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2009年は価値観革命勃発。金で腹は膨れないから。

テーマ:ブログ
2009-01-01 13:16:44
2009年を大胆予想! ブログネタ:2009年を大胆予想! 参加中
2009年はモンゴルでは、「青い丑」の年です。モンゴルでは、日本や中国など多くのアジア諸国で旧暦元旦になる新月は「ビトゥー(閉じた)」日=大晦日と計算していて、1月27日が「シニンネグ(元旦)」となります。さて、この年がどんな年になるのか・・・?
易学者や僧侶の予測記事はモンゴル国のたくさんある新聞でも人気の特集記事になります。

特に根拠はないけれど、私が肌で感じたかぎりの2009年、大胆予想!

今年は、私たち、人類にとって、ひとりひとり、「この世界で生き抜くために必要なもの」を探究する価値観革命の1年になるでしょう。

権力、財力、学校の成績、仕事の業績
幼い頃から私たちが「強い」と教えられてきたものが、ちっとも強くないってこと。
絶対的に揺るがないものなんて、この世にはないこと。

ちょっと前は、「金持ち父さん」のように「お金を愛し、「財産を投資にまわしてさらなる富を得る」不労所得を安定的に得るシステムを構築して、豊かな人生を送る」という価値観で、「ファイナンシャルリテラシー」っていうものが注目されました。
子供の頃からお金の扱いを覚えないといけないって。

そして、IT革命もありましたね。

大手企業に就職して、終身雇用制の中での出世競争でがむしゃらに24時間働けますか?ってがんばるのではなく、新しい価値観、システムを作り、クリエイティブになり、自分のやりたいことのために、会社を飛び出し、冒険する「ベンチャー起業」をする若者たちが登場。

ベテランのビジネスマン、投資家に肩を並べ、おいぬき、全く新しい価値観を提示しました。
誰でもできるネット株。学生やニートと呼ばれる若者が一瞬にして、億万長者になったり。

「お金で買えないものはない」って豪語して、時代を駆け抜け、時代にけたぐりかけられて「犯罪者」にされちゃった若者もいました。
私は、今でも、ほりえもんは時代の寵児であり、彼には彼の信念があり、それが時代に合わなかったのかもしれないけれど、それでも、今の苦境を彼はきっと乗り越えて生き残る。また新たなチャレンジをする人だって思ってます。実際に彼が法を犯したかどうか、裁判中だから私はなんとも言えないけれど、彼は彼自身の力を信じている、強さを持っているから、どんなどん底からだって、彼らしく這い上がるはず。

不思議なことに、悪いことをしたって、犯罪者だって、この世の中はやり直しがきく。

私は、麻薬でつかまり、銃刀法でつかまり、前科持ちの、角川春樹氏がモンゴル国で映画を撮り、ビジネスできてしまった、ということに驚きました。

なぁんだ、世の中、なんでもありじゃん、って。

世の中、やり直しがきく。
正義と教えられてきたものが、常に勝てるわけじゃない。

でも、犯罪者だった人だって、世の中を裏切ってひどいことやってきた人だって、ちゃんと生きていける世の中なんだから、前科もなく、他人を傷つけることもなく、たんたんと日常を過ごしてきた人が、やり直せないわけがない。


今、日本では、「派遣切り」で大騒ぎ。
国家予算使って窮状を救ってあげなきゃ、国民から総すかんをくらってしまいそうな勢い。
私には、不思議で理解できない現象です。
「職業選択の自由」が与えられた資本主義社会で民間企業が経済活動をしている国で、どうしてこんな論争になっているのかなぁ?

ちょっと前は、派遣社員の人たちって、
「正規雇用よりも自由で職場環境が選べて、嫌なら辞めることも、条件がいいところにも簡単に移れる」って、こぞって派遣登録してたりするんじゃないですか?

熾烈な就職活動や入社試験で企業に就職して、会社のために身を粉にして、過労死寸前まで働いたり、会社のために泥をかぶってボロボロになったり、セクハラに耐えたり、窓際族なんて言われても会社にしがみついたり、リストラされたりするのが嫌だって、あえて、自分の「能力」や「個性」をいかすために、自分の「時間」を自由に使うために、派遣社員になった人だって少なくないんのでは?

「派遣のヒンカク」っていって、もてはやされてドラマになってたのはついこの前の話ではなかろうか?

工場労働者って私は、自分が単純労働といわれるものをやったことがないから、想いやりのないことを言ってしまうのかもしれないけれど、工場という「器」が動かない、工場が生みだす製品の「受け皿」が激減し、工場の血液である金や材料がまわらなくなった状態で、工場そのものを失わないために、経営者が、株主がとる手段は、やっぱり、金策ではコスト削減、効率化、工場の設備縮小、あるいは冬眠・・・てしかたないじゃない?
その時、優先順位として、正規雇用じゃない人から外していくのは常套手段じゃない?
なんで、動かしてない工場にいる人に給料を払う義務や生活を保障する義務が生じるって主張できるの?
労働者保護法はもちろんあると思うけれど、結局、派遣社員っていう制度は、工場稼働状況で増減する人員需要に対応するためのものだったと記憶してるんですけれど?

