病で慢性のB型肝炎を持っていたが、これまで何の症状もなく生活してきたので、当時はあまり気にせず。(後に母子感染と判明)●数週間後、朝から40℃の高熱。それでも深夜の番組収録があり、爆笑問題とテレビ東京で仕事。帰宅後、余力を振り絞って近所の河北総合病院へ行き、採血。即入院と告げられる。「あなたは肝硬変です。今から絶対安静」点滴を受けるも、食道に出来た静脈瘤がいつ破裂するかわからない状態。破裂すれば大量出血で死ぬかもしれない、という宣告をされ、不安を抱いたまま退院。●1999年2月、腹水がたまり、カエル腹に。またもや高熱で病院へ行くがベッドに空きがなく、一端家へ帰り、その夜に吐血。意識を失って、太田光代社長が駆けつけて救急車の手配。救急処置を受け、一端帰宅。翌日に入院。(※ この頃、初めて日本で脳死移植が行われるが、B型肝炎患者に対する移植は非適応とされていた)●医者にB型肝炎患者に対しての移植について訊ね、無理だと告げられる。萩原正人、31歳。相方の河崎健男に「芸人をやめる」と告げ、死を覚悟する。●3月28日、自宅にて静脈瘤破裂。危篤状態。緊急で静脈瘤結さつ術(EVL)を行う。目を開けると、田舎の両親、浅草キッド(ここで爆笑問題・太田さんとひと悶着有り。機会があったら改めて記事にします)、江頭2:50、金谷ヒデユキ、相方の河崎さん。31日には「タイタン」のメンバーが見舞いに訪れる。●状態が安定し、一般病棟へ。しかし医師から「次に静脈瘤破裂があったら命の保証はありません」と言われる。打つ手がないとわかり、ひたすら安静にし、病院で当てのない日々をおくる──。そんなときに、嘘のような話が萩原さんの耳に飛び込むことになります。先輩である爆笑問題の太田光が病院を訪れ、開口一番に言った言葉『「ハギ、お前が助かる可能性があるぞ。海外移植だよ」相変わらず、突拍子もないことを言い出す太田さんだった。しかも本気で言っている。俺は半信半疑だった。「ネットで調べたんだよ。専門の人にも確認したし」これは後日知ることになるが、太田さんの情報は正解だった。確かに過去、B型肝炎患者への移植は非適応とされた時期はあった。それが今では、B型肝炎患者への治療法が確立され、移植後の再発も食い止められるようになったのだ。「また詳しいことがわかったら来るから、これ読んどけ」ネットから出力された移植についての資料を渡された。そして太田さんは帰っていった』(本文より抜粋)キリングセンスと爆笑問題の出会いはライブハウスの「ラ・ママ新人コント大会」。以来、紆余曲折あって、彼らは一緒の事務所に落ち着くことになりました。仲の良い先輩後輩の間柄。『太田さんは仕事帰りに、暇を見つけては見舞いに来てくれる。「ハギ、B型肝炎ウイルスに効くいい薬も最近はあるんだよ。ラミブジンといって、元々はエイズの薬なんだけど、これがB型肝炎ウイルスに効果があることが最近わかったらしいんだ」今まで耳にしたこともない薬だった。太田さんから叱咤の声が飛ぶ。「お前バカで死ぬんだよ。肝硬変じゃないんだよ。調べれば助かる可能性がないわけじゃないんだ。ハギ、バカで死ぬなよ」それは太田さんらしい励ましの言葉だった。今でこそ大きな話題になっているラミブジン。当時は勉強熱心な人にしかその情報は得られなかっただろう。移植の話もだ。それは考えれば考えるほど、無謀に思えた。まず大金がいるということは想像がついた。(※注1)「公開募金って方法がある」太田さんは言う。たしかに何度かニュースで見かけたことがある。しかし、30過ぎたいい大人が「死んじゃいます。助けてください」なんて言っても募金は集まらないだろうと思った。「お笑い芸人なんです」なんて言って、今まで自由気ままに生きてきたのだ。それこそ都合のいいわがまま、単なるエゴだ。「お前はカミさんや周りの人に、これ以上迷惑はかけられないって言うけどその考えこそ独りよがりのエゴなんだよ。残されるカミさんや広空のことを考えろよ、勝手に死にます、覚悟しましたなんてのが迷惑なんだよ」太田さんは物事をはっきりと言う。それは心に突き刺さり、必死になって堪えていたものが胸の奥から突き上げてくる。「そりゃ…死にたくないですよ。覚悟なんて絶対つきませんよ。そんなの嘘ですよ。だけどそんなこといったってどうしようもないでしょ」話ながら涙がこぼれだす──』(本文より抜粋)その後、太田さんがトリオジャパンという、移植患者をサポートしてくれるボランティア団体を探し、そこへ懸命にアプローチ。萩原さんは地元の人々の協力、多くの善意に支えられて、アメリカへ旅立ち、苦難を乗り越えて移植にチャレンジすることになります。移植はあくまでも順番待ち。余命との「死」をかけた時間の闘いです。『成田での出発前、タイタンのマネージャー劉(りゅう)さんに腕をつかまれた。「ちょっと待ってハギ。これ光に渡された」その手には腕時計が握られていた。それは爆笑問題が出した著書「爆笑問題の日本原論」の10万部突破記念に、宝島社から贈られたものだった。「光がこれをもらってから運が開けたって、大事にしてるの知ってるよな。光がこれ持ってけって」「じゃあかわりにこの腕時計を」オレは腕に巻いていた安物のデジタル時計を、劉さんに手渡した。励ましの声がだんだん小さくなっていく。振り返りたいのに、振り返れなかった。我慢していたものが噴出した。泣いてる姿はみせられない。ピンと背筋を伸ばし振り返らずに手を振った。オレはアメリカに向う飛行機で何度も心の中に誓った。絶対に帰ってくるんだ!絶対に死なねえ!』(本文より抜粋)萩原さん一家の家族愛(息子さんは予算の都合で連れていけず)、芸人仲間との友情、そして海外移植という稀有な体験記です。本人の意識がない場合(肝性脳症《※注2》、大量出血による意識不明時など)は奥様が代わりに日記を書き、克明に経過を記している本で、B型肝炎、海外移植、“アメリカ医療”の実態がよくわかります。機会がありましたらぜひご一読くださいねm(__)m※注1)渡航費用、滞在費、手術費として、当時、最低5000万円が必要とされた※注2)肝性脳症〜本来肝臓で解毒されるアンモニアが処理されず、毒素として脳に回り、意識障害を起こす。イライラ、興奮、言動異常、反抗的態度、昏睡がその主な症状。※医療に関する情報・技術等の内容はあくまで1998〜2000年頃のものです。ご了承ください。★ハギの肝臓日記★http://www.titan-net.co.jp/~hagi/toubyou/tobyo-menu.htm