08年12月21日午前7時。氷点下3度。風速2・6メートル。雲間に朝焼けがにじむ十勝管内大樹町、多目的航空公園。
「5、4、3、2、1、0」
カウントダウンに促され、轟音(ごうおん)とともに火を噴いたロケットが飛び上がった。「カムイ型ハイブリッドロケット」(全長2・9メートル、重さ20キロ)の打ち上げ実験。一瞬で高度1000メートルに達した白い機体に、地上から拍手が送られた。09年、さらに飛翔する。
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旧産炭地の赤平市。カムイは産業廃棄物処理場用の電磁石を製造する「植松電機」でつくられた。薄暗く、ニスのにおいが充満する工場は、最先端技術の結晶であるロケットとは、およそ縁があるように思えない。なぜ、ここでロケットがつくられているのか。
「それが僕の夢だから」。専務の植松努(42)はこともなげに言う。「ロケットはどこにも売っていない。つくれるか、つくれないか。金のあるなしではなく、やる気のあるなしだけが差になる」
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植松は04年、宇宙開発に取り組むNPO法人「北海道宇宙科学技術創成センター」(HASTIC)に参加、ロケットをつくり始めた。世間は植松を笑った。「小さな工場でつくれるはずがない」。十数人の社員も同じだった。最古参の安中俊彦(44)は振り返る。「アポロ11号の世代だからロケットは好きだった。でも自分の手が届く世界の話だとは思わなかった」
冷めた視線をよそに、植松は一人、ロケットづくりに熱中した。「明日(あした)のために、今日の屈辱に耐えるのだ」。子どものころに見たアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の登場人物、沖田十三のセリフを心で念じ続けた。
植松のロケットは05年3月21日、初めて打ち上げられた。植松は全社員を大樹町に誘った。早朝から準備を始めたが、時計の針が正午を回っても打ち上げできない。氷点下2・8度。早春の空がたそがれ始めたころ、ついに轟音が響いた。
「『メホッ』という音が聞こえて、ロケットがトワイライトの空へ一直線に飛んだ。あれほど一生懸命な機械を見たことがなかった」。打ち上げは植松の自己満足に終わらなかった。「専務。お金で買えない経験ができた」。興奮した社員たちが植松に駆け寄ってきた。植松の夢は社員の夢になった。
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植松はロケットづくりをビジネスと考えていない。「仕事と夢は違う。仕事は社会に役立つこと。夢は大好きなこと。本業にだけ時間を費やしていても技術者は進化しない」
ロケットの研究・開発は社員の空いた時間に行われた。とはいえ宇宙工学の専門家はいない。辞書を片手に難解な外国の専門書と格闘。実験に失敗して機体が粉々に吹き飛ぶこともあった。だが、誰もあきらめなかった。皆、ロケットづくりが好きだったからだ。
仕事に向かう姿勢にも変化が現れた。「良くも悪くも普通の社員だった」と言う安中は自発的に、宇宙空間を再現する装置「熱真空チャンバー」を考案。そこからヒントを得て、野菜を手軽にフリーズドライできる装置をつくり始めた。いずれも本業とはまったく関係がない。「いろいろと挑戦したいと思うようになった。仕事の幅が広がった」
12月21日に打ち上げられたカムイは6機。すべて成功に終わった。6機目はパラシュートを開きゆっくりと落ちた。すぐに駆け寄り、機体を検証する植松。間近で見守る一般見学者。「いつかこのカムイが宇宙へ届く……」。誰かがつぶやいた。アイヌ民族の言葉で「神」の名をもつロケットに、皆が宇宙の夢を見ていた。
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「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくしたい。小さな工場がロケットをつくってしまえば、誰もその言葉を使えなくなる。挑戦する前にあきらめてしまう風潮を変える」。この手でつくったロケットを宇宙へ。植松努が抱いたけた違いに大きな夢は笑われた。だが、くじけなかった。工場の隣には今春、子どもたちに夢を伝える場が完成、植松は新たなステージに立つ。幾つもの壁を乗り越えてきた植松の物語をつむぐ。(敬称略)=つづく
この連載の文は水戸健一、写真は西本勝が担当します。
毎日新聞 2008年12月31日 20時48分(最終更新 12月31日 21時17分)