どれほどかけがえのないものでも、失わなきゃいけない時がある。
その失う、手放すっていう決断がベストじゃなくても、やらなきゃいけない時がある。


時には、誰かが命を落とさなきゃいけない時だってあった。
人命は地球よりも重いって言ってたって、ほんの60年ちょっと前に、私たちの祖国は、かけがえのなに、未来の希望に満ち溢れた若い命を「お国のため」っていって、捨てさせた。
自分が死ぬことでなにか変わる。それならば、愛する人のためなら死だって厭わない。
かわれるものなら変わってあげたい。それが人情だったり。


今、会社も日本も、世界も、地球も、瀕死の状態だって、今の経済活動じゃやってけないって危機感があったら、今みたいな世の中の不満も出ないのにね。

今、日本には力がないのかもしれない。アメリカがこけたら、日本も一緒にこけなきゃいけないのかもしれない。
世界中の経済や労働力やいろんなものの、本来のサイクルがぐじゃぐじゃになり、崩壊寸前じゃありませんか?

私、今の環境問題や経済問題、民族紛争や国際的な摩擦など現時点での状況が続くなら、世界人類が平和に幸せになるための道なんかないって思ってます。
大戦争がおきるのかもしれない。

そんな閉塞感がある。
日本が戦争しないって誰にいえますか?

私は、日本が8月15日に終戦をし、戦争放棄を憲法でうたったこと。防衛費を国家予算の1%以内にすることを決めたことを、社会の授業で習った時、「日本人は、世界を敵に回して戦い、敗れたことで、人類の未来を見つけたんだ」と日本人であることに誇りに思いました。

今の小学生、中学生は、1%枠のこと、知ってるのかしら?

なんだかんだと、「大人の事情」で「敗戦の記憶」をうっちゃって、日本の大人は、自分たちが「平和のために」かけた規制をなし崩し的にとっぱらっている。
ならば、「やむを得ない事情」っていって、「大量の青年、壮年層の失業者に活躍の場を」っていって、銃を持たせて戦場という「雇用の場」をつくるために戦争やっちゃわないとも限らない。

経済的な閉塞感、金融不安が戦争という愚かな暴発という形で出口を求めてはじけたことは、人類史上、そして世界のあちこちで、現在進行形で複数起きてること。

地球温暖化や環境破壊だけが人類の危機、地球の危機じゃない。

地球温暖化が騒がれるようになってた頃、私は、自分たちの手で作れるものだけを持ち、自分たちが暮らしている環境が与えてくれるものだけを使って生きる人たちとモンゴルの最北の地で一緒に暮らしていました。彼らが暮らせる場は、そこにしかなかったから。モンゴルのさきっちょで、ほんとにつつましく、静かに暮らしていました。
温暖化の影響は確実にそんなささやかな人たちの暮らしにも確実にダメージを与えていて、湿地帯のいつも通っている定番の道で、永久凍土層が溶けすぎて、底なしの泥沼になったところに馬が、抜けることができなくなって溺れ死にそうになるような大騒ぎもあったし、何よりも野生動物が激減しています。

集落16世帯のどこにも食糧がなくなっちゃって、空腹でくらくらしながら男たちと狩りに出て、ひたすら、えものの痕跡をギラギラしながら探し回り、生きるために、野生の命を絶つ。えものが森から消えたら、その人たちは住むところを失う。老人は死ぬまで森を離れないといい、若者は、そんな先細りの森から出るための手段を模索してもがく。

都会に出てきて、それまでの生活のよりどころだった技術が無価値になり、まともな職業につくための教育も受けていなくって、精神的にもダメージを受け、たくましさを失い自暴自棄になる若者、モンゴルも例外ではないやるせない現実。


地球は悲鳴をあげてるんじゃなくて、警告しているんです。
地球は人類がいなくなったって、存在し続ける。むしろ、その方が地球にとっては好都合かもしれない。
地球が生みだしたもの以外を、勝手に、生みだして、使えなくなったら、地球に全部押しつける人類なんか、いなくなっちゃったって、地球は、今とかわらぬ自転を続け、太陽の周りをまわり、多くの無数の命をはぐくみ、生みだせるんだ。

でも、私が死んだら、私の世界はこの世になくなっちゃう。何もこの肉体で感じることができなくなっちゃう。空腹で胃がとけそうな痛みも、力が入らず萎えて、踏みしめることすらあやうい足も、「死ぬのかもしれない」なんて危機感も。

それは嫌だ。何が何でも嫌だ。

狂気に追い詰められそうなくらいの閉塞感の中で、私が望んだのは、食うことであり、眠ることであり、人と生きることでした。

命を奪うってことは、罪深いことだけれども、それでも、生きるために選らばなきゃいけない時もある。
たとえ、かわいいぬいぐるみみたいな小熊を連れた母熊であっても、森のタブーをおかし、国の法律を犯しても、家族を、自分を生かすために殺さなきゃいけない時、私たちには、一瞬のためらいもなかった。禁を犯して口にした、1歳にも満たない小熊の肉は、たまらなく美味しかった。

