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【暮らし】

やさしさの力 生を見つめる

2009年1月1日

 金融危機の寒風が吹きすさぶ年明けです。勝つための強さにこだわると、気がめいるばかり。分かち合うための強さを考えてみます。元気や勇気を生み出すのは「やさしさの力」だから。 (「やさしさの力」取材班)

 「こいつ、暗かったんですよ。いつも黙ってて」。右足に装具を付けた一柳(いちやなぎ)啓介さん(25)が、カメラを前におどけてみせた。隣をゆっくり歩いていた宮崎慶多さん(23)が、ニヤリと笑って返した。

 「だって、啓介君、ヤンキーみたいで怖かったから」

 さわやかで明るい二人。共に難治性の骨のがんで闘病してきた。

 出会いは二〇〇〇年の初夏、愛知県がんセンター中央病院。名古屋市千種区の中学校三年生だった宮崎さんは骨肉腫で入院、抗がん剤治療の後、座骨の大半を除去する大手術を受けた。手術は成功したものの、座骨神経痛を発症して寝たきりに。四人部屋のベッドサイドのカーテンをいつも閉め、ふさぎこんだ。食事がのどを通らなくなって体重は十キロ以上落ちて四二キロに。

 そんな中で「部屋が暗くなるだろうが」と、勝手にカーテンを開けるのが、岐阜県大垣市の高校生だった一柳さん。「やめてください」と閉めても、また開けられた。一柳さん自身、ユーイング肉腫で過酷な抗がん剤治療を目前に控えていたが、引きこもる宮崎さんが気にかかり、同室のおじさんと組んで、声掛け作戦を始めたのだ。

 宮崎さんは「啓介君、やたら行動的な人で、最初は嫌だったけれど、いろいろ話すうち、楽しくなって一緒に病棟探検をしたりするようになりました」と振り返る。中学の同級生たちが毎日見舞いに来てくれたことも心の支えになった。

 名古屋市内の単位制高校へ進学したが、二年後に肺に再発。右肺の三分の二を切った。痛みがひどく、気力がなえそうになった。同じ骨肉腫の患者で、ずっと励ましてくれた人が亡くなったことにもショックを受けた。その時にまた支えてくれたのが一柳さん。「同じ治療をしてもつらい結果に終わる人もいる。だからこそ自分たちが生きているだけで、誰かのためになることもあるんじゃないか」。その言葉が強烈に心に響いた。

 「死んだときに家族や友達が悲しまないように、自分の存在が遠くなればいいと考えていた。その言葉を聞いてからは、病気を抱えながらどう生きるかを考えるようになったんです」

 退院後に始めたのが水泳だった。最初の手術で左のお尻の肉が切除され、大好きなサッカーや野球をできなくなったが、障害者スポーツの世界で記録に挑戦してみたいと考えた。しかし翌年、右太ももにウズラの卵大のがんが見つかり、また手術。右足の筋力も大幅に落ちた。

 それでも家で毎日、上半身を鍛えるうち、腕の力だけで水を切って一直線に泳げるようになった。

 〇六年には、障害者水泳大会の日本選手権に自由形で初出場し三位に入賞した。五十メートル35秒台の記録は本人にとっては不満で「30秒を切るタイムを出して、がんをぶっ倒したい」と意気込む。

 高校に通いながら一人暮らしも始めた。治療が一段落し「自立」への思いが強くなったためだ。六年通った高校を卒業後、近所のツルヤ靴店に障害者雇用枠で就職。自転車で通勤している。一柳さんも病棟の看護師さんと結婚し、一児の父に。

 宮崎さんの生があるのは、現代医学の力。だが、生が輝いているのは、一柳さんをはじめとした仲間の「やさしさの力」。

 「“自分はがんだけれど、それが何か?”って感じで、普通に生きていきたい。そんな姿が、闘病中の患者や家族、恋人に勇気を与えていけるのでは」と力を込めた。

◆諏訪中央病院名誉院長 鎌田実さんが語る 幸せへの近道

 進行がんの八十二歳の女性が、ベッドの上で「私、本当に幸せなんです」とさわやかな笑みを浮かべていた。長野県茅野市にある諏訪中央病院には、そんなやさしさがあふれている。ベストセラー「がんばらない」(集英社)で知られる名誉院長の鎌田実さん(60)に「やさしさの力」について語っていただいた。三十五年間の地域医療の中で培われた思いは、これからの国づくり、個々の生き方にまで及んだ。

