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  渋谷実埼玉県議による私(山崎正治)の解任について


【第3回】(平成20年12月30日 記)

 前回、第2回の手記後半に誤りがありましたことをお詫び申し上げます。松村東氏の、「松村東後援会」が埼玉県選挙管理委員会に政治団体登録を提出し、受理されたのは平成20年1月28日です。(最初に書きました「平成19年」=×)。また「登録証標」は合計12枚発行されたのは間違いございませんので、その内訳は「後援会事務所として6枚、連絡事務所として6枚」です(最初に書きました「連絡事務所として5枚」=×)。文章を書くことに不慣れな上、怒りの気持ちが先走りしてしまい、つい推敲が甘くなってしまいましたことを、謹んでお詫び申し上げます。

 

 渋谷県議が松村東氏に貸した莫大な金員は、返してもらうのが道理です。ところが渋谷県議は松村東氏を相手に、何ひとつ道理にかなった物を言うことができないという歴然とした事実こそ、両名だけが知る「表には出せない貸し借り」が存在し、またそれが表に露見してしまうことへの恐れが、渋谷県議が松村東氏の肩を持つ最大の理由ではないかと、私は思います。

 松村東氏が、所有権を持たない坂戸理容美容専門学校を選挙運動拠点とし準備を進めるなか、彼は西入間警察署の立ち退きの警告を受けました。その後、西入間警察より任意出頭の要請があったのですが、松村氏は書面において任意同行の拒否を提出しています。

 驚いたことにその後、松村東氏は渋谷県議を同行させ、西入間署で「逮捕するなら逮捕してみろ」と啖呵を切っているのです。松村東氏が西入間署に「不動産侵奪罪」で逮捕拘束を受けたのは、その10日後あたりでした。逮捕、という厳しい現実の前に坂戸市長選どころか、全てが水泡に帰すこととなりました。松村東氏と渋谷県議の野望は砕け散ったのです。

 身から出た錆とはいえ、渋谷県議・松村氏2名の無謀な計画が失墜したことはまた、心ある支援者の長期にわたる好意を踏みにじる結果となりました

 第2回で述べましたが、平成16年11月下旬、「松村東氏を助けてほしい」と行政調査新聞に依頼したのは、渋谷実埼玉県議その人でありました。渋谷県議の当初の依頼目的と意図とは何だったのでしょうか。行政調査新聞は当時、これらの事実を社会に披瀝することを控えていたと記憶します。しかし彼らは彼らなりに松村東氏の主張を聞き裏をとり、公文書に「学校乗っ取り」を示す数々の証拠を見いだし、検証した上で、知られざる権力の犯罪、大事件として報じ続けてきたのだと思います。

 行政調査新聞にしても、また松村東氏をこれまで支援した人々も、そして私もまた、渋谷県議・松村東氏の低劣な活動の失態を「許せない」として身を引く自分たちの姿勢を、安易で、低次元な仲間割れと思われたくはありません。レベルの低い場所で話題にされたくない、というのが正直な気持ちです。なぜなら、背筋をのばし真っ直ぐに闘った年月を、少なくとも私は、不純な輩たちと一緒くたにされたくないからです。

「不動産侵奪罪」で起訴となり、未決房に収監されている松村東氏に対して、学校側から松村東氏に「名誉毀損」の刑事告訴が出されました。松村東氏が川越市内に配布した2枚のチラシの内容に対してでした。

 収監されている松村東氏は震えあがったに違いありません。 松村氏は取り調べにおいても、法廷においても、「不動産侵奪罪」を断固として認めず、選任弁護士を解任しました。一時期は公選弁護人が松村氏の弁護を務めていたのです。それ程の気概をもって裁判に望んでいる彼が自分の意思を綴ったもの、また川越市中に配布し市民の共感を受けたと、松村東氏・渋谷県議があれほど喜んでいた「2枚のチラシ」を、あろうことか自分はまったく関係せず、見ず知らずの新聞屋が勝手に作成した、と主張しているのです。

 つまりは松村東氏が同じく製作し、住所等詳細な署名と連絡先を付して川越市中に配布した「小冊子」も、自分のあずかり知らないところで行政調査新聞が勝手にやった、ということなのでしょうか。行政調査新聞はこれまで30回近い記事報道と、詳細なレポートをいまでもインターネットに載せていますが、あれも新聞側が勝手にやったことで、松村氏はまったく関係していない、とでもいうのでしょうか。行政調査新聞もさぞ立腹したでしょうけれども、私は松村東という人間に対し、怒りを超えた情けない気持ちが胸にこみ上げるのを、抑えることができないのです。

 なぜ、松村東氏は「チラシは自分には関係ない」と、逃げの姿勢に転じたのでしょう。その理由を、以下に記します。

「不動産侵奪罪」で拘留されている松村東氏に、頭の切れる新しい弁護士が付きました。 この弁護士は、理路整然と松村東氏の非を説きました。松村氏がいくら「学校側は自分の所有権を証明するチャンスから逃げた」と言っても、そんなことは法律的には通用しない話です。また当時、松村氏は坂戸理容美容専門学校の登記を、現在の学校側から松村東氏に移転するよう「登記請求権請求事件」を提訴していました。この訴えは結局、裁判所から棄却されてしまうのですが、提訴し争っている段階では、明らかに所有権は学校側にあるはずです。

