歓喜の渦に包まれた松山市のニンジニアスタジアム。11月30日、就任1年でモンテディオ山形を初のJ1へ導いた小林伸二監督=長崎県島原市出身=が宙に舞った。その光景を見つめながら、Jリーグ関係者がつぶやいた。
「きっと福岡の人は後悔しているだろう」
■東北で花開く
小林氏は2007年1月にアビスパの管理強化部長に就任。その10カ月後に解任された。大型補強を求める監督に、現有戦力の活用を主張したことでフロント幹部の反発を招いたためだった。
「クラブの社長と話して小林はアビスパの監督で招くと約束した。それがまさかのフロント入りで、いきなり解雇。裏切られた」。小林氏のアビスパ入りを勧めたサッカー関係者は不満をあらわにした。02年に大分の監督としてJ2優勝、05年にはJ1セレッソ大阪で優勝争い。名監督の力は福岡では生かされず、東北の地で花開いた。
■監督人事混乱
監督人事の混乱は今に始まったことではない。今季はリトバルスキー監督の去就をめぐって、もめた。5月にクラブは解任の方針を固めながら後任が見つからず、続投を決断。その2カ月後に一転、解雇して篠田善之コーチの昇格に踏み切った。
「不思議なことに、アビスパから切られたスタッフや選手は優秀な人材が多い」。あるサッカー評論家は首をかしげた。
03年に就任した松田浩監督=長崎市出身=は、若手を成長させ就任3年目で昇格を果たした。5年ぶりに手にしたJ1の舞台。が、クラブは06年5月、わずか12試合で功労者を見切ると思わぬ結果が待っていた。
松田監督はその年の9月にJ2神戸で指揮。入れ替え戦でアビスパを2部へ転落させた。神戸の前田浩二ヘッドコーチ=鹿児島市出身=も、かつてアビスパから解雇されていた。
■一枚岩が崩壊
監督は12年で延べ12人交代、アビスパを去ってJ1で活躍する選手やスタッフは数え切れない。
チームが福岡に移転した1995年。「あのときだけはフロントと現場が一枚岩だった」と当時の選手たちは口をそろえる。キャンプ地の宿舎は個室のない民宿。100円シャワーで汗を流し、ボールを追い掛けた。
アビスパの前身で、静岡県藤枝市の警備会社の愛好会だったチームを手塩にかけて育てた元日本代表選手の菊川凱夫氏とワールドカップ優勝経験を持つ首脳陣がタッグ。日本フットボールリーグ(JFL)で優勝、初のJ参入を決めたが、ここを起点にフロントが不穏な動きに出た。
藤枝からチームに携わったスタッフの意見は無視して強化責任者を外部から招聘(しょうへい)。監督を代え、選手も大幅に入れ替えた。清水エスパルスの監督だった故宮本征勝氏はあえて苦言を呈していた。
「JFLのスタッフやメンバーのままなら強かった。サッカーを知らないフロント幹部が、藤枝から来た情熱的なスタッフを切り捨てにかかってから、アビスパのクラブはおかしくなった」
Jリーグの“看板”を背負った途端に、最強軍団は崩壊し、迷走が始まった。1年目は16チーム中15位で終わると、善後策もなく監督や選手は解雇される。だが、フロントは決して責任を負わない。その不条理が今なお、まかり通っている。
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=2008/12/10付 西日本新聞朝刊=