■81歳、へき地医療に情熱
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2009.01.03 |
富永さん(石巻・寄磯診療所長)に河北文化賞
13年間 健康教育に力/
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石巻市立寄磯診療所長の富永忠弘さん(八一)が、二〇〇八年度河北文化賞を受賞した。仙台市の大病院の院長が、牡鹿半島の小さな診療所に赴任して十三年。地域の厚い信頼に支えられ、住民の健康を見守り続けている。
富永さんは、仙台市医療センター・仙台オープン病院長を十四年間務め、寄磯診療所長に就任した。一九九五年、六十八歳での転身だった。
「大自然の中で、へき地医療に取り組むのが若いころからのあこがれだった」という。地域医療を支援してきた大病院の院長が自ら、へき地医療の現場に飛び込んだことは当時、周囲を大いに驚かせた。「半ば隠居のようなもの」と話す謙虚さがかえって、その責務の重さを映し出す。
富永さんが寄磯に赴任して最も力を入れたのは、住民の健康教育だ。旧牡鹿町の広報誌に連載した「富永先生の診療室」は〇五年までの九年間で計九十二回に及んだ。
毎回、千五百字にまとめた原稿は「胸苦しくなりす、なじょなんだべ」と方言も交えた。高齢者にも読みやすいようにという配慮だ。旧牡鹿町が二冊の冊子にまとめ、三冊目は自費出版し、地元住民に配布した。お年寄りにとって、今も「バイブル」として重宝されている。
「医療アクセスが悪い地域の住民は『薬と注射が良い医療』ととらえがち。薬をあまり出さないものだから、赴任当初は、患者さんからは不満ばかり言われた」と振り返る。
加齢に伴って、病気ではないまでも体の不具合が起きることは避けられない。薬には副作用があり、あまり多くの薬を取ることは、かえって不具合を引き起こすこともある?。そんな教えが最近ようやく実り「薬は最小限にした方が良いもんだ」ということを住民が理解し始めたという。
「へき地医療は、医療の提供はもちろんだが、生活習慣を見直すだけで防げる疾患があること、薬や注射に過度に頼らず健康に暮らせる生き方を指導することこそ、より大事だ」
診療室のパソコンには、診療カルテとは別に、既往症、肥満度、生活習慣などを記載した患者の個人票を保存する。紹介状に添付したり、都会に住む子どもの所で療養する患者に持たせたりする。診察する医師は、ひと目で理解できる。データは、寄磯地区の人口約五百人に加え、近くの東北電力女川原発の従業員も含め、九百五十人分を超えたという。
「プライバシー保護の課題はあるが、将来インターネットで診療所と地域の中核病院を結べば、患者情報の把握が容易になる。理論的には医療上の『へき地』はなくなるんだよ」。病診連携の理想を求め、実践する意欲は衰えを知らない。
高血圧治療が専門。寄磯では整形外科や内科と何でもこなさなければならない。「最初は、専門外のことをよく知らないから、仙台にいる後輩に電話でどんな治療がいいか聞いたもんだ。今はいちいち聞かなくても良くなったけど」。信頼を厚くする謙虚さが、そこにはある。
日曜日夕方に仙台市の自宅を出て、月曜日から木曜日昼まで単身赴任で診療に当たる。七十五歳までは、自分で車を運転して通ったが、今はタクシーで往復。公舎の庭の畑で野菜を作り、自炊を楽しむ。赴任直前に見つかったがんを克服した。坂道が多い寄磯での往診を続けるため、股(こ)関節の手術も受けた。
診療所を素通りして都会の病院へ行く患者は、寄磯にはいないという。「先生いないと、夜、安心して寝られないんだ」「おれらを皆見送るまで絶対辞めないでくれ」と哀願する住民。「だから辞められないんだよね」と笑う。
大学時代は、ボートでならしたスポーツマン。一九六〇年のローマ五輪では日本代表のコーチを務めた経歴も持つ。
河北文化賞との縁も深い。仙台オープン病院(〇六年度)では設立に参加し、院長を務めた。東北大漕艇部(一九八〇年度)は、OBとして後輩の活躍を喜んだ。
「今度は、わたしが頂くとは。何とも光栄です」。たばこに火を付け、相好を崩した。
とみなが・ただひろ 1927年石巻市出身。東北大医学部卒。東北大教授、設立に参加した仙台市医療センター・仙台オープン病院長を経て95年から現職。高血圧症、動脈硬化症が専門。日本ボート協会顧問も務める。 |
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