 自分の所有物として確定していない建物の鍵を壊し、建物に侵入し、その建物を占拠したとなれば、当然「不動産侵奪罪」は成立します。この罪は軽くはありません。

 拘置所で弁護士から自分の非を指摘されてもなお、松村東氏は法廷で自分の主張を曲げませんでした。弁護士を差し置いて、「あの建物は俺のものだ」と裁判長に喰って掛かるのです。そのような調子で新任の弁護士にも噛みついてはいましたが、法律を自己流に変えることはできない、と厳に戒められていました。

 定められた法律に逆らう非を諄々と諭した弁護士は最後に、この裁判は負けるが、次にこちらで打つ裁判は勝ちたいと、自信を漲らせていました。松村氏は優秀な弁護士に恵まれたな、と私はこのとき思いました。

 拘留されてから5ヶ月以上が過ぎ、ついに松村東氏は保釈の手続きをとりました。自分の罪、不動産侵奪罪を犯したことを認めたのです。罪を認めなければ保釈はありません。逮捕・拘留から保釈手続きまでの月日の間にも、学校側に対する「乗っ取り疑惑」の資料が現れました。月刊誌「財界にっぽん」が2本、行政調査新聞が1本、新資料とともに「名誉毀損」の件を取り上げていました。

 自己流で恣意的な解釈ではあっても、ある程度の法律知識を有していた松村東氏は、「不動産侵奪罪」で起訴収監中に、学校側から〝2枚のチラシ〟が「名誉毀損」として告訴された時点で、身の危険を察知したものと、私は想像します。それゆえに松村氏が逮捕前よりすすめていた民事裁判(登記請求権請求事件)で有力となるべき、ある資料の提出を彼は拒んだのです。

 その資料とは、松村東氏と行政調査新聞がともに額に汗して作成し、松村氏個人を発行者とし、氏の署名・連絡先を明記して配布した小冊子でした。この小冊子が法廷資料として有力であるから提出したい、という弁護士からの要請に対し、松村東氏は強く拒絶しました。行政調査新聞との関係が判明すると、自分が不利になるとでも考えたのでしょう。

 有力な資料を出さないことで、自分が提訴した民事裁判を犠牲にしてまで松村東氏は、行政調査新聞と彼自身との間には何の関係もないと主張することにしたのです。自分を「名誉毀損」の恐れから回避するために、その罪を何が何でも行政調査新聞に擦り付けることによって、逃避を図ろうと計算したのだと、私は思います。

 先にも述べましたが松村氏は拘留中ずっと、証拠物件等、捜査資料をまとめた調書の内容すべてを不同意としてきました。しかし収監された松村東氏が保釈を願うためには、保釈を確定する検事の承諾が必要となります。「不同意」では、判決まで未決拘留のまま拘置されている他はないのです。彼は、罪状の一部に同意し、そのため保釈申請を受理され、8月18日にようやく保釈されました。

 しかし滑稽なことに、松村東氏は自分の拘留中に発行された、財界にっぽん誌と行政調査新聞の記事が、自分の承認なしに書かれたことについてお門違いの文句を主張しているというのです。

 これらの記事の発行については、渋谷県議がすべてを理解しているはずです。にもかかわらず何故か、この件について松村東氏は私を責めてきたのです。ここにも、私に責任を背負わせようとした渋谷県議の意思が見え隠れしています。

 ともかく松村東氏は、必死になって行政調査新聞との繋がりを否定しています。しかし新聞側が数年にわたって松村氏を取材して記事を書き、ときには共同作業でチラシや小冊子を作成した事実を、簡単に否定することなどできないでしょう。

 これまで述べたとおり松村東氏は、今年2月11日に「不動産侵奪罪」により逮捕され、取り調べの結果起訴となり、刑が確定するまでの間、未決拘留となっていました。 彼は法廷で無実を言いつのりましたが、実際のところ、裁判が自分にとって不利な方向に進行していることを、理解していたのでしょう。一日も早く保釈されたい。しかし無実を突っ張れば、裁判が不利に進行します。

 そこに追訴として「名誉毀損罪」が松村東氏を襲うことになります。すると「不動産侵奪罪」に「名誉毀損罪」が重なるのです。これでは、松村東氏には間違いなく実刑判決が下されるでしょう。そう悟ったとき、彼は情けなくも震えあがったのだ、と私は思っています。

 自分が正しい、自分の主張を貫きたい、というのであれば、たとえ刑務所で朽ち果てても、自分の信念に殉ずれば、それでいいのではないでしょうか。私は、真の男の生き様とは、そういうものだと信じて来ました。しかし松村東氏は「男」ではなかったのです。