 −日本人のやさしさについて、どんなことをイメージしますか。

 ぼくは、産んでくれた父や母のことを知りません。戦後の混乱期で、ぼくを育てることができなかったんです。育ての父は、タクシー運転手で、心臓病の母を抱え、貧しい中、ぼくを拾ってくれた。近隣のやさしさもありました。母が入院していて、父が夜中まで帰ってこない日は、隣のおばさんが「残り物だよ」と煮物を持ってきてくれたり、友達の家で「夕飯食べていきなさい」って言われたりした。そういう体験をした子どもたちが、あの時代、たくさんいました。日本って、やさしさのあふれる国だったんです。それが、バブル経済の前後ぐらいから、モノやお金が大事って風潮が強くなった。

 −社会のストレスが高まっていったのも、そのころからですね。

 アメリカのようになれば、と日本のリーダーは考えた。元首相の小泉さんも「激しい競争をできる国にしたい」と言った。でも、激しい競争をするには、土台に温かな血を通わせておく必要があります。教育や医療や福祉に十分な土台があってこその話です。それをないがしろにした結果、子どもたちの心はギスギス、大人たちもイライラ。八人に一人がうつ状態という社会になった。経済危機の今こそチャンスだと思うんです。みんなが、モノが少し減っても、かつての穏やかな笑顔を取り戻すために日本の原点に戻るほうがいい。「やさしさ」は大切なキーワードです。

 −「そんな甘いことを言っていられない」って人もいそう…。

 「かげん」が大事です。個人が生き抜くうえでも、国づくりや組織運営のうえでも、強さとやさしさの両方を持つ必要があります。ぼくは医師ですから健康の話をすると、何かに頑張っている時は、自律神経が働いて、血管が収縮し、血圧が上がっている。頑張る神経だけだと動脈がいたんで、脳卒中や心筋梗塞(こうそく)や、がんになる率も高い。だから、副交感神経優位の時間が大切です。夕日を見て「わーきれいだなー」と思ったり、お風呂でリラックスしたり。そんな時間が積もり積もって、その人は健康を守り、幸せにも近づいていける。「心を温める訓練」をしていると、人にもやさしくなれるんです。

 −具体的には?

 たとえば、おじいちゃんが孫に「おい、夕日きれいだぞ」って言う。何度も言われた孫は、心が温められて、友達にも「今日の夕日きれいだね」って言える子になる。そんな子がいじめをしたり、引きこもったりする確率はかなり低いと思うのです。やさしさって伝播(でんぱ)していく。自分の体を大事にして同時に人を大事にする。それが幸せへの近道だと思います。

 −医療においても「やさしさ」を実践されてきましたね。

 私たちの緩和ケア病棟に、がんの末期の患者さんで、もともと蓼科の森の中で、フランス料理のお店をしていた女性がいらっしゃった。その方が「最後にもう一度、料理を作りたい」と言って、病棟のキッチンでフランス料理のフルコースを作ることになりました。看護師たちが買い物に行ったりして協力し、ご主人もレストランからテーブルクロスを持ってきて、私たちがご相伴にあずかりました。患者さんやご家族は「すごくいい時間をいただいた」と感謝してくれました。もし「病院は病気を治す所」という原則論に立つ医師が一人でもいたら、そんなことはできなかった。でも、こういう体験が時々あるから、医師や看護師も頑張れるんです。

 −医療崩壊が問題になる中で、重要な視点ですね。

 日本の医療がこれだけ進歩して、命を助けられるようになったのに患者さんの満足度は低い。やさしさが足りないからだと思います。五年前、諏訪中央病院の医師は四十二人でした。それが今は七十人です。「やさしい医療をやりたい」と思う若い人たちが、たくさん希望してくれます。先ほど言った「心を温める訓練」は看護学校の生徒にも講義を通じて植え付けています。感謝された体験を持つ看護師は、簡単に燃え尽きません。患者さんの心を守り、自分の身を守るために大切な訓練なんです。やさしさって、ブーメランのように自分の身に戻ってくると思います。

 −これからの高齢社会を生きる生活者たちへのエールを。

 99%までは「自分や家族のため」に生きても、残る1%を「誰かのため」に生きてほしい。そうすると、自然に自分の生き方が見えてくると思います。私たちはチェルノブイリの子どもたちの支援活動を続けてきました。「忙しい中でどうしてそんなことを」とよく言われるけれど、困っている人に何かをしてあげて悪い結果になることってまずありません。何より楽しいです。去年は、イラクの小児がんの子どもたちに薬を送るために、四万五千個のチョコレートを売った。ことしは七万個売りたいと、仲間のボランティアたちが燃えている。すごく大変だし、一銭の得にもならないけれど、みんな楽しいからやっている。そして、生きる力をもらっているのだと思います。

 かまた・みのる 1948年東京都生まれ。東京医科歯科大卒。74年から諏訪中央病院で地域医療に取り組み、88年に院長。2003年から名誉院長。

 

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