芝居屋、ライター、コンサル、元市会議員、…我ながら正体不明
«名護市での幼年期»
1959年に名護市生。5人兄姉弟の末っ子。私の産まれた当時の回りはほとんどそうだったけど、我が家は貧しく、両親とともに兄貴たちが家計のために小さな頃から労働していた。それを横目で見ながら、私は甘やかされてすくすく育った。
«名護市での思春期»
ませたガキで、小中学生のころメディアで大学闘争などを見聞きし、大学は入学するところではなく解体するところだと思い込む。ギターを弾いて、吉田拓郎やビートルズばっかり歌っていた。それが私の経験や思考の胎盤になってしまったかもしれない。受験勉強などはいっさいやったことがない。地元の高校はそれでも受かるが、大学は無理である。
«東京での青年期»
高校卒業後、いろんなアルバイトをやり、80年代は東京で演劇などにかかわり、現在は社民党の代議士をしている保坂展人氏らとともに反原発や反核の運動などにも参画しヤクザ(運動がではないよ)な生活を送っていた。
このころ、ブレヒトやカフカや宮沢賢治や、左翼思想やアナーキズムや様々なものを生半可に受容する。大変な人間形成であった。いまの私の思考や知識はほとんどそのころ吸収したものである。東京時代の私の関った主な作品は、東京演劇アンサンブルで主演した「櫻の森の満開の下」、東京演劇集団風ワークショップで脚本・演出した「カフカ/変身」。
«名護市帰還初期»
92年に堅気になろうと沖縄に帰る。しばらくは、観光ガイドブックの取材編集や、フリーライターをして糊口を凌ぎ、名護市の若者や劇団創造の若手の方々と芝居を創ったりしていた。そのうち、名護市役所の当時企画部長だった故・岸本建男氏に気に入られ、名護市広報の取材編集や広域圏の計画作りなどのカタイ仕事をする。建男氏とはその後、基地問題などで最後まで真っ向から対立することになるが、ほんとうに名護にとって大切な人だったと思う。
この時期のカタイ仕事の自慢すべき成果は、95年から96年にかけて行なった「第三次東村総合計画」策定作業である。
«市議会議員の時期»
97年に、名護市に米軍基地を造ろうという計画が持ち上がり住民投票の代表になって反対した。おかげでカタイ仕事はすべて失うことになるが、覚悟して始めた行為であり何の後悔もない。
新基地建設という無謀な計画から派生する様々な矛盾。パンドラの箱が開けられて久しい沖縄・名護市で、ひたすら最後に出てくるものを待ち続け、98年から06年まで市議会議員をした。
市議会議員としては、基地を名護市が受け容れる動機は「金でしかない」と判断し、それらを明らかにし是正させようと市の財政分析などに没頭した。この時期の私の主要な論文は島田懇談会事業を批判的に検証した「炭鉱のカナリアの歌声」である。ホームページで読んでいただく事ができる。
«ヘルタースケルター期»
06年5月の米軍再編に係る政府の閣議決定に、新たなる《琉球処分》をみて、これは日本国政府を政権交代させなければならないと愕然とした。そんな折に、「民主党の《沖縄ビジョン》を沖縄の我々で作ろう」という喜納昌吉さんの誘いを受けて、06年市議選で民主党推薦を受けた。結果は前回のトップ当選から最下位落選。以来、ビートルズのヘルタースケルターが耳の底で鳴り続けている。
«現在»
現在は失業中の身でありますが、就職などまともにしたことない身であり、どうにかそう生き続けたいと、主にかつてやっていたフリーでの編集や原稿執筆などをして糊口を凌ごうと考えています。結構焦ってる(^^;
2007年12月に宜野湾市大謝名に引っ越す。
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