 渋谷県議が優秀な弁護士を紹介し松村東氏に付けたことにより、松村東氏は自分が犯した不動産侵奪罪を認めざるを得ず、8月18日にやっと保釈の身となりました。この翌日(19日)、彼が逮捕前から進めていた、学校側に対する民事訴訟を「棄却」とする判決がでました。いっぽう10月21日の不動産侵奪罪に対する判決は懲役2年、執行猶予3年となりました。しかし、「名誉毀損」が成立するかどうか。成立すれば、松村東氏の実刑は確実となります。

 松村東氏は「不動産侵奪罪」を控訴しました。弁護士は控訴手続きを終えて松村東氏の前を去って行きました。言い訳めいたことは何にも言わず、ただ「あの人の弁護はもうしたくない」との一言を残して。 優秀で頼りになるプロ中のプロが、彼から去っていったのでした。

 松村東氏は保釈の翌日、川越警察署を訪れました。渋谷県議も同行しました。このとき、おそらく松村氏は担当刑事に対し、行政調査新聞との交流、繋がりを改めて否定し、渋谷県議もそのことは間違いないと、松村東氏の言質を証明したのではないか、と私は想像しています。そうでないのなら、何故渋谷県議が、松村東氏に同行する必要があったのでしょうか。

 しかしこの事実、つまり保釈の翌日に渋谷県議が松村東氏とともに川越警察署を訪れ、行政調査新聞との関係を改めて否定してまわった事実を、渋谷県議は当の新聞側には隠していました。そのうえで渋谷県議は、平成20年9月30日に行われる予定の県議の「県政報告会」に対し、100名を動員させてほしい、と行政調査新聞に依頼したのです。

 行政調査新聞は方々に連絡し尽力してくれて、希望した人数をはるかに上回る140名を動員してくれました。このとき、この「県政報告会」の席上で、驚くべき光景が見られました。前回述べましたとおり、松村東氏は不動産侵奪罪により逮捕・拘留中に、夫人である松村秀子氏を離婚しています。普通なら、夫の人生を賭けた戦いに家族が疲れ切ったのか、家族を犠牲にしてまで戦い続ける松村氏の執念というものに心をめぐらせ、彼を支援する気にもなるところでしょう。

 ところが驚いたことに、渋谷県議の「県政報告会」会場のテーブルのひとつには、松村東氏が収監中に離婚したはずの松村夫人と事務員の女性が、渋谷県議の招待を受けて着座していたのです。県議の事務局長であった私すら、夫人らの招待については知りませんでした。

 松村東氏の収監中の離婚とは、偽装離婚だったと、私は瞬時に確信しました。では、なにゆえに収監中に離婚劇を演じたのでしょう。最も考えられるのは、手中にある渋谷県議から借用した大金を夫人名義にするために、表向きの離婚をしたという可能性です。

 もちろん、離婚を偽装する必要は他にもあったのかも知れません。離婚したはずの夫人が渋谷県議の「県政報告会」と称するパーティーに招待され、ちゃっかりと出席しているというのは、見ているそばからボロを出す人たち、としか言いようがありません。

 人々の支援を受けながら学校側との対決に立ち向かった松村東氏と渋谷県議は、行政調査新聞をはじめとする人々をさんざんに利用しては裏切り、さらに警察で虚偽の証言までして、その口が乾かないうちに行政調査新聞に対し、大勢の人の動員を依頼していたのです。渋谷県議・松村東氏両名の思い上がりにはほとほと呆れます。彼らは自分たちが何をやっても、周囲には判るまいとでも思っていたのでしょう。

 私は、松村東氏の接見禁止が解けてから毎日、渋谷県議の許可の下に面会に行きました。そして松村東氏の用件のために、また差し入れ等のために、丸一日を潰したこともありました。渋谷県議事務局長として、渋谷県議自身の命を受けてのことです。

 松村東氏の夫人は、松村東氏の意を受けてか、私の知るかぎり一度も拘置所には姿を見せませんでした。もちろん偽装離婚をした手前があったためでしょう。

 松村東氏とは、まことに語るに落ちる人間でした。そして長年にわたり渋谷実県議会議員に仕え、事務局長として献身してきた私がこのことを言うのは非常に残念なことですが、いまの渋谷県議には、政治家としての矜恃の欠片もありません。また松村東氏との関係、松村東氏の言いなりになったまま、なすすべのない県議を見ていると、政治家としての資質、能力についても、残念ながらクエスチョンマークを浮かべざるを得ないのです。

 松村氏1人に好き勝手に振り回されている人物、マインドコントロールされているとしか思えない人物が、どうして県議会議員として、多くの県民を背負っていくことができるのでしょうか。

 県議自身の説明では何千万円とも言う大金を松村氏に貸し、回収する意思もないまま、後援会事務局長である私に「松村に貸した金は、ドブに捨てたと思ってあきらめるよ」と平然と述べるその金銭感覚を、手弁当で県議を支援した人々、後援会会員たちは、いったいどう思うでしょうか。

 あの2人を見ていると、貧困な精神を宿した欺瞞の姿だけが浮上します。私は、長い人生のなかで、縁あって知ることとなった両氏に、いまここで哀しくも告げなければならない言葉があります。

「これ以上、汚れ給うな」と。

(了)