私は、そんな暮らしを送れたことを、感謝しています。
人間として大事なものを教えてもらえたって。

2007年に、私はやっぱり、いろんなものを失いました。自分が経営していた会社の車も回転資金も自分の預金も、頼りにしていた会社のスタッフに見事な書類操作でもってかれました。
モンゴルに対する情熱、人に対する信頼、愛情、健康。
お金を失ったことのほうが、周りの人たちにとってのインパクトは大きかったみたいだけれど、私にとっては、他人を信頼できなくなった自分のほうが哀しかった。

2008年は、がんばるのをやめて、ほんとに自分がやりたいことは何か、失っちゃいけないものは何かを追求していました。

愛犬の小さな命を、私のせいで、私の手で奪ったこと。1日だって忘れることのない痛み。

奪われたもので戻ってくるものは何もない。
でも、人はすごいもので、それでも、やっぱり生きていくために、何かを生産することをやめられないのです。愛もお金も生き甲斐も。
自分なんて人間のクズだって落ち込んでも、すぐに自分のための欲望がわきあがるのをとめられないのです。

派遣の人たちは、職を失い、住むところを失い、きっと、会社や雇い主、国に対する信頼も失い、やる気も失っていると思います。絶望的で、自暴自棄で誰かに責任を押し付けて、なんとかしてほしいって思っていることでしょう。

でも、私は、ここで価値観を大転換しなきゃいけないって思う。

「自分は今、生きるために何をしなくちゃいけないか?」


派遣社員で職を失った人の大半は、今、自力でどうすればいいのかって途方にくれながら、意気消沈しながらも生きるための道を模索しているはずです。

雇われている人も、雇っている人も、国民も、政府も、今、真剣に「日本が世界で独立国として生き延びる」ってことを考えなきゃいけない。

お金がなくても生きていける社会、つくれないわけがない。
だって、金は、人の「信頼」と「財産」という概念によって、人が作ったものだから。
それがなくたって、昔は人は生きていたのだから。

紙幣という概念は、モンゴル人によって、東西経済交流で普及しました。

なのに、今、モンゴル人も日本人も、世界中の人たちのほとんどが、この紙幣に踊らされている。

世界中の人類すべてが、「お金なんかいらないじゃん!」って、お金の介在なしで助け合い、本当に人が求めているものを与えあうことができる世界。

できないはずがない。

ジョン・レノンの「イマジン」はそれを預言していました。

誰も何もしてくれないってことじゃなく、「自分に何ができるのか?」って考えること。

経済が大変だっていうけれど、それを動かしているのが、「お金」じゃなくて「人」なんだってこと。
それをきれいごとじゃなく、本気で考えるなら、やっぱり、「金で動くな。人のために働け!」ってこと。

働くことは、「傍を楽にさせる」こと。それが自分を生かすことにもなる。
誰かのために何かをして、「たくさんのお金をもらって喜ぶな」って、2008年から自分を戒めています。
自分にとって大切なのが、愛だから、私はありったけの愛を与え続ける。

自分にとって、必要なのがお金なら、私以上にお金を必要としている人とわかちあえる仕事を作る。

自分には、まだ誰かのためにできることがある。与えられるものがある。

これってすごい幸せなこと。そして、与えられるのがお金でないものであれば、もっともっと幸せ。

お金は食べられないんだよね。お金を抱えきれないほどもらったって、金庫いっぱいあったって、心は膨れないんだよね。
ほんとに必要なのはお金じゃないってこと、2009年、人類は気がつくはず。

私がこれまで味わった苦しみ、哀しみ、悔しさや怒りが、今、自分を生かすための糧となり、私を強く、幸福にしてくれたように、世界の人たちは、これまで蓄積してきた艱難辛苦や憎悪や激怒や絶望を、みんながこの地球上で生きぬくための糧にしなきゃいけない時期に来ています。

ホントに困っている人のために、「無料で食事を配ること」。
「あくせく毎日必死で働いている自分より恵まれている、ずるい」って感じる自分がいたら、「働かざる者食うべからずだよ」って苦々しく思うよりも、「お金がなくても食に困らない」日本という環境を嬉しく思った方がいい。

私は、命を奪わずに食べ物が紙切れや金属のかけらで手に入れられる、日本はすごいと思うし、お金のない人にも配れるほどの食糧があることを嬉しく思います。

でも、「お金がないのに、食事を与えられている人」がほんとにそんな環境を望んでいるわけじゃないのだから、お金がないことを恥ずかしく、なさけなく思わずに生きられる生活こそが、私たちの望むべき社会じゃないかな?

2009年は、これまで「勝ち組」って言われてた、富裕層が、「金持ちであることを恥ずかしく」思うようになる年だと大胆予想します。

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