ここから本文エリア

現在位置:asahi.comマイタウン神奈川> 記事

新生児医療の現状知って

2008年12月24日

写真

新生児医療応援シンポジウムに参加した村田修一選手(右)と妻の絵美さん=20日、横浜市港南区

写真

誕生直後、保育器の中にいる閏哉君を見つめる村田選手(右)と妻の絵美さん(左)=村田選手提供

写真

生後約2カ月の閏哉君を抱き上げる村田選手=06年4月、横浜市南区の県立こども医療センター。村田選手提供

  プロ野球・横浜の村田修一選手(27)が、県の新生児医療を応援する活動を続けている。20日には、横浜市港南区であった「新生児医療応援シンポジウム」に妻の絵美さん(28)とともに参加した。06年2月、妊娠24週の早産で長男閏哉(じゅんや)君が誕生。横浜市南区の県立こども医療センターに長期入院し、新生児集中治療室(NICU)に命を救われたという思いが、セ・リーグ2年連続本塁打王に使命感を植え付けた。

(伊藤雅哉)

  村田選手は20日のシンポジウムで、閏哉君の誕生からこれまでを振り返った。「野球がすべてだった自分が、息子が小さく生まれたおかげで、新生児医療の勉強をさせてもらった。父親の器を大きくしてもらった」。絵美さんとともにトークショーに参加、こども医療センターの担当医である豊島勝昭医師(39)が解説した。

  閏哉君は06年2月7日、県内の病院で誕生した。当初の予定日は5月26日。体重712グラムで、産声も上げなかったという。

  絵美さんはその10日前に破水し、産科医には「今、生まれても9割は助からず、助かっても9割は重い障害が残る」と言われていたという。沖縄で春季キャンプ中だった村田選手は、誕生翌日に駆けつけた。NICUの保育器に入った小さな体と対面し、両手で触れた。「何があってもこの子を守る」と思った。

  生後6日目。腸に穴が開き、人工呼吸器があっても呼吸が苦しくなった。手術には大きな病院への転院が必要だったが、県内のNICUは満床だった。

  静岡の病院には空きがあったが、搬送に時間がかかり命にかかわる。ところが断られてから2時間後、こども医療センターのNICUにいた双子の1人が、人工呼吸器が不要になるまでに回復した。空いたベッドに閏哉君が運び込まれた。手術後も3日間は出血が止まらず、輸血を続けてようやく容体が安定した。

  生後約3カ月でNICUから回復室に移り、半年を過ぎて退院。自宅に移った後も鼻からチューブを通し、酸素を吸入する治療を続けてきたが、それも外れた。来春には保育園入園を予定している。

  豊島医師によると、県ではNICUのベッド不足が深刻で、県外病院への妊婦の搬送は06年が約100件、07年は約70件あった。こども医療センターのNICUは今年10月に6床増し、21床に。県内では計149床になったが充足には及ばない。

  「ベッドの不足の解消も、働く医師の育成も、一朝一夕にはいかない。行政にお願いするとともに、現場も努力していく」と豊島医師。同医師が県の職員提案事業制度に応募し、こども医療センターで短期有給研修医を受け入れる事業が10月に採択された。新年度予算に盛り込まれる見込みで、2年間で8人以上の研修医を育成するつもりだ。

  村田選手はNICU関係者を試合に招待したり、こども医療センターを訪問して新生児やその保護者を激励したりしている。「新生児医療の現状を、今後かかわる可能性のある若い人にも知ってほしい。野球選手だからこそ広められると思う」と話した。

PR情報
朝日新聞購読のご案内

ここから広告です

広告終わり

マイタウン地域情報

ここから広告です

広告終わり